師走に入って半月過ぎの 15日、新宿駅西口で遠方からの友人と待ち合わせる。駅ビルデパート食堂街でピザを食べながらのコーヒーブレイクのあと、せっかくだから新国立競技場を観に行ってみようということになった。新宿からは中央線で二駅、千駄ヶ谷で下車すればいい。駅につくとホームに沿って新宿御苑の森が広がっている。
階段をおりると、コンコースは来年のオリンピックを前にして改修工事の最中である。そして改札を出た正面向いにあった津田ホール(1988年に竣工)の姿は、わずか四半世紀あまりを経ただけですでに消えてしまっていた。ここの地下には、神戸発祥ユーハイムの喫茶店があって、前回千駄ヶ谷を訪れた二年前の夏に一度だけ利用した記憶がある。このときは旧競技場のほうは解体が終わって、地ならしからいよいよ基礎工事が始まったかな、という感じ。ということで、巨大な空き地がぽっかりと都心地に出現して、ちょっと気が抜けるというか、これからどうなるのだといった期待とも失望ともつかない思考停止モードから、クレーンが何本も立ち上がってきて一歩踏み出したときだった。JOC関係者はやきもきしていたのか、様々な利権がうごめき出し尽くしていたあとなのか、いろいろと妄想していてもそれはもう時代の気分にまかせるしかない。
それにくらべるとずっと慎ましいとさえ思えてくる津田ホール跡地のほうは、津田塾大学の都心拠点新キャンパスになるらしく、こちらも建築工事中である。その津田ホールと同じ槇文彦総合計画事務所設計で、1990年に竣工した東京体育館も大規模修繕の最中で、巨大なカブトガニ甲羅のようなアルミ大屋根に足場建材が組まれ、ぐるりと囲まれていた。地理的にみるとこの体育館のあたりまでは渋谷区だが、外苑西通りからむこうの明治神宮外苑地区の大部分は新宿区域となっていて、出べそのように港区側に飛びだした三区の境際にあたることが興味深い。
千駄ヶ谷駅前からはすぐに新国立競技場の姿が見えない。意外に思いながら歩を進めていくと、東京体育館をすぎた先、外苑陸橋の手前あたりでようやく目に入ってくる。メディアからうけるイメージとはすこし異なって、予想外につつましい印象だ。高さ47メートル、地上五階建て外周の四層の庇に放射状にぐるとりめぐらされた細い木材が真新しさを放っていて、全体はたしかに巨大なのに前からそこにあったとしてもさほど不思議ではないようなたたずまいなのだ。設計統括の隈研吾と大成建設チームによれば、「東京の特別な杜と競技場をどう調和」させるか(の要請)を一番大切にしたという、“杜のスタジアム”がコンセプト。
この一週間後、「つつましき巨大な建築」(編集委員・大西若人)、「国立 過去と未来をつなぐ杜」(萩原千秋)という新聞記事の見出しがでていて、新しい競技場の初公開に関する報道が期せずして反語をつないでされていた。約六万の観客席を有する競技場なので、“巨大”であるのは当然だが、それが“つつましい”ということはいったいどういうことだろうか。それはこれまでの建設に至る、紆余曲折した一連の経緯による。しばしば“過去と未来をつなぐ杜”という大義名分が強調されるのも、関東大震災をへた1926年に全国からの寄付で生まれた明治神宮外苑を意識しているからだろう。
競技場のすぐ隣、中央ドーム屋根から両翼を広げるようにたつ聖徳記念絵画館は、明治天皇葬場跡に建てられた当時のシンボル建築であり、その中に明治天皇功績を描いた日本画40枚、洋画40枚の絵画が納められていることは、意外に知られていないのではないだろうか。
新競技場の建設にあたっては、国際建築コンペでひろくそのデザインが公募された。そうして2012年11月最終審査の結果、いったんはインド系英国女性建築家ザハ・ハディドの設計案がコンペ当選と発表されたものの、その斬新というよりも軟体動物のようなうねる巨大なデザインは、周囲の歴史的および景観的観点から賛否両論の的となり、最終的に基本設計見積もりにおける巨額な建築費問題が決定打となって、白紙撤回されてしまった。この迷走ぶりは、ハディド設計そのものよりも国際建築デザインコンペ要項の前提である基本構想そのものに不明瞭さがあったことと、最終審査を行った選考委員会のガバナンス機能不全と見識不足にあったと言えそうだが、すでにその記憶は来年のオリンピックを控えて、はるか過去に押しやられてしまっているようだ。このごたごたの後、ザハ・ハディド自身は心労が蓄積したのかはわからないが、新しい建築案を知ることなく、この世を去ってしまう。
そのザハ・ハディドの設計した建築物を12月初旬、初めて目にすることができた。二度目のソウル行き、市内の東出門にあるトンデモンデザインプラザの近未来的な宇宙船のようなただずまい。映画「ブレードランナー」に描かれたようなネオンサイン輝く高層ビルにかこまれる現代都市のど真中にあらわれた、全身を金属パネルに覆われた巨大なコンクリートオブジェ。もし、この延長のような建築物が、年度末TOKYO空間に出現していたとしたらどうだったろう。高層ビルのたちならぶ新宿西口か歌舞伎町の歓楽街あたりにはふさわしいかもしれないが、やはり外苑周辺の歴史的文脈と緑の多い環境には相いれないものだろうと思う。
ソウル東大門周辺夜の光景。右側に見えているのがデザインプラザ、通称DDP(2019.12.2撮影)
16日付の朝日新聞に、ヘリ上空からの神宮外苑をふくむ周囲の象徴的な写真が掲載されていた。画像下方には、灯りのともったぼんぼりのような新国立競技場を見下ろし、ひとまわりも二回りも小さな東京体育館の丸屋根とそこからのびる周囲の街並み、そしてすこし隔てて明治神宮の黒々した杜、そこにはりつくように五十五年前の前回東京オリンピック水泳会場となった国立代々木競技場のつり大屋根が、さらにそのむこうに街並みの先夕焼けに輝く西方には、霊峰と形容するにふさわしい富士山のシルエットがすべてを見通したかのように浮かび上がる。明治・大正・昭和・平成そして令和の時間軸が東京の空間を俯瞰して、富士山へとむかっていた。
競技場のまわりをほぼ半周して、新国立競技場をひとことで言うなら、これはやっぱり、いろいろあった経緯と建築条件を「巨大なゼロ」思考して“リセット(調停)”した結果であると思った。この光景が出現するまでいろいろとあったが、ひとまずオリンピック開幕を前にして「メイン舞台は整った」し、ようやく「ここから始まる」という意味においても、はたしてこの地の特別な歴史を背景にして将来へと引き継ぐ都市遺産(メガロポリスレガシー)となりうるのか、2020年夏にむけて神宮の杜に巨大なゼロ形状が浮かび上がる姿はとても暗示的だ。
70年代から旧競技場をみつめてきた老舗ラーメン店。半世紀ちかく時は流れても、二階カウンター席が間近に新競技場を眺められる特等席。その近くには河出書房新社ビル、ビクター青山スタジオがある。