岸田文雄は「新しい資本主義」と言う。それでは、「資本主義」とは何か。「新しい」という形容詞は、現在の「資本主義」のどこを変えると言うのか。彼自身は何も考えていなくて、口から出まかせをのべているのだろう。
マックス・ウェーバーは“Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus”(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)という本を出版している。彼の本では、「資本主義(Kapitalismus)」は無定義語である。「資本主義」として20世紀初頭のプロシア社会、アメリカ社会を想定し、「資本主義」の根本原理は、飽くなき金銭への追求であるとし、これを否定すべきものではなく、プロテスタンティズムの精神そのもので、崇高なものとする。ここでのプロテスタンティズムとは、彼はカルヴィニズムを想定しているが、これも、彼の思いこみと私は思う。
現在では、「資本主義」を経済システムの一形態と考えることが多いが、「共産主義」「社会主義」に対抗する政治システムと見なすことも依然として多い。カール・マルクスが哲学・経済・政治を一体のものとして扱ったことによる。
私は「資本主義」を「雇う者」と「雇われる者」とからなる社会システムと考える。政治ステムと経済システムとに分けず、一体となったものと考える。
私の世代は、「資本主義」を悪の根源と考えるのが普通であった。「資本主義社会だからしかたがない」ということは、「自分だけのことを考えて何が悪いのか」という意味であった。悪の社会にいるのだから自分がちょっと悪いことをしたって大目にみろという意味である。私の周りの「資本主義」擁護者はマックス・ウェーバーの支持者だったので、ウェーバーの著作を読むたびに私は怒りがこみ上げる。
きのう図書館で「資本主義」について書いた本がないか見渡したら、フィリップ・コトラーの『資本主義に希望はある 私たちが直視すべき14の課題』(ダイヤモンド社)が見つかった。2015年出版の本だから、1931年生まれのコトラーが、84歳の著作である。
原題は“Confronting Capitalism: Real Solutions for a Troubled Economic System”である。読んでみると、マーケティング論を教えてきた老人が、資本主義システムに希望があるというより、こんなに欠点があると、本音を述べている書である。
資本主義システムが、「私有財産」「契約」および「法の支配」という3つの基本理念に基づく社会を前提としているとコトラーは言う。イギリスで始まるリベラリズムの祖、ジョン・ロックは「私的所有」を守るために「法」「政府」があるという。資本主義は、欧米では、個人主義、リベラリズム(自由主義)を前提としてしている。
リベラリズムからみると、資本主義は、「みんなのモノ」いう考え方を否定し、「これはわたしのモノ」という考え方である。「わたし」「わたし」である社会が混乱を招かないように、コミュニティに自分の権利をゆだね、代わりに、「法」の保護を受けるという考え方である。
コトラーは、だれかが権力を握って自分の好き勝手をしないように、つぎのように言う。
《立法、行政、司法の三権をもち、法の支配を実現できる力を持つ立憲政治がなければ、資本主義は成立しない。国を統治する権力こそ、法を執行し、刑罰を使って法の後ろ盾となることができる。》
権力の分割はリベラリズムの考えだした工夫で、有用なところである。しかし、それぞれの権力に大衆(people)がどれだけ参加できているかは疑わしく、現実は理念にすぎない。
コトラーは、資本主義システムとは、起業したいと思う人が自由に起業できるシステムであるという。これは定義とは言えない。親が金持ちでない限り、現実に簡単に起業できるわけではない。
私は、資本主義システムとは、雇用という関係をもとにした、新たな奴隷制であると思う。安倍晋三は、「一億総活躍社会」「女性が輝く社会」と言って、すべての国民を「被雇用者」にしようとしている。女性を家庭から引き出し「賃金労働者」にしようとするが、スーパで毎朝仕入れ野菜の種分けをし、昼や夕にレジで客が買ったものの合計金額を求めることが、家で家族のために料理を作ることより、特に素晴らしいと思わない。料理を作る方が個人のもつ創造力をずっと満足させる。
リベラリズムは職業の選択の自由をと言うが、実際には多くの人は喰うために、着るものを買うために、住む所を求めて、働く。人は、もともと、喰うために、寒さをしのぐために、安心して眠るために、働く。私は、そのこと自体は、喜びを与えるものだったと思う。
いっぽう、現代人は文化的なものを求めているのではないかとも思う。おしゃれも文化であり、美味しいものを食べるのも文化であり、音楽を聴くのも文化であり、本を読むのも文化である。私が研究するのも文化だと思う。働くことと文化活動とは、同時間になすことができなくても、働いた後、文化的生活を送るという意味で、両立できるはずである。職業選択の自由を求めているというより、文化的生活を送りたいという問題である。
私は、働くことや文化活動から、雇用・被雇用という関係をとりのぞかないといけない。これは資本主義の否定を意味する。現在、雇われた者から雇う者に変わるには資本(カネ)がいる。資本が起業の自由を妨げている。資本主義システムは自由な起業を妨げている。
コトラーは、雇う者と雇われる者との間の差に目を向けていない。また、雇われている者の間にも上下関係があることも論じていない。
外国から来た人のための日本語教科書に、部下は上司に「ご苦労様」とは言ってはいけない、と書いてあった。「ご苦労様」とは上司が部下にいう言葉であるらしい。資本主義は、現実に、日本社会に身分差を作っている。
日本に限らず、自由主義陣営の国家の政府は、賃金を通して、解雇を通して、社会に上下関係をもたらし、雇われる者の自由を奪っている。リベラリズムは雇う者(ブルジョアジー)の自由(liverty)であって、雇われる者から自由と尊厳と働いた成果とを奪っているのだ。一時的給付に騙されてはいけない。