金沢大学の共通教育科目で「ジャーナリズム論」を担当している。先日、現役の新聞社記者
に取材の現場の話をしてもらった。その後、学生(150人)にリアクション・ペーパー(感想文)を書いてもらい、それをコピーして講師に送った。それを読んだ感想のメールが過日届いた。「理系の男子の字が汚いのが多かったですが、これは義務教育から高校にかけての問題でしょうか」と。
これは授業の担当である自分自身が常日頃思っていることだ。リアクション・ペーパーを外部講師にコピーして送る際、いつも悩んでいる。学生の汚い字、内容のない文を送って、わざわざ時間を割いて大学に来てくれたのに失礼ではないのか、と。当初それを除外していた。しかし、3年目ほど前からそれも送ることにした。学生の実態・実情も感想の一つだと思い始めたからだ。
もう少し詳細に述べると、誤字脱字が目立つのである。授業は7年目になるが、年々「親聞」や「報導」といった誤字が目立って多くなっている。固有名詞もたとえば、「大阪府の橋下知事」は「橋下」になっている。さらに深刻と感じるのは、文章を書く鉛筆の字が薄くなって読めないものもある。筆圧、筆力が感じらない。書こうという意欲が感じられない学生が増えているのを実感する。授業に魅力がなく感想など書く気になれないということならば、自分自身の責任なのだが、年々増えていると感じるところに、また、他の教員も同じことを嘆いているところに、問題性を覚えるのだ。
最近、「学生の質の低下」が新聞紙面でも指摘されることが多くなってきた。「学力が低下」「海外に留学する意欲がない」など。現場の教員たちは、入試のあり方に問題あるのではないかと感じ始めている。高校生たちに学力で競い合わせている現在の入試制度では、大学に入ることが最大の目標になってしまい、入学した後では次なる目標を立てる意欲さえも失っているのではないか、と。「夢は、自己実現の課題は」と学生に尋ねても、「特にないです」が圧倒的に多い。ともすれば、大学は「学生の質の低下」を高校のせいにし、高校は中学のせいにし、中学は小学校のせいにし、小学校は親のせいにし、親は国のせいにする。
全国の大学では最近、「とがった(尖った)」という言葉を使い始めている。個性ある、あるいは少々「やんちゃな」という意味合いもあるだろう。「とがった人材の発掘」。学力もさることながら、個性ある学生を集めたいとの思いからだろう。一発勝負のこれまでの学力重視の入試ではなく、面接重視の「推薦入試」(東大)、「特色入試」(京大)、「新思考入試」(早稲田大)などが今後導入されるようだ。
とはいうものの、従来の推薦やAOでも面接は行われてきたのに、なぜ個性あふれる学生を発掘できなかったのだろうか。手短に言えば、大学教員が面接してきたので、AO入試はうまくいかなかったのだと反省すべきだろう。従来の推薦やAOと手法の違った推薦・面接入試のノウハウの開発を競っているようだ。おそらく、これからの面接重視の入試では、「とがった」経営者や芸術家、研究者に面接・審査員になってもらい云々ということになるのではないか。
学生たちの間に漂う「だるい空気」は、大学に閉塞感があるからだ。「学生の質の低下」が問題なのではなく、学生の質を高める大学のシステムを開発することが急務だと思っている。学生の没個性をいつまでも問題視するのではなく、学生に人生の目標を見い出させ、モチベーションを高めれば、「とがった」DNAは目覚める。これまでそのような若者・学生を数多く見てきた。「とがった」人材を集め、育てるだけでなく、没個性をとがらせる。これが大学改革になればと願う。
⇒23日(土)午前・金沢の天気 くもり
に取材の現場の話をしてもらった。その後、学生(150人)にリアクション・ペーパー(感想文)を書いてもらい、それをコピーして講師に送った。それを読んだ感想のメールが過日届いた。「理系の男子の字が汚いのが多かったですが、これは義務教育から高校にかけての問題でしょうか」と。
これは授業の担当である自分自身が常日頃思っていることだ。リアクション・ペーパーを外部講師にコピーして送る際、いつも悩んでいる。学生の汚い字、内容のない文を送って、わざわざ時間を割いて大学に来てくれたのに失礼ではないのか、と。当初それを除外していた。しかし、3年目ほど前からそれも送ることにした。学生の実態・実情も感想の一つだと思い始めたからだ。
もう少し詳細に述べると、誤字脱字が目立つのである。授業は7年目になるが、年々「親聞」や「報導」といった誤字が目立って多くなっている。固有名詞もたとえば、「大阪府の橋下知事」は「橋下」になっている。さらに深刻と感じるのは、文章を書く鉛筆の字が薄くなって読めないものもある。筆圧、筆力が感じらない。書こうという意欲が感じられない学生が増えているのを実感する。授業に魅力がなく感想など書く気になれないということならば、自分自身の責任なのだが、年々増えていると感じるところに、また、他の教員も同じことを嘆いているところに、問題性を覚えるのだ。
最近、「学生の質の低下」が新聞紙面でも指摘されることが多くなってきた。「学力が低下」「海外に留学する意欲がない」など。現場の教員たちは、入試のあり方に問題あるのではないかと感じ始めている。高校生たちに学力で競い合わせている現在の入試制度では、大学に入ることが最大の目標になってしまい、入学した後では次なる目標を立てる意欲さえも失っているのではないか、と。「夢は、自己実現の課題は」と学生に尋ねても、「特にないです」が圧倒的に多い。ともすれば、大学は「学生の質の低下」を高校のせいにし、高校は中学のせいにし、中学は小学校のせいにし、小学校は親のせいにし、親は国のせいにする。
全国の大学では最近、「とがった(尖った)」という言葉を使い始めている。個性ある、あるいは少々「やんちゃな」という意味合いもあるだろう。「とがった人材の発掘」。学力もさることながら、個性ある学生を集めたいとの思いからだろう。一発勝負のこれまでの学力重視の入試ではなく、面接重視の「推薦入試」(東大)、「特色入試」(京大)、「新思考入試」(早稲田大)などが今後導入されるようだ。
とはいうものの、従来の推薦やAOでも面接は行われてきたのに、なぜ個性あふれる学生を発掘できなかったのだろうか。手短に言えば、大学教員が面接してきたので、AO入試はうまくいかなかったのだと反省すべきだろう。従来の推薦やAOと手法の違った推薦・面接入試のノウハウの開発を競っているようだ。おそらく、これからの面接重視の入試では、「とがった」経営者や芸術家、研究者に面接・審査員になってもらい云々ということになるのではないか。
学生たちの間に漂う「だるい空気」は、大学に閉塞感があるからだ。「学生の質の低下」が問題なのではなく、学生の質を高める大学のシステムを開発することが急務だと思っている。学生の没個性をいつまでも問題視するのではなく、学生に人生の目標を見い出させ、モチベーションを高めれば、「とがった」DNAは目覚める。これまでそのような若者・学生を数多く見てきた。「とがった」人材を集め、育てるだけでなく、没個性をとがらせる。これが大学改革になればと願う。
⇒23日(土)午前・金沢の天気 くもり