唐松林の中に小屋を建て、晴れた日には畑を耕し雨の日にはセロを弾いて暮したい、そんな郷秋<Gauche>の気ままな独り言。
郷秋<Gauche>の独り言
『1Q84』は比喩の見本帳もしくは『水戸黄門』
村上春樹氏の『1Q84』BOOK1&2を読んだ時にすぐに書こうと思いながら書きそびれ、BOOK3が出た時に今度こそと思いながら書きあぐねていた「1Q84読後感想文」だが、大上段に構えるから書けないのだと気付いた。郷秋<Gauche>は職業評論家じゃないんだからと。いつもの好き勝手、云いたい放題、書きたい放題、指から出まかせである。
表題を「『1Q84』は比喩の見本帳もしくは水戸黄門」としたが「比喩の見本帳」であるのは1Q84だけの特徴ではなく村上氏の作品全てがそうである。例えば語彙に乏しい郷秋<Gauche>が「彼女は軟らかそうな布地の淡いブルーのワンピースを着ていた」と書くところを、村上氏ならば「彼女はブルーのワンピースを身につけていた。その色は1月のイル・オ・セルフの海の色を写し取った画用紙を、インド洋を渡って来た風に18日程当て後のようにやや緑がかっていた。その色は私に遠い記憶を呼び覚まさせようとしたが、私は思い出すべき記憶が何であったのかさえ思い出す事が出来ずにただ彼女の姿を見続けていた」などと書かも知れないが、郷秋<Gauche>にはとてもその真似のカケラすらできないなぁ。もっともそれが出来たら郷秋<Gauche>も村上氏の次の次の次くらいには売れる作家になれるかも知れない。
郷秋<Gauche>の下手な比喩を読んでも面白くもなんともないので実際に村上氏が書いたものを幾つか引用してみる。実は思いっきり奇を衒った比喩でありながらも、そんな云い回しは平安時代から使われている、面白くもないごく普通の云い方でもとても云うようにさらりと読ませる技はさすが村上氏である。例えばこんな具合である。
「雲はパテでこしらえられたもののように、それぞれ不定形に堅くこわばっていた」(BOOK3 282頁)
「ウィスキーでほどよく暖まった身体は、今では海の底の孤独な丸石のように堅く凍えていた」(同 284頁)
「遥か北方の地にそれらの雲を無尽蔵に供給する源があるに違いない。頑なに心を決めた人々が、灰色の厚い制服に身を包んで、そこで朝から晩までただ黙々と雲を作り続けているのだ。蜂が蜜を作り(注)、蜘蛛が巣を作り、戦争が寡婦を作るように」(BOOK3 284頁)
「受話器を耳に当てると風の吹く音が聞こえた。流れに身を屈めて透明な水を飲む、美しい鹿たちの毛を軽く逆立てながら、谷を拭き抜けていく気まぐれな一陣の風だ」(同BOOK 424頁)
「その光は窓ガラス越しに部屋に射し込んで、二人の足もとに寡黙な日だまりを作りだしていた」(同 482頁)
村上氏は、比喩の天才なのである。
注:蜂は蜜を「集める」のであって「作る」のではない。村上氏も時には間違うのだ。
さて、表題の『水戸黄門』はと云えば、こう云うことである。
『1Q84』はどこまでも限りなく一点の疑いもなくこれまで通りの村上春樹作品であり、これまでの村上ファンを裏切ることをしない。つまり、例えば氏がこれまでの作品にはない新たな挑戦をしたのだと主張したとしても、幸か不幸かその試みは「村上春樹的世界」を脱してはいない。「村上春樹的世界」が拡張されたとは云えるかも知れないが。
『1Q84』はまったく別のところで起きつつある二つの物語が同時進行的に交互に描かれる。まったく別の物語が絡み合いいつしか収斂する構成は1985年に出版された『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で既に村上氏は我が物としている。当然のこととして『1Q84』と『世界の終わり~』には多くの共通点があるが、その最大はこれから向かう世界についてまったく語られないことであるが、あるいは村上氏自身にもわからないのではないとさえ思えるのである。
これまでの村上作品に登場する「僕」が1Q84においては川奈天吾という「実名」であること、職業がこれまでの作品には登場した事のなかった予備校講師であること以外は、川奈天吾はこれまでの村上作品の「僕」そのものである。BOOK3に出てくる看護婦、安達クミは『ノルウェイの森』の出てくる小林緑である。出て行くべき「猫の町」は『世界の終わり~』の一角獣の住む街そのものである。空気さなぎやリトル・ピープル、マザ、ドウタなどのスパイスや華麗で巧妙かつさり気ない「比喩」で飾り立てられ、一見複雑に見えるストーリーもこれまでの村上作品の枠の中にある。
しかし、金太郎飴のようにどこを切っても同じと云う訳ではない。読者を楽しませてくれる趣向が随所にちりばめられ物語にも変化がある。しかしながら読後感(あるいは読み味)は既刊の村上作品のほとんどと同じなのである。一見毎回違ったストーリーではあっても勧善懲罰、最後お葵のご紋の印籠を差し出して「控えおろう」。それでも読者の期待を裏切らないと云う点では「水戸黄門」あるいは「男はつらいよ」に勝るとも劣らない、氏の佳作である。
村上氏は毎年ノーベル文学賞の候補者にノミネートされているようだが(ノーベル財団からの公式発表ではない)、郷秋<Gauche>は氏の作品の商品性、エンターテイメント性の高さは大いに認めるところだが、同じようにノーベル文学賞にノミネートされながらついに受賞には至らなかった遠藤周作の作品における精神性・芸術性を村上氏の作品が上回っているのかと云う点においては、郷秋<Gauche>は大いに疑問を感じる。まっ、遠藤周作の作品においてはそのキリスト教理解(表現)がヨーロッパでは受け入れられにくい側面があった事が受賞の大きな障害になったのだろうけれど。
最後になったが、村上春樹ファンに誤解されないよう書いておこう。
郷秋<Gauche>が書いた村上春樹に関する記事
1Q84
村上春樹氏、記者会見に登場
ノーベル文学賞
物事には順序ってものがある
東京奇譚集
本というよりは、読書について
実は郷秋<Gauche>、村上春樹作品の(かなり)熱心な読者なのである。
追記:この小文は数日前から寝る前の僅かな時間を使って少しずつ書いたものであるが、未定稿である。今後断り無しに加筆・訂正(多分誤字・誤変換もかなりある)される可能性がある事をご承知おきいただきたい。
表題を「『1Q84』は比喩の見本帳もしくは水戸黄門」としたが「比喩の見本帳」であるのは1Q84だけの特徴ではなく村上氏の作品全てがそうである。例えば語彙に乏しい郷秋<Gauche>が「彼女は軟らかそうな布地の淡いブルーのワンピースを着ていた」と書くところを、村上氏ならば「彼女はブルーのワンピースを身につけていた。その色は1月のイル・オ・セルフの海の色を写し取った画用紙を、インド洋を渡って来た風に18日程当て後のようにやや緑がかっていた。その色は私に遠い記憶を呼び覚まさせようとしたが、私は思い出すべき記憶が何であったのかさえ思い出す事が出来ずにただ彼女の姿を見続けていた」などと書かも知れないが、郷秋<Gauche>にはとてもその真似のカケラすらできないなぁ。もっともそれが出来たら郷秋<Gauche>も村上氏の次の次の次くらいには売れる作家になれるかも知れない。
郷秋<Gauche>の下手な比喩を読んでも面白くもなんともないので実際に村上氏が書いたものを幾つか引用してみる。実は思いっきり奇を衒った比喩でありながらも、そんな云い回しは平安時代から使われている、面白くもないごく普通の云い方でもとても云うようにさらりと読ませる技はさすが村上氏である。例えばこんな具合である。
「雲はパテでこしらえられたもののように、それぞれ不定形に堅くこわばっていた」(BOOK3 282頁)
「ウィスキーでほどよく暖まった身体は、今では海の底の孤独な丸石のように堅く凍えていた」(同 284頁)
「遥か北方の地にそれらの雲を無尽蔵に供給する源があるに違いない。頑なに心を決めた人々が、灰色の厚い制服に身を包んで、そこで朝から晩までただ黙々と雲を作り続けているのだ。蜂が蜜を作り(注)、蜘蛛が巣を作り、戦争が寡婦を作るように」(BOOK3 284頁)
「受話器を耳に当てると風の吹く音が聞こえた。流れに身を屈めて透明な水を飲む、美しい鹿たちの毛を軽く逆立てながら、谷を拭き抜けていく気まぐれな一陣の風だ」(同BOOK 424頁)
「その光は窓ガラス越しに部屋に射し込んで、二人の足もとに寡黙な日だまりを作りだしていた」(同 482頁)
村上氏は、比喩の天才なのである。
注:蜂は蜜を「集める」のであって「作る」のではない。村上氏も時には間違うのだ。
さて、表題の『水戸黄門』はと云えば、こう云うことである。
『1Q84』はどこまでも限りなく一点の疑いもなくこれまで通りの村上春樹作品であり、これまでの村上ファンを裏切ることをしない。つまり、例えば氏がこれまでの作品にはない新たな挑戦をしたのだと主張したとしても、幸か不幸かその試みは「村上春樹的世界」を脱してはいない。「村上春樹的世界」が拡張されたとは云えるかも知れないが。
『1Q84』はまったく別のところで起きつつある二つの物語が同時進行的に交互に描かれる。まったく別の物語が絡み合いいつしか収斂する構成は1985年に出版された『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で既に村上氏は我が物としている。当然のこととして『1Q84』と『世界の終わり~』には多くの共通点があるが、その最大はこれから向かう世界についてまったく語られないことであるが、あるいは村上氏自身にもわからないのではないとさえ思えるのである。
これまでの村上作品に登場する「僕」が1Q84においては川奈天吾という「実名」であること、職業がこれまでの作品には登場した事のなかった予備校講師であること以外は、川奈天吾はこれまでの村上作品の「僕」そのものである。BOOK3に出てくる看護婦、安達クミは『ノルウェイの森』の出てくる小林緑である。出て行くべき「猫の町」は『世界の終わり~』の一角獣の住む街そのものである。空気さなぎやリトル・ピープル、マザ、ドウタなどのスパイスや華麗で巧妙かつさり気ない「比喩」で飾り立てられ、一見複雑に見えるストーリーもこれまでの村上作品の枠の中にある。
しかし、金太郎飴のようにどこを切っても同じと云う訳ではない。読者を楽しませてくれる趣向が随所にちりばめられ物語にも変化がある。しかしながら読後感(あるいは読み味)は既刊の村上作品のほとんどと同じなのである。一見毎回違ったストーリーではあっても勧善懲罰、最後お葵のご紋の印籠を差し出して「控えおろう」。それでも読者の期待を裏切らないと云う点では「水戸黄門」あるいは「男はつらいよ」に勝るとも劣らない、氏の佳作である。
村上氏は毎年ノーベル文学賞の候補者にノミネートされているようだが(ノーベル財団からの公式発表ではない)、郷秋<Gauche>は氏の作品の商品性、エンターテイメント性の高さは大いに認めるところだが、同じようにノーベル文学賞にノミネートされながらついに受賞には至らなかった遠藤周作の作品における精神性・芸術性を村上氏の作品が上回っているのかと云う点においては、郷秋<Gauche>は大いに疑問を感じる。まっ、遠藤周作の作品においてはそのキリスト教理解(表現)がヨーロッパでは受け入れられにくい側面があった事が受賞の大きな障害になったのだろうけれど。
最後になったが、村上春樹ファンに誤解されないよう書いておこう。
郷秋<Gauche>が書いた村上春樹に関する記事
1Q84
村上春樹氏、記者会見に登場
ノーベル文学賞
物事には順序ってものがある
東京奇譚集
本というよりは、読書について
実は郷秋<Gauche>、村上春樹作品の(かなり)熱心な読者なのである。
追記:この小文は数日前から寝る前の僅かな時間を使って少しずつ書いたものであるが、未定稿である。今後断り無しに加筆・訂正(多分誤字・誤変換もかなりある)される可能性がある事をご承知おきいただきたい。
![]() |
![]() |
コメント ( 0 ) | Trackback ( )