「洒脱」を考える

 写真だけの記事となった2日目にして早くもshinoさんから、ここに来る皆さんは、郷秋<Gauche>さんの洒脱なひとことを読みに来ているんじゃないかと・・・。というメッセージが届いた。

 「洒脱なひとこと」ねぇ・・・、と悪い気はしなかったのだが、「洒脱」の意味を人様に要領よく伝えることができるほど正確には理解していないことに気がついた。で、こういう時には「広辞苑」と「新明解国語辞典」を紐解けば疑問はたちどころに氷解することは周知の通り。

洒脱(しゃだつ)
広辞苑第5版:俗気を脱してさっぱりしていること。あかぬけしていてこだわりのないこと。
新明解国語辞典第4版:何気なくふるまう言動や軽いタッチの文章・書画の中に人を引きつける脱俗の風格が感じ取られる様子。

 ご覧の通りこの二書の常で広辞苑では簡潔に、新明解ではその語の現代的用法に合わせた説明がなされているのだが「洒脱」については微妙な差があることに気付く。

 共通するキーワードは「脱俗」だな。新明解によれば「うまいことを言ったり人のご機嫌をとったりして名誉や利益を求めようとする世間一般の人のやり方を全く超越していること」とある。「世間一般の人が」随分とあくどい人々でもあるかのように書かれているのは筆者の実経験を元にしているのかどうか知らないけれど、結構な書き方ではある。郷秋<Gauche>は世の中そんなに悪い人ばかりではないと思うけれど、これを論じると長くなるし今日のテーマから逸れるのでこれ以上は書かない。

 さて、俗気を脱している人が書(描)くからいやらしいところがなくさっぱりし垢抜けているということなのかな。新明解に至ってはそのことに「風格」までもが漂うことが「洒脱である」としているが、果たして郷秋<Gauche>が書いたものに風格があるかどうかは大いに疑問である。って、どう考えてもないな。

 そもそも郷秋<Gauche>が俗気を脱しているのかと言えばそんなことは全く、無い。郷秋<Gauche>は実に俗な人間であるわけで、そのことをshinoさん(郷秋<Gauche>のblogへのコメントはHN "shino"さんとして頂いておりますが、ご自身のblogでは勿論本名?である"chikahachi"を名乗られております。リンク先の間違いではありません。為念)は十二分にご存知であるはずなのに、これは「古書店の親爺もキーボードの誤り」ということなのだろう。

 ただ、郷秋<Gauche>がblogに掲載する文章を書くことで「名誉や利益を求めよう」としていないことは間違いない。blogに記事を書くことで収入を得られるわけはないし、アフェリエイトで小遣いを稼ごうとしているわけでもないからである。書いたものを誰かに気に入ってもらおうと思って書くことも無い。何の利害もなくただ自身の満足のためだけに書く雑文である。もっとも、物を書いたり写真を撮ったりすることで今晩のビール代くらいだけでもいいから稼げないかななんて色気が無いわけではない、なんてね。ほら、全然俗気を脱していない郷秋<Gauche>でしょう。
 

 今日の一枚は、箒桃(ほうきもも)。竹箒を逆さにしたように、枝を横にではなく上へ上へと伸ばす園芸種。紅・ピンク・白の三本が仲良く並んでいました。
コメント ( 6 ) | Trackback (  )