日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

郊外の風景 ~ 「JOKE STUDIO」、こどもの国

2014年02月24日 | 日記
横浜市青葉区、川崎市麻生区(神奈川県)と町田市三輪町(東京都)の行政区分の境目が入り組んだあたりに「寺家ふるさと村」と呼ばれる地域がある。田んぼや畑などの里山原風景が保全されているなかに人家が点在していて、周辺は住宅地内なのにそこだけ時間の流れがゆっくりと流れて、どこかほっとした気持ちにさせてくれる貴重な空間だ。
 その奥まった一角に「JOKE STUDIO」はある。もと鋳物工場だった建物を改造してギャラリー空間として運営され、若手作家を中心に独自のセレクトで紹介する活動を続けている。カフェが併設されていて、道路側の広い窓からは、鶴見川を隔てて王禅寺丘陵の連なりが眺められ、斜面のところどころには先々週末の積雪がまだらに残っていた。すぐ前には、柿の果樹園があり、右手方向に目をやると稜線を越えて桐蔭学園の巨大校舎群が覗いている。郊外で里山と都市化・住宅化がせめぎ合う様子が目線がさえぎられることなく遠くまで見通せるなかなかの風景だ。

 ギャラリーでは、デニム地にアクリル絵具でカラフルでポップなペイントをほどこしたバッグなどの女性作家「山崎小枝子の世界展」が開かれていた。今日の目当ては、DMで案内をいただいた愛媛県砥部で作陶しているという作家「遠藤裕人」の白磁展、こちらは併設のカフェの周辺の壁の棚やテーブルの上に配置されて、食事を楽しみながら手に取ってみて楽しめる趣向となっていた。作品と実用感覚の垣根が低くて、親しみやすい感じだ。写真で見て陶器に近いと思っていたよりも、スマートで都会的な味わいの感じがする。
 木のカウンターで丘陵の眺めを楽しみながらランチをいただく。正面の大きく開けた窓からの里山風景がなによりの御馳走で、パンにクリームチーズ、ニンジンの桂むきにレタスのサラダ、メインデッシュの赤身の魚入りグラタンには酒粕が入っていてコクがあり、なかなかいける味わい。このような農村風景が残る地域では、実にシャレた雰囲気、そのせいか30代から40代くらいの女性グループでにぎわっていた。

 午後2時過ぎ、すこし日がさして暖かく感じられるようになってきた。帰り道、せっかくだから久しぶりにちょうど梅の花が見頃な「こどもの国」に立ち寄ってみようと思い立って車を走らせる。「こどもの国」は昭和34年当時の皇太子ご成婚を記念して開設が計画されて、戦時中は弾薬庫だった敷地を転用して整備し、40年5月5日こどもの日に開演されたのだそうで、まったく偶然にも自分の人生と重なるのだ。当初は、朝日新聞社や横浜市が運営に関係していたらしいが、いまは児童福祉法にもとづき、社会福祉法人こどもの国協会が運営をおこなっていると知るとへえー、と思ってしまう。しかも当初の整備計画には、当時の若手芸術家、イサムノグチや建築家の黒川紀章、大谷幸夫、菊竹清訓などが関係していたというのだから驚かされる。その痕跡はいまとなっては、朽ちかけた遊園地遊具とさびついた“花びらシェルター”にわずかに遺されているのみで、単体の建物に関してはほぼ皆無のようだ。この郊外の園地において、高度成長時代端緒からのなんとも儚い移ろいを感じる。

 娘が小さいころ、同じ子育て仲間の家族のみなさんと来て以来だから10数年ぶりか?平日の午後、広い園内はさすがに閑散としている。工事中の場所もあるけれど基本的に前とあまり変わらない、その変わらなさがうれしい。梅園は10分ほど歩いてすこし奥まった斜面に250本ほどが植えられている。南向き斜面はちょうど見ごろで、白梅・紅梅に枝垂れもあり、適度なほったらかし加減がいい。北向き斜面には雪が残り、蕾はまだ硬いままでその対照が見事なくらいはっきりとしている。もう少し気温が上がれば馥郁とした香りに包まれるのだろうな。
 尾根までのぼり、梅園全体を眺めてからポニーや乳牛が飼育されている園内牧場まで歩いてみることにした。途中左手から歓声が聞こえる、日本体育大学キャンパスで練習する学生たちだ。体操、水泳、陸上をはじめとする全日本クラスの選手を輩出しているキャンパスは、こどもの国の敷地と隣接しているのだ。しばらく歩いて尾根を右手に下ると、こども動物園とポニー牧場だ。休日は乗馬でにぎわうのだろうが、今日の当番?の二頭のポニーも辛抱強くじっと立ちすくんだまま動かない。その姿と瞳が健気だ。
 乳牛牧場の牛舎は建て替え中、その先のミルクプラントに立ち寄って、特別牛乳「サングリーン」をお土産に購入し、イチゴのとちおとめ果肉入りジェラートを食べながら入り口まで戻ることにする。
 午後4時20分、正面入り口に近づいたところで、閉園の合図「夕焼け小焼け」そして「蛍の光」が流れてきた。このオーソドックスさもいまどきなんだかとてもなつかしく健全で安心できて、ほっとするなあ。

  暗くならないうちに、愛車で“家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)”  ~  竹内まりあ「インプレッションズ」1994年より。
 




江の島湘南港から椿咲く伊豆大島へ

2014年02月15日 | 旅行
 一週間前の話に戻ってしまうのだけれども、10年ぶりくらいで伊豆大島へ行ってきた。今回は通常の熱海か東京竹芝からの定期便ルートではなく、年二回ほどしか不定期就航していない相模湾江の島から高速ジェット船に乗り伊豆諸島の島へ、いうのがミソ。6日早朝、ダウンを着込んで住まいから小田急江ノ島線の終点で歩いて港に向かう。大橋を渡り切り、通りにそって左手方向に進むと、明治十年(1877)の夏にエドワード・モースが訪れて、ひと夏滞在し貝類など臨海生物を調査した記念碑がたっている。

 集合場所のヨットハウスについたのは午前9時になろうとする少し前だった。できた当時は、さぞかし輝いていたであろうモダニズム建築も、50年をへて年輪を重ねてすっかり古ぼけている。正面入口に案内のひとが立っていて、二階を案内される。そこにはすでに何人かの出航を待つ参加者が集まっていた。平日ということもあって、年齢はやや高めの六十歳台のようだ。壁面にはこのヨットハウスの輝かしい歴史が記されている。1964年8月の竣工、つまりここは東京OLYMPIC大会のヨット競技の会場として建てられたものだ。その軌跡を記した年表を引用してみる。

  昭和34年5月   第55次IOC総会 第18回オリンピックヤード大会“東京”決定
    35年6月   ヨット競技 江の島・葉山決定
    39年5月   ブランデージ会長 江の島視察
      8月   ヨットハウス竣工
      10月10日 開会式(東京国立競技場)
      10月11日 聖火分火(江の島) 
      10月12日 オリンピックヨット競技開始
      10月19日 皇太子・妃 ヨット競技観覧
      10月21日 オリンピックヨット競技7回目レース、表彰式
      10月24日 閉会式(東京国立競技場)

 続いて、優勝者の名前が国名とともにクレジットされている。競技は江の島沖の相模湾三海域で五種目行われた。国名だけ記す。  

   ヨット競技5種目 WINNER オーストラリア/デンマーク/バハマ/ニュージーランド/ウエスト・ジャーマニー

 
 日本人選手11名の成績はどうかというと、参加40国中種目により最高13位から21位、とある。宿舎は大磯選手村でおそらく、大磯プリンスホテルがそうだったと想像する。そうだとしたら西武プリンス、つまり堤康次郎・義明親子と連なる日本オリンピック委員会とのつながりはここからもすでに伺える。このアジア初のオリンピックから56年後の2020年に、東京での二回目のオリンピック開催が決定したのは昨年のこと、時の流れを感じて不思議な気分になる。それは、ほぼささやかな自分の人生の軌跡に重なるのだ。

 さて、そのヨットハウスから歩いてすぐの湘南港を午前9時半に出航、ボーイング社製のエンジンを搭載した高速ジェット船の時速は安定走行時時速80㎞になるのだそう。薄曇りの空の下の海上を約一時間、大島に近づくと落葉樹と常緑樹がまじったこんもりとした自然林におおわれた岸壁がみえてくる。11時前に大島岡田港に到着する。途中期待していた相模湾越しの富士山は、残念ながら望むことができなかった。
 ここからバスで椿祭りの大島公園に向かう。途中右手に昨年秋の台風26号の大雨で崩れた茶色の山肌と寸断された道路とへし曲がったガードレールの白い帯が見えてきて、はっとさせられた。もっとも被害が大きかった場所は元町地区の上方ということだが、今回のルートからは外れていたので、唯一惨事をかいまみせられた瞬間だった。

 大島公園につくと、10年前の前回の訪問に記憶がよみがえってきた。椿資料館、キョンやラクダ、クジャクのいた動物園も当時と変わらない感じでなつかしい。椿は学名を“カメリア・ジャポニカ”と呼ばれるのことからすると、日本の在来種ということか?そういえばお茶の木も“カメリア”と同類だ。
 屋外広場で、さっそく島内でしか発売していない「大島椿シャンプー」と島唯一の蔵元谷口酒造の焼酎「御神火」三本を購入。今回は、復興支援事業ツアーの名目で3000円の商品券がついているのだ。東北だけじゃなくて、大島だって復興にむけて頑張っていることへのささやかな支援の意味も込めて単独参加した次第。ここのあとは、早くも三原山噴火跡の裏砂漠を望む、大島温泉ホテルでの目鯛べっこう漬けの刺身と明日葉づくしの昼食。お目当は雄大な眺めの露天風呂なので、昼食はそこそこに地階の浴室へ向かう。本来は入浴外時間なのだが、勝手知ったる?で誰もいない大浴場で身体を延ばして、続きの屋外露天へ。浴場の縁の遥前方にくっきりと雪化粧した三原山の雄姿が飛び込んでくる、ここだけのオンリーワンの眺めも三回目だけれど、やっぱり!素晴らしい。めったにない雪化粧の三原山と裏砂漠に続けて出会あえるなんて本当にラッキー!

 ここからさらに標高をのぼり、約600㍍の三原山頂口の展望へ。ここからは先のホテルから西に45度回った角度で、三原山の姿と表砂漠が望める。その情景がコレ!


 反対側には、大島空港と元町地区の街並みが一望される。その先は相模湾が広がり、天気がよけれ富士山が望めるそうだ。午後一時半に展望台を出発、岡田港に戻る途中の道沿いから放牧場があり、そこには沖縄から連れてこられた小型の躯体の「与那国馬」が数等、枯草を食んでいた。与那国といったらすぐ先はもう、台湾である。へえー、そんな遠くからわざわざと感心しながらも、彼らには今日の天候はさどかし寒いだろうし、大島の住み心地?はどのようなものだろうか?と、ふと聞いてみたくなった。
 バスは、ふたたび岡田港へ。ここで出航町の間に最後の買い物で、かわいい舟形パッケージの“島島弁当”を購入。お昼にも食べた目鯛のべっこう漬を乗せた梅ゴマ酢飯を明日葉にくるんだ寿司で一個七百円也。これで充分買い物は愉しむことができて大満足。

 午後3時すぎに高速ジェット船で出航、湘南港には4時半の戻りとなった。あっという間の大島日帰りツアー、江の島弁天大橋の近くまで来るとちょうど干潮時間帯にあたって、海は対岸と陸続きとなっているところに遭遇!千載一遇のチャンスとばかり、海岸におりて砂洲を渡ることに。このありそうでまたとなさそうな貴重な経験は、何度も江の島に来る中で初めてのことだけれど、島から島への旅を締めくくるにふさわしいだろうと思った。うん、記憶に残る、なかなかいい島々めぐりだった。

 



冬季オリンピック開幕、立春大吉の大雪、戦い済んで・・・

2014年02月11日 | 日記
 立春を過ぎて暖かさで春の予感到来と思いきや、ちょうどロシアソチでの冬季オリンピックが開幕した先週の金曜日から土曜日にかけて20年ぶりというc大雪が降りしきり、あたり一面を白銀世界に一変させてしまった。積雪量は20数センチに達し、八日午後のマンションの中庭の様子もご覧の通り。ベランダの雪ダルマも雪に埋もれている・・・


 そして、翌九日は東京都知事選投票日、結果は本命の舛添要一氏が200万票を超える得票で当選、原発ゼロを掲げた細川護煕、宇都宮健児氏はそれぞれ90万票後半の得票を分け合う形となった。途中オリンピックが開幕して話題がやや分散気味となり、思ったほど原発問題が焦点として論争化しないままに終わってみれば、雪の影響もあっての46%台の低投票率。細川氏が次点に届かず三番目の得票だったのは正直、予想を下回った感じだ。盛り上がったのは、当事者の都民よりも外野の直接投票権のなかった、わたしも含めた隣人周辺だったのかもしれない。やはり、殿の政界引退から16年たっていまひとつ現役感が薄く、都政への執念が伝わってこなかったということなのか?華々しく原発ゼロを唱えて当初は心情に訴えることがあっても、なによりそこに至る具体的かつ地道な道筋を示すことができなかったこともあろう。
 急速に進む少子高齢化と福祉政策、空洞化する雇用問題など生活に直結する問題への遡及も弱かった気がする。元首相らしい憲法や安全保障問題、近隣外交政策などの国家的な視点や大局的な文明論だけでは、切実な民意をひきつけることは難しかった。
 同じ元首相で3.11当事者だった市民運動派が原点の菅直人氏はどのようにこの都知事選挙を眺めていたのだろうか?開票日の9日新聞朝刊一面書籍広告欄には「菅直人 原発ゼロの決意 元総理が語る福島原発事故の真実」が掲載されていた。
 
 投票日の選挙掲示板の二人のポスター、細川氏は“赤”、舛添氏は“青”の背景色だが、細川氏のポスターが張りかわっていたのに気がついた。

   『決断!原発ゼロでオリンピックを』 のメッセージが付加されている。元首相の名前だけではアピールが薄いとの焦りか?


 結果があきらかになった10日の朝日新聞天声人語が読ませる。そこからの引用。
「では、無駄な戦いだったのかといえば、そうではない。(中略)原発ゼロを正面から訴えた意味は大きい。おととしの総選挙や去年の参議院選では生煮えだった難題を、有権者が改めて考える機会になった。」


天声人語は、さらに以下のように続ける。 『この「文明史的」な問いから私たちは逃れることができない。』
そう、原子力発電の是非とエネルギー問題は、今後の宇宙船地球号におけるライフスタイルのあり方を問う人類全体の課題であるに違いない。プルトニウムなど放射性廃棄物を人工的に生み出してしまう原子力発電によるエネルギーは、太陽光を元にした循環系自然エネルギーと大きく異なり、人間社会と共生することが不可能なもののはずだ。

 私たちはどこからきて、どこに行こうとしているのか、「大事なのはいま、どのように生きるかということ」という、H.D.ソローの思想が胸にこだまのように深く響く。

東京都知事選2014 町田にて

2014年02月07日 | 日記
  町田駅周辺には、ベデストリアン・デッキにつらなる空中広場が二カ所あるのだけれど、そのうちの横浜寄り方面にある商業ビル「町田ミーナ」につらなる広場には、巨大なステンレス製の円錐形モニュメント「町田シティーゲート」(たしか名古屋出身の黒川紀章制作、1986年)が天空に向かってそびえている。その端っこにある、都知事選ポスター掲示板の一コマ。
 随分と若造りでシブく決めている横顔にシンプルに「細川護煕」とだけ記し、ほかには「反原発」どころか何もメッセージはあえて示されていない。その名前こそが最大のアピールであるとの自信の表れ?政治家を引退、隠居して湯河原で陶芸と晴耕雨読をきめこんでいた?と思われた、細川ガラシャ夫人に連なる熊本藩当主で御年76歳の元首相は、キリスト教カソリックのイエスズ会が創立した上智大学の出身だ。そのOGである名古屋在住の友人にこの画像を送ると、返ってきたコメントが
「このポスター、映画の小道具みたい。なんだか完成されすぎていてリアル感ないわ。」とバッサリ!
 
 

  東京都知事選終盤の五日午後6時、はたして元首相のお二人は、ここ東京の外れでいったい何を訴えたのか?!お隣の本命候補とともに気になりマスゾエ!(とアエラ発売広告コピーふうに呟いてみる)。
 
 さて昨年末、町田ブックオフで購入したままになっている殿の著作「不東庵日常」(2004年)をひも解いてみようか、と思い直すのだった。「不東庵」(増築部分は設計藤森照信、2001年)は湯河原のお住まい、表紙には庵の作業場で作陶に励む殿の姿が窓辺越しに映っている。


「高谷史郎/明るい部屋」 東京都写真美術館(恵比寿ガーデンプレイス)

2014年02月02日 | 美術
 一月最後の日曜日の26日は、「高谷史郎/明るい部屋」展最終日、どうしても見て確かめておきたくなって、東京都写真美術館へ出かける。

 中央林間から田園都市線に乗り、渋谷ではJR山手線乗り換えのためいったん街頭広場に出てみるが都知事選の喧噪は感じられない。ハチ公像に「東京都知事選挙2月9日投票日」のタスキが架けられているのが目に入ったけれど、「いまの気分のようなもの」を象徴しているようだ。原発問題、高齢化、労働の空疎化などの課題を内在させながら、少なくとも表面上TOKYOは平和そのものだ。

 恵比寿に着いた。ガーデンプレイスは、落語のEBISU亭で訪れて以来10年ぶり?くらいか。その際は赤レンガ造りのレストラン、サッポロビアガーデンで食事をしたと思う。その横を通り抜け、さて写真美術館ってどこ?という感じで高層ビルの先を通り過ぎるてようやく入口へたどり着く。初めての美術館は地階を含めた五層構成、展示スペースは三階までで四階は図書室となっている。高谷史郎の個展は地階だったので、階段で会場へ降りてみた。

 地階空間はすっきりとしたL型ホワイトキューブ形で、写真メディア展示にはふさわしい。向かって左側の壁面に、高谷史郎が1987年にヨーロッパで撮影した空の雲の様相のパネル、右側の壁面は美術館蔵のマスターワーク・プリントのパネルのいくつか、中央スペースには展覧会フライヤーに使われたレンズ付光学装置を用いて写真集からのプリントを覗きこむ仕掛けと、全周魚眼レンズを用いて撮影された天空の日の出から日没までの風景を覗きこむ早送り映像など。奥には、大型スクリーンの両面に次々と様々な街角のデジタル風景写真が早送りで映し出され、反対側に別の鑑賞者が立つとその像が影法師のように重なる、映像インスタレーション。さらに奥には、八面の液晶パネルを繋いで横長に映された、ある湖畔らしき風景の日の出から夕暮れまでの様子をいったん分解したうえで再構成してつないだと思われるカラー映像インスタレーション。じっとソファに座って眺めていると20分くらいだろうか、湖畔が次第に明るくなって、葦が生える水面の風景が拡がっているのがわかる。そのうちに雨模様となってきたようで細かい水文様が拡がる、そうしているうちに雨はやみ、明るさが戻ってくる。だんだんと日が落ちて薄墨色に代わってくると水墨画のようでもある。そして夕暮れから暗闇へ、やがて薄明かりの中、また朝の表情が始まる・・・といった映像が繰り返されていく。
 作品の対象が空や雲の表情、自然の風景の移り変わり、街角の様子などすべての場所が特定できない、あるいは移り変わりゆくもので、カラーであってもモノクロームの無菌室のような淡々とした印象である。「明るい部屋」とは、ロラン・バルトの写真論(1980年)のタイトルからの引用だということだけれど、この展示会場の雰囲気をそのままあてはめているかのようだ。高谷史郎は、京都を拠点とする芸術家集団「ダムタイプ」のメンバーで作風は極めてスマートなスタイルを保持している。

 このあと展示室を出て、四階の図書室へ。一月六日に東京ステーションギャラリーで見た、植田正治の写真集があったのでしばらく見入る。鳥取砂丘での人物ポートレイトやヌード写真を眺めていて、この人の感性の不思議さを想う。山陰の風土にありながら、どことなくモダンで都会的な構図、無機的な砂丘の中に人物を配した有機的な表情。被写体のひとり、植田の愛妻は着物を来て、ときに傘を差し砂丘にたたずんでいる。彼の砂丘に配したヌード写真をみていて、ふとこれらのモデルに着物を着せて映してみたら面白いのに、と思った。ヌードは多分に西洋的な価値観が先行しているものだから、その意味で体型的に劣るであろう日本人の裸体を生かすのは、身体の表層を布が覆うなかで見せる表情ではないだろうか?

 美術館を出た後、隣の高層ビルの都内目黒方面から丹沢大山方面を望む最上階の和食店で昼食をいただく。富士山はかすんで見えない。このフロアの山手線内側から都心方面の眺望は、次に機会の楽しみにとっておこう。(1.27書き起こし、2.2書き終わり)