日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

神が創りし給うRADIO

2018年06月10日 | 音楽
 きょう、六月十日は時の記念日、台風五号の影響で雨の一日だった。あちこちで紫陽花が鮮やかだ。
 
 いまからもう六年前にさかのぼる、2012年6月4日、ビーチ・ボーイズ最新アルバムが久々のブライアン・ウィルソン・プロデュースにより、世界同時発売された。そのアルバムタイトルは「Thats why god made the radio」で、過ぎ去りし青春のよき時代をしのぶような、甘酸っぱい郷愁にみちた内容なのだろうかと想像した。 果してそのアルバムは全12曲からなっていて、はじまりは「Think about the days あの頃に」で、ラスト曲は「Summers gone ~ 過ぎゆく夏」。おおまかには期待通りの安心?路線だけれども、七十歳なかばを超えたビーチボーイズの面々が、これまで以上にはつらつと若々しいコーラスと明るく突き抜けたサウンドを聴かせているのはさすがというほかないだろう。

 その二日後の6月6日付新聞朝刊社会面をひらくと、「村上春樹さん 初のラジオ 8月5日 文学や音楽語る」という、写真入りの囲み記事が目に飛びこんできた。これは、社内村上フリーク記者の仕業にちがいないと直感したのだが、たしかにスマッシュトピックスには違いない。
 ムラカミ氏にはすでに「村上ラヂオ」というエッセイ本があって、ラジオと音楽の相性というか親和性はそれこそ抜群だろうし、くわえてDJをムラカミハルキが務めるとしたら、これまたこれほどハマる番組はないだろう。ご本人のラジオ出演が初めてというのも意外だけれど話題を呼ぶことは間違いない。番組タイトルは「村上RADIO~RUN&SONGS」とあり、あえて文学を標榜しないで“走り”をもってきたことは、国民的人気作家の矜持?なんだろうか。
 さらにムラカミ氏がよせたという番組メッセージをよむと「僕の好きな音楽ソースをうちから持ってきて、それを好きなようにかけて、そのあいだに好きなことを放させていただく・・・、そんな感じのパーソナルな番組にできればと思っています」とある。この肩の力の抜けた当たり前すぎるオーソドックスな姿勢が、ラジオというオールドメディア向きでいいなあと思ったのだ。
 ラジオで流す音楽には、やっぱりレコードが似合うけれども、いまの時代はメディアが多様化しているから、音楽ソースという言葉が正確なのだろう。それにしてもこのメッセージのしめすところは、やっぱり、若いころにジャズ喫茶を国分寺や千駄ヶ谷で営んでいた一個人が、いまや小説家として大成功したことからくる余裕というか、視聴者との絶好の距離間の保ち方なんだろうと思う。

 それでもって、きょうはようやく初めてインターネットラジオで「山下達郎のサンデーソングブック」を通しで聴くことができたのだった。今回のテーマは「JAZZ」、ジョージ・ベンソンの有名になる前のインストミュージックから始まって、鼻にかかったタッツアン節に耳を傾ける。
 先の村上番組のメッセージって、まさしくこの25年もつづく長寿番組にもつながるのではないだろうか。SSBの名物コーナー「棚からひとつかみ」は、ムラカミ氏の「僕の好きな音楽ソースをうちから持ってきて」というフレーズと共鳴しているし、ふたりがビーチボーイズ・フリークというのも共通している。1949年京都生まれ神戸育ちの村上春樹氏と1953年東京生まれ育ちの山下達郎氏、微妙に異なる時代の空気が音楽体験にどのような影響をあたえているのだろうか。

 とにかく村上RADIOの選曲もオールディース中心の選曲になるだろうが、どのような固有名詞が選ばれるのか、いまから夏に向かってあれこれと想像することが、今年の夏に向けてのよき日々の過ごし方になる。放送局HPでムラカミ氏への音楽に関わる質問を受けつけていたので、ダメモトでふたつ送信してみたら、羊と猫とレコードとペンとご本人の似顔絵らしきイラスト入りの受信通知メールが還ってきた。
 くしくも八月五日は、その山下・村上両番組が午後二時と七時に相次いでのオンエア競演となる。おそらくは、またとない至福のRADIO日和、とても楽しみにして待とう。

わがまち、駅前さくら通り

2018年06月09日 | 日記
 住まいのあるこのまちは、昭和四年(1929)の小田急江ノ島線開通から、いまにつながる街並みが形成されてきた。それ以前は大山丹沢の山並みをのぞむ広大な原野がひろがっていて、明治二十年に道志川よりひかれた日本初の近代上水路、横浜水道みちが一直線に原野を横切っているのみだったという。もちろん当初は、そんな文明開化遺産の土地柄とも知ることなく、大学入学を機にこのまちに住みだしてから、早いものでもう三十八年目となった。そのあいだ線路をはさんで二度引っ越しの末、いまの住まいに落ち着いたものの、ずっと駅からの徒歩範囲に暮らしつづけて本籍もここにある。水道みちは、日々の駅を往復するさいの通勤路だ。

 住み始めた1980年の当時を振り返ってみると、まだ駅上連絡橋もなく改札をでると、小さな駅舎がひろばに面して建っていて、鄙びてのどかなものだったように記憶している。その当時、すでに大きな枝ぶりだった線路踏切脇の松の木(土地の開拓者にちなんで、千代の松と呼ばれる)と、広場に面して三本あったソメイヨシノ桜のうちの一本は、いまも残像のように生き延びていてくれる。
 当時から駅前に立つとまっさきに飛び込んでくる白亜の六階建て大型マンションは、都市郊外の生活の先端のようにあかるく輝いている気がしたし、そのマンションの一階部分と少し先の向かいには、二軒の大手スーパーマーケットがあって、日常食材や生活用品はたいていここで間に合わせることができた。また、数年後にできた駅ビルには、なんとレストラン・ジローやビッグ・シェフ、マクドナルド・ハンバーバー(後継はケンタッキーフライドチキン)、ブックメイツ、タイ料理店サワディもあってよく通ったが、いまはもうない。テナントの交代と改装後に戻ってきたのは、いまもよく利用するドトール・コーヒーショップくらいだ。三軒あった本屋さんが消滅してしまったのは、くれぐれも残念でがっかりだ。

 ふたつのスーパーのあいだのを蛇行してのびるのが「さくら通り」で、その名のとおり両側には見事な桜並木が枝を拡げていた。春はピンクの大トンネル、夏は緑陰のもとひんやりとした空間をなしていた。そこの両側は、大手企業健康保険組合が運営する病院敷地が広がっていたため、駅前そばというのにそれは奇跡的なくらいゆたかな緑の木々が残されていた。近年、その緑地帯は切り売りされて新しいマンションとなり、いまもまた原野の雰囲気をのこしていた駅寄りの敷地には、別の高層マンション建設の槌音が響いている。見事だった桜並木も空洞化がすすんだ老木が伐採されたり、舗道に架かる枝が切り払われたりで、一時無惨な状態になってしまっていたが、ようやく落ち着きをとりもどしつつある。
 この地域の医療に貢献してきた病院の歴史は、昭和28年(1953)、一般病棟と結核療養棟併設をもってはじまると知り、すこし驚く。戦後しばらくの当時は、まだまだ結核の克服が大きな医療問題であったことと、郊外とはいえ駅前にこれだけの敷地が確保できたという点において。どことなく遠い昔の療養院、サナトリウムの雰囲気がたそこはかとなくだようのはその由来からなのだろう。
 こうしておおきな区画割はそのままでも、このまちの昔日の面影を伺うことはもう難しくなっている。雨の日の外灯がともった頃、夜中の時間あたりにひっそりとしたサクラ通りを歩いているときに感じる微かな気配が、この土地の精霊が呼び戻されて物語るささやきのようだ。

 ともあれ、きょう九日は年に一度の病院解放デー「第24回健康まつり」である。ほんの数年前までは、親企業が提供していた国民的長寿アニメ“サザエさん”のキャラクタ-がでていたのに、いまはもう使えないのがちょっと悲しい。さらに言えば今回は、たまたま皇太子ご夫妻のご成婚25周年日と重なってた、あまり関係はないか。
 病院の正面玄関まえにはテントがいくつも張られて、物産市や植木市、売店コーナー、キッズダンスステージと賑々しい。ロービー内では、体力測定に健康相談、医療展示などがあり、せっかくの機会なので血管測定コーナーを受けてみた。結果は、なんとか年齢相応の血管健康度、今日の元気度?は「C」で、「体内元気度はまずまず、しかし油断は禁物。規則正しい生活ができていますか?ストレスに負けないような生活を心がけてください」とあったのに苦笑、医師のアドバイスよりもあたっているかな。こちらの院長は、整形外科で新潟大学医学部出身とのこと。
 うろうろしていたら、いつもお世話になっている主治医のN女医より声を掛けられた。普段着だとまるで学生のようで楽しそう。ふーむ、場の関係性が変わると、ひとの見え方や雰囲気も変わってみえるからおもしろい。


 健康まつり物産展で購入した岩手県釜石市製造の“国産サバ=サヴァ”缶、このシャレっ気がいい。レモンバジル味の緑、赤がパプリカチリソーズ味。「干しイサダ」とは、節足動物オキアミの仲間で。冷奴に載せて食べつとうまい。今晩ビールのつまみにいかが。

 
 いよいよ夏到来?今年初めて見かけたノウゼンカズラの赤い花。(駅前スーパー入口脇にて撮影;2018.06.08)