連絡や意見調整をEメールでやり取りしていて気づくことがある。それは、マスメディア業界からのレスポンスが遅いとう点だ。とくに、テレビ業界は格段に遅いように感じるのは私だけだろうか。もちろん、全員というわけでない。すばやく返信をもらえる人も中にはいるが、全体として遅いと感じる。
視聴者の顔は見えているか
先日、あるテレビ局から金沢大学に取材の申し込みが電話あった。ニュースリリースなどの詳細をメールで送る旨を伝え、教えてもらったメールアドレスに送り、届いたら返信をくださいとお願いしたが、それがない。果たして送信できたのかとこちらが心配になって電話で確認すると、相手は「受け取りました」と。それだったら、受け取った旨の返信をくれればよいのにと思うことはしばしばある。その点、地元紙と呼ばれる新聞社は割とこまめに返信をくれる。
この違いは何か。自らの経験も踏まえて言うと、おそらく視線の差ではないか、と思う。テレビ局の場合、「系列」という世界がある。東京キー局を中心とした放送ネットーワークのことである。金融ビックバン以前は旧・財閥と呼ばれる銀行を中心とした系列や、自動車メーカーなど部品の裾野が広い産業でも系列があった。しかし、その旧・財閥系の銀行そのものが合併するなどしたため系列意識は薄れた。いまのビジネス界で「系列」は死語と化している。ところが、テレビ業界では系列という言葉も意識も脈々と生きているのである。
番組「発掘!あるある大事典Ⅱ」のデータ捏造事件で、制作していた関西テレビとキー局のフジテレビの関係は、厳密に言うならばフジテレビは番組の購入者側であり、テレビ局の信頼を著しく傷つけられた「被害者」でもある。ところが、フジの社長は1月29日の定例会見で「視聴者、スポンサー、放送業界全体に迷惑をかけた」と陳謝している。この不祥事は系列全体の責任との意識だろう。ことほどさように系列の絆(きずな)は強いのである。
話を元に戻す。言いたかったことは、系列というある意味でのムラ社会にいると、足元の地域の人たちや視聴者よりキー局や系列の動き、あるいは同業他社の動向が気になる。すると地域とのかかわりが意識の上で薄れる。現場から離れた管理職になり、上にのぼるほど薄いのではないか。それがEメールのレスポンスの遅さとどう関係するのかという論理とは直接結びついてこない。が、系列局間のやりとりで、メールを放っておくだろうか。
「発掘!あるある大事典Ⅱ」のプロデューサーやディレクターにしても、視聴者の顔は見えていたのだろうか。視聴率という数字だけが見えていたのではないか。視聴者の視線を感じれば、ごまかしはできないし、怖くなる。人の顔は納豆の粒か、白インゲンか、カボチャぐらいにしか映らなかったのかもしれない。
⇒6日(火)夜・金沢の天気 はれ