今日は、7月31日である。
今日を思い起こせば、生まれ育った”ふるさと(故郷)”の夏祭り(夏越祭り)である。
夏祭りの祭儀場所の神社から100m程隔てた処に生家はある。
幼少期の夏祭りは、夜店がたち、近隣から人を集め、立錐の余地無く人で溢れていた。
親戚のおじさん・おばあん達と再会できる日でもあった。
何て云っても、頂ける”お小遣い”が堪らなく楽しみであった。
商店の店先には”山車”といって、昔話し等を題材に商品等を組み合わせ、人形や動物を創作し飾り付け、その出来栄えを競っていた。
神社では、萱であったか、葦であったか忘れたが、円形に束ねた輪を潜り「無病息災」を祈願する風習があった。
時代は移ろい、神社にお参りはあっても閑散としていると聞く、今日である。
閑散とした様相に比例して、住人の数が激減しているかと言えば、そうではない。
無病息災を祈る心が失せたのだろうか?
夏越祭りを楽しむ気持ちが無くなったのだろうか?
生活が多様化した!と言う言葉で結論づければ容易い。
こう言う私も、五年ほど前に帰って以降、疎遠となっている。
世代も替わり、価値観のギャップに順応出来なくなっている自分に気付いたことであった。
静かに家に居て”むかしの七月”を思い出しながら、7月最後の日の日記を書いている。
開け放された窓からは、涼しい海風が吹いて気持ちを和ませてもらっている。
外は30度越えの”盛夏”である。
今日を思い起こせば、生まれ育った”ふるさと(故郷)”の夏祭り(夏越祭り)である。
夏祭りの祭儀場所の神社から100m程隔てた処に生家はある。
幼少期の夏祭りは、夜店がたち、近隣から人を集め、立錐の余地無く人で溢れていた。
親戚のおじさん・おばあん達と再会できる日でもあった。
何て云っても、頂ける”お小遣い”が堪らなく楽しみであった。
商店の店先には”山車”といって、昔話し等を題材に商品等を組み合わせ、人形や動物を創作し飾り付け、その出来栄えを競っていた。
神社では、萱であったか、葦であったか忘れたが、円形に束ねた輪を潜り「無病息災」を祈願する風習があった。
時代は移ろい、神社にお参りはあっても閑散としていると聞く、今日である。
閑散とした様相に比例して、住人の数が激減しているかと言えば、そうではない。
無病息災を祈る心が失せたのだろうか?
夏越祭りを楽しむ気持ちが無くなったのだろうか?
生活が多様化した!と言う言葉で結論づければ容易い。
こう言う私も、五年ほど前に帰って以降、疎遠となっている。
世代も替わり、価値観のギャップに順応出来なくなっている自分に気付いたことであった。
静かに家に居て”むかしの七月”を思い出しながら、7月最後の日の日記を書いている。
開け放された窓からは、涼しい海風が吹いて気持ちを和ませてもらっている。
外は30度越えの”盛夏”である。