今日は、赤穂穂浪士が吉良邸に、討ち入ったとされる日である。
歴史的に正しく認識している事・そうでない事、最近の歴史研究で改められた事、テレビ番組を興味深く観た。
そして、想い出していた。
父が、昭和20年代と思われる時代に、町内にあった演芸場”A座”で「寺坂 吉右衛門」を演じた時の写真である。
父には、南方戦線を経験した”カッチャン”という友人がいた。
私は、ご本人の前では「おっちゃん!」ではあるが、時として「カッチャン」と称していた。
そして、カッチャンは、芝居での女形が得意で、戦時中にも戦友達の慰安に勤めたと聞かされていた。
このカッチャンが、座長となって、素人集団での「忠臣蔵」を”A座”演じたそうであった。
何故、父が「寺坂 吉右衛門」を選んだのかについて、聞いた事があるが、今となっては記憶にない。
幼き頃の私のふる里には、一級河川があり、川上で木材を筏に組み、川を下って、集積場となっていた。
当時の国鉄の駅から分岐線があり、木材運搬用の線路が存在していた。
そして、川の両岸には製材所が点在し、多くの職人・工員も居た。
その地に娯楽場”Å座”があった。
芝居や人形浄瑠璃、浪曲、時として映画も上映していた。
また、我家にはカッチャンやターやん、みずた・たなかのおっちゃん等、多くの人が良く訪れて”酒宴”と成る事が多かった。
夕刻となると、父が仕事をしていても、酒宴が始まる。
接客が終わった時点で店仕舞いをして、父も加わる。
会話の”声”の主人公は、決して”父”ではなかった。
そして”お世辞にも、歌う事も上手な、父ではなかった。
蛇足ながら、母の方が上手かった。
それでも、ある歌しか唄う事もなく、声の大きさも・それほどでも無い、父の存在感が大きかった様に、子供心に残っている。
12月14日から、忠臣蔵となって、父が素人演芸で演じた「寺坂 吉右衛門」に至り、父の歌声とつなげた。
今となっても、強烈に想い出されるのは、父親から「歌を唄え!」で、私は「歌えん!」
父は「”はとぽっぽ”でも良いから唄って聞かせろ!」と指示(命令?)する。
酔狂とは言え、父からの指示(命令)である。
父達の面白おかしく会話している中で”みずたのおっちゃん”は芸者さん直伝の歌唱であるらしいこと。
そして”かっちゃん”は、浪曲から流行唄まで、幅広く精通した”本職の様なもの”であること。
子供心のプレッシャー?の中、指示されるままに唄っていた。
カラオケ等は無い、酔狂の手拍子が、伴奏であった。
”会”を重ね”雀の学校”が、私のレパートリーとなった様に思う。
しかし、私も学習した。
子供が、唄う事が出来ない”唄”を、聞きかじりに覚え、今でも唄えるのである。
「土手の高いのが交番所に知れて・・・」から始まる歌であるが(大人になったと思う)今もってしても、意味不明である。
父は「人と話しする時は”眼”を見ながら話せ!・人に臆するな!」が口癖であった。
例えば、歌を唄わなければ成らない時には、潔く・臆することなく”唄え”と言う事であったのでしょう。
そして”眼を見ながら”に関しても、会話が円滑に運ぶ事について実感している。
父母と伊豆地方を旅行した時、観光バスで移動中に”カラオケ・タイム”と成った時、自ら「おんなの宿」を歌うことが出来たのは20数年が経過していた。
父も、寺坂 吉右衛門さんとの面会の順番がきて「貴殿の事を演じさせて頂いた」何て話しが出来ていれば嬉しい。
父を思い出された12月14日であった。
歴史的に正しく認識している事・そうでない事、最近の歴史研究で改められた事、テレビ番組を興味深く観た。
そして、想い出していた。
父が、昭和20年代と思われる時代に、町内にあった演芸場”A座”で「寺坂 吉右衛門」を演じた時の写真である。
父には、南方戦線を経験した”カッチャン”という友人がいた。
私は、ご本人の前では「おっちゃん!」ではあるが、時として「カッチャン」と称していた。
そして、カッチャンは、芝居での女形が得意で、戦時中にも戦友達の慰安に勤めたと聞かされていた。
このカッチャンが、座長となって、素人集団での「忠臣蔵」を”A座”演じたそうであった。
何故、父が「寺坂 吉右衛門」を選んだのかについて、聞いた事があるが、今となっては記憶にない。
幼き頃の私のふる里には、一級河川があり、川上で木材を筏に組み、川を下って、集積場となっていた。
当時の国鉄の駅から分岐線があり、木材運搬用の線路が存在していた。
そして、川の両岸には製材所が点在し、多くの職人・工員も居た。
その地に娯楽場”Å座”があった。
芝居や人形浄瑠璃、浪曲、時として映画も上映していた。
また、我家にはカッチャンやターやん、みずた・たなかのおっちゃん等、多くの人が良く訪れて”酒宴”と成る事が多かった。
夕刻となると、父が仕事をしていても、酒宴が始まる。
接客が終わった時点で店仕舞いをして、父も加わる。
会話の”声”の主人公は、決して”父”ではなかった。
そして”お世辞にも、歌う事も上手な、父ではなかった。
蛇足ながら、母の方が上手かった。
それでも、ある歌しか唄う事もなく、声の大きさも・それほどでも無い、父の存在感が大きかった様に、子供心に残っている。
12月14日から、忠臣蔵となって、父が素人演芸で演じた「寺坂 吉右衛門」に至り、父の歌声とつなげた。
今となっても、強烈に想い出されるのは、父親から「歌を唄え!」で、私は「歌えん!」
父は「”はとぽっぽ”でも良いから唄って聞かせろ!」と指示(命令?)する。
酔狂とは言え、父からの指示(命令)である。
父達の面白おかしく会話している中で”みずたのおっちゃん”は芸者さん直伝の歌唱であるらしいこと。
そして”かっちゃん”は、浪曲から流行唄まで、幅広く精通した”本職の様なもの”であること。
子供心のプレッシャー?の中、指示されるままに唄っていた。
カラオケ等は無い、酔狂の手拍子が、伴奏であった。
”会”を重ね”雀の学校”が、私のレパートリーとなった様に思う。
しかし、私も学習した。
子供が、唄う事が出来ない”唄”を、聞きかじりに覚え、今でも唄えるのである。
「土手の高いのが交番所に知れて・・・」から始まる歌であるが(大人になったと思う)今もってしても、意味不明である。
父は「人と話しする時は”眼”を見ながら話せ!・人に臆するな!」が口癖であった。
例えば、歌を唄わなければ成らない時には、潔く・臆することなく”唄え”と言う事であったのでしょう。
そして”眼を見ながら”に関しても、会話が円滑に運ぶ事について実感している。
父母と伊豆地方を旅行した時、観光バスで移動中に”カラオケ・タイム”と成った時、自ら「おんなの宿」を歌うことが出来たのは20数年が経過していた。
父も、寺坂 吉右衛門さんとの面会の順番がきて「貴殿の事を演じさせて頂いた」何て話しが出来ていれば嬉しい。
父を思い出された12月14日であった。