エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

真夏の夜の夢

2013年06月24日 | ポエム
昨日も又、雨は一休み・・・であった。
しかし、夜からは俄かに降り始めた。
驟雨があったのである。



季節は万緑に移行した。
新緑の時と違って、緑を重ねていくと漆黒の闇となる。



そのブラック・ホールから、人の情感をどんどん吸い取っていく。
人は、その状態を「不快指数」と呼ぶ。







「天に向き暑さ測れるスカイツリー」







「もりもりもりあがる雲へ歩む」

昨日も又、雲の峰が「もりもりもりと・・・」上昇した。
山頭火の詠んだ俳句である。

昨日は、墨田トリフォニー・ホールで音楽会があった。
東大生とOB,更には東京の大学から参加した学生たちで編成されている。
ぼくは、ここの賛助会員として支える一人になっている。

アマチュアと思えない、ハイレベルな楽団である。
とりわけ、コンマスの大谷マリウスさんの母親は、ブログの知り合いでもある。



会場に至る道すがら、スカイ・ツリーを仰ぎ見る事が出来る。

会場は、音響も宜しい。
パイプ・オルガンも良く響くらしい。
らしい・・・と言うのは、まだパイプ・オルガンは聴いていないからである。






「オーボエの一筋の音夏の音」






昨日のプログラムは・・・。
メンドルスゾーンの「真夏の夜の夢序曲
ボートーベン交響曲第8番ヘ長調
シューマン交響曲第2番ハ長調
である。

管楽器に少し不安が残っていて大胆な挑戦だな、と思っていたけれど、それは危惧であった。
良い音であった。

とりわけ、3曲目のシューマンのオーボエは素晴らしかった。
プログラム全体を通して、ティンパニーは素晴らしかったし、少しの破綻も無かったし的確な演奏であった。
打楽器が良ければ、曲全体が引き締まる。
オーケストラが充実する。

音楽にとって、カーパッションはビートを刻む楽団の母のようなものである。
本当である。

アンコール曲は「トリッチ・トラッチ・ポルカ」
ヨハン・ シュトラウス2世が1858年に作曲したポルカである。
「トリッチ・トラッチ」というドイツ語は「女のおしゃべり」である。

ポルカのリズムは心をウキウキとさせる。




       荒 野人

合歓の花

2013年06月23日 | ポエム
「象潟や雨に西施がねぶの花」

奥の細道で松尾芭蕉が詠んだ。
西施とは、中国の春秋時代の傾国の美女のことである。



昨日は、梅雨の晴れ間。
気温もグングン揚がった。



空には、雲の峰・・・その上には秋のような繊細な雲が遊弋する。
誠に雲は天才である。
それとも自然が「曰く不可解」なのか。



海を隔てて、ディズニー・シー。
巨大な積乱雲がディズニー・ランドを覆った。

ここは「葛西臨海公園」である。
孫二人を引き連れ、遊びに出かけたのである。

観覧車に乗り、渚で遊び、貝殻を拾い集めそっと耳にあてた。
潮騒が聞こえた。







「合歓の花風染めあげし昼下がり」







合歓の花が満開であった。
去年も、この合歓の花を詠んだものであった。



「緋扇を重ねて床し合歓の花」

因みに「歓喜」「胸のときめき」「創造力」が合歓の花の花言葉である。

これが去年の俳句である。
少しは、俳句になってきただろうか?

昨年は、俳句を始めて一年目。
今年10月で三年目に入る。



様々な自然に感動する日々である。



         荒 野人

梅雨寒の

2013年06月22日 | ポエム
今日は晴れあがっている。
風が透き通っている。
その風に乗って、どこかで鳥が啼いている。

昨日は、梅雨寒の夏至の日であった。
篠つく雨とでも云おうか、すっかり気温が下がってしまった。
夜は、しっかりと上掛けを被らないと冷えてくる。



一日中降り続く雨。
台風は温帯低気圧になって、だがしかし前線を刺激して雨をもたらしている。
加えて、奄美地方で震度4の地震。

夏至・・・一年中で一番昼の長い日である。
それだけに、弱り目に祟り目、である。

今朝は、梅雨の晴れ間が覗いている。
週末だけの出会い。
もちろん太陽とである。







「昏き雨昼夜問わざり夏至迎う」


「梅雨寒や奈辺に在るか天の意趣」







夏至であり、梅雨の長雨である。
加えて、寒い。

誠に身体に悪い日々が続いている。
けれど、農家にとっては程よく降る雨こそが有難いのだと思う。
果実の熟れ具合などは、長雨が天敵だと聞く。

ついこの間、雨乞いをした人間。
何事も分かりやすく、中庸が良い。



ブラック・ベリーが笑っている。





        荒 野人

佐藤しのぶ - 歌劇 「トスカ」 から 「歌に生き、恋に生き」

2013年06月21日 | ポエム
佐藤しのぶ。
日本が誇るソプラノである。

ぼくは、密かにあのマリア・カラスを凌ぐとすら思っているのである。
声の質といい、ブォリュ―ムといい、声のコントロールといい、申し分の無いソプラノである。




佐藤しのぶ - 歌劇 「トスカ」 から 「歌に生き、恋に生き」






「ソプラノやゆっくり開く水中花」


聴いて頂ければ、分かると思うのたが高音の穏やかな響きは、類いまれである。
特に、ソットブォ-ーチェ或いはメッツァブォーチェのしっとりとした伸びが良い。

この歌唱法は、言ってみれば強弱法である。
ソットヴォーチェ(sotto voce)は、声を弱くして/声をひそめて。
メッツァヴォーチェ(mezza voce)は、半分の声で。
といった意味である。
だがしかし、言葉で言うのは簡単だけれどなかなかに難しい歌唱法である。

このトスカの歌唱力は、抜群である。
彼女の放つオーラは、尋常一様ではない。
鳥肌がたつ。



嗚呼、もしぼくに音叉が埋め込まれていたら、きっと共鳴するだろう。
佐藤しのぶのオーラに包まれたい、と思うのはぼくだけでは無い筈だ。



指揮者、現田 茂夫氏が佐藤しのぶの夫である。
音楽家同士の響き合うもの。
彼女の結婚は早かった。




       荒 野人

青の季節

2013年06月20日 | ポエム
青を楽しむ季節である。
それは、豊穣の季節の予感である。

例えば、青柿。
例えば、青葡萄。



季節は、万緑。
新緑の頃は、緑を重ねても、なお重ねても緑であった。
だがしかし、万緑は緑を重ねて行けば「漆黒の闇」となる。

今、青の季節なのである。



青葡萄である。
豊穣が約束されているかのように、豊かに垂れ下がっている。



青の季節。
そう言えば、青の時代という言い方があった。
画家パブロ・ピカソの、1901年~1904年の作風の通称である。

ピカソは今でも、曰く不可解である。
だがしかし、ゲルニカだけは分かる。
いま、ぼくの後ろのCDプレイヤーからは、シベリウスの「フィンラディア」が流れている。

もう終章。
ティンパニーが激しく打たれている。
かつて、国民性を高揚させるとして、演奏禁止となった曲である。

「フィンランディア」が作曲された1899年当時の時代背景は、フィンランド大公国は帝政ロシアの圧政に苦しめられており、独立運動が起こっていたのである。
シベリウスが作曲した当初の曲名は「フィンランドは目覚める」(Suomi herää)であった。
従って、フィンランドへの愛国心を沸き起こすとして帝政ロシア政府がこの曲を演奏禁止処分にしたのであった。

豊穣は、平和の時代だからこそ約束される。



青葡萄の豊穣が待ち遠しい。







「この風の連れ来る雨や青葡萄」







次いで青柿である。







「風に揺れ雨に濡れたる青き柿」







柿は知らず知らずのうちに大きくなっていく。
ついこの間、花が咲いていて、ついこの間、小さな実生が着いていたものだった。

季節は不思議な生き物である。



           荒 野人