『日本災害史』(2006、北原糸子編・吉川弘文館)を読んで、ふと思った。なぜ日本人は災害が来ることを忘れるのか。地震情報はこれまで新聞メディアなどに取り上げられ、注意喚起されても、その時代の雰囲気の中でかき消されていつの間にか遠ざかっていく。そして、震災や津波がある日、突然起きて「天災は忘れたころにやってくる」(寺田寅彦の言葉とされる)という状態が繰り返される。
著書の中で興味深い下りがある。「地震情報が、いわゆる『予言』に近い情報から、純粋科学情報に移行しつつあった時代だったのだが、行政も企業も『予言時代』そのままの対応をしたのであった」「市民は、家具の固定といった、きわめて狭い範囲の防衛策であったとはいえ、生活レベルでの対応を始める兆しがみえるが、行政、企業は、そうした具体的防御策への想像力を全く欠いていた」。これは阪神・大震災(1995年1月17日)が起きる10日前に神戸新聞の一面で報じていた、当時兵庫県猪名川町で続発していた群発地震に触れ「いつM7級の大地震が起きても不思議ではない」との専門家の見方を警告として発していたものだ。しかし、パブル経済の崩壊で行政も企業も内需拡大策、開発に神経を集中していた。むしろ、この記事に反応していたのは市民だったという。
それにしても人々は忘れっぽい。災害が起きると世界中の人達が同情し、一時的に自らのこととしてとらえるが、「こうした人道的感情がひとたび麗しくも語られてしまうと、あたかもこんな出来事がぜんぜん突発しなかったかのごとく、以前と同様の気楽さで、人々は自分自身の仕事なり娯楽なりを続け、休息し、気晴らしをやる。彼自身に関して起こる最もささいな災禍のほうがはるかに彼の心を乱すものとなるのである」(経済学者アダム・スミス『道徳感情論』)。この忘れっぽさは、日本人だけではなく、しかもいつの世でも同じなのだ。
では、忘れっぽい我々は次に、ひょっとして明日にもやって来る災害にどのような心構えを持たねばならないのか。それは、著書に述べられているように「減災の思想」だろう。「一人でも多くの命を助け、一戸でも多くの家・建物を守り、一ヵ所でも多くの都市装置の破壊を防ぎ、一円でも多くの経済損失を軽減する」、そのためにどうすればよいのか常日頃、四六時中考えるということだ。このような言葉を述べると、「では昔の非文明社会に戻れということか」との反論もあろう。そうではない、たとえば一極集中型の都市構造を改造する、高速道路を都市のど真ん中に通さないなど、人間生活が機能不全に陥ることを避ける方策を常に考えるということだ。都市を巨大なコンクリート防波堤で囲って、これで津波は大丈夫だ安全という発想ではない。
※写真は、能登半島地震の被災現場(2007年3月25日、輪島市門前町)
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