先日、ある米国の研究者が書いた禅に関する論文のコメントを依頼され、米国の仏教研究、とくに禅にかんする研究の現状がどのようなものであるか、知る必要があり、(K)The Koan, Texts and Contexts in Zen Buddhism, edited by Steven Heine, Dale S. Wright (Oxford UP 2000)に収録されている Dale Wright, Victor Hori 氏等の論文を読む機会があった。
私が米国宗教学会などで仏教とキリスト教の対話セクションや、プロセス神学者と仏教者との対話に参加していたのはもう20年前になるが、そのころとくらべれば、確実に米国の仏教研究は前進しているという印象を持った。
それでも、細部に関する限り不満が残る。たとえば、鈴木大拙の扱い方。米国では大拙の英文著作はよく読まれているが、大拙の扱い方は思想家と言うよりは、啓蒙家としてである。彼等は、大拙の書いたものを入門書と見なしているが、それは正しくない。公案との関係で言うと、彼等は、鈴木大拙が、禅に思想性を認めず、「公案を、解決不可能なパズルと見なした」、となどと書いているが、これは誤解である。大拙の英文で書かれた通俗的啓蒙書には、確かに、そのような誤解を生む記述が見受けられるが、大拙全集で4巻にわたり書かれている「禅思想史研究」を読む限り、そこには、禅に固有の「思想」ないし「哲学」が研究されている。
鈴木大拙は西田幾多郎との相互の影響のもと「禅思想」を研究テーマとし、般若即非の知を以てその根本としていたのであって、そういう観点からみれば、公案を反合理主義、解決不能なパズルとみるのは浅薄な見方である。
一般に、誰かが禅について書く場合、著者に参禅の経験があるのかどうか、あるとすれば、どのような法系の老師のもとで参禅したのか、また、参禅の経験がなく、禅について書かれた文献に依拠してのみ、思想的な研究をしているのか、その辺に注意しなければならない。
もちろん、参禅の経験がなくとも、禅について、文学の見地から、あるいは哲学の見地から、語ることはできる。しかし、その場合、そのような言説がいかにして成り立ち得るか、についての反省が求められるであろう。
公案について論じる場合、論者が臨済宗の僧堂で、入室参禅した人であるのか、それとも曹洞宗で参禅したか、また論者が依拠している第一次文献が臨済宗系の人によって書かれたか、曹洞宗系のひとによって書かれたか、ということになんの配慮もしない論文を良く見受けたが、これは、禅の思想史的研究にとっては致命的である。
なぜなら「教外別伝・不立文字・見性成仏」とは臨済宗でのみ重んぜられる言葉だからです。曹洞宗は、ひたすら坐ること、日常生活のなかで仏道を行ずることを重んじ、臨済宗の「看話禅」とは違う行き方である。
おなじ「禅」といっても、修行者の教育システムにおいて、公案をどのように位置づけるかについては、臨済と曹洞とでは大きな違いがあり、それはそれぞれの「禅思想」においての違いとなって現れる。
たとえば、道元は、「我々に本具する佛の本質」(性)を直観(見性)して佛となるという意味での「見性成仏」を斥けたのであって、仏性が我々の本性に内属するのではなく、我々自身が仏性のうちにあると言っている。彼は経典の権威というものを重んじ、「教外別伝」という思想を外道と考えていた。先覚者の書き残した文字を大切にし、なによりも聞法という他者との出会いを重視したのである。正法眼蔵のような思想書は「不立文字」を標榜するものには書けぬと思う。
道元は、「公案」を「無理会話(理性では理解できない話)」と考えるものを「杜撰のやから」と批判している。(「山水経」参照)これは、公案と理性との関係を考える上で重要な示唆を与えている。
臨済宗では、曹洞宗と違って「見性」をめざす「公案修行」を重んじ、様々な古則公案を修行体系の中に取り入れている。秋月龍老師の「公案」(ちくま文庫)は、越渓ー禾山室内公案体系が公開されており、江戸時代以来の臨済禅の教育システムのなかで公案が如何に使われていたかを現代の読者に公開している。
秋月老師に依れば、公案は、「理致」「機関」「向上」の三つに体系化されるとのこと。 そこには、禅の修行体系に関する臨済宗の「思想」が明確に出ている。一つ一つを看れば、不合理に見える公案も、一つの修行体系に組織化される場合は、そこに、仏教に固有の「理性」、即ち、「般若即非」の「智」が働いていると看るべきであろう。
最近の米国の禅仏教研究者の間には、Reason(理) ではなくてFeeling(情)を重視する傾向があるようだ。そこでいうReason が仏教で言う分別智を意味するならば、かかる分別智は否定されるべきものだという点で正しい見方であろうが、仏教では分別智は全面的に斥けられるということで終わるのではなく、否定によって自覚された「無分別智」において、ふたたび「智」が蘇るということが重要なのである。つまり、禅とは、単なる反合理主義ではない。
また、ただの情(Feeling)ではなく意志(Will)も考慮すべきであろう。すなわち「知情意」のすべてが統合された宗教的人格が問題である。
いわゆる分別智(科学的合理性)は、情意を含む人格の全体を支配することが出来ない。無分別智という仏教的な「理」を自覚することが、仏教思想の根幹であり、それを「事」において、即ち、日常の具体的な行為と生活の内に実現することこそ禅の持つ現代的意味があるだろう。
参禅修行では、老師は修行者の人格の全体を看るわけであるから、当然、情意的なるものが重要な要素となる。その点で、禅に関する論述において「情意的」経験が持つ重要性を指摘することは正しい。しかし、他力の念仏の行とは違って、臨済禅の公案修行の中では、単なる情緒的なもの(Feeling)ではなく、意志的・知的なものが強調されていると思う。
情というのは本質的に受動的なもの、action ではなくてpassion であるわけだが、臨済禅では、修行者の主体的な行為を重んじているので、その修行を、情に還元するのは的がはずれているだろう。
また、米国の仏教研究者であるであるKasulisはIntimacy ということを強調していた。ことばによらないメッセージということは、言葉が必要ないという意味ではなく明確な言葉に表されない暗黙智の次元があるということは正しいだろう。
しかし、Intimacy という言葉は、禅の経験を秘教的なもの、仲間内にしかわからないもの、従って、公共世界に無縁なものと誤解させる危険がある。
禅の公案修行では、多くの師に歴参することが望ましいとされるが、これは一つの場所に定住して、師弟が馴れ合いになること、Intimacy の弊害に陥ることを戒めるものである。
私が米国宗教学会などで仏教とキリスト教の対話セクションや、プロセス神学者と仏教者との対話に参加していたのはもう20年前になるが、そのころとくらべれば、確実に米国の仏教研究は前進しているという印象を持った。
それでも、細部に関する限り不満が残る。たとえば、鈴木大拙の扱い方。米国では大拙の英文著作はよく読まれているが、大拙の扱い方は思想家と言うよりは、啓蒙家としてである。彼等は、大拙の書いたものを入門書と見なしているが、それは正しくない。公案との関係で言うと、彼等は、鈴木大拙が、禅に思想性を認めず、「公案を、解決不可能なパズルと見なした」、となどと書いているが、これは誤解である。大拙の英文で書かれた通俗的啓蒙書には、確かに、そのような誤解を生む記述が見受けられるが、大拙全集で4巻にわたり書かれている「禅思想史研究」を読む限り、そこには、禅に固有の「思想」ないし「哲学」が研究されている。
鈴木大拙は西田幾多郎との相互の影響のもと「禅思想」を研究テーマとし、般若即非の知を以てその根本としていたのであって、そういう観点からみれば、公案を反合理主義、解決不能なパズルとみるのは浅薄な見方である。
一般に、誰かが禅について書く場合、著者に参禅の経験があるのかどうか、あるとすれば、どのような法系の老師のもとで参禅したのか、また、参禅の経験がなく、禅について書かれた文献に依拠してのみ、思想的な研究をしているのか、その辺に注意しなければならない。
もちろん、参禅の経験がなくとも、禅について、文学の見地から、あるいは哲学の見地から、語ることはできる。しかし、その場合、そのような言説がいかにして成り立ち得るか、についての反省が求められるであろう。
公案について論じる場合、論者が臨済宗の僧堂で、入室参禅した人であるのか、それとも曹洞宗で参禅したか、また論者が依拠している第一次文献が臨済宗系の人によって書かれたか、曹洞宗系のひとによって書かれたか、ということになんの配慮もしない論文を良く見受けたが、これは、禅の思想史的研究にとっては致命的である。
なぜなら「教外別伝・不立文字・見性成仏」とは臨済宗でのみ重んぜられる言葉だからです。曹洞宗は、ひたすら坐ること、日常生活のなかで仏道を行ずることを重んじ、臨済宗の「看話禅」とは違う行き方である。
おなじ「禅」といっても、修行者の教育システムにおいて、公案をどのように位置づけるかについては、臨済と曹洞とでは大きな違いがあり、それはそれぞれの「禅思想」においての違いとなって現れる。
たとえば、道元は、「我々に本具する佛の本質」(性)を直観(見性)して佛となるという意味での「見性成仏」を斥けたのであって、仏性が我々の本性に内属するのではなく、我々自身が仏性のうちにあると言っている。彼は経典の権威というものを重んじ、「教外別伝」という思想を外道と考えていた。先覚者の書き残した文字を大切にし、なによりも聞法という他者との出会いを重視したのである。正法眼蔵のような思想書は「不立文字」を標榜するものには書けぬと思う。
道元は、「公案」を「無理会話(理性では理解できない話)」と考えるものを「杜撰のやから」と批判している。(「山水経」参照)これは、公案と理性との関係を考える上で重要な示唆を与えている。
臨済宗では、曹洞宗と違って「見性」をめざす「公案修行」を重んじ、様々な古則公案を修行体系の中に取り入れている。秋月龍老師の「公案」(ちくま文庫)は、越渓ー禾山室内公案体系が公開されており、江戸時代以来の臨済禅の教育システムのなかで公案が如何に使われていたかを現代の読者に公開している。
秋月老師に依れば、公案は、「理致」「機関」「向上」の三つに体系化されるとのこと。 そこには、禅の修行体系に関する臨済宗の「思想」が明確に出ている。一つ一つを看れば、不合理に見える公案も、一つの修行体系に組織化される場合は、そこに、仏教に固有の「理性」、即ち、「般若即非」の「智」が働いていると看るべきであろう。
最近の米国の禅仏教研究者の間には、Reason(理) ではなくてFeeling(情)を重視する傾向があるようだ。そこでいうReason が仏教で言う分別智を意味するならば、かかる分別智は否定されるべきものだという点で正しい見方であろうが、仏教では分別智は全面的に斥けられるということで終わるのではなく、否定によって自覚された「無分別智」において、ふたたび「智」が蘇るということが重要なのである。つまり、禅とは、単なる反合理主義ではない。
また、ただの情(Feeling)ではなく意志(Will)も考慮すべきであろう。すなわち「知情意」のすべてが統合された宗教的人格が問題である。
いわゆる分別智(科学的合理性)は、情意を含む人格の全体を支配することが出来ない。無分別智という仏教的な「理」を自覚することが、仏教思想の根幹であり、それを「事」において、即ち、日常の具体的な行為と生活の内に実現することこそ禅の持つ現代的意味があるだろう。
参禅修行では、老師は修行者の人格の全体を看るわけであるから、当然、情意的なるものが重要な要素となる。その点で、禅に関する論述において「情意的」経験が持つ重要性を指摘することは正しい。しかし、他力の念仏の行とは違って、臨済禅の公案修行の中では、単なる情緒的なもの(Feeling)ではなく、意志的・知的なものが強調されていると思う。
情というのは本質的に受動的なもの、action ではなくてpassion であるわけだが、臨済禅では、修行者の主体的な行為を重んじているので、その修行を、情に還元するのは的がはずれているだろう。
また、米国の仏教研究者であるであるKasulisはIntimacy ということを強調していた。ことばによらないメッセージということは、言葉が必要ないという意味ではなく明確な言葉に表されない暗黙智の次元があるということは正しいだろう。
しかし、Intimacy という言葉は、禅の経験を秘教的なもの、仲間内にしかわからないもの、従って、公共世界に無縁なものと誤解させる危険がある。
禅の公案修行では、多くの師に歴参することが望ましいとされるが、これは一つの場所に定住して、師弟が馴れ合いになること、Intimacy の弊害に陥ることを戒めるものである。