峠を越えると、長い下り坂が続いた。うねうねと伸びる下り坂には、積雪量を測る赤白のダンダラ棒が道の両側に標してある。
眼前が広がる盆地に出て、大きな橋を渡ると賑やかな場所にかかり、長岡の街に出た。
ここは西の坂本(龍馬)、東の河井と言われた幕末長岡藩の風雲児、河井継之助や、米百俵で有名な小林虎三郎、聯合艦隊司令長官山本五十六など近代の偉人を輩出した町である。

これが市役所です
雪ぶかい、鄙びた街を想像していたが、近代的な明るい町並に少々驚いたが、市役所に行ってみてなるほどと得心。なにかショッピングセンターの様な外観で一歩中に入って、その開放感溢れる市民センターになるほどこういうところに継之助精神が生かされているのか、と感じた。まちの案内人というボランティアの観光案内人に観光ポイントを聞く。親切に丁寧におじいちゃんがパンフレットを示して教えてくれる。市役所のすぐ横の「まちなか観光プラザ」も念のため立ち寄ったが、ここの女性説明員は必要情報を無駄なく的確に教えてくれた。スタンプラリーが記念館の入場割引なっており、観光プラザでの買い物も割引になるという。観光施策もよくできている。

河井継之助記念館

継之介像 額が広いのが特徴
まず、河井継之助記念館に向かう。額の広い小柄な継之助はまさに「義」を尊び、近代民主主義を体現しようとした人で、経済(商売)の合理性、近代兵器の優秀さをよく理解していた。新政府軍との戦い、自らガトリング砲(当時日本に3台しか無かった機関銃)を扱ったという。(司馬遼太郎の「峠」に詳しい)
下級武士の出自で、藩政にまで携わり、封建の枠にとらわれない生き方をする。米百俵の小林虎三郎とは幼馴染であったという。又山本五十六は長岡藩家老職山本帯刀の家を継いでいる。長岡藩は人材の宝庫だったのだろうか。

山本五十六記念館

生家前にある銅像
続いて、山本五十六記念館へ。入り口に映画山本五十六ヒット御礼の横断幕が掲げてある。私も見た役所広司主演の映画だ。彼は小中学校の頃から秀才で16歳の頃の手紙が起こされているが、文字がしっかりしている。海軍兵学校を2番で卒業、あとは順調にエリートコースを歩むが、エリートにありがちな、傲岸なところがなく、又人情に篤かったといわれる。同じ海軍兵学校の後輩のF先生は、生涯一度だけ長官に声をかけてもらったが、その感激を一生の光栄とされていた。それほどの人物だったらしい。硫黄島守備隊の栗原中将と同じように、アメリカと戦うことに反対していたが、任務には忠実に従うという姿勢は軍人の鏡であった。近くに保存してある生家にも立ち寄ったが、どこにでも有りそうな昔の質素な町家であった。
この時代の偉人はすべからく視野が広く、きちんとした哲学を持ち、現実処理をしっかりやっている。私など彼らより外国に行った回数は多いだろうが、それほどの世界観をもたず、哲学もない。恥ずかしい限りだ。
長岡を去るにあたり、へぎそばを食した。観光プラザに戻って「美味しい店は」と尋ねたら、言下に「小嶋屋です」と教えられた。行ってみたら、確かに味、客あしらい、酒、文句なしであった。
色々満足して長岡をあとにした。