日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

中央線千駄ヶ谷駅、師走の新国立競技場

2019年12月30日 | 建築

 師走に入って半月過ぎの 15日、新宿駅西口で遠方からの友人と待ち合わせる。駅ビルデパート食堂街でピザを食べながらのコーヒーブレイクのあと、せっかくだから新国立競技場を観に行ってみようということになった。新宿からは中央線で二駅、千駄ヶ谷で下車すればいい。駅につくとホームに沿って新宿御苑の森が広がっている。

 階段をおりると、コンコースは来年のオリンピックを前にして改修工事の最中である。そして改札を出た正面向いにあった津田ホール(1988年に竣工)の姿は、わずか四半世紀あまりを経ただけですでに消えてしまっていた。ここの地下には、神戸発祥ユーハイムの喫茶店があって、前回千駄ヶ谷を訪れた二年前の夏に一度だけ利用した記憶がある。このときは旧競技場のほうは解体が終わって、地ならしからいよいよ基礎工事が始まったかな、という感じ。ということで、巨大な空き地がぽっかりと都心地に出現して、ちょっと気が抜けるというか、これからどうなるのだといった期待とも失望ともつかない思考停止モードから、クレーンが何本も立ち上がってきて一歩踏み出したときだった。JOC関係者はやきもきしていたのか、様々な利権がうごめき出し尽くしていたあとなのか、いろいろと妄想していてもそれはもう時代の気分にまかせるしかない。

 それにくらべるとずっと慎ましいとさえ思えてくる津田ホール跡地のほうは、津田塾大学の都心拠点新キャンパスになるらしく、こちらも建築工事中である。その津田ホールと同じ槇文彦総合計画事務所設計で、1990年に竣工した東京体育館も大規模修繕の最中で、巨大なカブトガニ甲羅のようなアルミ大屋根に足場建材が組まれ、ぐるりと囲まれていた。地理的にみるとこの体育館のあたりまでは渋谷区だが、外苑西通りからむこうの明治神宮外苑地区の大部分は新宿区域となっていて、出べそのように港区側に飛びだした三区の境際にあたることが興味深い。

 千駄ヶ谷駅前からはすぐに新国立競技場の姿が見えない。意外に思いながら歩を進めていくと、東京体育館をすぎた先、外苑陸橋の手前あたりでようやく目に入ってくる。メディアからうけるイメージとはすこし異なって、予想外につつましい印象だ。高さ47メートル、地上五階建て外周の四層の庇に放射状にぐるとりめぐらされた細い木材が真新しさを放っていて、全体はたしかに巨大なのに前からそこにあったとしてもさほど不思議ではないようなたたずまいなのだ。設計統括の隈研吾と大成建設チームによれば、「東京の特別な杜と競技場をどう調和」させるか(の要請)を一番大切にしたという、“杜のスタジアム”がコンセプト。

 この一週間後、「つつましき巨大な建築」(編集委員・大西若人)、「国立 過去と未来をつなぐ杜」(萩原千秋)という新聞記事の見出しがでていて、新しい競技場の初公開に関する報道が期せずして反語をつないでされていた。約六万の観客席を有する競技場なので、“巨大”であるのは当然だが、それが“つつましい”ということはいったいどういうことだろうか。それはこれまでの建設に至る、紆余曲折した一連の経緯による。しばしば“過去と未来をつなぐ杜”という大義名分が強調されるのも、関東大震災をへた1926年に全国からの寄付で生まれた明治神宮外苑を意識しているからだろう。

 競技場のすぐ隣、中央ドーム屋根から両翼を広げるようにたつ聖徳記念絵画館は、明治天皇葬場跡に建てられた当時のシンボル建築であり、その中に明治天皇功績を描いた日本画40枚、洋画40枚の絵画が納められていることは、意外に知られていないのではないだろうか。

 新競技場の建設にあたっては、国際建築コンペでひろくそのデザインが公募された。そうして2012年11月最終審査の結果、いったんはインド系英国女性建築家ザハ・ハディドの設計案がコンペ当選と発表されたものの、その斬新というよりも軟体動物のようなうねる巨大なデザインは、周囲の歴史的および景観的観点から賛否両論の的となり、最終的に基本設計見積もりにおける巨額な建築費問題が決定打となって、白紙撤回されてしまった。この迷走ぶりは、ハディド設計そのものよりも国際建築デザインコンペ要項の前提である基本構想そのものに不明瞭さがあったことと、最終審査を行った選考委員会のガバナンス機能不全と見識不足にあったと言えそうだが、すでにその記憶は来年のオリンピックを控えて、はるか過去に押しやられてしまっているようだ。このごたごたの後、ザハ・ハディド自身は心労が蓄積したのかはわからないが、新しい建築案を知ることなく、この世を去ってしまう。

 そのザハ・ハディドの設計した建築物を12月初旬、初めて目にすることができた。二度目のソウル行き、市内の東出門にあるトンデモンデザインプラザの近未来的な宇宙船のようなただずまい。映画「ブレードランナー」に描かれたようなネオンサイン輝く高層ビルにかこまれる現代都市のど真中にあらわれた、全身を金属パネルに覆われた巨大なコンクリートオブジェ。もし、この延長のような建築物が、年度末TOKYO空間に出現していたとしたらどうだったろう。高層ビルのたちならぶ新宿西口か歌舞伎町の歓楽街あたりにはふさわしいかもしれないが、やはり外苑周辺の歴史的文脈と緑の多い環境には相いれないものだろうと思う。

  ソウル東大門周辺夜の光景。右側に見えているのがデザインプラザ、通称DDP(2019.12.2撮影)

 16日付の朝日新聞に、ヘリ上空からの神宮外苑をふくむ周囲の象徴的な写真が掲載されていた。画像下方には、灯りのともったぼんぼりのような新国立競技場を見下ろし、ひとまわりも二回りも小さな東京体育館の丸屋根とそこからのびる周囲の街並み、そしてすこし隔てて明治神宮の黒々した杜、そこにはりつくように五十五年前の前回東京オリンピック水泳会場となった国立代々木競技場のつり大屋根が、さらにそのむこうに街並みの先夕焼けに輝く西方には、霊峰と形容するにふさわしい富士山のシルエットがすべてを見通したかのように浮かび上がる。明治・大正・昭和・平成そして令和の時間軸が東京の空間を俯瞰して、富士山へとむかっていた。

 競技場のまわりをほぼ半周して、新国立競技場をひとことで言うなら、これはやっぱり、いろいろあった経緯と建築条件を「巨大なゼロ」思考して“リセット(調停)”した結果であると思った。この光景が出現するまでいろいろとあったが、ひとまずオリンピック開幕を前にして「メイン舞台は整った」し、ようやく「ここから始まる」という意味においても、はたしてこの地の特別な歴史を背景にして将来へと引き継ぐ都市遺産(メガロポリスレガシー)となりうるのか、2020年夏にむけて神宮の杜に巨大なゼロ形状が浮かび上がる姿はとても暗示的だ。 

70年代から旧競技場をみつめてきた老舗ラーメン店。半世紀ちかく時は流れても、二階カウンター席が間近に新競技場を眺められる特等席。その近くには河出書房新社ビル、ビクター青山スタジオがある。


妙喜庵から聴竹居へ そのⅡ 自然との調和

2017年12月23日 | 建築
 その日の早朝、薄明かりの中、目覚めてしばらくすると、すぐまえの駅前ロータリーからは、路線バスとおぼしきエンジンの音や東海道線を往来する列車の音がかすかに聞こえてきていた。
 昨日の余韻がのこっている。買っておいたヨーグルトを冷蔵庫からだして、金柑のテキーラ煮コンポートをかけてたべる。朝には濃厚かと思いきや、ことのほかまろやかな味わい。口にするうちに柑橘の香りとあいまってか、気持ちが覚醒して身体の芯からシャンとしてきた。これは、その日の聴竹居との初対面にむけて、好ましいイントロダクションとなるだろう。

 支度をすませて荷物を預け、外に出ると冬の青空に多少の雲、あたたかい陽射しがでてきている。昨日訪れたばかりの妙喜庵生け垣をみながら東海道線わきを進み、踏切を渡ってすぐ左手の道をカーブにそって天王山麓を上っていく。大きく曲がったさきの道端に、キャンバス立てにのった「聴竹居」看板が目に入ってきた。その見上げたたたき石段の先には、周囲の木々の落葉のせいだろうか、思いのほかあっさりとくだんの建物の入り口がみえている。初対面のご挨拶もすまないうちに、建物主で設計者の藤井厚二(1888-1938)に飾り気なく迎えてもらった気がして、こちらがどきまぎしてしまうような心持ちになる。

 まずは、玄関わきから左手にまわって、南の広場から一段高い位置の聴竹居と縁側=サンルーム越しに対面する。ここからの眺めはよく写真でみることのあるアングルで、あまりにも有名でいささか陳腐かもしれない。ところが縁側正面のイロハモミジはほとんど落葉していて、いまのすっぴんの平屋建て本屋建物の全容が見通せる。まるで自然の衣をぬいで、一糸まとわぬその見事な裸体プロポーションを惜しげもなくさらしてくれているよう。昭和のはじめから九十年の時を重ねて薄肌いろの壁に、木枠で縁どられた幾何学的な水平連続ガラス窓が真横に伸びる。薄い軒先屋根の勾配と連なりの美しさはどこかでみたような、そうだこれは都ホテル和風別館の佳水園を思い起こさせる。建物基礎土台がコンクリート(鉄筋入り)というのもいっしょで、耐震をふまえた近代構造学が活かされている。

 そして建物構造において必ず特筆されるのが、居間中央に北側外気を室内に取り入れる通気口、天上床には熱気をにがす排気口を設けていること。室内の気流を循環させることで夏の暑い季節をしのぎ易くし、涼しく暮らすための工夫がなされていることだ。じつのところ、高台なので窓を開け放てば、眼下の川床方面からの涼風が吹きこんでくるのだろうが、この構造があちこちで強調して礼讃されるのは、いまの時代のエコブームが関係していることもあると思われる。くわえて、深い軒に庇のつくりや周囲の植栽とあわせて、環境共生住宅のさきがけと言われる所以だ。

 夜になって縁側ガラス窓奥の居間障子戸がしめられ、室内のやわらのかな灯りがともった二重の情景をこの庭越しに眺めてみれば、さぞかし美しいだろう。縁側空間から一段下がった右手客室、左手寝室との連なりもリズミカルで、和風モダニズムが周囲の自然と調和している見事な佇まい。
  

 成長した木々に覆われる聴竹居。手前のドウダンツツジの紅葉は赤と黄色のツートーン。
 (撮影:2017/12/10 am)

 正面玄関の洋風木製窓には、菱型の飾りガラスが入ってほのかな品格がある。その扉の内側に入ると、飴色の世界といった雰囲気、建物の中心空間を占める居室へと案内していただく。ここの空間は半月形に開けられた縁の仕切り壁により、視野を遮ることがなく、食事室、客室、読書室へとつながって広々とした一室として印象づけられる。居室から寝室へとつながる小上がりがりのような仏間のある三畳敷のスペースは、居室床よりも三十センチほど高くなっていて、和と洋をつなぐ緩衝地として機能している。この発想、和洋の目線をあわせる配慮は、同時代の在野の建築家遠藤新(1889-1951)ともつながるところだろう。

 いっぽう遠藤と対照的なのは、居間の中心に暖炉がないこと。藤井は近代住居家屋における火の原初性、象徴性をどのように捉えていたのだろうか。日常空間としては、暖房や調理に電気器具を取り入れて、伝統的な囲炉裏からの脱却の一方、別棟の下閑室(茶室)空間において炉を設け、バランスを図ったということか。
 居室天上のアールヌーボー調の楕円形照明、室内コーナーの作りつけ物置台、テーブルや椅子の家具調度もすべてが美しく、手間をかけた無駄のないデザインでまったく押しつけがましさがない。
 これらには、じっさいの施工を担ったという伊勢出身の大工、酒徳金之助のアイデアとこだわり、丁寧な仕事の腕がおおきく貢献していたに違いない。その意味では酒徳なくして建物は存在せず、この珠玉の木造モダニズム住宅は、藤井と酒徳の共作といっていいだろうと思う。名声は藤井ひとりのみならず、おそらくふたりのものだ。

 あらためてゆっくりと周囲を見回す。縁側から窓越しに切り取られた庭の木々や東海道線を隔てたその先の遠景も、ゆるやかな山麓の途中の高台にあるために視界を遮られることがない。現在はふもとに住宅が建て込んしまい、桂川と宇治川、木津川が合流する情景は望めないにしても、庭の新緑の頃は緑がしたたり、紅葉のころは正面のイロハモミジが赤く燃える情景に包まれることだろう。
 意外なことに、かつてはあった周囲の竹林がはらわれてしまって、いまはいにしえの賢人が風に揺れての聴くところの余韻は失われて久しい。かわっていまは見事に枝をのばしているイロハモミジに因んで、凡人には“紅葉亭”といった風情なのだが、これでは、どこかの観光ホテルのようであまりにもベタ、平凡にすぎてしまう。やはり、時代が移ろおうとも、これからも聴竹居は聴竹居でなくてはいけない。

 モダニスト藤井厚二の意図したであろう、自然との調和と共鳴を思った。藤井における西洋文化と日本の伝統様式との統合指向は、建築デザインにおいてはもちろん、その生活スタイルにおいても顕著だ。とくにこちらの住宅設備においては、当時としては先端的なオール電化の電気設備(室内照明・冷蔵庫・電熱器・電気湯沸し器など)をとりいれている点が、着物をきたモダニストの面目躍如といったところ。だだし、かかる電気代はものすごいだろう。その反面、風呂場裏にはとってつけたような?昔ながらの煉瓦つくりの風呂釜があったりして、昭和初期のエネルギー事情を彷彿とさせる。

 さて帰り際、玄関先をでたところで気になるものを目にした。象か怪獣なのか、なんとも奇妙な小さな御影石の彫刻を目にする。敷地内にはもうひとつあって、藤井の東京大学時代の恩師、伊東忠太のデザインによるものという。この地に置かれた経緯はあきらかではないそうだが、明治45年に伊東が設計した西本願寺伝道院が竣工していて、その周囲に配置されたものと同じということだから、ふたりの間にやりとりがあったのかもしれない。いずれにしても邪気を払う守り神?か竣工記念の遊び心によるプレゼント?なのか、なんともほほえましい感じがして、名残惜しくも聴竹居をあとにする。


追 記:
 あらためて藤井厚二のプロフィールを参照すると、明治22年12月8日生まれ、昭和13年7月の没。
 ということは来2018年が生誕130年、没後80年にあたる。今回、重要文化財に指定されたばかりの聴竹居を訪れたのは、偶然にも藤井の生誕記念日直後の12月10日、これも何かの世の縁(えにし)のような気がした。このさきに桂離宮を見学できる機会があれば、すこし足を延ばして嵯峨野二尊院に建つ、藤井厚二みずからデザインの墓標に参ろうと思った。
 なお、重要文化財に指定されたのは、地元住人たちの地道な活動と、藤井厚二がかつて在籍した竹中工務店の所有となったことに加え、なんといっても決定的だったは、2013年6月に天皇陛下が行幸啓されたことだという。これで周囲の人々の意識が変わって覚悟が固まったのだから、平成皇室のやんわりとした御威光に感じ入る。
 

お茶の水界隈郷愁巡り

2017年08月23日 | 建築
 久しぶりの快晴、真夏日となる。蒸し暑さは戻ってきたけれど、もう中庭のセミたちの大合唱は聴かれない。わずかにすこし遠くで遠慮がちに“ミ~ンミンミン、ミー“という鳴き声が聴こえてくるのは、もう、夏の終わりの気配が確実にやってきているからだろう。先立つ先週の土曜日、お茶の水にある小さな老舗ホテルで開かれているゆかりの作家、建築家の展示会とトークショーに出かけてきた。

 地下鉄の新お茶の水駅の改札から長いエスカレーターを上ると、ビル地下街を経由してちょうどJRお茶の水駅につながる広場にでる。アーチ型の聖橋脇の小さな駅舎は変わらずに健在だった。ここの駅舎は、新宿側お茶の水橋寄りの出入口とのふたつに分かれていて、ともに昭和の香りを遺す存在のままであることがうれしい。その駅舎間に狭い土地に張り付くようにひしめいてたつ建物には、バラック風情のものなど、遠くなってしまった学生時代からの店もいくつか残っている。鉄板焼きのキッチン・カロリー、画材屋の「画翠LEMONM」、山小屋のような内装の「山の喫茶穂高」など変わらない姿が懐かしい。

 そんなこんなのお茶の水駅界隈をすこし歩き回ってみることにした。振りだし聖橋の下を深く流れるのは神田川。橋を渡った向こうには、こんもりとした緑の繁みの湯島聖堂の変わらぬ佇まいがあって、ここには孔子が祀られている。その右手方向の繁華街は秋葉原の街並みだ。すぐ駅前を下ったところ、石垣がこされたビルの敷地は、岩崎財閥二代当主屋敷だったという案内板があり、この土地の由来を知る。このさきのホテル聚楽のとなり位に、たしか中学三年の夏休み講習に通った千代田予備校があったはずだ。もうどこにあったのか、正確には分からないのがとても残念である。知らないうちに新しい高層ビル街もできているし、日本大学駿河台校地などは、まさに再開発の真っ最中でクレーンが林立し槌音高い様子。
 そのビル街の中で立派な石垣の上に板塀瓦屋根のすばらしく立派な日本家屋を見つけた。ひとむかしまえの医者か弁護士か、自営業社長の邸宅といった情でそのまま有形文化財として残したいような一角でる。その先の坂を上ると十字架をのっけた青銅のドーム型屋根が見えてくる。これはハリスト正教会復活大聖堂、通称ニコライ堂の威風堂々とした姿。背景に巨大ビルが取り囲んでも、ほとんど外政時代と変わらない独特の景観で、たたずんでくれている。設計はロシア人であって、明治政府のお抱え建築家だったイギ人J.コンドルが工事監理にかかわったという。ロシア人司祭が行きかう境内に入れてもらって、しげしげとその威容を眺める。たしかにこの限られた空間には、周囲と異なる時代の空気が流れているなあ。



 すぐ筋向い角にあった四階建ての小さな古いビルにあるつつましい佇まいの居酒屋が目に留まる、これはいいだろう。お昼はそのニコライ堂が眺められる店舗二階に上がって、広めのどんぶりにとろとろの卵がのっかった特製の奥飛騨鶏の親子丼をいただく。おそらく一階調理場で動き回っていた店主は奥飛騨出身なのであろうか、店内には観光ポスターやパンフレットが置かれていた。

 さて、明治大学ビルの合間のマロニエ通りをぬけて、ようやくの今日の目的地、山の上ホテルに到着。まずは穏やかなクリーム色のタイル張り、モダンゴシックあるいはアールデコ調のデザインの六階建て本館と対面、ヴォ―リーズ建築事務所の設計で昭和初期1937年の竣工である。手をかけて大事に使われてきた様子が伺える。その前を偶然、赤いボルボが走り抜けるシーンが撮れた。
 本館はす向かいの別館の様子がおかしいと思ったらすでに閉館していて、なんと明治大学所有になっていた。まだ利用計画は動き出していないようだがはたしてどうなるのか、本館ホテル営業のほうが心配になる。


 この六階建て塔屋のつくり、大丸心斎橋店と同類のアールデコデザイン。

 
 ホテル正面玄関から館内ロビーへ、一歩踏みいれただけでなんともいえない独特のオーセンテックな雰囲気に足が停まってしまって周囲を眺めまわす。こじんまりとした空間にまとまったフロント、落ち着いたロビー、喫茶コーナー、なんだろうこの既視感、ああもしかかしてここはあのユーミンの「時のないホテル」の世界そのものだ。とするとここは旧き佳きロンドン中心の一角か?
 階段の黒い螺旋のつながりと黄金の手すりが素晴らしくその眺めは陶酔の世界だ。地下階から見あげてみた時にそれはため息とともに実感されることだろう。その階段を伝わって展示会場の二階のバンケットルームへとすすむ。縁の作家展には川端康成、三島由紀夫、池上正太郎、トーベ・ヤンソンなどの直筆パネル。でも今回のお目当は、ヴォーリズ建築関係資料の数々だ。

 いくつかの建物パネルを参照すると、竣工当時は正面入口の車寄せ雨除けの大屋根はなく、あとからホテルとして転用された以降のものだ。ということは、この建物はもともとホテルとして建てられたものではなく、北九州出身の炭鉱王が社会貢献の一環として設立した生活改善運動を目的とした財団法人佐藤新興生活館の本拠地であったルーツをもつ。佐藤なる人物は、このホテル隣接の明治大学卒業の実業家で、これらの経緯はこのホテルに興味を抱いた当時に知ることとなり、おもしろいと思っていた程度だったが、今回の展示において当時の時代背景とヴォーリズのかかわりの中でさらに物語の裾野が広がってびっくりした。

 ヴォ―リーズ建築は住宅に始まり、当然ながらキリスト教関係のつながりがメインで、各地の教会やYMCA会館が多いが、ミッション系の学校建築も多数ある。明治学院大学チャペルから始まって、関西学院大学、神戸女学院大学は美しい統一感のあるキャンパス配置計画そのものから関わってるし、戦後の国際基督教大学もそうである。ヴォールーズ没後では、最近の桜美林大学の建物も、ヴォーリズ建築事務所の設計と知り、なるほどと思った。桜美林学園創立者の清水安三は近江出身で、直接ヴォーリズの薫陶を受けた“不肖の愛弟子”と称している(晩年のヴォーリズとの関係は、ヴォーリズ側からは微妙だったらしい)。
 おもしろいのは、商業建築のいくつかで、その双璧は京都四条大橋たもとの東華菜館と大丸心斎橋店だろう。どちらも実際に足を運んでその外観と内装デザインの多様なアラベスク的世界に目を見張ったものだ。大丸店の取り壊しは、本当にくれぐれも残念無念の限りだ。

 このお茶の水界隈でのヴォーリズ建築というと、明治大学向かいの旧主婦の友本社(現在は日本大学理工学部)、隠れたところでは駅近くの近江兄弟社ビルがある(ここには四階に一粒社ヴォーリズ建築事務所東京支社が入る)。一見なんの変哲もない五階建てオフイスビルで、それと知らなければ通り過ぎてしまうが、駅前通りに面した側の建物角の一方がアールになってるモダン建築のはしり。大きな窓のとり方も大きめでうまく自然採光と通りの眺めを確保しているように見える。
 もう存在しない建物では、神田川対岸にあった「お茶の水文化アパートメント」、これも当時は鉄筋集合住宅のはしりなのだそう。その後の変遷があって1980年代には、旺文社の関連団体が経営する「日本学生会館」として残っていて、学生時代にアルバト面接で中を訪れた記憶があるのだ。やや古びていたがレトロモダン、なんだかいわくありげな印象で、もちろんヴォーリス建築とは知る由もなかった。いまは、高層ビルとなり順天堂大学が丸ごと大学院棟としている。

 山の上ホテルは、その小高い丘の昇りきった端の立地からヒルトップホテルとも呼ばれている。入口脇のヒマラヤ杉と隣接した明治大学校舎裏のポケットパークのような敷地の緑がちょうどいい。このような小さなホテルの存在自体が今の時代の流れのなかでは奇跡のようなもの。次は、ここでオリジナルのお菓子でお茶をしよう。
 
 ヴォーリズ建築がつなぐ、郷愁まじりのお茶の水界隈めぐりの夏の一日だった。この日は、帰ってから大雨となる。

 

水戸芸術館へのロジョウでフジモリケンチクと出会う

2017年05月12日 | 建築
 日曜日早朝、新宿から中央線神へ乗り換えて上野駅に到着した。その友人と訪れるのは一年ぶり、あの時は不忍池湖畔から無縁坂を緩く曲がって旧岩崎庭園へと歩いて行った。そのときを思い出すと照れ臭いような懐かしいような不思議な気持ちが巡る。これぞターミナル駅、といった面影を残す駅構内で車中食を買い込んで、午前9時ちょうど発車の「特急ひたち5号」に乗り込むと、もうこの先の旅への期待でワクワク。
 常磐線で千葉から茨木へと約一時間余り、車窓をゆっくり眺める暇もなく、こちらからの近況報告を話しつづけて隣席の相方には申し訳ないことをした。辛抱して聴いてもらっているうちに、気がつけば偕楽園をぬけて右手には千波湖、いよいよ水戸への到着だ。

 水戸を訪れるのは、本当に久しぶりである。思い起こせば、1990年水戸芸術館が日本中の文化行政関係者衆目の中、華々しく開館してしばらくたってからのこと。1991年秋に開催されたクリスト&J.クロード夫妻による太平洋を挟んでの日米同時アンブレラ(傘)プロジェクトを見物しに出かけて以来だから、約26年ぶりになる。まずは、この事実にあらためてびっくりした。
 茨木県北方面を訪れる機会なら、数年前五浦海岸へと岡倉天心ゆかりの六角堂と美術館を訪ねたり、日立市での市民オペラ研究会に参加するためなど、水戸駅を“通過”したことはあるが、降り立ったのは今回が二度目である。その駅前の印象はさほど変わらず街中に歩き出してみる。老舗商店の構えにさすが水戸藩のご威光がいまに引き継がれているのかと感心していたのもつかの間、すぐにいささか錆びれ気味の部分が目につきだす。
 ここも地方都市の典型にもれず、旧市中心街の衰退化がすすむ現実を前にして、新たな活性化に迫られている様子だ。そのための試みは少しづつ始まっているようには思える。今回の水戸芸術館現代美術ギャラリー企画展「藤森照信展 自然を生かした建築と路上観察」と一連の関連事業もその試みに連なるものだろう。

 バスで数駅乗りこしてしまったので大通りを戻りながら、街中に忽然と天空に突き抜ける百メートルの高さがあるというジュラルミン色の展望塔、アートタワーを目標に歩き出す。
 しばらくしてケヤキの街路樹のむこうに、御影石とコンクリート打ち放しの外壁が見えてきた。忽然という感じの水戸芸術館との再会である。こじんまりとした中世の城郭都市といった印象だ。中央にひろがる青々とした芝生広場、その正面の突き当りの池には、現代アートといった感じの数本の鉄筋で串刺しされた空中の巨大な御影石の塊に左右から噴水が注がれ、大量の水が流れ落ちている。なかなかの迫力でいったいだれの作品だろうか、確かめ損ねた。
 左手から時計回りに劇場、コンサートホール、ギャラリー、展望塔と箱庭のように文化施設が配置されている。正面左手隅の方向がエントランスになる。吹き抜けの回廊正面には、国産のパイプオルガンが設置されていて、これがなんと町田にある工房の制作だときく。当初から定期的にオルガン無料コンサートが行われていて、27年間継続されていることに感心する。

 建築展はその名もずばり、「藤森照信展」とあり、これはご本人のスゴイ自信のあらわれか。副題に「自然を生かした建築と路上観察」とあって、ようやく「藤森照信展」とはなんぞやの説明になっている。でも「自然を生かした建築」ってどういうことだろう。屋根に草木をはやしたり、木や漆喰など自然素材で表情を出した意匠のこと? あるいは周りの環境に溶け込むような建築?
 たしかにフジモリ建築は、都市部よりも地方というか周辺に生息している。近代が忘れ去ってしまった日本古民家を原型とする伝統を現代建築に応用して新しく蘇らせたことがフジモリ建築の本質であり、そこが見た人に独特の懐かしさや郷愁を呼び起こすのであろうと思う。そうだとしたら「自然環境になじんで、自然素材に生かされた建築」というほうがより正確だろう。

 「路上観察」の復活については、水戸だからこそ実現したのだろうと思う。だって、首謀者赤瀬川原平老子様は、すでにこの世とサヨナラをして二年あまりになるのだから、追悼企画ともいえようか。でも、当時からを知る者としては回顧的になり、ひたすら懐かしく青春の思い出だ。みなさん、若かったんだなあ。

 一連の展示で興味をひいたのは、「5 未来の都市」コーナー」。遠くない未来、建築は自然に浸食されて廃墟と果てる姿を暗示している。ふと箱根樹木園に放置された、村野藤吾設計の朽ちかけた円形の貴賓室を思い出す。朽ちた室内天井からつるされた照明モビールの姿が時の流れの無常を象徴していた。
 楽しくてまた行ってみたくなったのは、なんといっても次の「6 たねやの美とラ・コリーナ近江八幡」コーナー。じつは今回の訪問でもっとも見てみたかった展示だった。ここ一連の建物は、フジモリ建築ワールドのユートピア、実際に水苔や杉苔を使ったオブジェ、パネル写真とともにうまく空間構成がなされていて感心した。不定形の無垢木のテーブルと椅子のコーナーでゆっくりとくつろげるのもいい。
 フジモリ建築の大集成とW.M.ヴォーリズの建築が残る琵琶湖畔の水郷近江八幡の地には、ぜひまた、ゆっくりと訪れてみたいという思いがいよいよ強く高まってきた。
 
 ラコリーナ近江八幡(伊語で“丘”)。手前は本物の水苔を敷き詰め、後方が全景パネル。後方の山並みと重なっていい感じ。



 隣のカフェでたねやの甘味で友人とひと休みしていたら、横浜美術館の逢坂館長にお声掛けいただいて、これにはびっくりした。このあとの藤森×磯崎新の対談を聴きにこられたのだという。さらに友人はビデオのコーナーで、豊田市美術館の旧知の学芸員に会って挨拶を交わしており、磁場が集まる場所にはそれなりの出逢いが生じると思い知らされた次第。
 
 水戸納豆蕎麦の昼食のあとに、展望塔=アート・タワー・MITOに登楼することに。市制百周年で高さ百メートルとわかりやすい。外壁はジュラルミン製の輝き、エレベータ内部から見る構造体は、かなりごつい印象で、比較はなんだが江の島の展望台のほうがよほどスマート、建築時代の違いかな?

 その午後三時からの巨匠対談、コンサートホールで行われたのであるが、前半退屈、しかし後半になって俄然おもしろくなった。藤森さんはさすが、その本質をズバリ見極める頭脳力には恐れ入る。その対談内容はとてもここにまとめることはできないが、この両巨匠がお互いをリスペクトしている姿が意外だった。作品作風はポストモダンとポスト縄文?と対照的なのに、文明や茶室への関心などの指向性は確かに重なる。
 磯崎さんはエッジがとれて枯れた感じ。自らの絶頂期に設計した水戸芸術館コンサートホールで思うところがいろいろとあっただろうなと想像する。このダイヤモンド形のホール、金色のゴージャス感がなかなかのもので、舞台後方中央と客席後方の三本の円柱がユニークなのだ。客席六百人あまりとコンパクト、室内楽には最適で、舞台との臨場感がほどよい。周囲環境を含む建物全体について、屋外広場の芝生のひろがりと噴水の調和、中世の楼閣にあるような、しかし素材は金属正三角形面を合わせて折れ伸ばしたポストモダンな展望塔、広場開口部からの覗く大きく育った欅並木の新緑、この三点が素晴らしい。

 対談終了は午後四時半すぎ、もうそろそろ帰りの時間が気になりだした。後ろ髪をひかれる思いで芸術館を後に徒歩で駅に向かう。途中の道からのタワー、建物の間から突き抜けるこの唐突感が好きだ。ほんとうは、ゆっくりと泊りの予定で街中探索をしたかったのだけれど。


 帰りは、午後六時すぎ発「ひたち24号」のキャンセル指定がうまく二枚取れてほっとする。構内カフェで話し込んでいるうちにいよいよ発車時間となり、車両に乗りこんで並んで座り、買い込んだ食材を分け合っての車中食。久しぶりの再会がほんとうに嬉しかったのに、愉しい時間は流れてやがて哀しき、、、ではないにしても、なんだか満たされない想いがするのはどうしてだろう。

 しばらくすると窓に横殴りの大雨、三十分ほどで止んであたりは暗闇、そしてまちの明りにネオン灯が流れ、列車は一路上野をすぎて、静かに東京駅まで滑り込む。

 

目白逍遥、明日館ふたたび

2016年12月10日 | 建築
 師走に入ってすぐの日曜日の午前十時過ぎ、快晴でひんやりとした初冬の外気。新宿から山手線に乗り換えて目白駅改札をでると、そのすぐ先の市街地図前から始まる出逢いの旅。
 
 目白周辺は、いつきてもゆったりとした空気の流れる落ち着いた町だ。駅広場の先には池袋の高層ビル街がすぐ目の前にのぞめるし、振り返れば新宿へと続く無数の人々の営みがうごめく街並みが広がる。JR山手線沿いの小径を池袋方向に向って10分ほど歩くと、もう自由学園明日館に到着してしまう。澄んだ空気の中に両手を拡げて中庭を抱くようにたたずむ木造二階建て。通りに沿って植えられた大きな枝ぶりのソメイヨシノはすっかり落葉して、一本だけある大島桜のほうはまだ黄色の葉を遺していた。ヒイラギの白い小さな花の香り、日本水仙が咲き始めていて、クリスマスローズももうすぐ、うつむきかげんの花を咲かせるだろう。

 向かって右側の受付で見学券を購入して、低く下がった天上入口から館内へとすすむ。床には大谷石が敷き詰められている。中央講堂に入るといきなりの解放感をもって、幾何学模様の窓枠を通して中庭と外の風景が飛び込んでくる。反対側には、室内の中心である大谷石造りの暖炉。
 中央棟はスキップフロア形式とでもいうのだろうか、三層構造で中二階が食堂空間、三層階がさきの講堂を見下ろす格好ででこの建物の共同設計者、F.L.ライトと遠藤新の関わりを示すミニギャラリーとなっている。明日館は、1921年(大正十年)にその一部が竣工し、その後ようやく1927年に現在の姿となったことを知る。ここには、日本におけるライトの建築上の業績がすべて記されていて、明治村に移築保存された帝国ホテル正面玄関部分、芦屋の旧山邑家住宅のパネル写真を見ていると、師弟関係にあったふたりの親密な会話が聞こえてくるような気がしていた。
 
 中央講堂(かつての礼拝堂らしい)に戻って、喫茶スペースでひと休み。そうしたら友人がここで桑田佳祐の新曲スチール写真が撮影されたんだよ、って教えてくれた。その取り合わせの意外さをおもしろく感じ、明日館の懐の広さを讃えたい。ここは週末には結婚式会場としても利用されているし、重要文化財の空間でのセレモニーも印象深いものに違いないねって、ふたりして年頃の娘のことを想像してみたり。
 午後からは、食堂スペースで近くの音大生によるソプラノとギターの組合わせによる音楽会を聴く。この親密な空間にフレッシュな演奏はふさわしいだろう。最後のヘンデル、武満徹「小さな空」がよかった。

 このあとの逍遥は、目白庭園、遠藤新最後の建築設計となった旧近衛町の目白ケ丘教会から、夕暮れが深まった紅葉のおとめ山公園と続いていく。


 午後の音楽会を聴いた旧食堂の空間。天井照明のデザインは建築途中にライトが設計変更したもの。
 当初のベランダ部分は、のちの生徒数増にともない、遠藤により変更されて両翼の室内空間が広がった。
 並べられた椅子のデザインはどちらのものだろう。


 中央講堂の窓からの外の風景、ここで一服する贅沢さ。
 ふと、サイモン&ガーファンクル「F.L.ライトに捧げる歌」の旋律がハミングで聴こえてくるような、そんな空気が。


 小雨振る中をもういちど、ビルの夜景を背後にして浮かびあがる明日館を見に行った。
 冬の夜は深く、そして長い。

まほろからの情景 その弐 骨董市とシティゲート

2016年09月04日 | 建築
 九月になって最初の夜に、晴れて星はみえるけれども月はどこに?と思って天文暦を確かめたら、その夜は長月に入って最初の新月、どうりでね。台風が過ぎて、すこし蒸し暑さが戻ってきた静かな夜中、中庭からは秋の気配を知らせる虫の音が聞こえてくる。
 秋の気配と言えば、昼間にお隣の敷地の柿の木をなにげなく見上げたら、ふくらんできた柿の実のそのいくつかはほんのりと色づいているのに初めて気がついた。これが次第に数が増えて、色づきが増してくると、ああ秋だなあって思う。

 朝、すこし早起きをして毎月一日に開かれる、まほろ天満宮の骨董市に行ってみた。まだ七時前、そぞろ開店準備中の境内では、店主が思い思いに売り物の品々を拡げ始めている。アンティークな小物、装身具、掛け軸、陶器、鉱物、着物に帯、ガラクタのような?古道具、そのほかいろいろ、それぞれの店主の風貌も骨董品のように味わい深いのが面白い。まだ、買い方が分からなくて、眺めて歩き回り雰囲気を楽しむだけ、そのうちに気に入ったものがあれば買ってみたいものだと思う。糸魚川産の翡翠ヒスイ、型染めの帯布など気になるもののいくつかがあったけれど、いまはまだ手に取ってみただけでいい。もうすこし、時間と経験を重ねることで、自然とのぞむものに出逢えることになるだろうから。

 ケヤキ並木が両側に残るかつての行幸道路の帰結点である駅駐車に戻って、連絡通路に続く改札横のカフェでひと休み。その前のデッキを通勤や通学にむかう人が足早に歩いていく。デッキのさきに巨大なステンレス製モニュメント「シティ・ゲート」がそびえ立っている。そのもうすこし先にいけば、さきの骨董市のひらかれている神社のJR線を横断している参宮橋にいたる。まほろの都市風景のひとつで制作1983年10月と銘板に記されている。どうしてこんなところに当時の花形建築家黒川紀章?という感じだが、駅前再開発計画とランドスケープデザインに関わったコンサルティング会社、RIAとのつながりかもしれない。

 「シティ・ゲート」のデッキの下は、町田街道からやがて東名高速道路の横浜町田ICにつながるから、あながちその名称はだてではなくて事実をそのままあらわしている。ことしの秋で完成から33周年、そのときにはあまり話題にもならなかった気がするけれど、いつのまにか気がつけばすっかり周りの情景になじんでしまった。もし、まほろ市民方面が東名高速経由で名古屋・御殿方面から街の中心に近づいてきたときには、このゲートの姿を確かめることで返ってきた実感と安堵感を覚えるのだろう。

 ここからの眺めは、80年代以降の移り変わりの風景が映し出された円錐形ステンレスモニュメントに象徴される郊外都市のなりたちの多様な“貌(かお)”のひとつに違いない。
 

 駅前改札横の早朝カフェから。
 店内の深みのある黄色ランプと窓ガラスの向こうのシティゲートのアーチが都会のような風景。
最近できた新築高層マンションは、もともとダイエーの関東進出第一号店舗跡で現在も二階にテナントとして入居している。


 シティゲート(制作者は建築家の黒川紀章)はぴったり南北方向に架かる。むかって左が北、右が南方向。
 ステンレスアーチに周囲の風景を映しこんで、郊外都市の鏡となっている。ランドスケープデザインとしてとらえれば、愛知の豊田大橋とコンセプトは一緒だろう。


 そのすぐ近くにある、あきらかに万能薬タイガーバームの商標をもじった中華料理店の看板。じつに目立つし、愉快で秀逸でもある。奥のビル屋上には、まほろが背伸びして掲げた、ニューヨークにあるみたいなロックライブハウスのサイン。
 このビルは、映画「まほろ駅前狂騒曲」の主人公たちの営む「便利屋事務所」の設定で実施のロケ撮影に屋上部分がつかわれた。ビルの横丁を入れば、「さくら小道」と名づけられた黒塗り塀の粋な木造店舗が連なるかとおもうと、にぎやかなタイ料理屋があったりする、おもしろい一角となっている。
(20216.09.01書始め、09.04 初校了)

愛知県立芸術大学新音楽棟の音階段

2016年02月29日 | 建築
 新年が明けてなんて思う間もなく、気がつけば早いもので如月もみそかである。一か月後はエイプリルフール、ウソみたいだが本当のことで、2016年の六分の一が過ぎてしまおうとしていることに唖然とする。

 この二月を通して、仕事に関連した研修やセミナー受講ラッシュであちこちにでかける機会があった。明治神宮の杜に隣接したオリンピック記念青少年総合センターでの「劇場・音楽堂アートマネージメント研修」に始まり、中旬の岐阜県可児市文化創造センターを会場にした「世界劇場会議国際フォーラム2016」、そして昨日までの葉山町湘南国際村における「第7回21世紀ミュージアム・サミット」とつづいて、さすがにいささか消化不良のきらいもあるのは仕方がないだろう。
 それぞれ「文化力で地域と世界をつなぐ」「劇場は社会に何ができるか 社会は劇場に何を求めているか」「まちとミュージアムが織りなす文化 ~過去から未来へ~」と掲げられた大きなテーマを連ねてみると、期せずして芸術文化に期待されている時代課題が浮かんでくる。そこに共通するのは、劇場や美術館という文化装置の社会的役割の広がりと、地域と協働して市民とつながるためにはどのようにしたらよいか、という切実な具体的方法論についてだ。

 名古屋に滞在していた世界劇場会議国際フォーラムのまえには、いまとなっては都心になってしまったかつての高級住宅地と郊外におけるモダニズム建築を見て回っていた。そのひとつ、愛知県陶磁美術館に続いて、愛知県立芸術大学を訪れた時の印象記。
 東部丘陵線リニモの芸大通駅を下車して、緩い丘陵の曲線の坂を上っていく。稜線のさきにキャンパス群が姿をあらわし、その頂点がコンクリート柱で中空に持ち上げられ横一直線に伸びる巨大な迫力の講義棟だが、あいにくと改修工事中で足場が組まれ、全体が白い幌布に覆われていた。この象徴的な講義棟を含む建物の設計とキャンパス計画全体は1960年代に遡り、吉村順三を中心とした東京芸術大学建築学科の奥村昭雄、天野太郎をはじめとする教員スタッフによるものという。
 講義棟からさらに進むと、右手に法隆寺壁画模写の資料館、まっすぐ先には全体が「くの字」型横長のコンクリート打ち放しで、内装の窓や階段の鉄フレームが黒基調のシックな新音楽棟が完成していた。外階段から二階にのぼっっていくと、内部につながる一部の屋上はテラスで、テーブルに椅子が並べられて周囲のみどりの杜が眺められる開放的な作り。そのテラス部分から中に入ってみると、谷側はひらかれたガラス張りの気持ちの良い吹き抜け空間となっていて、天井は無垢の板張り、階段や手すりの鉄フレームの黒とそこに市松模様に貼られた四角い木片や木製階段ステップの対比が、五線譜に書かれた音階のようで美しい。じっさいに遠く練習室からは音楽練習中の音が流れてくる、なかなか悪くない落ち着いた空間だ。「悪くない」と書いたのは、この新棟が建設されるにあたって、別の位置にある旧棟を改修したらどうか、新棟建設は豊かな自然環境の破壊につながる、と反対の意見もあったと聴いていたからだ。でも、そもそもこの地に大学キャンパスを設置したこと自体、自然の杜を人工的に切り開いていたことになり、建築行為の持つパラドックスは新棟建設と同様である。吉村はそのことにも気がついていたはずだと思うし、新棟設計にあったっての周囲環境への配慮はなされていると感じた。

 連絡通路を渡って新音楽棟を出て中庭をぬけて奏楽堂へ。この建物は開学当時のままの姿で残って、ロビーに入ってみる。ひろい床面に貼られた小さい丸タイルの白とブルーの少し汚れた横シマ模様がいい。地階への螺旋階段の流れるような手すり、そこの脇にある木製ベンチにしばらくたたずんで、扉の向こうのホールから流れてくるオーケストラの旋律を聴きながら、当時の空気を想像して吸ってみる。

 
 こうして角度を変えて、二枚を並べてみると五線譜の音符階段=音階段。手すりの重なりが美しい。でも、どこか昨今のスターバックス内装風かのはなぜだろう? ここに安直な自然志向はないのだろうか?
 

愛知県陶磁美術館の狛犬たち

2016年02月20日 | 建築
 昨今は二十四節気のうちの「雨水」にあたる。立春から二週間が過ぎて、昔からこの季節は農耕の準備を始める目安とされてきたという。気候の説明をよむと、「早春の暖かな雨が降り注ぎ、大地がうるおい目覚めるころ」なんだそう。今年の雪降りは少なかったけれど、今日の天気はまさにそのような暖かな雨が、まだ新緑の芽吹き前の木々の枝枝に降り注ぐ一日だ。

 先週、岐阜郊外の可児市文化創造センターで劇場会議国際フォーラムがあって名古屋に滞在していた。その予定に合わせて、念願の愛知県陶磁美術館(瀬戸市)と愛知県立芸術大学(長久手市)を訪れる。ともに名古屋都心から地下鉄を終点藤が丘駅で降り、愛・地球博覧会のおりに建設された無人運行の東部丘陵線リニモを乗り継いで、小一時間ほどの都市郊外の広大な自然林“海上(かいしょ)の森”を切り開いて作られた敷地にある。まだ、ここには高度経済成長神話の名残がかすかに漂い、リニモから両側に広がる森を眺めると、たしかにさながら緑の海上に浮かんでいるかのような錯覚もしてくる。開発と自然のおりあいをどうつけるのかが、ポスト博覧会の残された主要テーマだろう。
 まずは、都市から郊外への移動の足として、高架を滑るように走る近未来的なリニモを「陶磁資料館南駅」で降りて陶磁美術館へ向う。“陶磁+美術”といういい方は初耳で、駅名がもともとの資料館とあるのをみると、焼きもの=陶磁器の産地として、“美術”とつなげることで、地場産業への付加価値を目指す意図があるのだろうか。そのうち、工芸美術といったような言い方もでてくるのかもしれない。

 ここを訪れてみたいと思ったのは、美濃に織部、志野、瀬戸、常滑といった地場焼き物の優品展示をゆっくりみたかったことと、実際の建物のたたずまいを確かめたかったから。以前、ここのパンフレットを眺めていたら、そこに映っていた本館エントランス写真の照明飾りが、ホテルオークラロビーの五連ランタンと双生児であることに気がついていた。つまりこの建築は谷口吉郎の設計なのである。広い敷地だけあって、快晴の青空のもと緩くカーブしたアプローチがとにかく気持ちよい。なだらかな丘陵地に立つ南館(1978=昭和53年開館)から本館(昭和54年開館)の間には芝生が広がり、陶磁器の壺などが点在していた。今日同行してくれた案内役のMは、グレーのニット織コートに黒ブーツ姿、光線で少し栗色がかってみえる柔らかい髪とペパーミントブルーのタートルネック、早春の青空のもとぬける様な風景の中で、表情が晴れ晴れとして弾けて輝いている。
 本館の壁は白く、民芸調で蔵造りのような雰囲気をただよわせながら、塔屋はなんだか消防の見張り屋のような印象がある。お昼時、館内レストランでそれぞれ織部御膳と天ぷらきしめんをいただく。そこでMが指差す先の天上の照明は見事に六角形の亀甲型にデザインされているのに笑ってしまった。ここでは扉の「押」のサインパネルも亀甲型である。レストランからの眺めは優雅そのもの、本館ロビー前の石を立てたL字型の人工池やその反対側の建物半地下の石組みの庭も隠れた見処で、じつに迫力があり見事なことに感心した。食事の後は、開催中の企画展「煎茶 尾張・三河の文人文化」を見て回る。抹茶は室町時代だが、煎茶は江戸後期から明治に花開らいた町人中心の文化である。

 館をでて敷地内で発掘された、平安から鎌倉時代の古窯跡をぞろぞろと歩いて見て回った帰り際、立ち寄った西館で思わぬコレクションを目にした。このあたりで焼かれた陶磁製!の狛犬コレクション「こま犬百面相」の数々である。普通は石像なのに、さすがに陶磁器産地だけある、その数々の表情の豊かなこと、阿吽像に思わず表情がほころんでしまう。なんでも地元企業人の本多コレクションだという。どこかで見たことがあり、聞いたことのある名前だと思ってよく確かめたら、数年前にまほろ市博物館で陶磁製狛犬展があって、そこへと貸し出されていたコレクションとの再会だったのでした。
 やっぱりニッポン、広いようで狭いね。

鎌倉八幡宮池のほとりに映る白い宝石箱

2016年01月30日 | 建築
 先週の日曜日の午前中、鎌倉駅を下りて東口のバスロータリーをまわり込み、海岸から真っ直ぐ一直線に八幡宮まで伸びる若宮大路へと出る。二の鳥居から始まる檀葛が改修の真っ最中で、白色に塗られた鉄板の囲みに覆われていた。このいつもと違う眺めもこの時期だけのものだと考えると貴重な風景なのかもしれない。囲みの上から植え替えられた桜並木が覗いていて、その枝の花包は寒空のもと、まだ固く閉じられたままだ。
 鳩サブレーの豊島屋本店、ホテル結婚式場の鶴岡会館を過ぎると、ファッションの旧ラルフ・ローレン店舗だったゴシック風のビルは、時代がまわって風格を増した外観はそのままに、三井住友銀行鎌倉支店に様変わりしていた。この転用は角地ということもあり、じつにぴったりの組み合わせだと思う。昔からの土産物屋さんも今風の雑貨と飲食店へと改装され、ここ鎌倉のメインストリートにも現代の商売風は確実に吹き込んでいる。昔ながらの骨董屋が目につくのが古都らしい。

 八幡宮三の鳥居前から太鼓橋ごしに舞殿と本殿を望んでから左手の進んですぐ先、平家池ほとりにその「小さな白い宝石箱」は見えていた。今年で65年目を迎える神奈川県立近代美術館鎌倉館の軽やかな姿である。二層の建物の一階周囲の大谷石と二階周囲のアルミパネルの組み合わせが、伝統とモダンの二重奏を奏でている。この美術館が1951年に八幡宮境内に誕生した経緯はくわしく知らないが、池のほとりの立地こそがこの白い近代建築の直線シルエットを水面に映して爽やかに引き立てることとなって、戦後モダニズム建築の傑作と称賛られる最大の要因となった。
 改めて眺めたときに決して建物本体は贅沢な造りではないのに美しいのは、周囲環境との調和を図ることを基本として日本の伝統への敬意の上に、近代モダニズムが融合されていることにあることに気がつく。二階部分をアルミ外壁で囲って地上より持ち上げ、一階にピロティ空間を作り出す。二階の池に面した部分をガラス面で大きく開口させ、喫茶スペースと階上テラスを設けている。枕詞のようにつく「20世紀を代表する大建築家ル・コルビュジュのもとで研鑽した」坂倉準三(1901-69)設計のこの建物は、国立西洋美術館や豊田市美術館に先駆けて、美術館建築自体の存在が芸術作品のひとつであることの先鞭をつけたという意味で特筆される。そのル・コルビュジュが、1955年国立西洋美術館の設計調査のために来日した際、弟子の坂倉に案内されて一階テラスや中庭でたたずむモノクロ写真が残っている。
 一方、日本の伝統との融合を意識しているのと思われるのが、一階部分外壁をすべて大谷石で巡らし、池側にはみ出した六本の鉄骨で階上部分持ち上げて広いテラスとして、池からの風光を建物内部空間である中庭まで呼び入れていることだ。ここには日本人坂倉準三の建築家としての美意識が光っていて、全体を見た時に、先の枕詞はもういいかげんに必要ないのではないかと思われる。建物の内側回廊にはさらに豊かな空間が広がり、中庭中央にはイサムノグチ作の赤御影石こけし像二体が置かれている。大谷石の内壁を背景にした男女風のやさしい造形だ。

 建物周囲を巡ってみる。池に面した側からみて左側面が建物本体の正面にあたり、一階左手の入場券売場に立ち寄ったあとに中央開口部に設けられた階段を軽やかに駆け上がっていくうちに、その先の展示空間での美術鑑賞への期待がいやがおうにも高まっていく空間演出だ。その日は込み合う館内への入場はあきらめて、建物横から池の畔にたち、一階テラスと池に張り出した六本の鉄柱の並びに目をやる。水面には白い箱がさかさまに映って、テラスの天井に水紋をゆらゆらと反射させている。この情景が視覚的に自然と建築との幸せな関係性をしめす。初夏には水面一面に蓮が繁茂して、さながら極楽浄土に浮かぶ白い宝石の箱となる。
 階段前からつながる地面には、通路用にコンクリートが打たれていて敷地の外の車道に伸びている。こちらからのアプローチを利用する人は少ないだろうが美術館の正門はここにあって、その両側の塀は建物本体との呼応性を考慮されて大谷石で作られている。そこに『神奈川県立近代美術館 KAMAKURA』の銘板が英仏独の三家国語で掲げられて、この美術館の企画展の歴史におけるインターナショナル指向を示しているのだろう。

 
 平家池にある離れ島へつながる赤い橋、神社の境内にある美術館ならではのショット。一月末で美術館機能を終えて、神社に返還された後、宗教関連施設に改装される方向で検討中という。それはそれでもっと興味深い。
 隣接したやや小ぶりの建物は、1966年に増築された新館で本館に同じく坂倉準三の設計。外形区画を構造鉄骨で囲み、鉄とコンクリートとガラスを用いた箱型モダニズム建築を徹底しているがやや鈍重な印象だ。こちらは閉館後保存されないらしい。


 平家池前の喫茶室「風の杜」窓辺から見る、ここは白い宝石箱を眺めるための特等席。


 建物正門入口脇にある美術館銘板。日本語に加えて三か国表示だ。古びた大谷石の風合いがいい。


 池に群れるユリカモメ、ここが海辺から遠くないことを示す。連続画像のうちすぐ上には、白い箱に海鳥の影が映り込む


 建物横に回ってテラスを見る。水面に張り出した六本の鉄骨は自然石に乗っかる。池に逆さ像が映り込んで風に揺れる。



 大谷石に囲まれた一階出口付近の水飲み。当時はこの造形もオリジナルの施工手造り。中庭のこけし像と似ていて、もしかしてイサム・ノグチ?!


 帰りに振り返れば、鶴岡八幡宮の大鳥居。その先の太鼓橋に本殿と、この遠近効果もすばらしい。


 手前からまっすぐのびる段葛は修復工事中で県道の一部かと思っていたら、発注者はなんと宗教法人鶴岡八幡宮所有、つまり境内の一部だった。工事看板に意外な発見!

近江八幡~ヴォーリズ建築とラ・コリーナを巡る

2015年12月31日 | 建築
 師走冬至前後の頃、淡海でのその日々は、遠くに比叡山を望む湖畔の点々と連なる夜景に、夜明け方から朝方に眺めた山あいにたなびく霧もや、天空と湖面の境目が薄墨から薄紫色そして淡いブルーへと刻々と変化する様子で記憶されるだろう。

 
 名古屋駅六番ホームからJR東海道線に乗り込む。関ヶ原の山間をぬけると米原駅、そこで乗り換えてしばらく下り、思い出の近江八幡へ30数年ぶりで降り立つ。あいにくの小雨模様、ここ近江八幡は小さな町だ。この地にある、W.M.ヴォーリズの面影と生きた建築を目指して、駅前のロータリーから路線バスに乗ろうとするときに、ちょうどヴォ―リズ記念病院行のマイクロバスが停まっていることに気がついた。わたしたちも訪問者の一員に違いはないので、遠慮しながらも運転手の方に伺うと、こころよく乗車させてもらえてうれしくもなんだか得をした気分になる。

 病院行きのバスは駅前通りを真っ直ぐと進み、やがて低い町屋が立ち並ぶ旧市街地に入っていく。日牟礼八幡参道前をすぎて、右手奥ににオレンジ色の瓦屋根が特徴的なヴォーリズ学園(近江兄弟社学園)校舎群が見えてくるが、どうも最近の建築のようだ。その角を左折して、県道右手方向にずうと平原が続くなかをさらに進む。しばらくすると住宅地を左手に折れてすぐに病院敷地本館前のロータリーに到着した。
 見回す周囲の建物は、ここ十数年くらいで鉄筋コンクリートの現代建築へ建て替えられたようで、さすがに以前とはすっかり変わってしまっている。当時の建物は残っているのだろうか、すこし不安になりながら本館内に入ってみる。こじんまりとした空間、ヴォーリズのモノクロ写真が掲げられ、全体にアットホームなホスピタリティ精神は受け継がれている感じがする。あの山麓をすこし階段で上った先の小さな礼拝堂は残っているのだろうか、受付で尋ねると親切に案内図を渡してくれた。
 外に出て本館の奥、「希望館」と名付けられたホスピス棟の脇をのぼると、左手に古びた見覚えのある三階建ての建物、旧本館である。記憶よりもずいぶんと小さい印象、現在は使用されていない様子で、大正期か昭和初期の建物に違いない。その先の最も奥まった位置に、あの礼拝堂はやはり残っていた!左右対称の三角屋根、丸みのある正面扉のアーチへと至る年季の入った石階段は思いのほか急で、これは当時のままに近いだろう。建物全体はきれいに化粧直しされて、左側部分のアプローチが増築されている。
 そうっと、左手の玄関で靴を脱いで入ってみる。礼拝室の木の扉をあけて中に入れさせていただくと、ほんとうに小さな数十人ほどの静謐な祈りの空間。正面には薄あかりの中にステンドグラスの輝き、振り返った背後の壁一面には、青い制服をつけいたイエス・キリストがたたずむ絵画が掲げてある。ここが大正時代にヴォ―リズが開いた医療と福祉のユートピアの精神的中心が宿った場所だと思うと、自然と神聖な気持ちになってくる。
 礼拝室を出たところで、奥の部屋の扉が突然ひらいて牧師と思しき男性が出てきてびっくり。一瞬緊張したが、たまには私たちの様な物好きなヴォーリズ建築ファンも訪れるのだろうか、思いのほか寛容な表情で建物に関しての会話を交わしてくれた。この礼拝堂の裏手左の奥には、大正期創立当時の結核病棟が残されていて、ナースステーション室を中心に五弁の花びらが広がるような様な病室の配置に、患者を配慮した設計となっていることが伺える。

 旧本館を回り込み、ホスピス棟から老健センターの横を下ると、そのすぐ隣の広い敷地の中に横長の芝で覆われた山型草屋根を抱く特徴ある建物が望める。地元の老舗和菓子の「たねや」グループの洋菓子ブランド「クラブハリエ」フラッグ・ショップのラ・コリーナ、その日のもう一つの目的の建物である。ルーツは和にあるからなのか、「ハリエ」とは“貼り絵”からきていると伺った。かつての滋賀厚生年金休暇センター跡地にできた、というか自然と共生した食と農とお菓子の壮大な全体プロジェクトは現在進行中である。初めて近江八幡を訪れたときは、できてすぐのこの旧センターに宿泊してヴォーリズ建築を巡ったのだと思うとなんとも感慨深い。まさか、フジモリ建築にここヴォ―リズ建築の故郷で出会うなんて!思ってもみなかった。

 そんなわけでアメリカのカンザス州出身の一キリスト教信者の青年により大正期に開設された結核患者のサナトリウムを発祥とする医療福祉のユートピアから、近江八幡の老舗和菓子屋がいまに描く里山再生と食・お菓子のユートピアへ移動することにした。途中の道路沿いの石垣と植生は、旧厚生年金休暇センターであった当時の面影をわずかに残している。
 背後も含むと全体で三万五千坪におよぶ敷地は、前庭が広く取ってあってクマザサが植えられている。一文字のタタキ銅板屋根でつないだ洋風長屋門のような入口に「La Collina」の手書きロゴを鋳物で造形して浮き上がらせている。イタリア語で「丘」の意味なんだそうで、背後の八幡山をはじめとする水郷周囲の丘の連なりからきているのだろう。正面には、その山々を模したような芝屋根のユニークな水平に横長のメインショップの姿。昨年2014年秋の竣工、藤森照信氏の基本設計、中世の城郭のようでもあり、軒先には無垢の栗の木の庇柱が等間隔に並ぶ。なんだか、田舎屋のような雰囲気もあるなつかしい感情を呼び起こす姿だ。木枠の屋根窓がリズミカルに並び、屋根の端々のとんがりにはちょこんと落葉樹が植えられていて愛嬌のあるアクセントとなっている。小雨がそぼ降る中、手前の一本足の東屋にしばし佇んで、建物越しに北ノ庄と呼ばれる周囲のたおやかな景観の眺めを愉しむ。気がつくと同行者は、傘を並べてその先の建物を記念に撮っている、これって和気相合傘?
 そこでいま思ったのだが、この外観はあきらかに同じフジモリ建築の伊豆大島ツバキ城や秋野不矩美術館の姉妹形であるといっていいのではないだろうか、写真上での印象だけれども。草屋根の連なりと土色の壁の軒先の栗の木柱、全体が土から生え出したような、いってみればキノコの変種。これはやはり、浜松市天竜の二俣町へもいってみて実際を確かめてみたくなった。



 さて建物に近づくと、ベージュ色の壁は藁クズを練り込んだ漆喰で、風土をとりこんだような土俗性がおもしろい。芝屋根一面には噴水用スプリンクラーとおぼしき配管、メンテナンス用の段々も仕込まれている。ここまでの複数のアプローチを振り返って俯瞰してみれば、大きな落葉樹型あるいは木の葉の葉脈を模しているのに気がつく。あとでここのお菓子カタログを見ていておもったのだが、リーフパイの模様をデザインしているのかもしれないと思えば、まあ合点がいく。
 次に中に入ってふきぬけの白のしっくい天井を見上げると、なんとも不思議なごま塩のような模様が広がる。外から三階建てに見えたが、実はふきぬけの二階建てだった。天上に近づいて見れば、炭(備長炭だそう)を社員がひとつひとつ埋め込んで作り上げたのだそう。これって、消臭などの実用効果もあるだろうが、視覚的にはなんだろう、と考えてはたと思い当たったことがある。“ありんこ”=蟻、なのではあるまいか。美味しいお菓子に群がるアリの姿と思えば、これまた、なるほどと合点がいくだろう、真偽のほどは確かめてはいないけれど。内装も手触り感満載で楽しいが、建物本体はやはり鉄筋コンクリートだろう。外見を含む表面は土俗的をまとっているけれども、躯体そのものや設備はしっかりと現代建築である。

 

 と、まあアプローチの門から始まって建物外観と内面に至るまで、フジモリワールドのオンパレードを満喫、である。なんとも余裕のあるゆったりした造りの店内でどら焼きをいただきながら一服しようとすると、目の前の壁を飾る不思議な木片群が目に入った。シャレた演出のインテリアなのかと思って近づいてみると、落雁木型枠をコラージュしたもの。道具をもって仕事の記憶が刻まれていることに、和菓子老舗点ならではの矜持をみた思いがする。二階の喫茶コーナーをひとめぐりして、次の目的地である日牟禮ビレッジ、ヴォーリズ建築の旧忠田邸をリニューアルしたカフェを目指して、八幡堀通りを歩み出す。

 歩みながら思ったのは、ヴォーリズとフジモリ建築が五十年の時を経て和洋の「お菓子」を媒介にここ近江八幡で遭遇して、その事実を市井のアマチュア建築愛好家が目の当たりに、しかとの心象のなかで結びついたのが2015年の師走であり、そのはしりは三十数年前のひとり旅にあったということである。これってひととの出逢いに似ていて、じつに偶然の必然だけれど、建築的にはヴォ―リズとフジモリ建築における有機的要素やアマチュア精神の内在といったいくつかの和洋の共鳴点、共振性を考えるうえでなかなか面白い!のではないか?