エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

花々の宴

2013年04月29日 | ポエム
風薫る一日であった。
誠に爽やかであって、心身共に洗われる。
幕末、国の洗濯を唱えた獅子がいた。

昨日の陽気は心の洗濯そのものであった。

緑を透かして緑を見る、の呈である。
花々は、最上の姿態をもって現れ出でる。







「花々の宴続けりシャボン玉」







蕾でさえ、豊かである。
豊穣の大気が匂い立つ。

それにしても、日本海と東シナ海はかまびすしい。
かててくわえて歴史認識の齟齬は、甚だしい。
日本は、所詮世界の大国たりえない。



パックス・ジャポニカは、夢のまた夢である。
あのバブルの時代、一瞬でも夢見たことを良しとすべきであろう。
日本は、厚みと広さ、奥行きに欠けるのかもしれない。

嗚呼、やんごとなき現実よ。
狭さと深さは、島国の育んだ美徳であり、類い希なる文化である。
とりわけ短詩形の文学は、発展した。
だがしかし、大河小説は未発達のままである。



日本では、トルストイの「戦争と平和」は生まれない。
ツルゲーネフもそうである。



日本では、私小説をもって孤高の世界を描き出した。

夏目漱石しかり、芥川龍之介しかりである。
それは、詩の世界でもしかりである。
梶井基次郎、坂口安吾、太宰治しかりである。



ホメロスの壮大な叙事詩は、日本人にはものしえない。
だがしかし、叙情詩では特筆すべき作品があまた排出している。
島崎藤村しかり、高村光太郎しかりである。
加えて、萩原朔太郎しかり、西脇順三郎しかりである。

西脇はノーベル文学賞にまでノミネートされた詩人である。
英語で詩作を始め、類例のない詩を生み出した。



萩原朔太郎と西脇順三郎は、ぼくの詩の世界の原点である。
何だか、毎年ぼくはこの時期に記憶に残る詩人を想起している気がする。



そんな気にさせる候である。



      荒 野人