歴程日誌 ー創造的無と統合的経験ー

Process Diary
Creative Nothingness & Integrative Experience

キリスト教と日本人の心─内村鑑三の上杉治憲(鷹山)論

2019-10-07 |  宗教 Religion

「伝国の辞」と「視民如傷」-人民のための共和政治

参考文献:上杉治憲(鷹山)(1751-1822)の米沢藩政改革についての一次資料は、新貝卓次編輯『羽陽叢書』(明治15-16年、山形県刊行)であるが、内村鑑三が直接に依拠したのは、民権派の機関紙『朝野新聞』の主筆川村惇(1862-1930)著の『米沢鷹山公』であったと思われる。明治5年に西郷従道(西郷隆盛の実弟)と共に東北地方を視察し、米沢の地で名君として尊敬されていた上杉鷹山公の藩政改革の事蹟を知って大きな感銘を受けた川村惇が、『羽陽叢書』を抜粋要約して、全国の一般読者向けに纏めた著書が『米沢鷹山公』(明治26(1893)年、朝野新聞社)であった。そして内村鑑三の『代表的日本人』によって、米沢藩の窮状を救った鷹山公が、封建時代の日本の模範的な啓蒙君主として、欧米の読者に初めて紹介されることとなった。[1]

 1伝国の辞:日本史に於ける独自の共和政治の理念の表明

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私(われわたくし)すべき物にはこれ無く候

一、人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれ無く候

一、国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

右三条御遺念有間敷候事   

これは天明五巳年(1785年)二月七日に上杉治憲(鷹山)が、次の藩主となるべき上杉治広に伝えた「伝国の辞」である。そこには、国家の歴史的な継続性、国家に属する人民の私物化の禁止、国家人民のために君主が立てられたのであって、君主のために国家人民が立てられたのではないこと、の三箇条が、米沢藩主の忘れてはならぬ心得として語られている。[2]

 2 「視民如傷」人民の父母たる君主の責務

鷹山の座右の銘は「視民如傷」であったが、これは江戸米沢藩邸で暮らしていた若き日の治憲が儒学の師、細井平洲から学んだ言葉であった。出典は『春秋左氏傳─哀西元年』の「臣聞國之興也、視民如傷、是其福也:其亡也、以民為土芥、是其禍也」あるいは、『孟子─離婁章句下』の「文王視民如傷、望道而未之見」と思われる。この言葉は、「病人を憐れむように民を良くいたわる」という意味に解されることが一般的であるが、内村鑑三は、「Be ye as tender to your people as to a wound in your body(民をいたわること、汝の体の傷のごとくせよ)」と英訳している。君主が人民の苦しみを、他ならぬ自分自身の体の「傷」として視るという視点は、それまでの漢学者の読み方を越えた新しい解釈と云って良いだろう。

 

3 滅亡の危機に直面した米沢藩の再建

米沢藩は、関ヶ原の合戦後、上杉景勝が当主の時(慶長六(1601)年)に徳川幕府によって米沢に移され、一二〇万石の大名から三〇万石に減封された。しかし、名家としての体面を保つために家臣団の数を減らさなかった為に、米沢藩は深刻な財政危機に直面し、負債が年々増加していった。夭折した三代目藩主上杉綱勝の後継者を決めるに際しての不手際が幕府によって咎められ、吉良上野介の長男が、養子として上杉家の家督を継ぐときに、一五万石に減封された。このとき、一二〇万石当時と変わらぬ数の家臣の給与の総額が一三万三千石に達し、歳入の九割近くが人件費となる異常な事態となり、米沢藩の負債の総額は、二十万両(現在の通貨で二百億円位)にもおよんだ。

しかしながら、米沢藩の重臣達は、格式と儀礼を重んじ、名家の体面を保つための出費を削減せず、領地の農民の年貢を厳しく取り立てる以外の方策を持ち合わせていなかった。生活苦のために領民の他藩への逃亡が絶えず、また間引きによる人口減によって、農民の数が著しく減少したために、第8代藩主重定は、藩の財政破綻を救うために領地を幕府に返上する案も検討したほどであった。

この時点で嫡男に恵まれなかった上杉重定は、日向国高鍋藩(上杉家と母方が遠縁であった)の次男が、きわめて英邁な子供であることを聴き、その子供が10歳になったときに、重定の娘、幸姫の婿養子に迎えた。これが後に第9代藩主となった上杉治憲(鷹山)である。 

4 治憲の誓詞

江戸桜田の米沢藩邸にて二歳年下の幸姫と共に暮らしながら、儒者の細井平洲から将来の藩主に相応しい教育を受けた後、十六歳で元服し、従四位下に叙せられ弾正大弼に任官し、翌年、明和4年(1767)十七歳のときに治憲は江戸藩邸にて上杉家の家督を継いだ。

治憲はこのときに秘かに米沢本国の春日神社に使を送って、つぎのような誓詞を奉納した。[3]

一 文学壁書之通 無怠慢相務可申候 武術右同断(文武の修練は定めに随い怠りなく励むこと)

二 民之父母之語 家督之砌 歌にも詠候へば[4]此事第一思惟可仕事(民の父母となることを第一の務めとすること)

三 居上不驕則不危 又恵而不費と有之候語 日夜忘間敷候

  次の言葉を日夜忘れぬこと 「贅沢(に驕ること)無ければ危険なし」「施して浪費するなかれ」

四 言行不斉 賞罰不正 不順無礼之様 慎可申候 

言行の不一致、賞罰の不正、不実と虚礼、を犯さぬようつとめること

右以来堅相守可申候 若於怠慢仕者 忽可蒙神罰 永可家運尽者也 仍如件

これを今後堅く守ることを約束する。もし怠るときは、ただちに神罰を下し、

家運を永代にわたり消失されんことを。 

5 自分自身の生活を改めることから藩の改革を始める

十七歳で家督を継いだ治憲は、藩政改革に熱心で藩主にも直言できる家臣を江戸藩邸に集めて、彼らの意見を聴取し、議論をつくさせた。その後に、江戸家老をはじめとして藩邸に居るすべての家臣を、身分の上下を問わず集めて、自らの決断を告げたのである。

彼は、まず藩主である自分自身が率先して無用な支出を切り詰めることから始めた。それまで1050両あった藩主の江戸仕切料(江戸での生計費)を209両に減額、奥女中を五十人から九人に減らし、一汁一菜、木綿着用という粗衣粗食の生活に徹したのである。更に名藩としての体面を保つための一切の虚礼(年間の祝事、神社仏閣の公的参拝などの煩瑣で形式的な宗教行事や贈答の儀礼的習慣など)を中止または延期することを宣言した。

 6 国元の重臣達の反発

江戸でのこのような治憲の改革の開始宣言は、米沢藩をそれまで取り仕切ってきた国元の重臣達の反発を買うことは必至であった。日向高鍋藩という小藩から婿養子として藩主となった元服したばかりの青年の藩政改革宣言は、高家筆頭の吉良家とも縁の深い上杉家の格式と礼法を重視するこれまでの慣例を無視するものと国元の重臣達は判断したからである。しかし、そのような重臣達の保守的な態度では、壊滅の危機に直面している米沢藩の現実を救うことはできないというのが、江戸藩邸にて治憲の考えに賛成して共に改革を開始した少数の家臣達の考え方であった。そこには家臣相互の反目もあった。

二年後、十九歳で自領の米沢にお国入りしたときの治憲については様々なエピソードが伝えられている。たとえば、領内の土地の荒廃と領民の逃亡離散による過疎化を直接目にした治憲は、藩政改革の容易ならざる事を覚悟したが、たまたま籠中の煙草盆の死灰の中に僅かに残る火を吹き立て、それを火鉢の炭に次々と移すことができたことを経験して、

「一身の辛苦を厭はず経営怠るなくんば、一国もまたかくの如く挽回の運に向かうべし」

という教訓を得たこと。また、あまりにも簡素なお国入りに藩の国家老達は、眉をひそめ上杉家の伝統に相応しい格式を守ることを若き藩主治憲に求めたことなど、国の重臣達の意向を無視して性急に改革を進めた若き藩主に嫌がらせがあったことを様々な資料が伝えている。 

7 治憲の新しい統治方式と国元の重臣達の造反

治憲は、自分の意向を無視しようとした重臣達に臆することなく、それまでの慣例を破り、足軽に至るまでのすべての家臣を自分の居城に招集して、藩政の窮乏の実態をあるがままに告げた。そして破産に瀕した藩の改革実現のためには、藩主になったばかりの自分の能力には限界があることを率直に認めたうえで、藩士全員の協力がどうしても必要なことを説いた。このように身分の上下に関係なく、すべての家臣を集めて、その前で、率直にあるがままの現実についての情報を公開したうえで、家臣団の協力を要請するというのが治憲の治世の新しい流儀であった。

治憲の大胆な藩政改革に対して、のちに七人の保守的な老臣が造反したが、当時22歳の治憲は春日神社に参り、平和的な解決の道を祈願したあと、家臣全体を集め、自分の政治が天意に反していないかどうか尋ね、その場にいた大多数の家臣から、治憲の改革に賛同するとの回答を得た後で、造反した老臣たちを処分した(二名に切腹、五名に隠居閉門と知行一部召上げを命ずる厳しくも果断な措置であった) 

8 藩政改革の基本

治憲の藩政改革の基本方針は、人民の幸福こそが統治の目的であるということ、それを実現する正しい統治のためには能力のある人材を適材適所に登用することが必要であること、単なる倹約や年貢の厳しい取立てによって財政を改善するのではなく、積極的な施策と投資によって人民の生活の安定を図ることにあった。 

9 敬天と愛民の心―仁愛と正義の実現

治憲は「民の父母」となる行政を実行するために、郷村の頭取、次席、群奉行を新たに任命するに際して次の文を書いて与えた。

〇 赤子之生無有知識、然母之者、常先意得其所欲焉、其理無他、誠然而已矣 誠生愛、愛生智

赤坊の生命は知識をまだもたないが、母親は子供の欲求を常に先に会得して世話をするものである。その理由はほかでもない、誠(内村鑑三の英訳はsincere heart=まごころ)が自然にそうさせるのである。誠が愛を生み、愛が智を生む

(Sincerity begets love, and love begets knowledge)

〇 唯其誠矣、故無不及、吏之於民、与此何異哉、誠有子愛民之心、則不患其才智之不及也。

唯その誠があるだけで、及ばないということはないのだから、官吏の民に応接する場合でも、これと何が異なっているだろうか。誠にあなたに愛民の心があるならば、才智の及ばないことを患う事はないのである。

治憲は、領内を十二分して十二人の教導の任にあたる出役を配し彼らに「飲食のこと、衣服のこと、婚姻のこと、法事のこと、葬式のこと、家屋修繕のこと、孤独を憐れむこと、孝行のこと、産業のこと」など、一々明細に人民を教える方法を示した。[5] また、教導出役の下に「廻村横目」という警察官を置き、「出役は地蔵の慈悲を主とし、内に不動の忿怒を含むべく、横目は閻魔の忿怒を表し、内に地蔵の慈悲を含むべし」と教えた。 

12 治憲の社会事業ー農地の開墾整備と治水灌漑・社会保障制度の充実・産業の振興・教育改革・医療改革など

〇米沢藩の産業政策として、領内から荒蕪地をなくすために、大地を神聖に扱い、農業を奨励するために「土地崇拝」の儀式である「籍田の礼」をおこない、土地の荒廃をふせぐための漆の木や楮の木を植えさせた。

〇十一里にわたる水路をもうける灌漑事業と、山に二百間のトンネルを掘ることによって河川の流れを変える事業を黒井という算術家を新たに登用して実現させ、荒蕪地を良田に変えることに成功した。

〇農民には伍什組合を設けて相互補助にあたらせた。その「仰出」の文には

「老いて子なく、幼くして父母無く、或ひは貧にして養子に疎く匹偶に遅るる、或ひは片輪にて身過しのなり難き、或ひは病気にて取り扱いの行立ち難き、死して葬をなし難き、又は火難に雨露を凌ぎ難き、変災に遇ふて家の立ち難き、かかるよるべなき者あらんには其の五人組身に引き受けての養ひあるべく、五人組にて行き届き難きは、住人組より力を任せ、十人組の力に及び難きは一村の救に其難儀を除き其の生涯を遂げしむべく候」

とあるが、これは伍什組合という治憲の考案した独自の相互補助組織による社会福祉政策の先蹤といえよう。

〇領地を日本一の生糸生産地にするために、奥向きの費用二百九両より五十両を削って、桑の植樹や養蚕業を奨励し、それによって米沢織の名を今日高めるに至った。

〇 藩校を再興し興譲館と名づけて、かつての師細井平洲を招き館長とし、奨学金を設置して、若き人材の育成に努めた。

〇 藩の医師を杉田玄白につかせて西洋医学を学ばせ、病院を設立した。また公娼制度を廃止して藩の風紀を正した。

 

13 家督の禅譲ー権力の座に長く居座らないこと

治憲は、天明5年(1784年)三十四歳の時に家督を前藩主の実子治広に譲って隠居した。これは権力の座に長く居座ることが、国家を私物化する悪弊を生むという彼の信念に基づくものであった。「伝国の辞」を遺して隠居した後も、治憲は新藩主を補佐指導したが、享和2年(1802年)に剃髪し「鷹山」と号した。文政5年(1822年)に七十歳で逝去した後も、彼は「鷹山公」として領民から名君として記憶され敬愛された。



[1] 米国のケネディ大統領が「最も尊敬する日本人は誰か」という質問に対して、上杉鷹山の名前を挙げたときに、その場にいた日本の新聞記者は上杉鷹山の名前を知らなかったというエピソードがある。

[2] 「伝国の辞」とともに、鷹山の歌「為せば成る為さねばならぬ何事も為らぬは人の為さぬ成りけり」も次の藩主に伝えられたが、これは『書経』太甲下編で殷の第四代帝王の大甲に補佐役の伊尹(いいん)が述べた忠言「弗慮胡獲、弗為胡成慮」(慮(おもんばか)らずんば胡(なん)ぞ獲ん、為さずんば胡(なん)ぞ成らん)」に由来する。

[3] 江戸の米沢藩邸に居た治憲が秘かに奉納したこの誓詞は、百二十五年後の明治二十四年八月にはじめてその存在が一般に知られた。

[4] 「受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母(ちゝはゝ)」という治憲直筆の書一幅が、現在米沢の上杉神社の宝物館稽照殿に遺されている。

[5] 内村鑑三が、十二人の「教導出役」を基督教の教区の巡回説教師に擬えている事に注意したい。

「神の国」を地上に実現しようとした最も貴重で勇敢な実例として、フィレンツェのサヴォナローラ、英国のクロムウェル、英国を追われて新天地アメリカに渉ったクエーカー教徒のウィリアム・ペンに匹敵する人物として上杉鷹山を位置づけているからである。基督教精神にもとづく人民のための革命を志した三名の英傑が夢見た「敗者をいたわり、おごるものを砕き、平和の律法を築く」王国によく類似した共和国が、「真のサムライ」である上杉鷹山によって、異教国の日本にもかつて存在したことを欧米の読者に伝えることが内村鑑三の鷹山論の執筆の目的であった。

 

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