エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

牡蠣をたらふく

2014年02月23日 | ポエム
焼牡蠣をたらふく頂いた。
場所は国立昭和公園、バーベキュー広場。



牡蠣の産地は、宮城県。
大ぶりの牡蠣であった。
90分食べ放題で、一人3千円。

従兄弟に誘われて出掛けたのであった。
我が家から、従兄弟を拾い、会場まで約1時間半。



「プフッ 悪い牡蠣を食べ ちゃった」
この一行、天沢退二郎の詩である。

今時、ノロウイルスが怖いとか言って、68度で1分半必ず焼けとか言う。
面倒だけれど、それを忠実に実践した。

けれど、寒さと残雪は多いけれど美味しい時間を過ごす事が出来た。
この従兄弟、いつも楽しい場所に誘ってくれる。
愛い従兄弟である。



昭和公園内は、雪がどっさり残っている。
しかし、日本庭園の入口には白梅が咲いていて香しくも匂い立っている。
なかなかの風情である。

天気も良し。
食い物も美味い。
言うことなしの一日であった。



鱈鍋でも無いのに鱈腹、牡蠣を頂いた。
この諧謔は少しお気に入りである。







「焼牡蠣や火の爆ぜる音耳に添え」







雪の中で一本の紅梅。

さて、詠んだ句をどう推敲するか?
それが問題である。



       荒 野人

藪椿

2014年02月22日 | ポエム
形容詞として「雪椿」と読むのは良いけれど、実は藪椿と雪椿は似て非なるものである。
もちろん椿科である事は論を俟たない。



今日は、藪椿である。



藪椿の花言葉は・・・。
「贅沢」「おしゃれ」「至上の愛らしさ」「謙遜の美徳」
である。
例えば、形容して言えば「雪に椿」は素敵である。




「落ざまに水こぼしけり花椿」
         松尾芭蕉

「赤い椿白い椿と落ちにけり」
        河東碧梧桐

「一水の迅きに落つる椿かな」
         日野草城


名句の多い藪椿である。



椿に名前の由来であるけれど、次のような諸説がある。

光沢がある”意の古語「艶葉木(つやはき)」から。
  (葉は濃い緑色で光沢でピカピカ)
葉に厚みがある意味の「厚葉木」から。
強い葉っぱの木の意味の「強葉木」から。
落ちた花が刀の鍔(つば)に似ており「鍔木(つばき)」の名から。







「やぶつばき白き画布へと向かいけり」







見事な立ち姿である。
このところ、日が落ちると以上に寒い。
かの大雪以降、関東は冷蔵庫になってしまっている。

寒い訳である。




         荒 野人

孤愁を慰むること

2014年02月21日 | ポエム
孤独を慰める。
孤愁と云ってみた。



一人で居ることの孤独であり、憂いである。先週の大雪は未だその爪痕が濃い。
孤立集落が多く残されている。
そこで日々を過ごすことの孤独であり、憂いである。



都会では、一通り雪の整理はついた。
ついたけれど、裏道ではその道幅を半減させている。
だから、いまもって外を歩く時は注意深くしなければならない。

普段は使わない筋肉を酷使する。
筋肉痛が続く・・・といった有様である。



林を歩き、ヤブツバキを探した。
雪に映えるヤブツバキ、を探したのである。
雪に深紅の花。


その下で、朽ちた葉が、雪を褥にして静かに横たわっている。
そこだけ、静かな時間が流れている。



森羅万象、ものみな静謐であってほしい。
静謐でありながら、植物の世界は労りと慈愛に満ちている。







「葉の眠る窪み柔らし雪の後」







この褥の雪は、暖かい。
包まれた朽葉は、穏やかである。

従って、孤愁を慰められているのだ。
自然の循環は、かくも厳しくも美しい。



今日、白鳥を見に出かける予定だったけれど急遽中止にした。
白鳥がいないのである。
例年だと3月中頃に、北帰行が終るのだけれど!

川島町役場に問い合わせたところ、あの大雪の日以降、居なくなったとのこと。
あまりの寒さに、南下したのだろうと言う。
さもありなん。
この寒さは、シベリアを凌ぐのだ。

北帰行の時にでも、もう一度羽を休めてくれないだろうか。
そうしたら、ぼくももう一度会いに行ける。
このまま、オサラバは寂しい。



       荒 野人

再びマンサク

2014年02月20日 | ポエム
マンサク。



漢字表記は、満作と書いても良いし万作でも良い。
どちらにしても、目出度い名称である。

ぼくは、巨人の星の「左門豊作」君が想起される。
花があって、しかし素朴だからである。

ぼくたちの世代、巨人・大鵬・卵焼の記憶が、脳裏に刻み込まれている。

巨人と言えば、やたらと強かったこと。
大鵬も同じで、強さのシンボルである。
卵焼は、貴重な卵で作った甘いおかずであること。

おっとっと、脱線。



春に魁けて咲く花。
その潔さこそ、身上である。
何時も感心するし、何時も書かせていただく「植物の潜在する力」。
いな、内包する強靭な生命力とでも言い換えようか。







「まんさくの空へ戻れる風も止み」







それにつけても、マンサクの花の美しさは葉に先駆けて咲く事にある事は云うまでもない。
花のついた枝に、葉っぱが無い事である。

従って、花の咲き方が姿勢正しいのである。
背筋が、ピーンと張っているのだ。



背筋が伸びている座姿や、立姿、あるいは歩く去る姿は、美しい。
いつまでも眺めていたい、と思わせる。
姿勢の良いのは、美の構成要件の一つであると合点できる。

マンサクが咲く。
姿勢正しく咲く。
美しい女性は、姿勢が良い。
誰もが憧憬する。

だから・・・アスリートは美しい。



ギリシャの彫像の美しさは、その姿勢の良さにこそある。



姿勢の良さという美的感性を壊した「ロココ美術」の価値は、その折り目正しさを認める事から出発した事にある。
これは本当の事なのだよ。



       荒 野人

白梅の潔さ!

2014年02月19日 | ポエム
どか雪だとも云う。
確かに、どか雪だけれど、ぼくには初の大雪である。
大雪で良い。

昨日もそうだけれど、今日もまだ我が故郷は陸の孤島だ。
妹に電話したのだlけれど、食料不足だそうだ。
たまたま、近くにスーパーがあって昨日買い出しに行けたとの事。
少しだけ安心している。

人は不意の出来事に弱い。
文明が、予期しない事柄に対応出来ないのと同じである。
不思議に「同類項」なんていう単語が頭に浮かんだ。
人も、獣も同類項。



その中に在って、梅が着実に咲き始めている。
ここで言う梅は、地植えの梅である。
緑雨さんは、落椿で碧悟道の句を想起した。



ぼくはこの時期、梅を見るとやはり俗曲である。
  梅は咲いたか  桜はまだかいな
である。
因に、椿だと奥飛騨慕情である。

この俗人的感性こそ、愛すべき輪が本質である。
けれども、なかなかその本質を裸に出来ない。
格好つけてしまう。
この場合、ぼくはやはり凡人である。







「梅の咲く蕾の赤や花白し」







その、めくるめく感性の変転が好きである。
矯正する必要もあるのだけれど、句作りに違和感が無い。
困ったチャンである。

椿散る春なのに、ぼくの視線は今現在「梅」である。
その場合、視界は良好である。
天気は晴朗。
波穏やかである。



従って、Z旗は掲げない。
まだ、起死回生の一戦には時間がありそうなのだ。

それにしても、梅の花は青空が良く似合う。



         荒 野人