ぼくが信仰するのは「窯神様」です。
窯神様は木こりの姿をして、工房の電気窯の上に鎮座しておられます。
いつも窯焚きの前にはお供え物をし(水だけど)、焼成の安全と、良き作品の恵みを祈願します。
・・・こんなこと書いといてなんなんですがぼくは、あらゆる宗教の崇拝する対象は鏡なのである、と思ってます。
ひとが神様なり仏様なりに手を合わせるとき、それは鏡に向かって拝んでるのだ、と。
「この願いを叶えてください」という祈りは、「自分はその願いを叶えられるべき存在だ」と考えてるわけであり、さらにその根っこに「自分はそれを叶えられるべく何をしただろうか?」という自らへの問いかけがあって、「オッケー、自分は叶えられるにふさわしい存在だ」という解答があるはずなのです。
偶像は自分自身との問答をするのに合理的なアイテムなのであり、つまり神様の正体とは自身の心を映す鏡に他ならないわけです。
「明日の試合に勝たせてください」とお祈りするあなたは、きっと神様という鏡の中に過去の自分の行為を反芻し、「これだけ努力したんだから」とか「少し練習をサボっちゃったけど」という内観をはじめるでしょう。
問答をする相手が自分自身なだけに決してウソはつけないし(というかウソ自体に意味がないし)、すべての真実が白日にさらされるわけです。
神様はなんでもご存知である、というのは、つまりそういうことなのです。
「いい作品をお与えください」と願うぼくは、本当にそれにふさわしい仕事をしてきたのか・・・?
すべてを見透かす鏡を前にして、ぼくは冷や汗がにじむのです。
窯神様は木こりの姿をして、工房の電気窯の上に鎮座しておられます。
いつも窯焚きの前にはお供え物をし(水だけど)、焼成の安全と、良き作品の恵みを祈願します。
・・・こんなこと書いといてなんなんですがぼくは、あらゆる宗教の崇拝する対象は鏡なのである、と思ってます。
ひとが神様なり仏様なりに手を合わせるとき、それは鏡に向かって拝んでるのだ、と。
「この願いを叶えてください」という祈りは、「自分はその願いを叶えられるべき存在だ」と考えてるわけであり、さらにその根っこに「自分はそれを叶えられるべく何をしただろうか?」という自らへの問いかけがあって、「オッケー、自分は叶えられるにふさわしい存在だ」という解答があるはずなのです。
偶像は自分自身との問答をするのに合理的なアイテムなのであり、つまり神様の正体とは自身の心を映す鏡に他ならないわけです。
「明日の試合に勝たせてください」とお祈りするあなたは、きっと神様という鏡の中に過去の自分の行為を反芻し、「これだけ努力したんだから」とか「少し練習をサボっちゃったけど」という内観をはじめるでしょう。
問答をする相手が自分自身なだけに決してウソはつけないし(というかウソ自体に意味がないし)、すべての真実が白日にさらされるわけです。
神様はなんでもご存知である、というのは、つまりそういうことなのです。
「いい作品をお与えください」と願うぼくは、本当にそれにふさわしい仕事をしてきたのか・・・?
すべてを見透かす鏡を前にして、ぼくは冷や汗がにじむのです。