自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★「松林図屏風」の心象風景

2018年02月17日 | ⇒ドキュメント回廊
   これはまるで長谷川等伯の「松林図屏風」だ。クロマツの林が朝もやに覆われ、松林がかすんで見える。等伯はこの能登の風景の印象を京都で描いたのだろうと想像をたくましくした。ここは能登半島の先端、珠洲市の鉢ヶ崎海岸。けさ(17日)ホテルの3階から見える風景だ。砂浜が広がり、クロマツが防風林の役目を担っている。ただ、この朝もやに包まれたクロマツの林を眺めていて、なんとなくもの寂しさを感じるのだ。あの世をとぼとぼと独りで歩いているような寂寥感だ。

   国宝・松林図屏風を初めて鑑賞したのは2005年5月、石川県立七尾美術館だった。等伯が生まれ育った地が七尾だ。もとともこの作品は東京国立博物館で所蔵されている。七尾美術館が会館10周年の記念イベントとして東京国立博物館側と交渉して実現した。当時、国宝が能登に来るということで長蛇の列だった。東京国立博物館は俗称「トウハク」、等伯と同じ語呂だと話題にもなっていた。

   美術館では、学芸員の解説が面白かったので記憶に残っている。能登国は718年に成立した。その国府が七尾に置かれ、以降、政治的なガバナンスの中心として経済、文化も栄えた。町衆の経済的豊かさや文化的素地が後に桃山美術の画聖と讃えられる若き等伯を育んだのだろうということだった。能登を中心に絵師として活躍した時代、その画才を見込んだ町衆が寺院に寄贈した等伯の作品が今も多く保存されている。

   1571年、等伯33歳の時、養父母が相次いで亡くなり、それを機に妻子を連れて上洛した。京都に入り、本延寺の本山・本法寺のお抱え絵師になり創作活動に磨きをかける。後に本法寺住職となった日通上人と交友を深め、そのつながりで千利休との知縁が広がる。当時の堺は商業都市で、多くの文化人たちが集った。茶の湯の拠点でもあり、茶室には中国などの優れた軸が掛けられていて、等伯も作品に直に接し学ぶことになったことは想像に難くない。

   しかし、等伯の絶頂期に長男久蔵26歳が没する。妻もすでに亡くなっており、能登から連れてきた2人が亡くなった、その寂寥感はいかばかりだったろうか。松林図屏風が描かれたのは久蔵を亡くした翌年1594年、等伯56歳のときの作品といわれる。強風に耐え細く立ちすくむ能登のクロマツ、当時の等伯が心を重ねたのはこの心象風景だったのだろうか。

⇒17日(土)朝・珠洲市の天気   くもり
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする