エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

最後のシモバシラ

2015年02月18日 | ポエム
シモバシラは、もう見納めである。
けれども、寒さはまだ続くのだと云うから霜柱は観られる。



踏んで楽しめる、霜柱である。
これはこれで、楽しい。

シモバシラは、条件次第である・・・。
その条件が、まことにややこしい。
寒ければ良いと云うものでもないのだ。
氷点下であり、かつ風がなく良くはれている事、適度な湿り気も必要である。



これが今年の、おそらく最後であろう。
結氷するかもしれないが、これほど明確で、大きいのは出来ないと思われるのである。
何故なら、水を吸い上げる茎が痛んでしまっているからである。

枯れた茎の割れ目から、水を吸い上げ徐々に氷っていくのだ。
茎が痛むのも「宜なるかな」である。



しかし、春が近づいている証左と云うなら許容出来るではないか。




早春賦(NHK東京放送児童合唱団)





早春賦である。
春は立ったけれど「名のみ」である。
待ち遠しい春・・・そうした気分が歌われているのである。

かく分野の歌手が歌っているけれど、ぼくは児童合唱で聴くのが好きだ。







「呼吸する茎の避け目やシモバシラ」







来年のしかるべき時期、またお目もじしたいものである。
シモバシラなる、奇妙奇天烈な植物名である。

目を楽しませ、語感を研ぎ澄ませてくれる。
語感という感性をぎらぎらと働かせる事で、シモバシラが結氷することを予感する。
思えば実現すると云うものではないのである。

自然の鼓動を聞かなければならないのである。



      荒 野人

巻雲・・・けんうん

2015年02月17日 | ポエム
巻雲(けんうん)は雲の一種であって、冬の終わりに現れる。



刷毛で白いペンキを伸ばしたように、または櫛で髪の毛を すいたように、あるいは繊維状の、細い雲が集まった形の雲である。細い雲片一つ一 つがぼやけず輪郭がはっきりしていて、絹のような光沢をもち、陰影がないのが特徴だ。







「空模様そろそろ春の匂いする」







時として、飛行機の軌跡が巻雲を惑わすけれど、それが面白い。



昨日は暖かかった。
そろそろ春だよ!
と、教えているのであろう。

嬉しい事である。
ここまで人類が壊しつつある自然が、健気にも自らの役割を果たしている。
自然を守る事・・・その人類の役目を改めて自覚しなければなるまい。



       荒 野人

ビオトープ

2015年02月16日 | ポエム
ビオトープという環境がある。
本来の姿のまま・・・もあるけれど人が作為的に構築したものもある。

けれど、本来はありのままが良い。
ビオトープ(独: Biotop)あるいはバイオトープ(英: biotope)は、生物群集の生息空間を示す言葉である。
日本語に訳す場合は生物空間、生物生息空間とされる。
語源はギリシア語からの造語(bio(命) + topos(場所))。
転じて、生物が住みやすいように環境を改変することを指すこともある。



この場所は、旧米軍のグラント将軍の邸宅跡である。
グラント・ハイツと呼ばれた場所であり、現在では光が丘と言われる場所である。

池の周りだけが、ビオトープとして管理されている。



野鳥の宝庫である。

季節は今、春隣。
薄氷の池にも、温かさが満ち始めている。



実は昨日も今日も、ずっと布団の中にいる。
風邪を引いてしまったらしい、のである。

布団の中で、強風の音を聴いていた昨日。
「嗚呼・・・もがり笛が聞こえる!」
とか・・・。
「嗚呼、布団の温さよ!」
とか、情緒に浸っている。

句会の翌日から、寝込んでいる。
年も年だから、無理をしない事にしたのである。

布団の温かさに、母を感じたりしている。



外では、きっとコブシの蕾が柔らかさを増しているに違いない。







「生命の息づく棲家春隣」







ビオトープの池では、ダイサギが暴れているだろうか?
彼らも、春の兆しを感じているのだ。
じっとしていられないのに違いない。

ぼくも、そろそろ布団を抜け出さなければ・・・。
そんな事を感じさせる日差しが、降り注いでいる。

ビオトープ内の生物が外部環境に流出すると、かえって生態系を破壊する危険もあるので注意が必要である。
これだけは言っておこう。
ビオトープの取り組みと言って、全てが善だとする考え方は危険であるからである。




      荒 野人

何度目かのカワセミ

2015年02月15日 | ポエム
水温む候・・・である。
今日のカワセミは、その温かさに誘われでもしたように枝にとまっている。



この表情は比較的柔和である。
けれども、池の面を見る時には精悍な顔つきに変わる。

ハンターの眼差しにである。



淡い黄色と、翡翠色のコントラストが見事なカワセミである。
多摩地方の句会の仲間の話によると、多摩川には「アカショウビン」が棲息していると云う。

是非、お目にかかりたいのだけれど機会が無い。
奄美大島でも、アカショウビンが居るのだけれど鳴声しか聴いた事が無い。

奄美のアカショウビンは、山から鳴声を聴かせてくれる。
「嗚呼、あの山だな!」と山は知れるのだけれど、分け入る覚悟とて無い。







「水温む梢映せるビオトープ」







正に、水温む池である。
池の面に映り込む、木々の色が違う。

空の色が違う。
その違いは、季節の違いである。



      荒 野人

我が家の春の色

2015年02月14日 | ポエム
近頃、我が家で咲いている花たち。
春の色である。

白梅と紅梅は、当たり前である。
花びらと、蕊とのバランスの危うさが梅の花の特徴である。

さて、春のデザインの嚆矢は「スノードロップ」である。



エクボのような緑色がポイント、である。
俯きかげんの楚々とした様が、春の兆しを思わせるのだ。



この花はスーッと咲いている。
「アルメリア」である。
まるでマドラーのような花だ。







「色合や春デザインのえくぼ哉」







この花は「サイネリア」だ。
どのように写して上げたら、可愛く見えるのだろうと試行錯誤の末にこの二枚にした。

因に、花の姿はこうだ。



この写真なら、姿は分かるけれどつまらないでしょう?



あっそうそう「花かんざし」も咲いているよ!
春を感じる・・・のである。

もう少しすると、河津桜が咲き始めるかもしれない。
楽しみである。



       荒 野人