日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

2013年も暮れて、あとわずか

2013年12月30日 | 日記
 2013年の暮れの凛と冷えた大気のなか、ここのところの夕方五時を過ぎてからの夕暮れの風景にはっとさせられる。日没時スカイラインが光り輝いて、やがてピンク色からグラデーションで群青色から墨色へと移り変わっていく様は、変わらぬ大自然の神秘のなせる天体ショー。特にこのまほろ近隣だと西に大山丹沢の山並みが望めるので、いっそう雄大で神ががり的とも呼びたくなるくらい美しい。
 22日の冬至から一週間すぎて、少しずつ日が伸びているはずなのだけれど、夜の冷え込みは一層厳しい。わが家の室内では、ハイビスカスの鉢植えに季節外れの赤い花が最後の一輪をけなげに咲かせている。前に記したことがあるけれど、10月上旬の30度を超える暑さに勘違い?してついたいくつかの蕾が再び12月に入ってからぽつぽつと咲きだし、クリスマスを挟んで目を楽しませてくれているのだ。こんなことって、もちろん初めてのことでこれからもないだろうな。

 今年は、終了後28年目の講座同窓会が開かれて、15人中13人が中野サンプラザに集った。20代に出会った仲間は、それぞれ相応の年輪を重ねながらも基本的に!変わっていなかったのがうれしかった。このところ故郷新潟から上京してから1980年代くらいまでの出来事について、今の自分にとってどのような意味があったのか、当時の社会状況を振り返って考えることが多くなった。
 ひとつ、当時を思い出すモノクロのショットを一枚。

 
 

 現在もある、町田東急ツインビル(当時は町田東急百貨店)東西の連絡橋の完成当時の写真(1983年撮影)。現在上下四車線の大通りとなっている通称“クリスタルブリッジ”の下は、なんと流水と噴水のある公園だった。ブリッジの向こうはファッションビルの「アストリア」と「都南デパート」と称した庶民的なモール街で、入り口によく通ったお気に入りのラーメン店「一龍」があったっけ。オーナーは兄弟らしき上品な二人、麺が札幌の西山製麺からの取り寄せで、スープ寸胴鍋には鶏ガラとリンゴとアク取りの太い青ネギが入っていたのを覚えている。それらのお店もいまは区画整理されて道路となり、町田街道までつながることとなった。都南デパートの右隣にある中島文具店のあたりは、渋谷が本拠の「東急109」ビルが建っている。
 このクリスタルブリッジを通ると開設当時の命名にちなんだプレートが残っていて、日付は「この名前“クリスタルブリッジ”は一般から募集したなかから選ばれた愛称です 1980.12.25」、大学に入学した年のクリスマスである。翌81年には田中康夫の「なんとなく、クリスタル」がベストセラーとなり社会現象化、その偶然の符丁にひとりニヤリ?としたような気がする。町田にクリスタルなんて!
 
 あれから33年なんて、信じられない!

大津・名古屋巡礼記 その二

2013年12月14日 | 日記
 九日朝の散歩のあと、大津駅前のコーヒー店で休憩中に気が付くと名古屋のMAMAKOよりメールが入っていた。以心伝心みたいでうれしくなって見ると、名古屋着時間についての照会、「おはようさん」はNHK朝ドラ「ごちそうさん」のノリか? 気にかけてもらったようで恐縮して返信すると、到着時に改札で待っていてくれるとのこと、ありがとう!
 大津駅ビル内でおみやげを買い、十一時台のJR在来線で琵琶湖沿線沿いに米原まで出て新幹線に乗り換える。午後一時に名古屋到着して、改札前の柱横で待っててくれたMAMAKOの姿を見つけることができた。本当に名古屋で再会できたんだと実感、よく知っているはずなのになんだか今回のシチュエーションは初めてでちょっと照れるな。シックな出で立ち、相変わらずスリムな体型のまま、元気そうでよかった!
 まずは、昼食ということで地下鉄一日乗車を買って、伏見へ。昭和の残り香の地下商店街、あいちトリエンナーレ会場としても使われてその痕跡が残っているレトロな都市空間を案内してもらう。構内のDEEEPな喫茶店でカレーとスパゲティと目玉焼きというてんこ盛りランチを注文、店内もスリムな店員のお姉様も名古屋色が濃いな~と感心。近況やら大津でのアツシとの再会、ヴォーリーズ建築の洋館遭遇事件やら赤瀬川ニラハウスなどの話に花が咲いて、気が付くと午後三時前くらいになってしまっていた。

 お店を出て、地下鉄名城線で名古屋城近くの今夜の宿泊先「ウイルあいち」へ向かう。最寄駅を降りると名古屋市庁舎と県庁舎が並んでたつ官庁街だ。ともに戦前の帝冠様式の建築ではりあうように?立っている姿が威風堂々としていて思わずほうっと見上げてしまう。市庁舎内へ入ってみることに。正面の大階段や回廊式の本館の中庭からの時計台塔が昭和初期の時代を漂わせる。建物周辺を周回するようにめぐり、途中紅葉が残っていた三の丸庭園や大正時代の旧邸を利用した県議員会館を覗いたりして、上堅杉町の宿泊先にチェックインする。ここは正式名称を「愛知県女性総合センター」といい、バブル時代に計画され、1995年に竣工した巨大な空間で正直その豪華さにびっくりした。館内は中規模ホールに加えて会議室や研修室に宿泊設備もあり、10畳の和室が一人3600円という信じられないくらいの安さで泊まれる。
 正面はネオ・バロック様式の煉瓦の洋館、旧名古屋控訴院地方裁判所庁舎で重要文化財だ。現在は名古屋市市政資料館となっているが、その日は残念ながら休館日である。正面の入り口から中を覗くと、壮麗な大階段が手すりとともに三階へと回り込み、正面と天井にはステンドグラスが見える。昼間に見たらさぞかしゴージャスだろうな、明日の再訪に期待しよう。
        
            なんと!宿泊室床の間の壁面にある窓の正面から洋館の大ドームとご対面

 日が暮れて少し暗くなってきたが、この先MAMAKOの案内で白壁・主税(ちから)・撞木(しゅもく)町並保存地区のお屋敷めぐりへ。まずは、白い木造瓦屋根の洋館、カソリック主税町教会へ。鐘楼つき明治時代1904年築の名古屋最古の教会堂だそうだ。広い敷地にゆったりと建てられている。司祭館の脇が教会堂の見学口、扉は施錠されておらず少し迷ったが、二人して中に入ってみる。正面の祭壇に電飾ローソクの灯りのみで静寂かつ敬虔な雰囲気にドラマか小説のシチュエーションのような気がして不思議な感じがしてきた。う~ん、MAMAKOはカソリック大学OGなので慣れているんだろうか?教会堂庭の隅には、マリア像と溶岩を積んで作られたルルドの泉がある。これって、東京目白にあるカテドラル大聖堂の関口教会と同じだ、と思ってみたらやはりそのような説明書きがあったので納得。もしMAMAKOが次に東京に来る機会があれば、近くの椿山荘庭園と合わせてガイドしてあげたいな。
 いよいよ夕暮れで暗くなってくる中、いそぎ足での主税町お屋敷めぐりは続く。旧春田邸、旧豊田佐助邸と続き、赤瓦屋根の旧川上貞奴邸(双葉館)へ。こちらは近くの双葉町から移築されたもので、かなり大規模な洋館。あとで貸してもらった「あいち建築ガイド」で調べたところ、設計・施工を担当したのはなんと「あめりか屋」、目白文化村にも関わった大正時代の住宅設計のはしりの会社だ。もう邸は閉館してしまっていたが、MAMAKOは中に入ったことがあるらしく、ぜひ次の機会に洋館内も見学するといいよ、と勧めてくれた。

 少し歩いて地下鉄桜通線高岳駅から、たしか日赤八事駅で下車して南山大学へ向かう夕暮れの道を歩く。もうどのあたりなのか分からなくてMAMAKOの案内がなければとても目的地にはたどり着けない。途中高校生やら通りすがりのひとに方向を確認しながら、すこし急な坂を息を切らしながら上りきるとようやく目的の南山大学の入口に辿り着く。こういう時にさりげなく手を引いてあげれるようなら、マイ・フェア・レディっていう感じだったのにね。午後六時近くか、二人して相当歩いたけど全然疲れないし退屈しない、久しぶりだから再会するとかつての大学講座生時代に戻ってしまう感じなんだ。
 南山大学キャンパス見学は私の希望のひとつで、アントニン・レーモンドの設計、1964年竣工のモダニズム建築群。丘陵の南北軸にそって配置された統一感あるキャンパスは、名門カソリック大学の品格を高めている。コンクリート打ち放しの躯体に橙なのか柿色なのかに塗られた壁面構成がシンプルだけど美しい。シンボルツリーのクリスマスイルミネーションを期待していたのだけれど、残念ながら見当たない。もしあれば、今夜の建築めぐりの最終の締めくくりにふさわしかったのに(まあ、そうであればちょっとできすぎか)!
 もう、すっかり薄暗いなか学生気分でキャンパス内を歩き回る怪しい?二人は他人にはどのように映ったことだろうか。キャンパス内の坂を下り、神言神学院の脇から山手通りに出て、地下鉄で八事へ出る。

 本日の探索のラストは、名古屋の格式ある高級料亭八勝館。ここは魯山人ゆかりの料亭、提供される食器に中には魯山人銘のものがあるそうで並みの料亭とは別格の存在。都市化の波の中で広大な敷地の何割かは巨大なマンションとして切り売りされてしまっていたが、屋根付きの門とそこに掲げられた立派な額はかろうじて残されてはいた。その先の裏手に回り込むと黒塀が続き、正門の奥に堀口捨巳設計による数寄屋料亭は健在でいるようだったが、いかんせんもう夜の暗がりで中は望めない。

 MAMAKO、忙しい中半日丸々も付き合ってくれて本当にありがとう!今夜は楽しかった、あなたには感謝しても感謝しきれません。今度は、ぜひ東京目白のF.L.ライトと遠藤新による自由学園明日館でお会いしましょう。








大津・名古屋巡礼記 その一

2013年12月11日 | 日記
 福岡からの帰路に途中下車して、大津・名古屋と友人を訪ねての巡礼の旅。
 八日の夜六時半すぎにJR大津に到着してしばらく改札あたりで待っていると、単身赴任中のアツシが迎えに来てくれる。彼はその日夕方、千葉の自宅からこちらに戻ってきたばかりだという。まずは八月末以来の再会を喜び合う。大津でアツシと会うのは十年数年ぶりくらいか、以前彼がやはり仕事でこちらに転勤になった際、私の仕事上の研修で大津に出張したとき以来のことになる。当夜の宿泊先が決まっていなかったので、駅から琵琶湖後方に少し下った県庁前通りに面したビジネスホテルにテェックイン、目の前が大津祭で知られる天孫神社だった。その足ですぐに二人で駅前の隠れ家風の居酒屋へ。互いの仕事のこと、家族のこと、老後!のことと年代相応の話題で23時近くまで語り合う。
 翌九日朝、ホテルで朝食を採ってから駅前で待機して出勤するアツシを見送る。昨夜と打って変わって黒のスーツ、コートのビジネスマン姿、見送りは昨日夜予告しておいたので、笑顔で「本当に見送ってくれるんだ」と感心しつつも、半ばあきれた表情?こちらは、これから朝の散歩に出かけるスタートとして、ちょうどいい契機にさせてもらったよッ!

 線路下通路を抜けて駅の反対山側にでて、ホテルテトラ大津のロビーで情報収集し、次回は眺めの良いここに泊まろうと思う。ホテルから国道一号線の脇を歩いてちょうど駅ホームを見下ろすような位置のさらに高台へ。大津の都心が一望できるあたりだ。一号線を京都方面に歩いていくとカーブ手前の山の頂に古い洋館が見えてきた、特徴のあるベランダと煙突、ほどよい古さ加減は、ヴォーリーズ建築に違いない。
 そう思うと道路の反対側にわたって、坂の小道を洋館に近づいて表札を拝見「M」とあり、すこし階段を上ると瀟洒なデザインの門の奥が洋館の入り口だ。このあたりの高さからだと市街が見渡せて琵琶湖対岸の山並みも見渡せることだろう。お庭もすこしありそうだが午前八時半、これ以上の探索は難しいとあきらめて、小道のさらに上ると寺院墓地が突き当りだ。
 そこで一服していると住職の奥さんらしき人が声をかけてくる。神奈川からきての散歩中で、入り口の洋館が気になっている話をするとしばらくしてわざわざ追いかけてきて、Mさんに聞いて下さるとのこと。恐縮しているうちに先のMさん宅へ、階段を上って洋館の玄関へ入っていく様子。ご近所なのでお知り合いの強みだあ、と感心していると、どうぞいらしてください、との案内がある。素敵な感じの門を括らせていただくと品のよさそうな笑顔のおばあちゃんが玄関に佇んでいらっしゃる。住職の奥さんは引き合わせるとすぐに行ってしまうので、こちらがドギマギする。
 玄関でほんのすこし話を伺わせていただくと、間違いなく「ヴォ―リーズさん」(親しみと尊敬を含んだおばあちゃんのことば)の設計で、昭和5年竣工とのこと。いまでもよく手入れされた外観、建て主の品格が伝わってくる。手を入れて大事に住まわれ続けてきたことがうかがわれる。昭和初期、できた当時の眺望は高層ビルがある現在よりもはるかに素晴らしく、国道の交通量もさほどではなかっただろうから、さぞかし快適だったに違いない。


 朝日に輝くM邸を国道1号下から見あげる。まさしく、今回の大津途中下車のハイライト、思わぬヴォ―リーズ建築住宅との出会いに大いに感激した。本邸の右手の山なりに離れの茶室が見える。

さて、次はこの散歩はまだ続き、旧東海道沿いの老舗を尋ねたりして10時にホテルをチェックアウトして、近くの昔ながらの雰囲気のおばちゃんがカウンターのコロラドコーヒーで一服し、お昼前に名古屋へ移動して途中下車する予定だ。もうひとつの大きな巡礼目的のために。 

堤清二の死去と『33年後のなんとなく、クリスタル』

2013年12月01日 | 日記
 堤清二氏の25日死去(享年86歳)が報じられたのは、11月28日朝日新聞夕刊においてだった。西武=セゾングループの絶頂期に都会での青春時代を過ごし、1985年から数年間、西武百貨店メディア事業部やS.S.コミュニケーションズに在籍していた人間として、月並みだが感慨深いものがある。同じ日の同紙朝刊オピニオン欄の論壇時評には、高橋源一郎氏の“暗い未来 「考えないこと」こそ罪”と題した一文が掲載されていて、その書き出しは意外にも当時一橋大学生だった田中康夫「なんとなく、クリスタル」(1981年)についての回想である。
 どうしていまごろ、33年前に出版された風俗小説「なんとなく、クリスタル」をひいたのか、その理由についても高橋氏は記述しているのだが、どうも遠回しの理由のひとつにすぎない感じがして、奥歯にものがはさまったような印象をもった。そう思って、インタ-ネット検索を入れてみると、季刊雑誌「文藝」11月号で当の田中康夫が「33年目の後のなんとなく、クリスタル」の連載?を始めたらしい。同じ号には高橋氏が選考委員を務めている「2013年文藝賞」の発表と選評も掲載されている。ということは、朝日新聞の時評には書かれていないけれども、高橋氏はその掲載が始まっていたことを知っており、なるほどそれを契機として33年前の442個の注釈つき小説の現代的意味をひっぱりだしてきたのか、と思われる。それならば冒頭の引用は合点がいくというものだ。

 この小説、というより「小説風文章つきの442注釈集」については、私自身が大学生だった当時、半分話題に乗せられながらも消費社会の真っただ中で賛否両論の渦のなか、ひとつの“慧眼”視点を感じながら購読して、一見軽薄な当時の若者風俗の追認といった大方の批判に対し、そこに潜む時代への鋭い批評性を肯定的に受け止めた覚えがある(といっても当時は言葉にして認識できないでいたが)。この著作、本文よりも442個の注釈のほうが面白く、興味深いものだった。その一見本末転倒とも思えるこの小説の構造こそが、この作品のミソと言えるだろう。

 そして、冒頭に記したとおり、同日夕刊に速報された「堤清二さん死去  セゾン創設 作家・辻井喬」の記事は、高橋源一郎氏および併記の濱野智史氏論述内容とに偶然とは思えない強い符丁を感じないではいられなかった。消費社会、情報化社会と非物質的労働への称賛、生産行為の相対的低下、中央都市に搾取される地方の問題、人口減と超高齢化社会への移行など。それらのキーワードに象徴される数々の課題についての思考停止状態から引き起こされる恐るべき「凡庸な悪」の進行と対処方法としての日々の「凡庸な善」とはいったいどのような具体的営為なのだろうか?

 次回、まずは「なんとなく、クリスタル」(1981年1月町田有隣堂にて購入)および第二弾「ブリリアントな午後」(著者本人の1982.6.27サイン入り!、町田小田急内久美堂で購入)について、手元にあるその当時購入した蔵書をめくりなおしていろいろと考えてみよう。なにしろ、「考えないことこそ罪」なのだから。