猫じじいのブログ

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サリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』を通過儀礼と言う村上春樹

2020-03-23 22:58:09 | こころ
 
村上春樹と柴田元幸の『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(文春新書)を読んで、面白いと思うところもあるが、私と彼らとは、違う種類の人間だと強く思った。小説家とか翻訳家とか大学の先生は信用ならない
 
本書の冒頭で村上は言う。
 
「ぼくは60年代の半ばに高校生だったんだけど、当時『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読むことはひとつの通過儀礼みたいなものでしたよね」。
 
この「通過儀礼」という言葉がわからない。おとなは子どもと違う、おとなに ならなければという思い込みが、この言葉の背景にあるのではないか。どんな おとなにならないといけないと言うのか。
 
村上は私より2歳わかい。高校生の時、私はサリンジャーを読んでいない。サリンジャーをはじめて読んだのは、会社を定年退職したあとの、9年前の東日本大震災で、福島第1原発がブラックアウトし原子炉から放射性物質が吹き出て、枝野幸男が「ただちに人体や健康に影響をおよぼす数値ではない」とテレビで繰り返していたときだ。
 
おとなと子どもと何が違うと言いたいのだろうか。
 
私は、会社を退職する前、悩みをもっている若い社員たちの相手を個人的にしていた。悩みとは自分が何を欲しているかの混乱からくる。ひどくなると、すべてが、重苦しくなり、会社に来るのも、しんどくなる。
 
退職後も、NPOで子どもたちの相手をしている。うつの子もいる。不安症で人に会えない子もいる。ひとは混乱しやすくできているのだ。
 
子どもと大人の違いはなんであるか、むずかしい。おとなは誰かを護り、子どもは誰かに護られると言う人もいる。おとなは自分でものごとを判断でき、子どもは誰かの助けなしには判断できない、と言う人もいる。しかし、おとなになっても、そんなことができない人がいっぱいいる。
 
しかし、村上や柴田が言いたいのは、そんなことではないようだ。「イノセンス」を問題にしている。
 
村上は言う。
 
「妹のフィービーは、幼児的イノセンスがもっとも強く」
「フィービーという存在はあまりにもイノセンスに過ぎる」
「ホールデンが読者に向けて真実を語っているかがよくわからない」
「真実というものの嘘くささ」
「この小説を読んでいちばん僕が怖いなと思ったのは、……ホールデンがどこかへ行って、キャビンにこもって暮らしたいと述べる部分」
「サリンジャーの悲劇というのは、彼がここである程度の、彼にとっての最終的解答の雛形みたいなのをたまたま出しちゃったこと」
「(サリンジャーは)学習障害からPTSDへと向かうっていう、図式的な話になっちゅうね(笑)。おまけに分裂傾向があってとか」
 
どうも、イノセンスであることは悪いことであるようだ。繊細さをもつことも悪いことのようだ。すると、強くなることが「おとな」になることのようだ。
 
村上によれば、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の原稿が最初に持ち込まれたハーコー・ブレイス社の編集者は一読して驚嘆し出版しようとしたが、その上司が「狂人を主人公にした小説」の出版はできないと言い出し、結局、別の出版社、リトル・ブラウン社が出版した。
 
村上が言う。
 
「一度読んだだけでは、あの子(ホールデン)が精神の病でそういうサナトリウムに入っているだというのは、けっこうわかりにくい仕組みになっています」
 
この点は指摘されるまで気づかなかった。しかし、村上や柴田に心の病への偏見があるんじゃないかな?違和感の残るふたりの対話であった。


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