エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

平泉・・・中尊寺に参る

2011年11月04日 | 旅行
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院であって、奥州三十三観音番外札所なのである。
山号は関山(かんざん)、本尊は阿弥陀如来。寺伝では円仁(慈覚大師)の開山とされる。
だがしかし、実質的な開基は藤原清衡である。



中尊寺へのアピローチはここから始まる。



だらだらと続く杉並木に導かれるように善男善女が高みへと導かれる。
下山するとき「こんな坂道を歩いて登ったのか!」と気付く。
実に聖地への巡礼と同様の感動を与えてくれるのである。

中尊寺は、2011年(平成23年)5月に国際記念物遺跡会議が世界遺産への登録を勧告、同年6月に世界文化遺産に登録されたのである。



中尊寺内にはそこかしこに堂宇が点在する。
祈りの聖地である。



訪ねた時は、まだ紅葉には遠かったけれど置く深い場所で呼吸できるのである。



建屋は程よく枯れている。
切り取る場所全てが絵画的である。

中尊寺と言えば「金色堂」である。



これは金色堂の敷地内から、表側を撮ったのである。
観光客は、金色堂の「覆い堂」を背景に記念写真である。



これは現在の覆い堂の前に金色堂を覆っていた建屋である。

現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年(1124年)と判明している。
この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体(ミイラ)が安置されている。
金色に輝く御堂である。

平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみである。



中尊寺内の坂道は、竹の根や木の根が張っていてあたかも階段のようである。
それも風情を高めている。



途中、下を見下ろすと衣川の古戦場跡を俯瞰できる。
歴史が息づいているのである。

「中尊」は「奥州の中心に位置する」の意と解釈されている。中尊寺貫主を務めた多田厚隆は、「中尊」とは『法華経』「序品」にある「人中尊」に由来するとした。

ところで、この敷地内には白山神社が鎮座している。
白山神社の祭神は、伊邪那岐尊・伊邪那美尊で、仁明天皇の御代の嘉祥2年、慈覚大師が一関磐井川の上流(現在の一関市本寺)に加賀の一の宮(現在の石川県の白山本宮)より分霊されてあったのをこの関山に遷座し奉り勧請されたと言われている。

勧請と同時に白山権現と号せられ慈覚大師自ら十一面観音を本尊として、その後配仏として季衡(すえひら。清衡の子)の持仏運慶作の正観音と源義経の持仏毘沙門天が寄進安置されていたのだけれど、残念ながら嘉永2年正月8日の火災で焼失したのである。



仮宮の拝殿(現在の能楽殿)と鳥居は、嘉永6年旧伊達藩主伊達慶邦公によって建立寄進されたものである。

能楽殿は橋掛、楽屋などを完備した構成の近世能舞台遺構としては東日本では唯一とされ、平成15年5月、国の重要文化財に指定された。



能舞は、天正19年、時の関白豊臣秀次と伊達政宗両公が社参の折に観覧に供し以来これを続行。
明治9年には、明治天皇が御東巡の折に畏しこくも当社に御臨幸あらせられ、古式(田楽、開口、祝詞、若女、老女)能舞(竹生島)を天覧あらせられたのであった。

由所正しき能楽堂である。
薪能も催され、幽玄の世界が繰り広げられると聞いた。

ぼくも薪能は大好きである。
面が、たき火で揺らぐ時・・・ぼくは幻想の世界に引き込まれてしまう。
時空を超えるのではないかと思えるのである。



帰りに向かうと(下山途中)、この茶店がある。
ぼくは従弟とここでコーヒーを頂いた。
寺院内の喫茶店とは思えない、深い味わいであった。





にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へにほんブログ村
 荒野人