hisakunnのブログ

日米の民主主義崩壊

情けとお恵み?

2012-12-25 11:19:34 | 日記
 日本の福祉社会と政治を考えるに、人間の感性について節々でこのような感覚というものの誤解や混同に巡り合っています。

 人にお恵みを施すというのは、人間の情けを掛けるということと同じ感性でしょうか? 人の情けというものは、愛情という表現にも使われているように、心に繋がるものであると思います。 つまり人に喜びを齎す言動が中心であって、自分の満足は結果的について来るものです。

 ところがお恵みと言う行為は立場として優位に居るものが、施しを与えるという自分の優越感から出て来る満足が先にあるものです。 この感覚は、長年の積み重ねで混同してしまいがちです。

 この二つの感情の違いは、似たような誤解と比べると解り易いかも知れません。 それは躾けと虐待です。 何が躾で、何が虐待かは極めて容易に比べられます。 よく躾だと勘違いしていたと言って虐待を正当化するような表現で誤魔化す人がいますが、本当は解っていての行為です。

 虐待は、鬱憤の捌け口や憂さ晴らしの為に起こす自己中心的な言動です。 躾と言うのは、周囲や社会に順応するために必要な要素を備えさせる為の教育の一環です。 ある意味、全く正反対の行為なのです。

 このように似ているようで本質的には正反対の言動は一杯あります。 性の関係から来る歓びも、SとMで表現される痛みや歪みと一緒に考えがちですが、同じ見地で考えられるべきではないのです。

 この言葉の紛らわしさは、日本語の持つ特性からも感じられます。 複雑過ぎる日本語が、意味を不明にして混同、混乱を生み出しているのです。 ひらがな、カタカナ、漢字と表現が多様で曖昧過ぎてしまうのです。

 皆さんも、言葉の捉え方を間違え、自分を勘違いすることのないように気を付けて欲しいです。 長く勘違いを続けていると、何が本当の自分か解らなくなります。 何かをしようとする時、本当は何の為に、誰の為にしようとしているのか考える機会も作って欲しいと思います。

 お恵みをする気持ちは、情けから出てくるものではなく、自己満足から生み出されている欲望でしかないと私は思います。 今の日本には、お恵が満ち溢れています!!

いずれ来る孤独!

2012-12-25 01:58:18 | 日記
 日頃は、妻と二人の生活で、何も不自由な事が無い毎日ですが、いつか一人になる時が来るかも知れません。 多分、6歳年下の家内だから、私が先に行くでしょう!

 ところが最近、色んな事情で一人で暮らすことが増えて来ました。 自由で良いし、独りで居る事に寂しさを感じない私ですから、ほとんど碁と競馬とテレビ観戦の毎日に満足しているこの頃です。

 最近は、外食産業や出来上がりの弁当などが安くて便利ですから、不自由を感じません。 今、少し抱えている問題を済ませたら、やりたい事が二つあります。

 一つは、沖縄の問題に自ら手を貸す行動を取る事。 もう一つは、クリーンなエネルギーを作り出すという私の知恵を生かす為の行動を始める事です。

 どちらも簡単ではありませんが、逆にやり甲斐のある作業です。 人には真似の出来ないような行動ですから、実現すれば私自身にも大きな成果が期待出来ます。

 独りの暮らしのような現実ですから、死に際だけ誰かの世話になるのでしょう! 今のところ家内がいれば、対応してくれると思いますが、万一、私が後に残ると、死に際で誰かに迷惑を掛けることになります。

 私の父親が、私に迷惑を掛けない有り難い親でしたので、私も子供や人に最大限迷惑にならない最期が欲しいです!

 こういう話を私は暗い話とは思いません。人は皆、それぞれのエネルギーを燃やし尽くして最期を迎えるのが普通です。 いずれ誰にも、最期は来ます。 十二分に燃え尽きて最期を迎えられれば、幸せです。

 新しい年を、清々しく迎えられるのが一番です!! 私には十分です!!