「いのちの歌」というタイトルのもとにここに編集された東條耿一の作品は、初出の雑誌によれば基本的に次の三種類に分類することが出来る。
一つは、全生園の園誌「多磨」の前身である「山桜」に昭和九年から昭和十七年まで掲載された作品、もう一つは、戦前の文芸誌「詩人時代」「蝋人形」「文学界」「四季」などに投稿された作品、そして三番目には、昭和十六年にカトリックの雑誌「聲」に連続して掲載された作品である。尚、このほかに、東條の没後十一年の昭和二十八年に、全生園のカトリック愛徳会の機関誌「いづみ」に、遺稿「癩者の改心」が掲載されている。
これらの雑誌に、我々の詩人は、昭和九年一月から昭和十一年六月までは「環真沙緒子」あるいは「東條環」の名前で、昭和十一年九月以降は、短編小説「霜の花」と詩「望郷台」を小杉不二の名前で発表した他は、晩年に至るまで、すべて「東條耿一」の名前で投稿した。
らい予防法にもとづく強制的な隔離政策の時代、入所者が実名を名乗ることは稀であった。療養所の作家は、入所時に選んだ仮名の他に、さらに、複数のペンネームを使うのが普通であった。異なるペンネームを使う作家を、後世のものが同定することはなかなか難しい。幸い、「ハンセン病文学全集」の刊行と共に、療養所の作家達の経歴を克明に調査された皓星社の藤巻修一氏と、東條耿一の詩の卓越性にはやくから着目されていた俳人村井澄枝氏のご努力で、環真沙緒子、東條環、小杉不二のペンネームで投稿した作者が東條耿一と同一人物であったことが、さまざまな文献的証拠によって確定した。そのおかげで、昭和九年から始まる東條耿一の詩人としての遍歴とその人間的苦悩、昭和十二年の北條民雄の死、その後の東條耿一のカトリックの信仰への回帰、「聲」に執筆した晩年の信仰告白、昭和十七年の遺稿「訪問者」に至るまでの魂の歴程をたどることができるようになった。
二〇〇二年に刊行された作品集「ハンセン病に咲いた花(戦前編)」(皓星社)は、東條耿一の「霜の花」を収録している。この作品は、昭和十五年の「山桜」文芸特集号で、木下杢太郎選第一等にえらばれた短編小説であるが、その編者、盾木氾は、戦前の全生詩話会の中でピカ一的存在であった東條耿一に触れて、
「東條には、当然詩集があってしかるべきと思うが、それがないという事は寂しいことである」
と書いている。また、北條民雄に関する評論「いのちの火影」を書いた光岡良二は、大正八年に創刊された「山桜」の書誌的研究を集大成した「書誌・多磨『五〇年史』」のなかで、東條耿一の詩から「誕生」「念願」「一椀の大根おろし」の三篇を引用している。このうち、「一椀の大根おろし」は昭和十四年四月の「山桜」文藝特集で選者の佐藤信重が一席に選んだ詩であり、おそらく東條の詩の中で最もよく知られていたものであろう。尚、この書誌の中で光岡は、東條が「晩年のある日、一切の自筆原稿を焼却し、所持の文学書を手放してしまった」と書いているのが注目される。同じ趣旨のことは、東條の実妹の津田せつ子も彼女の兄を偲ぶエッセイの中で言及しているが、東條の一途な性格を示すエピソードであろう。
尚、東條耿一の義弟で戦後の全生園カトリック愛徳会の中心的存在であった渡辺清二郎が、昭和四十九年に亡くなった後で、遺稿集「いのち愛しく」が私家本として編集されたが、それには、東條耿一の詩作品として、「一椀の大根おろし」「爪を剪る」「夕雲物語」「樹樹ら悩みぬ」「心象スケッチ」「閑雅な食欲」「奥の細道」「散華」の九篇が収められている。
東條の詩人としての主たる活動の舞台となったのは「山桜」であるが、これは、大正八年四月に、浄土真宗の熱心な信者でもあった全生病院の入所者の栗下信策と若くして病没した月島不二男らを中心として創刊され、昭和十九年七月に休刊されるまで、ほぼ毎月刊行された。最初の頃は俳句や短歌を中心とする文藝活動が主体であったが、昭和六年に生田花世や後に療養所の詩の選者となった詩人佐藤信重らが全生園を慰問して文芸講演をした頃から、詩の創作が盛んとなり、昭和十年には合同詩集「野の家族」が全生詩話会の名前で刊行された。これを契機として、我々の詩人はペンネームを環真沙緒子から東條環に変更したのであるが、「野の家族」には「柚の實」のように、短いながらも印象的な東條の作品が含まれている。
昭和十年は、前年に入所した年少の友人北條民雄との親密な交流の始まる年でもあった。北條民雄日記によると、このころの東條は、多くの詩を「山桜」に投稿してはいたが、他方、病気の進行によって失明するかも知れないと言う不安に苦しんでいた。この精神的な危機を、東條は療養所の中で文子という伴侶を得ることで乗り越えたようである。