写真に「タイトル」は必要か

 果たして写真にタイトル、つまり「表題」は必要なのか。最初に申し上げておきたい。郷秋<Gauche>としての答えは「否」である。

 多くの場合、絵画や版画にはタイトルがつけられている。小説には勿論タイトルがつけられている。複数の小説を集めて一冊の本にした場合にはさらに総括的なタイトル、つまり書名がつけられる。詩にもタイトルが付けられている。日本伝統の短詩である短歌と俳句にはタイトルは付けられていない。ただし、幾つかの歌や句を集めた歌集や句集にはタイトルが付けられる。

 音楽には、タイトルが付く場合と付かない場合がある。大きな作品には通常タイトルは付けられずに弦楽四重奏曲第3番とか、ピアノ三重奏曲第1番といった作品の種別(ジャンル)を表す言葉と番号とでその作品を特定する場合が多い。「アメリカ」であるとか「街の歌」といったタイトルが付けられた作品もあるにはあるが、多くの場合、作曲者自身が付けたものではなく、後に「誰か」によって付けられたものである。

 同じ音楽でも小品にはタイトルが付けられる場合が多い。それも、例えば「夢のあとに」(Gabriel Urbain Faure: Apres un reve)、「愛の言葉」(Gaspar Cassado:Requiebros)のように、印象的なタイトルが付けられる。この場合のタイトルも後になって付けられることもあるが、フォーレの作品7-1と呼ばれることはなく、もっぱら「夢のあとに」と呼ばれる。

 さて、写真だ。芸術系の写真にはタイトルが付けられるが、報道(ジャーナリズム)系の写真にはタイトルがない場合が多い。芸術系の写真は単品で鑑賞に供される場合が多いが、報道(ジャーナリズム)系の写真の場合には記事あるいはキャプションと共に供される場合が多いことが関係しているのだろう。キャプションは長いタイトル、記事は写真の「長い長い」タイトルと言えるかもしれない。

 3~5枚程度の写真を合わせて一つの作品とする「組写真」の場合には、組写真としてのタイトルが付けられるが、一枚一枚の写真にはタイトルは付かない。この傾向は芸術系の写真、報道(ジャーナリズム)系の写真に共通する。

 もし小説にタイトルが付けられていなかったとしたら、その内容を知るための手がかりになるものがなかったとすれば、読むべき本を選ぶ時に読者が困る(ただし書籍流通のためにはISBNのコードがあればOK)。音楽の場合には、例えば「弦楽四重奏曲第15番 ニ短調」と、せめて演奏スタイル(ジャンル)を示す情報が付されていなければはやり、困る。短歌や俳句は数秒で読み内容を知ることが可能だからタイトルが不要なのであろう。絵画や版画には、一目で何が描かれているのかが解る(抽象画の場合は?)のにも係わらずタイトルが付されている。

 再び写真。勿論(普通は)一目で何が写っているのかがわかる。ここに一枚の有名な写真がある。絶望の表情、救いを求める眼差し、何から逃れどこに行こうとしているのかさえわからず、すべての感情を失いただ空をさまよう視線。見るものに語りかけてくる写真だ。写真のその奥にある視線が語りかけてくる。そしてその写真に付されたタイトルを、さらにキャプションを読むことで私たちはその写真が持つ本当に意味を知ることになる。

 この場合、重要なのはキャプションである。タイトルはそのキャプションの短縮形である。何のキャプションもなしに見るものにすべてを理解させ納得させることのできる写真こそが優れた写真である。何千文字、何万文字の解説よりも優れてその事物を語る。

 極めて優れた写真にはタイトルもキャプションも必要ないのである。しかし、タイトルがあれば、キャプションがあれば更に良く理解することができる程度に優れた写真もある。そんな写真と比べることさえもおこがましいが、郷秋<Gauche>が撮る写真にはタイトルどころかキャプションや解説が必要なものがなんと多いことか。自らが語りかけるような写真を、そこにあるだけで自らがその存在を主張するような、そんな写真を早く撮れるようになりたいものである。


 今日の一枚は、うぅ~ん、やっぱりキャプションが必要な一枚。これまでに何度も登場しているなるせの森の尾根道。春の尾根道。
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