きょう、NPOの仕事から帰ったとき、テレビでの街頭インタビューで、若い女性が「均等なチャンス」と言っていた。そうじゃなくて「平等なチャンス」でしょうと、思わず声が出かかった。しかし、冷静になって考えてみれば、「機会均等」という言い方が日本では定着している。それで、似たような言葉を岩波国語辞典で調べてみた。
均等:平等で差がないこと
平等:差別なく みな一様に扱うこと
公平:いずれもにも かたよらず、えこひいき しないこと
対等:地位・力量などが相手と優劣がなく、同じ程度であること
これより、私はつぎのように考える。
「均等」は対象の状態をさす。「均等」を実現する主体を必ずしも意識せずに使える。
「平等」「公平」は、対象の状態というより、社会や人などの主体を意識させる。
「対等」は上下関係のない人間関係を指す。
「機会均等」は“Equal Opportunity”の日本語訳である。この言葉には、同じチャンスがあったのだから、あなたの今の状態はあなたの責任でしょう、というひびきがある。だから、私は好きでない。本当の「機会均等」なんてありえない。人間はそれぞれ異なる実体験をして大人になる。そこで、よーいドンで競争にあなたは負けたのだから死ねと言われても納得できない。
本当は、「均等」か「平等」かという問題でなく、「機会」が同じだからという議論に、弱者切り捨ての意図をありありと感じて、私が気にくわなかったのである。
「機会均等」なんて できない。「競争」で少ない座席を争うのではなく、座席を増やせば良い。「機会均等」ができないなら、「格差」がないようにすれば良いと思う。「結果の平等」である。
「平等」は個性の否定ではない。好みが違ってよい。違うからこそ、少ない座席を争うことがない。別々の生き方をすればよい。が、どんな生き方をしたって、対等に扱われたい。敬意をもって扱われたい。「個性」を認めること、違いに敬意を表することで、「平等」な社会を実現できる。
宇野重規は、民主主義の理念は ひとがみな平等であること と言う。私はすばらしい指摘だと思う。だから、民主主義を支持する。彼の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)、『民主主義とは何か』( 講談社現代新書)は いずれも説得性があるものである。