日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

薫風玄鳥去る季節

2020年05月31日 | 日記

 静かな脅威が日本社会、おおきく眺めれば世界文明の臨界域に近づいているような世の中だ。

 一連のウイルス禍騒動は、不安に駆られた膨大な情報の拡散により、被害者意識の拡大とそれに相反するような過剰な正義意識による自己防衛反応を増大させた。その末に人間社会の奇妙な静けさを生み出し、一瞬の思考停止のあとに忘れかけていた3.11大震災による自然災害と放射能汚染の惨劇の教訓を引き出してくれたかのように思える。それにしても人間の災禍の記憶は、どうしてこうも忘れられやすいのか。

 経済活動の一時的停滞のあいだ、皮肉なことに大気汚染と地球温暖化の傾向は収まり、これまで痛みつけられっ放しだった自然が新緑の深まる季節に大きく深呼吸して、息を吹き返したかのようだ。とするとこの禍は、人間社会の業(ごう)が引き起こした自然破壊による環境不調和から、地球生態の恒常性を担保しようとする動的平衡作用が働いている過程なのかもしれない。

 五月最終週の二十五日、皇居内の生物学研究所のわきにある二百数十平方メートルの水田では、昭和天皇の代に始まる田植え作業が行われた。五月晴れの空の下、長靴、長袖シャツに紺色ズボン姿の天皇は、うるち米ニホンマサリともち米マンゲツモチの苗計二十株を植えた。田んぼの広さからいえば少なすぎる株数だが、これはやはり農耕文明を象徴して天下泰平五穀豊穣を祈念する儀式なのだろう。
 遅れること四日同じ週末の二十九日、こんどは皇居内紅葉山御養蚕所で、皇后が蚕に桑の葉を与える「御給桑(きゅうそう)」を行われた。養蚕所の部屋には障子戸で仕切られていて、洋装姿のマスクをつけられた皇后雅子さまが、テーブルの上におかれた八、九センチに成長した蚕たちに、ざるに入った桑の葉を丁寧に与えていかれたという。こちらは“衣”の象徴である絹糸を生み出す養蚕に御意を表しての儀式であろう。用意された新緑の桑の葉も、皇居内の桑畑で大切に育てられたものだろうか。千代田区千代田1-1は、ミステリアスな迷宮空間だ。

 戦後になってからの恒例の儀式が、ウイルス禍騒動のさ中にある大都市東京の中心にある閉じられた広大な緑の空間のなかで、こうしてひっそり行われることに眩しいくらいの現代的象徴性があるように思える。稲作も養蚕も、人類が定住生活様式のなかで選択的に自然のなかから見出してそだてあげてきたものだ。かつては、日本中の里山の農家あちこちで稲作と養蚕は行われていて、日本人の暮らしと自然はおたがいの領分を必要以上に侵すことなく、親密性をもって成立していた。その営みは、昭和の時代の中頃、東京オリンピック前後の幼いころの記憶の中にもわずかに残っている。

 はたして天皇と皇后のおふたりは、大都会の真ん中の緑滴る迷宮のなかで、どのような祈りを捧げながら二十株の稲の苗を植え、蚕たちに桑の葉を給されたのだろうか。 


都県境の尾根道を下った小径(青葉区奈良町 撮影:2020.5.25)
 


花水木山法師

2020年05月22日 | 音楽

  風薫る五月、いよいよみどり深く、あと二週間ほどしたら梅雨入りも近い。アジサイの季節にはまだ少し早いけれども、そのいまの時期に目に入るのが小さな山法師の姿、といっても青々とした葉っぱを地として織りなす星形模様のように咲くヤマボウシの白い花だ。

 そのヤマボウシの花で思い出すのは、「ぴあ」特別編集版(2012年10月号)における「山下達郎“超”大特集!」記事、そのラストに掲載されていた山下夫人である竹内まりやスペシャルインタヴュー中のエピソードのこと。
   このとき夫は還暦前にして、まりや夫人57歳なのだがその印象は、気さくでおおらか、かつ年齢を感じさせないチャーミングさとほのかに漂う男前的カッコよさが素敵と前置きにある。都会育ちとは異なる地方の名家出身、老舗旅館お嬢様育ちならではのよさが自然と備わっているのだろう。そのまりや夫人が伴侶ならでは生の姿の山下達郎という人間&夫像を、率直かつあけすけに語っているコトバが興味深い。まだまだこんな感じで話してくれたんだなあとすこし驚くが、年を重ねていくぶん優等生的な印象が漂ういまならば、いったいどうなんだろうと思う。

 そのなかの数あるエピソードの中で、ヤマボウシの季節におかしくも思いだすのが、もの知りの夫山下達郎は「花の名前と魚の名前」については、まったくの頓珍漢だということ。これは自然世界と食べ物については頓着しない、こだわりが少ないということなのかもしれないけれど、まりや夫人曰く、「ヤマボウシとハナミズキの違いを何度教えてもわからないんですよ。咲くたびに“どっちがヤマボウシだっけ?”って」。
 このエピソードからたぶん想像するに、都内山下&まりや家の庭周辺には、少なくともヤマボウシとハナミズキが植わっていて、四月にはハナミズキ、五月に入るとヤマボウシが咲いているのだろう。それでもって、夫人のほうは花の種類にそれなりに詳しく、たぶん多少園芸の趣味もあって、ガーデニングか庭いじりのようなことも行い、いっぽう夫のほうは音楽三昧オンリーでてんでそんな趣味はないけれども、そんな愛する妻の趣味嗜好を少なからず好ましく思っていて、季節がめぐる度に咲き出した花を見ると「これは何の花だっけ」と問いかけると、妻のほうは半分仕方ないねっていう表情で正解を教えて、ふたりともこの毎年のたわいない繰り返しを無上の歓びとしている、といった構図なのだろうか。ここだけ音楽以外の固有名詞が出てくるのが妙におかしくって、あれこれ妄想気味になってしまうが、おふたりの夫婦関係がとっても人間臭いなあ。
 
 毎年のように咲いた花の名前を妻に問う、和洋ポップス音楽にかけては尊敬すべき表現者の東夫(あずまおとこ)と、毎回のその問いかけをまんざらでもなく嬉しそうに答えるのは、スリムなスタイル美人かつ男前でチャーミングなシンガーソングライター出雲妻(いずもおんな)だとしたとしたら、これはもう大ノロケ以外の何物でもなく、「はい、ごちそうさまでした」というのがオチ、というもの。

 夫婦恋人友人関係、なにかにつけてもひとの絆には、謙虚さかつ誠実をベースに継続した“信頼”が大事です。


花盛り見ごろの山法師ヤマボウシ、白い法衣を纏った法師姿からきている。


こちらは花水木ハナミズキ、四月に咲く(撮影:2020.4.25)


「サンデーソングブック」と「村上RADIO」をつなぐ。

2020年05月03日 | 音楽

 日常がいつもの日常通りといかない昨今、在宅時間が増えていることもあって、ラジコというアプリケーションで聞き逃した先週日曜日のFMラジオ番組を立て続けに聴く。スマホ画面で番組リストを確認していたら、ふたつのお気に入り番組が同日午後にオンエアされていたことに気がついたからだ。
 ミュージシャンにとってラジオは媒体としての親和性が高いようで、放送時間帯は異なるが桑田佳祐や松任谷由美も自身のレギュラー番組を持っていることを知り、なるほどなあと納得、休みの日はラジオを聴くのがいいなと思った次第。
 
 まずは、この文章を書きながらいま本日の放送分を聴いている「山下達郎 サンデーソングブック」、三十年近く続く名物番組だ。この四月からの各地ライブハウスでの演奏会が延期、または中止になってしまったこともあるのだろうか、先月末からの放送は特別バージョンとして、ご自身のライブソースの中からのリクエスト曲を年代別に選曲されたものを流している。
 80年から90年代によく聞いていたLP、CDからの選曲もさることながら、実際に演奏された会場と日程が付随しているので、その当時の時代と重ねてあれこれ想像が広がってくる。東京会場のホールライブからは、中野サンプラザのソースが流されることが多く、最近はすっかりご無沙汰しているが、ずいぶんと前80年代中の二度、中野まで公演を聴きに行ったこともあっていっそう親しみがわく。
 あの会場内の一体感はなかなかのもので、ひとりア・カペラをはじめて(しかもいきなり生で)聴いて完成度の高いマジックのようにびっくり!「レッツ・ダンス・ベイビー」の間奏のときに、一斉に客席からクラッカーが打ち鳴らされたときなどは、フリークたちの統制の取れた間合いのよさに少なからず感動もした。

 個人的に最も気に入っているマニアックなアルバムは、1980年に第一集がLP版でリリースされたア・カペラ集「オン・ザ・ストリートコーナー」シリーズとその延長であるフルオーケストラの豪華バージョン「シーズンズ・グリーティングス」(1993年)である。LP盤第二集ジャケットには、中野サンプラザでも見たとおぼしきブルックリン橋の夜景と街角の舞台セットが使われている。そこには自身の立ち姿とグランドピアノが映っていて、サンプラザライブ当日のときにご本人が「ポップスのライブ演奏で生ピアノを使うのは、矢野顕子と自分くらい」と自慢げに話していたのを思い出した。
 きょうの番組では、“おうちアカペラ”と称して、リクエストを受けて「オン・ザ・ストリートコーナー2・3」に収録されていたナンバーからそれぞれ一曲づつ、ここが達郎さんの良心的かつスゴイところなのだが!そのまま流すのではなく、新たに自宅スタジオで歌唱し作られたソースが流されていた。
 放送で流れた曲順が前後してしまうがどうしても記録しておきたい。三曲目は、なんとその矢野顕子のピアノ伴奏で「オン・ア・クリア・デー」、会場が公園通り途中の山手教会地下にあった小劇場、渋谷Jean Jeanでのゲスト出演ライブ音源(1985.9.17)というのがすごい!
 ご本人によると、客席でカセット録音したものと話していたから、確かにそんな時代もあったんだなあ。

 この番組のあとに引き続き聴いたのは、村上春樹が自ら進行役をつとめる「村上RADIO」。ゼネラルプロデューサーは延江浩、ムラカミの冠をつけるくらいだから彼の相当な思い入れもはいっているのだろう。若いイメージのムラカミ氏はすでに古稀をすぎているが、音楽番組の選曲と進行を務めるのは若いころからの夢に違いなく、嬉々としておしゃべりを愉しんでいるようだ。誤解を恐れずに言うなら、これはムラカミ氏一流の“お遊び”、数ある引き出しの中のほんのひとつにすぎないだろう。
    当初は意外に聞こえたやや朴訥としたときに衒いを感じさせる話し方もようやく耳に馴染んできた。最初のころは、相手方坂本美雨にリードされながら、正直おっかなびっくりという印象もしたけれど、最近は回を重ねてきた分慣れて自信がついたのか、DJとして独り立ち?か。
 
 この日は、「言語交換ソングス」と題して日本語曲の洋楽カバーとその逆パターンを交互に流す特集で、なかなか選りすぐった?名盤珍盤のオンパレードとなっていて、それなり面白かった。
 「僕はそのむかし好きな音楽を日がな流している飲食店を七年ほどやっていたのだけれど、これから流す曲はなかなか面白いから聴いてよ!」っていう感じ、作家村上春樹の遊び心が満載で、こんなふうに自由にできるのも小説家として成功した長いキャリアと読者からの支持の賜物なんだろうな。番組HPによると収録は三月中旬とある。シビアな時期になってきた分、すこし能天気になって張り詰めた気持ちをほぐしてみよう、といったスタンスなのだろうか。

 その冒頭のこと、桑田佳祐と山下達郎オリジナル曲の洋楽カバーが出てきたのにはちょっと意表を突かれた思いがした。両方ストレートにオリジナルの選曲はまあ、おそらくないであろうから、これはつかみとしてはちょっとひねった選曲だ。
 曲が流れる途中、ムラカミ氏のMCが入ってきたと思ったら、英語バージョンの「踊ろよ、フィッシュ」(アルバム「僕の中の少年」1988年リリースに収録)があとから山下達郎の曲だと知って驚いたと、正直に告白している。本来ならちゃんと曲を聴かせるのが筋だと思うのだけれど、言わずにはおられなかったという感じ。
 1987年「ノルウェイの森」を発表し、ベストセラーとなって誰もが知る有名作家に躍り出たムラカミ氏はそのあといろいろとあって、当時はヨーロッパに滞在していたようだから、山下達郎をリアルタイムで聴いていなかったのだろうか。その前の1884年リリース「ビッグ・ウェイブ」に収録されていたビーチボーイズのカバー曲を聴いているかどうかはわからないが、そのカバーについてどのような感想なのか、この機会に誰かインタビューしてくれないだろうか。じつは、隠れ斜めファンだったしてね。

 あのサウンドトラック盤のタイトル映像を新宿コマ劇場地下にあった映画館で見たときに、えらくカッコいいサウンドと本家に引けを取らないひとり多重コーラスの見事さにノックアウトされてしまった。映画タイトル曲から始まるオリジナル、後半のカバー曲のバランス、格好良さといったら、並外れていたと思う。「ガールズ・オン・ザ・ビーチ」から「プリーズ・レット・ミー・ワンダー」と続くあたりは、夏の夕暮れに聴くと胸がいっぱいになり、当時の情景が懐かしくも浮かんでくる。
 この世界は、映画とはまったく関係なく、村上春樹「風の歌を聴け」にもつながるように感じられるのだ。

 そしてつぎは、ムラカミスタンスとしては当然といおうか、すまし顔の照れ隠しなのか。別の日本人によるビーチボーイズメドレーが選曲される。その名前は知っていたものの、ほぼ初めて聴く「王様」の歌唱だ。日本語直訳された詩がじつにたわいなくて、洋楽有名曲がこんな意味を歌っていたのかと妙におかしい。つぎは、坂本九の歌う有名曲「上を向いて歩こう」と「明日があるさ」(作曲はともに中村八大)の洋楽カバー。こちらはオリジナル、とくに坂本九歌唱の素晴らしさのほうが勝るように思う。彼のお墓は、都内根津美術館裏手の長谷寺境内にある。
 坂本龍一による沖縄民謡プラスレゲエ風アレンジの洋楽の後、この日の極めつけはビートルズ「恋を抱きしめよう」のカバー。さまざまな犬猫の鳴き声をダビングして作った、まさに珍品ともいえるインストメンタル曲?だ。「これ、流したかったんだよね」っていう、少年のようなムラカミ氏の表情が浮かぶ。ラストは、カメラータ・チェンバー・グループによるサティの「ジムノペティ」でこころ静かに終える。

 最後に恒例のムラカミ氏のコトバがちょっとおもしろくて、生年が同じB.スプリングスティーンの歌う姿勢の発言をひいて、自身の作家としての矜持ともいうべきものと共通する点を述べたあとである。
 「ついでに言うと菅官房長官も同い歳です。しかしブルースと菅ちゃんと同い歳というのは混乱するというか、なんか戸惑いますよね。自分の立ち位置がよくわからなくなるというか……まあ、どうでもいいんですけど。」ととぼけてみせるのだ。どうして、ここで菅官房長官なのだろう?
 ムラカミ氏と官房長官、ふたりは育ちが同郷でもなく(兵庫と秋田)、大学が同窓でもない(早稲田と法政)のに、会見でのやりとりはともかくとして、令和のおじさんだからではあるし、まんざらきらいな人ではないのだろう。プライベートでは、菅さん、きっといい人なんだろうと想像するけれど。


追記:年齢に関連して。
 最近亡くなった俳優の志賀廣太郎さんも71歳、昨年脳梗塞で倒れて療養中の誤嚥性肺炎だった。
 二十数年ほど前だろうか、仕事上ある機会があってほんのすこし話したことがある。小田急線の大和駅上りホームにおいて、急行がやってきてそこで別れたのを覚えている。印象に残る低く落ち着いた渋い声、長身、やせ型、眼鏡をかけた一学者か勤勉実直な課長か、場合によっては冷酷な管理職役が似合う個性派俳優。生え抜きでもなさそうなのに、どうして平田オリザ主宰する青年団に所属していたんだろう。最近は携帯電話のテレビCMにおいて、大真面目にコミカルな役どころででていて、おやって思っていた。
 まあ志賀さん、菅長官と似ていなくもないがムラカミ氏と同じ年だったなんて、なんか戸惑いますよね。もう、病気で亡くなってしまうこともある、そんな年齢なんです。

 行き先の見えない新型コロナウイルス騒動のさ中、まずは自身のからだと家族、それから愛おしい存在を大事に思いやって。やっぱり日々こころのバランスと健康第一です。
(2020.04.3書き出し、04.04稿了)

 自宅マンション敷地内の自然林、一重咲ヤマブキとタチツボスミレ群生
 (撮影:2020.04.07)


五月の始まり、八十八夜

2020年05月01日 | 日記

 世の中のウイルス騒動は収まりを見せない。四季の移り変わりは滞ることなく、緑の芽吹きは濃くなり陽が長くなって、五月薫風八十八夜を迎えた。まもなく立夏!を迎えることになり、これからは花冷えに替わってぐんと暑くなる日が増えるだろう。
 そんな令和二年五月一日である。昨年の今ごろは、平成から令和の代替わりでなにかと祝祭気分で。元号の出典となった万葉集やゆかりとされる大宰府がもてはやされていたのにすっかり様変わり。一周年をむかえてもほとんど話題に上ることなく、はるか昔のまぼろしのようにすら思える。カップ麺ですら、令和元年赤だるま仕様のパッケージで発売されていたというのに。



 いったい昨年はなにをしていたのだろうかと思い返してみると、四月末日と五月二日が国民の休日となり、土日祭日とあわせると十連休の最中だったのだ。勤務場所が変わって通勤距離が短くなった分、自宅からの所用時間が近くなった。世の中の動きと連動していたわけではなかったけれども、連休前に空き家となっている実家の冬支度を解くために新潟に帰省し、連休のはじまりには浜松天竜への秋野不矩美術館と茶室めぐりの旅へ、そして連休の締めくくりは、母の米寿祝と叔母の誕生祝いで箱根湯本旅行へと出かけていたのだった。
 
 ことしも同じように帰省を予定しているのだが、すでに延期して当面はできそうにもない。在宅勤務が多くなって、事務所への出勤は週三回程度になり、この先の見通しがなかなか立てづらくなっている。
 何度か事務所まで自家用車で通うことがあった。わずか二十分くらいの走行時間にすぎないのだが、16号線を超えてしばらくして境川を渡り、成瀬手前の見晴らしが開けるあたりのことだった。ゆるい起伏のある地形の住宅地が広がるむこうに、事務所棟に隣接した二十八階建て高層住宅タワーが突然ランドマークのごとくぐんと現れて、あらためて新鮮な驚きを覚えた。
 また帰り道、西方向にむかって車を走らせていたら市街地建物群のむこうに、まさに沈もうとする燃えるような夕日が大きく目に飛び込んできたことにも感動した。思わぬあたらしい発見があり、ふだんのまちの風景が違って見えてくる不思議さ。これらは、期せずして日常とすこし生活スタイルがずれて視点が変わったことの効用かもしれない。

 そんな昨日、となり街の奈良川源流を探す小さな冒険に出かけた。玉川学園キャンパス裏手側に残された小さな谷戸があって、周りに住宅地が迫っているなか、そこにはわずかながら田園風景がのこされている。
 車でのアプローチは、長津田から伸びているこどもの国線の終点「こどもの国駅」から先をすこし進んだあたりになる。恩田の里山風景をすぎると信号機に「奈良」という地名表示がでてきてちょっと意表を突かれる。なだらかな地、なだらかにするという意味の「ならす」からきているという説もあるが、枕詞に「まほろばの」とつけたくなるような面白い気分にさせられるのだ。もしかしたら、県境をまたいだすぐお隣の地「成瀬」も中世豪族鳴瀬氏の領地からきているのだろうけれども、もともとは平坦な里地という地理上の理由からそう呼ばれたのかもしれない。
 
 奈良地区センターさきのやや狭くなった道をすすんでいくと右手に里山、左手にかつての田んぼ跡らしき原っぱがみえてくる。小さなハーブガーデンがあってそのさきが山里田園風景がのこる一帯だ。谷戸には地元のNPO団体が保全している田んぼと柿や栗の林があって、のどかにカエルの鳴き声が聞こえ、どこか懐かしい風景が突如として出現する。どうやら奈良川源流はその奥にあるらしいことがわかる。
 右手方向は緑色鉄柵に囲まれていて玉川学園の敷地で、隣接した人家の畑のむこうに水源のひとつである奈良池があるのだけれど、こちら側からは入っていくことができない。里の民家のたたずまい、農作業小屋がいい味をだしている。山道から田んぼにつながる脇に、池からと思われる水が注がれていて、アヤメが咲いている。いまここにいること、この自然と人の営みの中で、バランスをとっている自分に気がつく。


奈良谷戸里山風景。田梳きがすんでもうじき田植え作業がはじまる。
上写真の中央奥が奈良池、林のむこうは大学キャンパス(撮影:2020.4.30)

 玉川学園敷地反対側の脇道の水路にそって進むと、奈良北団地の裏手につながるちょっとした小渓谷のような雰囲気が残されている場所に行き当たる。それから先の水路は、別ルートからきているバスの停留所折り返し地点手前で暗渠に入ってしまってたどることができない。こうなったらブラタモリ的視点でいこうと、いまは住宅地となってしまったかつての分水嶺に囲まれた最深部をたどる。うまくいけば公園となって痕跡が残されているかもしれないと進むと、それは見つかった。
 大規模マンション脇の傾斜地にかろうじて残されたさほど広くない緑地があり、奈良町大平田公園とある。その中を進むとまっすぐ石造りの水路が作られていて、せせらぎと鉄分を含んだオレンジ色の沈殿物が目に入る。この水路の最上部には人工の水たまり壺があり、その奥の地下水菅からは、ちょろちょろした湧水が導かれている。水路のおわりは暗渠となっており、地形的には傾斜からするとさきほどの小渓谷方向に流れているようだ。これはもう間違いなく、この公園周辺斜面一帯から染み込んだ水が湧き出して水源となっているに違いない。その証拠に、水壺のさらに上の通路脇からは水がしみ出し、目視できる湧き出しの最初にあたるようだ。
 ここからいくつかの合流を重ねてまとまり、長津田のあたりで鶴見川につながっていく。東京湾にそそぐ支流のひとつのはじまりはこんな感じなんだと、川の流れが人生のようでそれを目の当たりにしてちょっと感動した。

 ものの始まり、起源を探ることはじつに興味深いが、ときに玉ねぎを剥くようにがっかりすることも。それでも探求をやめることはできない。はたして芯はあるのか、それが観念ではなくて実体験として明らかになることは、そんなに多くない。そして起源は、いまの中心というよりも、普段隠れて入れ気にすることの少ない辺境周縁あたりに見出せる、というのが今回を含めたこれまでの実感だ。だから境目とキワキワは、偶然に満ちていてドキドキ、面白いのだろう。