日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

ローカルトーキョー町田 “The CAFE“ にて

2014年07月26日 | 音楽
 予約しておいた竹内まりやの新譜CD「静かな伝説」が発売されて、受け取りにまほろ市内CDショップへ出かける。公式発売は7月23日だったんだけれど、休みの都合で一日遅れになってしまった。

 アルバム表紙には、サラブレッドの手綱を弾いているご本人の横を向いた上半身の姿の写真。背景は薄いブルー、それは空なのだろうと思ったけれど、プレゼントポスターを開くと全体の背景が映ったショットが使われていて、砂丘の上で撮られたものとわかる。背後には砂丘の地平線と日本海?とおぼしき水平線も映っている。どうもこの砂丘は島根の隣の鳥取砂丘ではないか、と思ったりする。いずれにしても動物と一緒に映ったアルバムジャケットは初めてで、すこし意表をつかれた感じがした。

 まだ、昼間の暑さが残る夕暮れの町並みを歩きながら、すこしひと休みしてこのアルバムを開いてみようと、「The CAFE」に向かう。このカフェは、5月19日にオープンしたばかり、床の全面がオーク材のフローリング、室内カウンター壁の一面の赤煉瓦ブロックが目に飛び込んでくる印象的な空間。テーブル席の背後には、昭和30年代の町田の光景を映したモノクロ写真のパネルが何点か飾られていている。ここの前身は1958年に誕生した「喫茶の殿堂プリンス」だ。当時は小田急線踏切のちかくにあったらしい。1980年頃の駅前再開発の際にこのビルに移転したようで、大学時代には目にしてよく前を通っていたけれど入ったことはなかった。というのも、店内が観葉植物やら西洋骨董品やらで埋め尽くされていた不思議な“悪趣味”一歩手前のような異空間だったから。なにしろ喫茶の“殿堂”である、最近は「まほろ駅前多田便利軒」にでてくる喫茶店のモデルになったりして、地元ではちょっとした有名店だったらしい。あたらしい店舗はそれと打って変わったモダンでありながらシンプルで力強く、以前の店舗「喫茶プリンス」にリスペクトを示しつつ、落ち着ける空間に変身していた。 

 カウンターと反対側のテーブル席に腰をおろして、アルバムを開いてみる。タイトルの「静かな伝説」は、4月からフジテレビ系で始まった、毎回一人のゲストを招いてリリー・フランキーが聴き手を務めるトーク番組の書き下ろしテーマ曲。その歌詞を目にすると、なんだか以前2000年からNHKで放送されたドキュメンタリー「プロジェクトX」で、中島みゆきが歌って大ヒットした「地上の星」を連想してしまう内容だ。ただし、曲調はゆったりとして力み過ぎずいい感じがする。むしろこの曲の話題は、竹内まりや自身の発案で実現したという、桑田佳祐&原由子の参加。曲のエンデイングでラララ~と山下達郎&まりや夫妻とハモッてる、たしか同世代だよね、この二組は。
 二曲目、なつかしいご本人1979年デビュー曲の「戻っておいで・私の時間」(2011年バージョン)。服部克久編曲でストリングス、ブラスセクションとコーラスが入り、なかなかゴージャスで軽快な仕上がり。50代後半になってもさわやかな歌声、若いころよりもむしろすこし甘ったるい感じを出しているのはご愛嬌、としよう。日本語と英語が交互に混じったアイデアが輝いていた作詞の安井かずみと作曲の加藤和彦の才能あるお二人は、若くしてもう、いない。あれから35年の時の流れを確実に感じさせる。
 三曲目は、ビートルズのカバー「Tell Me Why」(どのアルバムからだろう?)、杉真理バンドのバックで60年代風にロックン・ロールしてる。
 

 過ぎた時間は戻ってこないが、記憶の連鎖の中でそれぞれの人生は様々に織りなされる。だだ、いまを生きていくだけだ。


   町田 “The CAFE“にて、 特製水出しコーヒー ¥842。特製ボトル、木製トレー付き。        (7.25書出し、7.26初校、8.1改定)

柿傳ギャラリー、くらわんか、新宿御苑

2014年07月17日 | 日記
 この文章を書き始めた時に、ポール・サイモン「時の流れに STILL CRAZY AFTERE ALL THESE YEARS」(1975年)を聴きたくなって流していました。冒頭タイトル曲「時の流れに」に始まって、5年ぶりのS&G名義がクレジットされた「マイ・リトルタウン」から、ラスト曲は暗示的な歌詞内容の「SILENT EYES」まで、当時の先端フュージョンサウンドに包んだ、ポールの繊細な内面を静かにかつシニカルにつぶやいた私小説とでもいうようなアルバムで、その年のグラミー賞を受賞しています。大学時代、S&GセントラルパークLIVE(1981)の話題があって購入し、はじめて聴いたアルバムです。

 さて、ここのところ何かと理由をつけてよく都内に出かけている。先日は「非戦を選ぶ演劇人の会」主催のピースリーディング VOL.17“あなたは戦争が始まるのを待っているのですか?”(スペース・ゼロ)を聴くために新宿まで出かける。2001年9.11 NY世界貿易センタービルへのテロ事件から始まり、イラン・イラク戦争への自衛隊PKO活動参加、そして特定秘密保護法、集団自衛権行使の閣議決定までのこの国の右極化の流れを見つめなおしながら、自己に立ち返って考え直す機会にしたい。
 でも、まあ固いことばかりでなく、すこし時間の余裕をみて、午前10時すぎに新宿駅南口からJRにかかる甲州街道を歩き出す。まずは、徒歩5分、今春竣工したばかりの「瑠璃光院白蓮花堂」(代々木二丁目)へ。浄土真宗光明寺の経営する室内納骨墓所を内包する仏教寺院だ。巨大なサイコロかモノリスのようなコンクリ―ト打ち放しの現代建築で、その唐突なフォルムにはド肝を抜かれる。くわしくは、そのうちに内部見学を果たした後に改めて記したい。

 新宿駅に戻って陸橋をくだり、久しぶりに新宿三丁目の「安与ビル」(1968年、設計:明石信道)へ。外見が金属の縦格子に囲まれたガラス張りの八角形を22.5度ずつずらして重ねた九階建てのビルで塔楼を思わせる特異な形状。六階以上が京懐石柿傳の店舗だそうで、入口の篆刻の題字は初代の安田与一の知り合いだったという川端康成、最上階が谷口吉郎設計の茶室なんだそう。漂う雰囲気が新宿街頭の雑踏から遠く隔たっているのはそのせいか?ギャラリーは、このビルの地階にあり、出雲在住の作家の茶器作品展の初日だった、声をかけていただいてしばし歓談。

 昼食は、ビル向かいのビルオーナー直営の郷土料理店「くらわんか」へ。ここも上京したころからすでにある新宿の老舗、知ってはいたけれど30年数年ぶりで願いがかなった。びっくりするくらい良心的な値段で提供される食材も美味しく、よき時代の旦那文化を漂わせる貴重な店だ。「くらわんか」とは、上方の方言で「召し上がりませんか」の意。カウンターに案内されて座ったお隣がやんごとなき上品なご婦人。どうも常連らしくおひとり静かに召し上がっていらっしゃる。やがてデザートのアイスクリームが運ばれてきて、食べきれないと思われたのか、私がモノ欲しそうにしていた表情だったのかわからないが、「よろしかったらおひとつ、いかがですか?」とおすそ分けいただいた。その縁でなんとはなしに話を伺うことになった。どうも、柿傳茶会のご常連らしく、表千家宗家のことなどもごく自然に語られる。半分しかわからず相槌を打っていると、「余分なお話を差し上げました」と挨拶されて去って行ってしまった。世の中、このような方もいらっしゃるのだと、ボー然。

 午後2時からの舞台にはまだ余裕があるので大通りを新宿高校の先に進むと、新宿門の先に突如、緑の大木の森が見えてくる。もとは信州旧高遠藩主内藤家の屋敷跡だった国民公園新宿御苑は、入園料200円で都会なかの広大な緑が楽しめる、セントラルパークか、それ以上かもしれない。鈴懸、欅、ユリノキ、ニレ、、ヒマラヤスギに様々な桜の木々。園内には、日本庭園とイギリス・フランス庭園が並列して存在していて、高層ビルが林立する新宿副都心に、この緑と芝生広場、肌を焼きに来た青年、木陰のアベックが点在し、とちょっと日本離れしている感じ、ここはニューヨークかと錯覚してもおかしくないだろう。メトロポリスTOKYOの万華鏡のような鮮やかさを思い知る。
(初校7.17 校正7.18)

建築・美術館周遊(3)~明治神宮から外苑絵画館へ

2014年07月07日 | 建築
 明治神宮手前の山手線にかかる神宮橋から、代々木国立室内競技場の二つの勇姿を眺める。改めて、よくぞ五十年前の時代にこのような建物を完成したものと素直に感動。本当に称賛されるべきは構造設計者と施工会社と建設に従事した人々である。なにしろ、竣工が1964年9月第18回オリンピック東京大会の開幕直前だったとのこと。この同時期、丹下健三は、目白の東京カテドラル大聖堂も設計していて創造性の絶頂期だったのだろう。
 この吊構造による大屋根と大空間を内包した建築は、当時構造的にも造形的にも類のないもので、未来に向って燦然と輝いていただろうし、いまみても全く古びていない。個人的な印象で言うと、構造的には海洋をまたぐ吊り橋と同じ土木的あるいは原初的壮大な力強さを感じるとともに、造形的には第一(水泳場)・第二(バスケットボール)競技場ともカタツムリかサザエまたは南洋貝類の一種に見えて、近代的でありながらどこか有機的な印象である。近代建築にありがちなよそよそしさがないのは、50年の時間経過が周囲になじんできたことと敷地の余裕、そしてあの大屋根にあるのだろう。現代建築がなくしたものの大きな要素のひとつは、一般に屋根だといわれている。それは伝統木造建築と比較すると一目瞭然だけれども、この建築は吊構造から生じる大屋根の存在が、見るものに壮大さと同時に寺院建築をみるようなどこか安心感をあたえるのではないだろうか、と思ったりもするのだ。ふたつの異なった柔らかな屋根と壁面が描く曲線の対比もすばらしい。

 ひとしきり、オリンピック遺産を崇めてから南参道を進んでいく。小雨の中、200メートル余り進むと内苑の東門入口、500円の入苑料を納めて中へと進む。この時期に訪れるのは本当に久しぶり、南池ほとりの御釣台前にでる。初夏らしくスイレンが白い花をたくさん涼しげに浮かべていた。初めて見たときは、モネの絵画のようだと思ったけれど、自然が芸術を模倣するなんて地球上では人間だけの見方なんだと思い当たった。ここは、都心にありながら変わらなさがいい。草木は日々変化しているのだけれど、その変わり方のリズムがゆっくりと人になじみ、安心をあたえるだろう。
 先にすすむと、木々の緑に囲まれて菖蒲田が見えだし、幸運にも最後の花々を崇めることに間に合った!田んぼにはすでに水は張られてはいなかったけれども、この霧のような雨が瑞々しさを遺していてくれた。四阿の茅葺屋根は葺き替えられていたけれど、この風景も、上京したばかりの30数年前同様、ほっとさせてくれて時間が戻ったかのようだ。さらに奥へと誘われると、自然湧水の清正井に辿り着く。都心のパワースポットとしてブームになってしまった分、以前ほどの神秘性が失われてしまったのは、まあ仕方がないのかな。

 内苑北門からふたたび参道へ。右に折れると拝殿と向き合うことになる。以前より外国人、とくにアジア人の観光客が増えている。1958年に再建されて風格の出てきた本殿を囲む回廊の屋根の連なりがいい、やっぱり伝統建物には屋根だ。したたる緑の中の屋根の存在が安心感と一定のリズムを建物に与えてくれるのだと思うことしきり。
 平成に入って新築された神楽殿の前を通り、社務所の先の北参道を進むと、ぐっと歩く人の姿が減ってきて大鳥居を抜けると、右手に神社本庁の黒々した建物が見える。そのまま銀杏並木にそって、山手線高架をくぐって並木にしたがっていくと、代々木・千駄ヶ谷方面へと続く。この参道は大正期に明治神宮が創設された際には、内苑と外苑をつなぐ裏参道として馬車道とともに整備されたそうだ。いま、両側の銀杏並木は残るが、地下には大江戸線が通り、どうやら馬車道の部分は首都高速がJR中央線と並行して走っていて、ここがかつて計画された北参道と意識できる人は少ないだろう。

 途中、国立能楽堂(1983、設計:大江宏建築事務所)をみていくことにする。古典芸能を意識しながらも建物は伝統的な様式を装った鉄筋コンクリートと御影石を組み合わせた現代建築で、とても竣工30年が経過しているようには見えない。九つの大小の屋根がリズミカルに連なる。
 やがて、千駄ヶ谷駅前にでると目の前に津田ホール(1988年竣工)と東京体育館(1990年)、ふたつとも槇文彦総合計画事務所の設計による。前者は青山スパイラルのファサードをすこし大人しくした感じで、駅に向かったコーナーが丸みで柔らかくデザインしてあるのが目をひく。後者は、いまにも飛び立とうとしている宇宙船のよう、屋根と立面にはアルミ板が使われてメカニックな感じがするが威圧感はなし。どうしても国立代々木競技場と比べたくなるけれど、敷地の広さにあわせ象徴性を押さえている分、まわりの緑や住宅地との調和が考慮されてるのだろう。背後の新国立競技場建て替え問題が議論を呼んでいるいま、それはそれでひとつの卓見だと思う。このトピックスには、一般市民の立場からいずれじっくりと整理して考えてみたいと思っている。
 
 東京体育館広場を通り抜け、外苑西通りを跨ぐ明治公園橋を渡り、その国立霞ケ丘陸上競技場正面入口に立ってみる。解体準備の工事囲いの向こうの競技場本体壁面には、オリーブの小枝をかたどった模様と東京オリンピック1964のメモリアルプレートがはめ込まれ、陸上競技優勝者名が刻まれている。きっとマラソン優勝者アベベの名もどこかにあるはずだ。
 ここはスポーツの聖地であると同時に、前身の明治神宮外苑競技場だった戦時中の1943年10月21日、文部省主催で時の首相東條英機が激励し、出陣学徒壮行式が行われた地でもある事実が重く迫ってくる。戦争の暗い影の歴史の上に平和の世界スポーツの祭典が開かれたのは、記憶されるべきことだろう。その記念碑があるのを知ったのは5月末の朝日新聞別刷be「映画の旅人 東京オリンピック」記事中だったけれど、残念ながら今回は見つけることができなかった。

 国立競技場を半周して、いよいよ終点の聖徳記念絵画館(1926年竣工、設計:公募当選作を明治神宮造営局で修正)の前に立つ。絵画館というくらいだから、これこそ歴史ある空前の規模のギャラリーで、それも近代の実存したお二人の人物事蹟をたたえる80枚の日本画と洋画が展示された絵画館だ。建物裏に回ると中央ドームの真後ろの位置には、明治天皇葬儀の際の葬場殿址があって、そこには楠の大樹が神々しく聳えていて、西洋近代化にひた走った「明治」という時代のメモリアル聖地を象徴しているかのようだ。
 ふたたび、表の絵画館正面階段にたって、広場から青山通りまでシンメトリーに連なる銀杏並木とその先の高層ビルが対比が見事なランドスケープに見入る。広場前の石造の旧国旗掲揚には、二頭のたて髪をなびかせた麒麟のブロンズ像が前足を高々と上げて向き合っている。ここは明治の幻影を引きずった大正期の壮大な都市計画が、大戦をはさんだ昭和を経て、平成の現代までとつながった歴史的文脈の中で存在してきているかけがえのない空間だ。

 
 一か月前、Mとふたり青山から表参道を横断して神宮前のワタリウム美術館に立ち寄ったあと、黄昏時の外苑西通りにでて青山通り側から、ライトアップされた銀杏並木ごしに眺めた絵画記念館を発見し、ロマンチックな気分に浸ったのもつかの間、ひと気の途絶えた静謐な並木のもとを歩きながら正面から近づいて見上げたときの何とも言えない不思議で神聖な感慨は、この幾重にも重なったこの地の地霊のようなものが呼び覚ましてくれたのかもしれない(いったいあの時は何を話したのだっけ?高尾にある大正と昭和天皇御陵のこと?う~ん、今から思うとあの情景のなかでは確かに相当ヘン!もしかして天皇の祖霊がいたのかな?)。

 ここがTOKYOという都市空間の優れた景観として鎮座し、平和の中この先もずっと変わらずにあってほしい、そう切に願う。




半夏生ず

2014年07月03日 | 日記
 ことしの夏至から11日目にあたる、七月二日は七十二候のひとつ、「半夏生」(はんげしょう)だ。この日は、地方によっては焼きサバやタコを食べたりするんだそう。ちなみに、我が家の夕食の食卓には前者が用意されていたので感心して、家人に知ってたの?と聴いてみたら、たまたまの偶然でした(それにしてもいいタイミング)。
 
 手元において愛読している「日本の七十二候を楽しむ 旧暦のある暮らし」(白井明大/東邦出版)をめくってみると、農作業の節目のひとつでこの日までに田植えを済ませた農家が休息をとる日、とある。新潟の実家では、中学生のころまで兼業農家をやっていて自分の家で食べる分の稲作をおこなってたけれど、そのときは「半夏生」という言葉はまったく知らなかった。この年になると自然の草木の様子や二十四節気とそれをさらに細分化した七十二候などに、季節の移り変わりをよく意識するようになった。
 それで先月の夏越しの祓(はらえ)の前日、たまたまのTBS「サンデーモーニング」を見ていたら、屋外中継でこの「半夏生」のころに咲く野草ハンゲショウ(ドクダミ科、和名は「半化粧」とも書く)を映していた。その涼しげな姿にはたしかに見覚えがあって、昨日二日「半夏生」の日に実物をみたいなあと思いながら歩いていた時、保土ヶ谷旧東海道通り沿いの寺院の庭先に、まさにその本物の姿を見つけたのだった。白く見えるのは花びらではなくて、葉の一部がこの時期に白くなったもので、穂のように見える部分が実際の花芯。花の部分が地味なので、受粉のための昆虫たちを引き寄せるため目立つよう、一時的に白く変色(化粧)して開花時期が終わるとまた、もとの緑色にもどるんだって!おもしろいね。

 
  七月二日夕方、見光寺(横浜市保土ヶ谷区)参道脇。花が咲き誇る境内には、コラムニスト青木雨彦の句碑がある。


 この時期に目についた花々の姿をもうふたつ。上は、オレンジ色が花が次々に咲きだすとまさに夏の訪れを感じさせるノウゼンカズラ。そしてその下が合歓(ねむ)の木によく似ているけれど、耳かきの綿毛みたいな真っ白の優しい花が夕方にひらく。名前がわからないのだけれど、どなたか知りませんか?


 この開花を迎えるとまもなく本格的な夏到来。すまいの近くの家先に毎年次々と花を咲かせるノウゼンカズラ。
蔓性の落葉木、中国原産。九世紀の平安時代に日本に渡来したという。


 横浜水道みちの脇、このあたりではほかに見かけない、清楚で密やかな白き優しき姿、その名前は知らない。すこし遠くで離れて見つめているのがふさわしいかもしれない。