猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

自分を押し出せないことは悪いことだろうか

2021-10-18 22:35:35 | こころ

人によって、どうしても自分を押し出すことができない人がいる。そういう人は間違った生き方をしているのだろうか。そのことをリベラルの人はどう考えているのだろうか。

私がNPOで担当した子どもに、どう考えても知的な子なのに、個別級に通っている中学生がいた。私が教えれば、中学の数学も英語も修得する子だった。作文も好きで、400字詰め原稿用紙2枚を毎回短時間で書く子だった。

その中学では個別級の子に教科書を支給しない。先生が用意したプリントで寺小屋方式で学習するのだった。クラブ活動だけは普通級の子と共同で行い、彼は将棋部に属した。中3には将棋部の副部長になった。

その子は、中学で普通の勉強をしていないので、特別支援学校の高等部に進学した。特別支援学校は、卒業しても大学進学の資格を与えない。軽度の知的障害児に職業訓練をほどこすところである。1年生は農作業を学習する。2年生は清掃や配送の種分けや介護を学習する。3年生は実習に出かけ、受け入れてくれる企業を探す。

その子は、バスケット部に入部した。朝も夕も休日も猛練習があり、グランドで何度も倒れた。私は、なぜ、倒れるような練習をするのか、わからなかった。別に、バスケットで全国制覇をするような学校ではないからだ。

その子は特別支援学校を卒業すると、特例子会社に就職した。給料は最低賃金よりほんのちょっとの上積みがある程度だが、有給休暇や健康保険などの社会保障が充実していると本人はとても喜んでいた。清掃、ゴミ出し、会議場の設定、社内便の種分け・配送と、体力のいる仕事を黙々とこなしている。

その子が高等部のとき、私はパソコンの指導を行い、彼はWORD、EXEL、POWERPOINTを使いこなす。パソコン検定の3級までを高1で取らした。しかし、特例子会社で、パソコンを使うこともなく、体力仕事を黙々とこなしている。お昼は、疲れ果て、弁当を食べ終わると、ちょっとの間そのまま眠るのだそうである。至福の時間らしい。

その子に、高等部を卒業するにあたって、『卒業を迎えて』という作文を書いてもらった。そのとき、私は、はじめて、その子がなぜ個別支援級にいて、特別支援学校に進学し、特例子会社に就職したのか、理解した。

《中学や小学時代は人間関係がうまく作れず、気持ちが暗くなり、人と良い関係を作ることに不安でした。》

その子は、特別支援学校高等部でバスケット部にはいって、これまでの人生で一番幸せだったと作文に書いた。

その子は自分が押し出せないのである。ほかの子どもたちと つきあえないのである。自己を主張できないのである。それで、心の中にうっぷんを溜めながら、小学校、中学校と無理におとなしくしていたのだ。

特別支援学校の指導、特に体育系のクラブ活動は、自分を押し出すことを認めない。だから、平等なのだ。みんなと過酷な練習をして、一緒にぶっ倒れ、時間と空間を共有すれば良い。悩むことも考えることもなく、みんなと一緒に息をできれば良い。

私は、その子がなぜ自分が押し出せないのか、わからない。その子からみれば、私やほかの子がどうして自分が押し出せるのか、わからないだろう。遺伝子の問題でなく、人がたどる実体験の違いからくるのだろう。

しかし、自分を押し出せないからと言って、他人がその子を責めることができるだろうか。多くの人が、自分を押し出すだけでなく、他人を押しのけようとして、勝った、負けたと言っているほうが、非難されるべきではないか。

自分を押し出すことが生きていくための条件、自由社会の基本だ、と決めつけることはできない、と私は思う。

その子はとっても優しい子だから、結婚して子どもを育てられるだけの給料を出して欲しい、と私は願っている。