日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

2024年初頭の音楽CDに読書三昧、セゾングループ回想

2024年01月10日 | 日記

 新春は寒の入りの最中、空は青く晴れ渡ってもう鏡開きの日だ。

 令和六年の元旦早々から、不穏で物騒な幕開けとなってしまった。能登半島を襲った大地震、羽田空港の飛行機衝突と炎上、北九州市小倉駅前の飲食街火事、山の手線車両内傷害事件と立て続けにあって、三連休の最終日八日は、目白台の旧田中角栄御殿が全焼という事態。この先、いったいどうなっていくことやらと、誰しもが不安になる余りに思考停止となりそうな日々が流れていく。

 昨年11月末に久しぶりに新譜CDのまとめ買いをした。長く愛聴し続けているアーティストたちが新譜を出した時期が重なったため、町田のタワーレコードに立ち寄った。その三人のアルバム、ポール・サイモン「七つの詩編」、ジャニス・イアン「ザ・ライト・アット・ジ・エンド」、そしてパット・メセニー「ドリーム・ボックス」の三枚を手に取る。
 ポール・サイモンは81歳での新作、ジャニスは72歳で最後のアルバムと公言している。いずれもシンプルで原点に返ったかのようなサウンドの中に、いまの心境が歌われている。ポールの飽くことなき探究心、ジャニスのふっきれたような清々しさが、長年のファンとしてはとても嬉しい。
 パット・メセニーのほうは、新作と言ってもエレクトリックギターによるソロ演奏曲未発表録音の中から本人が思い立つところがあり、聴き直してみて選び出した9曲にボーナストラックを加えた全10曲構成。その内訳は、自作曲が6曲と自作以外の有名曲では「カーニバルの朝」。そしてボーナス曲はなんとキース・ジャレット作品。パット・メセニーとキースは合わない思い込んでいたので、なんだか意外な印象がする。「コーラル」という曲名、これは「珊瑚」という意味でよいのだろうか。
 ギターソロとしては、20年前のバリトンギターによる「ワン・クワイアット・ナイト」と対になるような作品であり、静かな夜更けに聴き入るような内省的な雰囲気のバラード集アルバムだ。

 そしてつぎに書籍のこと。年末12月に入ってさみだれ式に本を四冊購入した。一冊目は小説、佐藤正午「月の満ち欠け」(岩波書店)、こちらはまだ手付かずのまま。
 隈研吾「日本の建築」(岩波新書)のほうをぼちぼちと年末から読み始めて、新年二日にことし最初の読み切りとなった。B.タウトから始まって、F.L.ライト、藤井厚二、堀口捨巳とつながり、吉田五十八と村野藤吾の対比、A・レーモンド、終章では丹下健三を取り上げている。日本近代建築史を通史する記述がされていて、その人選とこれまでの建築への興味がぴたりと重なった。

 翌日三日、ともに八ヶ岳山麓に別荘を持つ人気作家と社会学者の随筆本を読みはじめたら、どんどん面白くなってしまい、一気にまとめ読みした。梨木香歩「歌わないキビタキ 山庭の自然誌」(毎日新聞出版)と上野千鶴子「八ヶ岳南麓から」(山と渓谷社)の二冊は、同日町田久美堂本店で購入したもの。
 梨木香歩を読むのは初めてだったが、帯のリード文「生命はとめどなく流浪する 深く五感に響き渡る文章世界」に誘われて読みだすと、自然誌的な細やかな視線と社会に関するキリッとした意志に惹かれた。コロナ渦の2020年6月から2023年3月までの雑誌掲載分をまとめたもので、そのあいだにおける時代状況へのまなざし、自己との重ね合わせをしながら読み進めることになった。
 いっぽう、上野千鶴子の文体は対照的であって、彼女の口調を彷彿とさせる文章リズムが小気味よい。よくある山麓の田舎暮らし記ではなくて、「自然のなかの都会暮らし」と割り切っているところが潔し。文中のイラストレーションは山口はるみで、構成に彩を添えて有り余る。本編は別荘族と定住族の生活スタイルの違い、さらには定住族におけるガーデニング派と家庭菜園派の実態など。
 最終章には、お隣さん住人の歴史家色川大吉氏との「おひとりさま」同士の浅からぬ交流がつづられていたことに驚かされた。

 1980年代後半の一時期、セゾングループの端っこに在籍した身としては、上野千鶴子と堤清二との対談集が気になる。その「ポスト消費社会のゆくえ」(2008年文春新書)ではたして何が語られていたのか、ぜひとも読んでみたいと思う。

 西武流通グループが改称しセゾングループとなったのは1980年代後半だった。本社は池袋サンシャインビルにあった。そのセゾングループについて、当時からいまに至り回想すること。
 池袋百貨店本店八階にあった旧西武美術館はスポーツ用品売り場に、その上の書籍売り場リブロは雑貨文具のロフトへと変わっている。在籍当時の1989年に西武美術館は移転し、別館の1・2階フロアを占めて華やかに新装開場した旧セゾン美術館(よくローマ字表記で読み間違えられたSAISONからSEZON表記へ変更)があった空間は、いまは無印良品大型店舗がテナント展開されている。これもまた時代の潮流だからなのだろうと納得する。現代美術精神発露の前衛たらんと意気込んだ基地が、都市における民芸運動とも読める流れにのった路面からつながる消費空間へと変貌したのだ。

 有楽町西武はすでにビルテナントから撤退して、移ろいやすい大衆の記憶からはるかに遠ざかってしまっている。そして、1987年にピーター・ブルック演出「カルメンの悲劇」で鳴り物入り開場して、西武美術館と並んでセゾン文化を象徴した「銀座セゾン劇場」は、運営に行き詰まった挙句、2000年に「ル・テアトル銀座」と名称を変えたあと、最終的には路頭に迷うように閉館してしまった。
 同じビル内にあった高級路線で宣伝していた「ホテル西洋銀座」、映画館「テアトル西友」(資本の関係にしても何故この地で西友の名称なのかわからない)ともども建物自体が取り壊され、その目に見える存在自体が消えてしまっている。もともとこの地には「テアトル東京」という大スクリーン・大型客席の単独映画館が聳えていた。

 堤清二が目指したグループ企業理念と消費社会との距離、その紆余曲折のはての大失敗、教訓と残された遺産の功罪について、単なる郷愁に押しとどめていてはあまりに勿体無い。

江之島相模湾 波のモニュメントの向こうの初春富士山


江の島サムエルコッキング苑(2024.1.8 撮影)


2023年の新潟、福岡帰省あれこれ

2023年12月31日 | 日記

 2023年も最後となる年の瀬の大晦日に、この一年を振り返ってみる。

 一言で述べると、なんといってもこれまで生きてきた人生の中でもっとも旅にでたり、外泊の頻度の多い年だった。その理由のひとつはずっと懸案だった新潟の実家の建物の取り壊しのためである。
 4月の冬支度明けのかたずけ、委託業者若社長との顔合わせから始まり、7月の草刈り作業立ち合い、夏の取り壊わし作業前後の立ち合いと確認、9月の更地となったあとの墓参を兼ねた叔母たちとの帰省も含めると、なんと都合七往復もすることとなったからだ。
 いま改めて振り返っってみると、もっと効率よく取り掛かることも可能だったはずなのに、取り壊し時期を決めてからも、ぐずぐずと躊躇気味であって未練がましかったように思う。決断と実行には程遠い、“家終い“騒動だったが、もうやるしかないと背中を追い出された思いがする。

 その過程の中で、5月には糸魚川まで足を延ばして、設計者である村野藤吾の生誕132年目にあたる15日に、その最晩年作である谷村美術館を再々訪問した。雪国の田園地帯に突如あらわれた中央アジア砂漠の遺跡か幻の城郭楼のようといった佇まいは、竣工後40年の歳月を経て、さながら大地から生えてきたかのように風格を増していた。
 さらにもう一か所、生誕100年を迎えた直江津出身の異才、渡辺洋治設計のコンクリート打ちっぱなしぶっ飛びモダニズム建築である、善導寺を念願かなって訪れている。それはまるで住宅地のなかに、空母船体が座礁したかのような迫力あるフォルムとして出現する。二階のテラスからは横一直線に伸びる北陸新幹線高架のむこうに日本海の水平線が望めるだろう。
 ふるさとに立つふたつの異色の近代建築物を目の前にして、その驚きと感慨は、本来の家終いが目的の帰省すら霞んでしまうような気さえした。

 福岡には新潟帰省の合間を縫うようなタイミングで、8月の義母三回忌法事と12月姪っ子結婚式で二度にわたり、いずれも新幹線往復の旅だった。
 8月のときには、博多から船で志賀島へと渡り、志賀海神社を振り出しに金印公園、休暇村など島周回四キロのサイクリングひとり旅を敢行した。すこし高台にある金印公園から玄界灘を望めた時には、さすがに古代史の場に臨んだという感慨が深かったなあ。
 12月は、大宰府都府楼跡から令和元号ゆかりの坂本八幡、観世音寺、戒壇院をへて御笠川沿いに歴史の道を歩き、大宰府天満宮まで至った。本殿が改修中でその前に話題の仮本殿、屋根に草木が生えているユニークなもので、仮といっても立派な佇まい。

 披露宴にあわせて、娘がソウルから合流して博多港ちかくの福岡サンパレスに滞在中、ちょうど本人誕生日の前日にあたる四日、家族三人で円筒形棟展望レストラン“ラピュタ”で、お祝いディナーをともにすることができたのは、なによりの出来事だった。



 博多港と博多ベイサイドプレイス(2023.12.3)


大宰府都府楼前 万葉歌集碑

 翌日誕生日の午前中、ソウルへと戻る娘を空港まで見送った。韓国ソウルは遠いようであっても思いのほか近く、午後の新幹線帰路途中大阪あたりで「いま、インチョン(仁川)空港へ着いたよ。」とのLINEが届いたのにはびっくり。
 わたしたちが乗車した“のぞみ38号”は、博多駅を午後2時36分に出発し、新横浜に午後7時過ぎに到着した。それでも五時間足らず、陸路とはいえ驚くほど正確で速いもので自宅には八時過ぎに無事到着。娘のほうもちょうどそころまでにはソウル市内の自宅まで戻れたようだ。
 こうなると、ソウル日本(福岡)飛行機往復も博多と新横浜新幹線往復も時間的には、ほぼ変わらない。現代交通事情の発達と恩恵、移動の妙のようなものをあらためて思い知らされた感があり。


懐かしの池袋西武を訪れたら、八ヶ岳高原ロッジへと繋がった

2023年07月31日 | 日記

 ことしの梅雨があけた七月下旬、久しぶりに池袋を訪れた。こちらも久しぶりの東京芸術劇場は、アナトリウムの巨大さに改めて驚かされ、すぐ前の駅前西口公園を横切る際の人並の多さに街中のにぎわいが戻ってきていることを実感した。
 夕方に所用が済んだのですこしブラついて駅脇に僅かに残された古くからの飲食店を捜す。広場に面してのしもた屋風の店構えで、若き日の仕事帰りに良く通った思い出の民家調居酒屋「自在」はとうになく、雑居ビルへと変わっている。新しくなっても看板は残ってほしかったけれど仕方がない。並びの居酒屋「ふくろ」は新しくなって赤ちょうちんの飾りもそのまま、営業を続けている。

 沖縄料理の老舗だった「おもろ」はどうだろう。二階建ての外観はほぼそのままに居抜きのかたちで別の経営に変わってはいるが、雰囲気は濃厚に残ったままだ。山之口獏が命名したそうで、檀一雄、木下順二、野坂昭如など名だたる文化人が通ったそうな。そのお店の空気感は一階のカウンターや二階へとつながる階段などにいまだ面影が残っているように感じられる。

 通常ビックリガードと呼ばれていた頃もあった!山手線と西武線ガード下をくぐって東口側へと回り、池袋西武へと別館側から入ってみた。
 懐かしの池袋西武は強大なウナギ寝床だ。目白寄り別館はもともと駐車場ビルだったフロアを改装したようで、テナントとして書籍の三省堂(リブロはとうにない)と無印良品が入居していた。三階にある西武ギャラリーは、かつての西武美術館(その後セゾン美術館と改称された)の流れをかすかに汲んだ遺構なのかもしれないと思った。もっとも継承という意味では、中軽井沢に「セゾン現代美術館」が収蔵コレクション作品をもとにした展示公開活動を1981年より、地道に続けている。
 かつての美術館のフロアは本館の増築部分当初12階にあったはずで、改称時に下階に拡大オープンした記憶がある。いまは雑貨文具店のロフトへと変わってしまっている。よく通った多目的スペースの「スタジオ200」はとうに幻となり、もう存在しない。

 駐車場入り口横で目指すところを探すけれども、フロアマップにその表記はなく、受付に確認すると六階フロアと教えてくれた。その六階は高級ブテック、宝飾店などが連なるフロアでもっとも百貨店らしい雰囲気がする。目指す「八ヶ岳高原海の口自然郷情報サロン」を見つけたのは中央あたり、思いのほかこじんまりとした間口だ。
 この小さなサロンは富裕顧客を対象とした別荘販売窓口ということになるが、そこはかつての西武セゾングループのよき時代、豊かな自然に囲まれて環境のなかに八ヶ岳高原ロッジがあり、東京目白から旧尾張徳川邸を移築して八ヶ岳高原ヒュッテとし、さらに吉村順三設計による八ヶ岳音楽堂もある文化的リゾートライフを演出している。この三か所の建物の存在があってこそ、ほかの別荘地との違いを象徴している。
 その始まりは意外に古く60年前、バブル時代を遡る1963年からなのだ。そして旧徳川邸は堤康次郎時代の1968年に移築してことしで55周年、そこでのサロンコンサートが建設のきっけになった音楽堂は、子息セゾングループ代表の堤清二氏の肝いりで建設され、1988年の竣工から35周年を迎えた。
 それぞれの移築や建設に至る詳しい経緯は知らないが、いまに至るまで堅実かつ地に足をつけた経営を続けてこれたのは、思いのほかオーナー経営者の意向が介入されずに別荘族の親密なコミュニティと協調してきた現場経営側の姿勢や、時流に流されずに長期的な展望と視点があったからなのだろう。

 池袋サロンで手にした「八ヶ岳森祭」リーフレット、そこに記載された展示や記念フォーラムからもその継承の雰囲気が伝わってくる。「アーツ&クラフツ ~ W.モリスによせて」と題されたチェンバロコンサート&トーク、自然郷開拓当時の様子を写したパネル展や藤森照信さんの講演とチェロコンサートがある旧目白徳川邸移築55周年フォーラムなど興味をそそられる内容であり、すこし無理をしてでも秋のお彼岸の頃にあわせて出かけてみたい気にさせられる。ここにF.L.ライトゆかりの建物か調度品があればもう最高なのになあ。

 五月下旬に小海線の乗って清里から南牧村の八ヶ岳高原周辺を巡る二泊三日の旅にでかけて、いま目白、池袋西武、そして八ヶ岳高原がひとつの大きな輪になって繋がって気持ちも大きく広がってゆく。ようやくここまでつながる連鎖の中に人生半分にあたるであろう、四十年余りの時が流れていて不思議なものだ。

 もう、夕暮れから黄昏時になるころ、迷いなく南池袋の名店「母屋おもや」に立ち寄ることにした。ビルに建て替わってからは初めてだけれど、こじんまりした店内の雰囲気はあまり変わらないようだ。
 もつ煮込みに焼き鳥セットのお任せを一皿、秋田の日本酒冷やでいただき外に出ると、あたりはもうすっかり暗くなっている。足早に駅に急ぐ人の波、名残りはあるけれど、そろそろ帰路に着く時間だろう。
(2023.7.31書き始め、8.23 処暑 校了 9.5「母屋」追記)

追補:一世を風靡した、と枕詞のように形容されるセゾングループは、いまはとうに幻、というよりも当初から消費社会に咲いた“あだ花”と言ってもよく、DNAを各方面に遺して散っていった。
 かつてのグループの象徴といってもいい旗艦店西武百貨店池袋店で8月31日、夏の終わりに歩調を合わせるように労働組合によるストライキが決行され、一日休業したことがニュースとなった。その日の午後、親会社取締役会において外資系ファンドへの売却が決まったことも記しておく。
 当初組合設立を先導したのは、堤清二氏だったとされる。この機におよんでようやく若き日の堤氏の意向が実行され、日の目をみたのは時代の機微か、または皮肉アイロニーかもしれない。(2023.9.7)

 猛暑の季節 花二題


暑さで藤の花もビックリ!(小田急線踏切近く三角公園)2023.7.26

八月最初の日のハスの花を見に行く(町田薬師池公園)2023.08.01


八十八夜から立夏のころ、箱根芦ノ湖畔へ

2023年05月06日 | 日記

 
 
 新緑の八十八夜が過ぎると、すぐに二十四節気「立夏」がやってくる。小学生のころ、唱歌「茶摘み」の歌詞にある「夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘みじゃないか あかねだすきに菅の笠」と、とんとんリズムよく歌いながら、手遊びに興じたことを思いだす。
 
 その間の五月四日は、寺山修司が1983年(昭和58)に47歳でこの世を去ってしまってからことしでちょうど四十年になる。当人が健在であったならば、現在87歳を迎えているわけだ。そのときの流れの速さにただただ驚かされるばかりで、ひたすら呆然としてしまう。
 寺山の墓は高尾駅から少し奥に入った曹洞宗高乗寺高尾霊園にあるが、久しく訪れていない。黒の墓標の上面には開かれた本のオブジェが彫られていた。もちろん、新しいページはめくることができないわけで、そのデザインは粟津潔ではなかったかと思う。今月中のうちに喧騒をさけて高尾まで墓参に出かけてみようか。

 生前の寺山修司を二度見かけている。1980年ころの池袋西武スタジオ200における岸田秀氏だったか谷川俊太郎氏だったかとの対談(ビデオレター交換による映像だったかもしれない)、それから渋谷ジァンジァンにおいての劇団天井桟敷公演「観客席」だったと記憶している。いずれの空間も今は存在しておらず、時代の変化とともに別の名称用途へと変わってしまった。
 当時の記憶が蘇り、亡くなってからの印象が強くなってくる人物はほかにはあまりいなくて、その形のない存在をどう受け止めていったらいいのか戸惑っている。大学生時代はあまり熱心なファンでもなく、たった一本の舞台と数本の映画を観たくらいで入れ込むことはなかったのに、何故か気になり続ける人物なのが我ながら、どうにも不可思議なのである。

 週末にあたる立夏の午前中は、昨年11月に購入した自家用車の六か月点検予約が入っていて、ちかくの神奈川ダイハツ店舗まで出かけた。この先10日後、新潟の実家まで高速道を往復する心づもりがあったこともあり、ちょうどいいタイミングだった。
 午後、92歳の誕生日を迎えた母の自室を訪問して、ささやかなコーヒーゼリー入りのお菓子と誕生祝いの花を飾って祝う。本人はもう正確な年齢は言えないというか覚えていないけれど、誕生日はしっかりと覚えていて、笑顔で口にできるのは親ながら大したものだと思う。

 と、ここまで備忘録的に記してきてからの本編、皐月の箱根旅について記そう。

 立夏をすぎたばかり、箱根芦ノ湖畔にある山のホテル庭園のツツジとシャクナゲが見ごろだというので遠出をすることにしたのだ。
 その日は、朝方からの生憎の雨がお昼頃からは嵐のような豪雨に変わってしまい、芦ノ湖遊覧船が欠航になってしまっていた。それで仕方なく元箱根からホテルまで連絡バスで行ってラウンジでしばらく雨宿りをしていた。せっかくの庭園見物はお預けで、ホテルにある展望室まで登ってみると湖に向かって大きく視界がひらき、ようやく見事な色とりどり!のつつじ園全景が見渡せた。
 ホテルのシャトルバスで元箱根まで戻り、桃源台方面行きの高速バスへ乗車する。そうしたら、なんとそのバスは先ほどのホテルロータリー前を経由していて、わざわざ元の場所まで戻ることはなかったのにと笑ってしまった。そのまま湖畔東側を通り箱根園経由で宿泊先へと向かう。
 桃源台へ到着したときも暴風雨状態で、ロープウェイ駅舎内のがらんとしたレストランで昼食をとりながら、芦ノ湖を眺めていた。もう、周囲の対岸も霞んで見えないくらいのすごさでこれもめったにない自然との遭遇と思い、それもよしと達観するしかなかった。

 天候の回復の兆しがまったくない雨の中、傘が飛ばされないように急ぎ足で宿泊先までたどり着き、ロビーでチェックインを待っていた。ほかにも外国人を含めて数組が待機していた中、少し早めて二階和洋室に入ることができ、ようやくほっとした。
 窓を叩きつけるようなひどい雨が続き、嵐はますますひどくなっていた。降った水流が嵐に吹かれてホテル入り口へつながる敷地内を逆流している。もう、ここが湖畔にいることすらわからなくなってくるほどで、湖畔から少し離れた高台にあることが不安を和らげてくれて救いだった。
 こうなったら、温泉に入ってごろ寝して寛ぐほかはないけれども、ある意味これ以上ないような非日常の上等な過ごし方には違いない。目覚めた翌日も嵐は止んでも、まだ雨は残っていた。まずは温泉入浴、誰もまだいないゆったり朝湯はまた格別によい。朝食会場の広いウインドウからはゆるやかに下っていく前庭のさきの新緑がさわやかだ。湖周囲の山並みもうっすらと霧の中に浮かび上がってきていて幻想的な情景が拡がる。

 予定通り遊覧船が就航するとのことで、宿を出て桃源台から午前9時半の箱根町行に元箱根まで乗船する。たちまち船内は昨日足止めを喰らっていた観光客が沢山乗り込んできてにぎやかだ。静かに船は湖面を進む。一瞬晴れ間が出てきたかと思うと再び曇が拡がって、湖畔周囲の霧はたたずんだまま、周辺先は見渡すことが叶わない。こんな情景の就航に遭遇するはたぶん初めての体験だけれど、それもよし。
 元箱根に着き、雨が上がりきらないなか、湖岸を歩いて杉木立の参道を箱根神社へと向かう。石段を登りきると雨に濡れた本殿前にでる。記憶にあるよりも少しコンパクトな作りであるように感じたのは、周りを木立に囲まれているせいだろうか?
 ここから昨日のホテルはもうすぐだ。やがて忽然と道べりに湖畔に向かってせり出したベージュ色の瀟洒な喫茶室が見えてくる。そこはホテルの旧漕艇庫だったと聞いたことがあるが、なるほどという佇まいである。
 
 ホテル正面脇の通路から庭園ヘと進んでゆく。視界が高まって湖側へと開いていくと見事なくらい大きな植え込みに咲く色鮮やかなツツジたち。今朝までの大雨で傷んでしまった株もあるけれどいまが丁度の見ごろ。
 遠路を高台に上って行き見下ろせば、やはりここからの眺めは圧巻!岩崎男爵家別邸見南山荘時代からの歴史の重なりを感じさせながらも、芦ノ湖と周囲の山並みの取り合わせが唯一無二だろう。
 あいにくの天気で富士山の姿こそ望めなかったものの、川瀬巴水が描いた昭和初期の庭園風景版画情景を重ねてみると、その感慨は芦ノ湖の深さほどに増してくる。当時の風景画にはないホテルの深い赤レンガ色の瓦屋根を載せて横に長く伸びた建物本館がすっかり庭園風景と調和している。



 ツツジ園のさらに上の道をたどれば、シャクナゲの林へと続く。こちらのシャクナゲ株も大きく育って、かるく人の高さを越えて、見事に咲き誇っている。藤棚へと下ってくる脇には、野生のままに育ったマメザクラが小ぶりの花を咲かせていた。やはり、ふもととは標高が違う!
 本館の近くまでもどってきた芝生地には、復元されたという青銅製の天使と見まごうようなかわいい子獅子たちが支える台座の上に日時計が設置されている。案内板に記載された説明によると、その台座は男爵別荘時代からのもので、上部日時計部分が欠損したまま時が流れて、2009年5月に復元されたもの。

 もう、雨はすっかり上がってきていて温度が上場してきたせいで霧は湖を包んだままだ。新緑が目に柔らかく、雨を含んでいてしっとりと美しい。こんな箱根での滞在もまた得難い時間だろう。



 日時計版表版には「標高744m 見南山荘」とある。

追記:日時計の外観からしてもしやと思い、銘板を確認するとやはり小原式日時計、この作者小原輝子氏は相模原市南区在住でいらして、文字通り知る人ぞ知るご近所の著名人なのである。(2023.5.23記)


さよなら、東芝林間病院

2023年04月30日 | 日記

 きょうの駅からの帰り道、東芝林間病院のある通称さくら通りを通ってゆくと、見慣れた正門からの情景が変えられている様子が目に入ってきた。診療科目が掲出された病院案内版が撤去されていて、正門の塀の名称表示部分にブルーシートが張られ、建物正面入口の軒先に掲げらていた病院名文字のあたりがシートに覆われたままで、翌日に備えられている。

 徒歩圏にある最寄りのかかりつけ病院として利用させてもらってきた。本日をもってその名称のもとで東芝健康保険組合直営の運営体制を終えて、新しい医療法人に引き継がれるための準備であることはわかっている。それでも見慣れた名称が変わってしまうことに淋しさを抱くとともに、医療法人コンサルタント会社主体での新しい運営体制の移行については、正直一抹の不安を拭えない。
 ここに至る変遷は、数年来経済ニュースをにぎわせている株式会社東芝本体の経営不安からくるものの余波が、運営当事者である健保組合の財政状況にもボディーブローのように押し寄せたものと推測されるが、たしかに数年前から予兆の波やうわさは何度もあった。その象徴的なことは、もう十年以上も前になるが、国民的アニメ番組“サザエさん”のスポンサーから東芝が撤退してしまったこと。テレビ番組のサザエさんと言えば東芝のイメージが定着していたのに、ちょっとしたショックだった。

 個人的に東芝林間病院としての最後の受診は、ほんの三日目のこと。遡る二月はじめの受診の際にまだ若い主治医が、今後の診療体制が見えないところもあるからと、五月からの移行を前にして予約を前倒ししてくれたものだ。結局その医師はそのまま退職することなく、詳しい事情は伺うすべもなかったけれど少なくとも当面のあいだ、新しい医療法人に“転籍”して勤務を継続することにしたらしい。
 変わったのは、院内処方がなくなり院外処方のため、支払いがまとめてできなくなったこと。そのほかに、中規模病院として自前の医療検査体制を整えていることに変更がでてくるかもしれない。病院自体は地元に定着して、中堅規模の病院として地域には大きく貢献してきたことは記憶に残るだろう。
 小田急江ノ島線の急行が止まらない小さな駅にとっては、「東芝病院のあるところ」と言われるくらいの代名詞的存在だった。敷地は大きな木々に囲まれて緑が多く、前庭のよく手入れされた植栽も見事で、桜並木どおりと相まって四季折り折りの花を咲かせて和ませてくれていた。
 個人的にも四十年以上にわたって馴染んできただけに、詳しい裏事情はわからないままだが、東芝の名が消えてしまうことは、その開設の歴史をたどってみてもなんとも残念な思いがする。

 ホームページの沿革欄によれば、病院の設立は戦後しばらくの1953年(昭和28年)のこと。なんと当時はまだ怖かった結核治療・療養施設としてのスタートだったから、時代を感じさせる。この地も“林間”の名にあるとおり、はるか郊外の人里離れたのどかな地であったことが想像に遠くない。
 何度かの変遷のあと、その結核病棟が完全廃止されたのが1986年(昭和61年)四月、もうそのころには当地に住み着いて数年たち、大学を卒業して社会人になっていたので、意外にも最近まで存在していたことに驚かされる。そのころにテレビドラマの舞台の一場面として登場したこともあったらしい。

 2005年(平成17年)は五階建ての新病棟が竣工し、前後して内視鏡センターや人間ドッグが稼働して医療体制の充実度が各段に上昇していた。これらの資金は、通りを挟んで向かいのかつての職員宿舎などが並んでいた敷地を売却して得たものだろう。いまは野村不動産分譲の十二階建て250世帯ほどの規模のマンションとなっている場所だ。
 マンション建設前のこと、夏の季節はここを通るたびに、平屋建ての職員宿舎が並んだ周囲は松の大木にクヌギなどのうっそうとした木々に囲まれてた、いまから思えば結核療養所の名残りの様な空間のなかに、時間が止まったようなひんやりとした静謐な空気が流れていて、不思議な気分にさせられたものだ。
 まったく駅前からは、歩いてわずか数分なのに新棟が建つまえの病院側の敷地も鬱蒼とした木々が茂って、芝生地や耕作用の畑などがあり、周囲はちょっとした散策用の遊歩道になっていて“サナトリウム”的な雰囲気をわずかに残していたかのように追想できるのだ。

 数年前のこと、健康診断で指摘があり、ここの内視鏡センターで検査を受けたところ、大腸ポリープが見つかり、じつに小学生以来の久方ぶりの入院となって、摘出手術を受けたことも記憶にまだ新しい。病室の窓からの風景が見慣れたいたはずなのに、その方向と高さが変わっただけでひどく新鮮に見えたことを思いだす。さらに入院中、台風のような大風があり、その通りの桜並木の大木が一本が真夜中に倒れてしまい、朝方に気がつくと通りを塞いで大騒ぎになったしまったこともあった。

 そんなこんなことがあり、当地での暮らしのとなりくらいの距離に東芝林間病院はあって、年数回定期的に生活習慣病予防と日常体調チェックをかねて通院を続けていた。住まいから最寄り駅への行きかえりは、たいていの朝方は横浜水道みち沿いの草木の変化を眺めながら、夕方や夜間はこの病院通りの照明灯にうかんだ桜並木の下を通って行き来していた。それは今後もおそらくは変わらないだろうが、見慣れた駅前の情景も少しづつ変わってゆく。

 昭和からの歴史を感じさせる看板、ちょっとした上部のエレガントな飾りがいい。


菜種梅雨、日常坦々花紀行

2023年03月23日 | 日記

 この春の花の季節は、寒さのわりに出足が早いようだ。昨年末からのスイセン、一月の初梅に始まって三月に入り桜も寒緋桜、山桜、枝垂れ、ソメイヨシノと五月雨式に咲き継がれてゆく。
 今朝は菜種梅雨の合間、散歩をしようと近くの公園まででかけた。このすり鉢状の雨水地下調整池公園は、周囲を回遊式の通路が巡り、底辺部分が多目的グランドとなっている。
 その通路周囲に植わっているソメイヨシノがまさに見ごろとなり、グランドへ向かって長く枝ぶりを延ばしている。その下を歩いていくと桜色のトンネルで見上げた青空の対比が美しい。改めてそのソメイヨシノを数えてみると11本ある。公園の道路側に沿って植わっているので花の盛りを真近で眺めながら、反対側へ回ってみて、その全景をグランドごしに遠望するのもいい。桜景色のはるか先の向こうは大山丹沢の変わらぬ山並みである。

 ことしの弥生月、思い立つまま車に乗り、近隣ふたつの里山地域まで出かけた。
 中旬の一日は良く晴れて、小一時間ほどのドライブにはもってこいのぽかほか日和となる。国道16号を城山かたくりの里までの道のりだ。このあたりは相模原と町田と端っこの境目、城山湖も近いのどかな雰囲気が漂うところ。川尻八幡神社の大鳥居が建つ表参道入口からすすんで、横道を入っていくと里の入り口、駐車場につく。そこにも早咲きの濃いピンクの桜がちょうどいい感じで咲き誇っている。

 かたくりの里は、個人所有の裏山をこの時期だけ有料で一般開放している。姫コブシの咲く素朴な受付の感じがまずもっていい。入場料500円を払って進むと、よく手入れされた南向き斜面一面にカタクリ堅香子が群生していて、うつむきかげに清楚な薄紫色の五辯花を咲かせている。なんとも可憐で恥ずかしそうにしている乙女の早春姿に重なる印象で、万葉集にも一首歌われている。
 遠くなってしまった少年時代のふるさとの日々が蘇り、なつかしい思いがあふれてくる花だ。

 ゆるやかにくねりながらのぼっている小径の両側には、雪割草、日陰ツツジ、ミツマタ、椿、福寿草、御殿場櫻、ほうき桃と、もうあたり一面が花、花、花の極楽浄土の有り様。
 途中で長椅子に腰かけてひと休み、あたりを眺めながら、おやつをほうばる姿は、文字通り「花もよし団子もよし」といった様子かもしれない。咲き始めた桜も薄ピンクに頬染めて、どこへ気持ちを寄せているのか、といった風情である。やはり、咲き始めの頃の花が一番美しいと思う。


城山かたくりの里(2023.3.16撮影)

 それから数日後の晴れ間、成瀬街道から恩田の丘を越えて奈良町に入り、TBS緑山スタジオを横に見ながら丘をこえて岡上営農地を過ぎ、三輪の里まで足を延ばす。高蔵寺光明会館駐車場に車を置かせてもらい、里山巡りの小さな旅の始まりだ。
 花の寺で知られる真言宗見星山高蔵寺は、昨年一月明けてすぐの失火で本堂ほかが全焼してしまい、そのニュースを知った時には言葉もなく茫然とした。参道入り口の門は閉じられたままだが、境内の桜やコブシの花が咲きだしている。この四月から庭園の一部を週三日に限って参拝が再開されるとの張り紙がある。
 ここを起点に歩き出してすぐ、菜の花と寒緋桜の競演が見事な里山畑地が広がっている。このあたりの家々は「荻野」という表札が多いが、ここも代々の地主の方が守ってきた土地柄、戦国時代にはもののふの行きかう山城のひとつだったらしい。その中世からの地形の雰囲気はいまもそこかしこに残っている。
 ともあれ長閑さとはこの三輪の里のこと、あちこちからウグイスの競うかのような初音を聴く。

 畑地のむこう、一段高くなったところに樹勢の見事な山ザクラの大木が数本自生していて、枝枝いっぱいに白い花をつけ、四方八方へと延ばしている。手前の畑地には菜の花が絨毯となり、その色の対比も鮮やかなまるでもって田園絵画のような風景が目の前に広がっている。
 お屋敷の入り口には、咲き出したばかりの枝垂れ桜の大木、あと数日後が素晴らしく見ごろになるのだろう。見通す先には丹沢の山並みの間、青空に突き出して真っ白な富士の頂がちょこんと覗いている。この時期この時間だけ見ることができるであろう情景に違いない。

まほろば三輪の里 風景庭園(2023.3.20撮影)

 自宅の駐車場まで帰ってくると、造園業者が薄雨模様の中をマンション敷地内北斜面自然林の手入れの最中だ。新緑が芽吹きだす前の時期にコナラ、クヌギ、ミズキなどの雑木林の伸びすぎた先を切り落とし、地表に陽光が届くようにと、植木職人さんが高所まで命綱をつけて登り、枝打ちの作業をしている。
 階段を上りながら足元を見ると、作業途中で落とされていた山桜のひと枝がどさりと落とされている。いっぱいの花が見事でこのまま処分されるのはあまりにも忍びない気がした。すこし考えたあとにそうだと一計が浮かび、監督者にお断りして小枝の何本かをもらい受ける。
 家まで持ち帰って、即席で青い花瓶に生けてもらい玄関に飾りつける。あふれるくらいの清楚な佇まいがあっていい。ああ、花盛りを救えてよかったなあ、と思いつつ眺めていた。


 
 明日はようやく春分の日、これから少しづつ日中の長さが伸びて暖かくなってゆく。

 


中野サンプラザと鵠沼訪問記

2023年02月27日 | 日記

 如月の初め、熊本の友人が仕事の出張で上京してくることになり、よかったらどこかで会おうよ、ということになった。二泊三日の滞在の内の機会に用件や会いたい人、訪れたい場所があったようで、何度かのやり取りの後に「ひとまず中野で逢いましょう」ということになった。

 この友人とは40年来近くにもなる付き合いでその始まりは、いまも中野駅前にあって良く目立つ白亜の三角形ビル、当時の正式名称“全国勤労青少年会館”内に存在していた「勤労青少年大学講座」の受講生としてである。ずいぶんとお役所的な硬い印象のその会館の愛称こそ「中野サンプラザ」で、1973年6月1日に開館して今年で半世紀50周年を迎える。東京在住者ならだれでも知っているランドマークのひとつだろう。

 当時からそしてこの七月に閉館が迫っているいまも、ポピュラー系コンサートホールとしての知名度は抜群といっていい。くわえて地階にはプール、ボーリング場、地上階には学園講座、研修室、図書館、職業相談室、上層階にはホテルや展望レストランと都市の要素が何でもひとつの建物中に揃っている夢の空間だった。
 その中野サンプラザが、中野駅北口周辺の大規模な再開発に伴って今年の7月2日でとうとう閉館し、取り壊しが決まったという。昭和40年代から平成にかけての都内における象徴的な建物のひとつ消えることになる喪失感は大きい。


 その思い出の詰まった中野北口にあるサンモール商店街の奥の横丁、当時からある魚料理の名店「陸蒸気」ですこし早めの乾杯!一階から二階へと吹き抜けになっている囲炉裏端を取り囲むカウンター、古民家の太くて黒い梁がそのまま店内に使用されている様子はなかなかの迫力。十年前の大学講座同窓会はここで開かれたが、入り口前のにぎやかな踏切警報気音は鳴っていなかったけれど、まったく当時のまま健在なのは嬉しい。
 夕方五時前で二階席を案内されたがおじさん、おばさんだけでなく、つぎつぎと訪れる若者たちで大にぎわいなのに驚かされる。決して値段は安くはないのに、内装の雰囲気と鮮度の良い魚料理のうまさが今も昔も人をひきつけるのだろう。

 午後七時前くらいに店をでて、飲食店街雑踏の中を駅方面へ向かい、喫茶「ルノアール」でクールダウン。中野駅ホームから望めるサンプラザのシルエット姿、窓には煌々と明かりが輝いている。この見慣れた光景も間もなく見納めとなる。少なくとも仲間うちで眺めるのは最後だろうか。中央線新宿駅で乗り換えて小田急線で帰路に着く

 翌日午前10時前に藤沢で待ち合わせて、サンプラザ講座生時代にお世話になった恩師、江橋慎四郎先生の仏前参りへと伺う。お供えの物は、この季節イチゴとお菓子にして、江ノ島線に乗り込む。
 鵠沼海岸駅で降りて、生活感のある商店街を懐かしく感じながら通り過ぎ、落ち着いた住宅地の中を少し迷いながら当時の面影のある古風なご自宅へと向かう。途中、あの欧風菓子店舗「クドウ」もいささかくたびれているが、当時のままに在るのだった。

 ご自宅玄関では江橋先生の娘さんが迎えてくださり、奥様はことし百歳を迎えられてご健在だった。良き時代を写し取ったような居間のソファ、そこから望めるふるくて落ち着いた中庭の植栽。すべての時間が泊まったかのようだ。わたしたちはまだ二十代であった約40年前の青少年大学講座生の夏のときに招かれて、この居間に集わせていただいた。そこから江の島の望める鵠沼西海岸まで歩き、海水浴をして遊んだ記憶が鮮明に蘇る。
 仏前に合掌させていただき、いくつかの思い出話をしてお昼間にお邪魔をするつもりが、恩師の若き学徒時代、戦時の運命に翻弄された神宮外苑競技場での歴史的エピソードや晩年のご様子などを伺っているうちに、進められるまま折寿司のお昼までいただいてしまうことになる。
 約二時間弱が過ぎてようやく話が落ち着き、お暇しようと立ち上がると、故人の好物であったという鎌倉豊島屋サブレ―セットの紙袋を持たせていただき、おおいに恐縮するのだった。

 玄関口で靴を履こうとしてあらためて目に入ってきたのは、額縁に飾られた大津絵「藤娘」、好きな画題である。外にでてから影向の松の枝が伸びる門柱を見れば、時代を経ていい感じに風化した大谷石が使われている。住宅地家屋のあちこちに、鵠沼別荘地のなんとも古き良き時代の面影が残っている。


早稲田学生街から山手線界隈目白まで

2023年01月24日 | 日記

 小正月前の週末、久しぶりに早稲田学生街まででかけた。中央林間から田園都市線経由で九段下乗り換え地下鉄東西線早稲田駅下車、約一時間半あまりの乗車時間。乗ってさえしまえば地上へ出たとたん、もうそこらあたりは早稲田大学学生街、あいにくの雨模様で傘を差して歩き出す。

 早稲田大学演劇博物館を目指すが方向に迷ってしまい、ようやく早稲田通りから横に入ってゆき、南門からキャンパス構内に入ることができた。学内建物は大部分が新しく高層化していて、大隈重信公銅像が小さくなって見える。
 一番奥まったさきに中央部分に赤瓦屋根の展望塔を抱き、コの字型の両翼を広げた演劇博物館が見えてくる。昭和初期、16世紀イギリス劇場様式をふまえて坪内逍遥の発案により、今井兼二らの設計で竣工したもの。入り口横右手には、逍遥を偲ぶ會津八一の歌碑が立っていた。正面バルコニー下が舞台面となっていて、建物広場が観客席になる。張り出し屋根の下の壁面に掲げられたシェイクスピア劇の名セリフ、“この世はすべて舞台”に呼応して、演劇博物館にふさわしい造りとなっている。

 博物館右手に隣接した五階建ての白い箱型リニューアル建物は、昨年度華々しく開館した国際文学館、通称村上春樹ライブラリーだ。ご本人からの資料の寄贈がきっかけで誕生し、館内村上春樹文庫ではなくて文学館全体の通称名となってしまうことが自体がトピック。村上文学のイメージからすると地域的記念館となるよりも、大学文学館のほうがインターナショナル的であるのかもしれない。
 それにしても約半世紀前の卒業生になるとはいえ、現存作家名を通称とする文学館が社会的大学イメージを先導するようなことになっているとは、国内はもとより世界的な人気面からすると村上春樹文学のインパクトは、やはり別格のものなのだろう。
 改修設計は早稲田出身ではない隈研吾(栄光学園から東京大学)があたり、すべての開設費用は、OBであるユニクロ柳井正氏の全額寄付金で賄っているというから、いまの時代と社会を象徴した建物に違いない。
 開設にあたっての記者経験では、柳井氏を真ん中に向かって右側が村上氏、左側が隈氏のスリーショット。このあたりの経緯について、当の早稲田学生たちは、どのように受け止めていたのだろうか。その文学部は、ここからすこし離れた戸山キャンパスにある。

 演劇博物館を訪れたのは、その村上春樹に因む企画展「映画の旅」を観るため。展示構成は五部にわかれていて若き時代、村上春樹のさまざまな映画体験について示す。まずは神戸時代に通った映画館、大学生時代の早稲田松竹など思い出の映画館パネルと名画の数々のポスターなど。映画体験と映画館体験が分かちがたく結びついていた幸福な時代が共有される。
 次に小説の中で登場する映画についての解説があり、小説を原作として映画化されたものの関連資料があり、といったもの。ひろくアメリカ文学と映画について考察された展示コーナーがある。
 こうしてみると村上ワールドには様々な音楽がそのタイトル=固有名詞も含めて引用されている印象があるが、その時代の映画イメージについても巧みに取り込まれていることが改めて印象づけられる。むしろ、もともとはシナリオ作家を目指したいと思っていたこともあったらしいが、やや屈折した思いでより“個人的な世界”の構築が可能な文学に踏み出していったのではないかと思わせられるのだ。

 もっとゆっくりと見て回りたかったけれど、午後からは池袋へ移動する予定があって、早稲田通りを歩いて高田馬場駅方面へと向かう。通りの両側の街並みは、いくつかの古書店や昔からの飲食店が点在するなかに、学生街らしい新しいエネルギーが溢れかえっている。途中、名画上映館高田馬場パール座の建物は健在のままで、かつて何度も通った身にはたまらず懐かしく、ほっとさせられた。

 駅前広場に着くと、西武鉄道系スポーツ商業施設「BIG BOX」が聳えている。上京した十代の終わりころ、初めて見たこの黒川紀章設計(1974年竣工。ということは、大学生だった村上春樹も出来たての姿を眺めていたはずだ)の斬新な窓のない巨大な箱船型の造形は、都会の底知れなさが閉じ込められているパンドラの箱みたいで、強烈なインパクトがした。
 いまはその外観の印象は白基調のまま、ツートーンが赤から青基調へと変更されて、正面壁に描かれた巨大な白抜きのランナー姿もなくなり、なかのテナントも時代の流れで大きく変わってしまっているようだ。

 高田馬場駅から山手線で池袋へと出る。駅構内を出てすぐの西口公園野外劇場にて、日本音楽集団ニューイヤー・コンサートを聴く。東京芸術劇場のアナトリウムがすぐ横にあり、あいにくの雨模様は引き続くなか、外気はすっかりと冷え込んでいる。

 尺八、琵琶、筝、笛、津軽三味線、打楽器からなる七人編成の舞台は、宮崎駿アニメの「もののけ姫」久石譲曲から始まる。春の海、平家物語の琵琶語りの一節、日本民謡メドレー、M.ラベル曲、長澤勝俊の現代邦楽曲までの幅の広さは、日本音楽集団ならではのものか。約一時間ほどの充実した演奏が無料で聴けたのだから、新春早々の聴き初めとしては有難い。


 演奏会を後にして、西池袋から山手線を左脇に眺めながら、ひたすら目白駅へと向かう。途中、自由学園明日館に立ち寄る。池袋の喧騒からそう遠くない場所に、芝生広場の向こう、低く翼を広げたようなヒューマンスケールの建造物が目に入ってくる。F.L.ライトと遠藤新の共同設計のプレーリー様式と呼ばれる美しい大正期の建物。青銅拭きの屋根とベージュの壁の対比が落ち着いた印象だ。中央部分の旧食堂から灯かりがもれて、わずかに空間の様子がうかがえる。昭和、平成、令和と続くその姿はひとつの奇跡かもしれない。

 通り沿いに大きく枝を広げたソメイヨシノの蕾には春の予感がする。柵のむこうには、スイセンの花が咲き出している。その通りを挟んで建つ学園講堂と婦人之友社屋との調和がすばらしい夕暮れ、雨はやんでいた。

 夕暮れ時、JR山手線を見下ろしながら目白駅へと急ぐ。女性的な柔らかい印象の駅舎のずうと向こうに、灯かりのついた高田馬場から新宿高層ビル群の眺め、都会の余韻がする。これから自宅までは一時間余りほどかかるだろうか。


寒の入り満月、春七草粥、銀座通りの賑わい

2023年01月12日 | 日記

 寒の入は満月の直前にあたり、仕事帰りに駅から道中東空の方向低く登り始めたお月様は、まだオレンジがかっていて大きく、身重で落っこちそうなくらい。
 翌七日は仕事休みで良く晴れ渡る。すこし遅めの起床の後、用意してもらった七草粥の朝食をいただいた。この日は昭和天皇のご命日にあたり、八王子市高尾長房町の武蔵野陵へは皇族方のどなたかが参拝されているはず。そんなことを考えながら、ヨモギ入り草餅を焼いて食べた。草餅には邪気を払い、健康に効用があるといわれていて、お正月にはふさわしい食べ物だろう。

 週末、午後からは銀座に出ることにして、恒例の「現代の書 新春展」を見に行った。新春の銀座通りは、歩行者天国の老若男女で賑わっていて、とりわけ外国人観光客の姿が目につくようになっていた。
 書の展示会場は、四丁目交差点角、時計塔のあるビルの六階ホール。昨年6月に改装オープンして「セイコーハウス銀座」という名称へと変わってしまったけれど、旧来から馴染んだ銀座和光のほうが重みがあってしっくりくる。会場はさほど広くはなく見渡せるくらい、厳かな雰囲気がする。ここに書を出展できること自体、相当に名誉あることなのだろう。文字よりも装丁にほうに目が行ってしまうのは、俗人の証拠か。
 見終わってから、地階に降りて店内をすこしぶらつく。やはり優雅でゴージャスな雰囲気が漂っている。富裕層ばかりでなく、中間層にも開かれていて巡るだけですこし高揚した気分にさせてくれるところが、東京銀座ならではのマジック、なのかもしれない。

 和光を出てから交差点のむこう側、ガラス円筒形の銀座三愛ビルへと向かう。その一階は、“Le Café Doutor”とすこし気取ってはいるけれど、あのドトールコーヒーショップである。ここではブレンド一杯が460円、器は真っ白なロゴ無しのすこし厚めの陶磁カップだ。
 せっかくだから二階へあがって、交差点を見下ろす窓際カウンターに席をとる。さきほどの時計塔ビルや向かいのデパート、日産ショールームのあるビル、銀座通りや晴海通りの賑わいが一望のもとに眺められる都会のど真ん中の特等席。ここでのひと休みが珈琲一杯の値段で済むとは、素晴らしいこと。

 まだ夕暮れまで時間はたっぷりとあるから、どう過ごそうかと思案しているうちにそうだ、新年の映画鑑賞はじまりを銀座でというのもいいなあ、と思いつく。スマホを取り出して、時計塔ビル裏手の映画館上映スケジュールを調べると、午後三時すぎからは「土を喰らう十二ヵ月」の上映開始だ。主人公役が沢田研二、松たか子のふたりというのもなかなかいい気がした。この映画にしようと決めると、しばらく時間までカウンター席から向かいのデパートへと出入りする人々、交差点を行きかう市井の風景を眺めていた。

 ふたつのスクリーンが同居する映画館建物の二階がお目当ての上映場所、ここで観るのは本当に久しぶりのこと。四季折々の食でつづる人生ドラマ、というのがテーマ。原作は水上勉のエッセイ集、信州田舎暮らしをする老境の作家が主人公だ。
  編集担当者で年の二回りほど離れた恋人役の松たか子が、その作家ツトムが独居する茅葺古民家へと原稿の催促がてらに東京から訪れる。恋人どうしなのに愛の表現は食の情景のみで、あからさまに性が描かれることはない。一度だけ、男が女の手に手を重ねようするシーンがあるが、つれなく女のほうがその手を引き離してしまい、男はそれ以上に求めようとしない。まだ若くて都会的な雰囲気をもつ女は、老境の男のことを最後の決断ができない、優柔不断な性格と心得ていて少なからず物足りなく思っているようだ。
 そんな心境の時のふたりの会話のトーンは、年齢相応よりもすこし高めで、初々しくもあり微妙に交差しないすれ違いを象徴しているかのようだ。ツトムが鼻歌で「鉄腕アトム」を歌うシーンがなんだか可笑しい。

 四季折々の情景が映し出されるなか、男の畑仕事の様子や旬の食材から丁寧に作られる料理を味わいつつ重ねる交流が淡々と描かれてゆく。男は中学生のころ京都の禅寺へ修行に出されて、そのときに精進料理を覚えたと語る。取り立てのタケノコをゆがいて、大皿に盛って二人して喰らうシーンがいい。喰らうは生きること、男の亡くなった妻の母親の死、その娘で義理の妹夫婦の身勝手さ、田舎の葬儀から浮かび上がる近所との関係性などが、次々と現れる料理でつながれてゆく。
 慌ただしく葬儀が済んだ後に、男は一緒に暮らそうと提案するが、すでに女は男のもとを去る決意を固めていて、同僚?からのプロポーズを受け入れたことを示唆して都会へと去ってゆく。するとそれも予感していたかのように男はいつもの田舎暮らしへとゆっくりと戻っていくのだった。

 エンドロールに流れるのは、沢田研二が歌う「いつか君は」(1996年初リリース)。別れを予感させる歌詞が映画に寄り沿っていて、またジュリーの歌声に色気があり何とも味わい深い。
 映画館を出てからもしばらく余韻が味わいたくて、銀座の街中ビルの合間を彷徨ってから地下鉄に乗り、銀座線で帰路へ着く。


正月は一富士二鳶三江の島御膳で縁起良し

2023年01月08日 | 日記

 令和四年の元旦、六時過ぎに目覚める。寝室からリヴィングへ移ってカーテンを開けると、清らかな初春の朝日が射しはじめてている。
 何はともあれ、お湯を沸かし、まずは緑茶を一服。元旦の新聞朝刊は大量の広告紙面もあって分厚さではち切れそう。テレビチャンネルを回すとNHK総合が映り、画面には正月ならでは「富士山ぐるっと一周ウォーク 世界遺産巡り」が目はじまっていた。ナレーションは三浦友和と広瀬アリスのコンビ、落ち着きと若さがあって新春に相応しいか。
 眺めていたら、画面には駅前の源兵衛川遊歩道、白滝公園、三島柿田川湧水、三嶋大社境内、広小路老舗鰻家と出てくるではないか。あれあれ、これって去年春と秋に訪れたところじゃないかと嬉しくなってしまった。記憶の引き出しが継継ぎと蘇る。
 それはさらに続き、三保松原からの相模湾越しの霊峰富士の姿が映されると、今年の大河ドラマ「どうする家康!?」にまつわるエピソード、鷹狩り好きと半島で栽培される特産地場折戸ナスへとつながる。その次は富士宮市まで進んで、上空から本宮浅間大社全景を映していくのには驚かされた。世界遺産登録されたとはいえ、清水港から対岸の三保半島まで渡り、東海大学海洋博物館を横目にして、ぐるりと半島の松原海岸を歩いて美保神社まで巡ったひとはそういないないだろうな。あのときの旅の終点は富士宮だった。
 最後は、富士吉田に残る御師家屋や名物うどんが紹介され、最後には本栖湖からの富士山、これは千円札の裏面左側にデザインされている図柄のもとになった眺めなのだと知る。こうなると、いずれ機会をみて訪れて見たものだという気になってくる。
 
 やがて家族が起きてきて、そろってお雑煮をいただく。平凡であるがささやかな幸福が繰り返される食卓の正月風景が広がる。そのあとは家族ひとりひとりが別行動となり、わたしは自転車を駆って地元神社に初詣でにでかけることにした。
 行幸道路から座間キャンプの地下道を抜けて下り、キャンプ反対側に沿って下っていくと、その先に賑わう鈴鹿神明社があり、参拝のあとに干支絵馬と当年暦冊子を求めて戻るのが恒例になっている。ことしは五年ぶりに干支飾りの陶製「卯」を求めた。
 そこから母のところへと向かう途中、座間キャンプ正門前を通ると看板が一新されていた。A・レーモンドが設計に関わったであろう敷地内教会の尖塔をフェンス越しに眺めながら、通称行幸道路を息を切らしながら上ってゆくと、小田急相武台駅の前だ。


民家のむこうの座間キャンプ掲旗ポールの日の丸・星条旗。白昼の下弦月。


 行幸道路からみた座間キャンプ内教会鐘堂(2023.1.1)

 さてこの日の夜は、毎春恒例となったお楽しみ番組「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯・新春スペシャル」を見る。今年最初の訪問場所は「絶景!江の島ぶらり旅」ときた。
 一昨年暮れに友人と鎌倉山檑亭での昼食のあとに連泊して、翌々日大船からモノレールで江の島へと巡った近場絶景旅の最終風景と重なるわけで、なんという巡り合わせの偶然!まるで記憶体験を後追いして、味わい直している気分になってくる。

  こちらの番組のほうは、おそらく11月下旬から12月初旬あたりのロケなのだろう。ご両人、西浜海岸らしき砂浜で落ち逢って始まり、ふたりして弁天橋を渡りながら富士山絶景を眺め、青銅製の鳥居で別れたあと、タモリは参道をエスカーに乗車、鶴瓶のほうは左手の漁師町方面へとずんずん入ってゆく。そのあとには例によって住民との交流のひとしきりがあり、辺津宮で再合流したら、芸能の神様である弁財天を祀る奉安殿を参拝するという流れ。タモリのほうは、この後に再度エスカーを乗り継ぎ、稚児が淵岩屋洞窟まで探検することで江の島巡りは完結となる。
 あまりにも何度も個人的に訪れたお馴染みの風景に、おふたりの道行エピソード姿が重なっていき、元旦のNHK番組は面白さ倍々増の次第。やはり江の島詣でと富士の姿を拝むなら初春のころ、できることなら空気の澄み切った午前中に限る。

  三日はその記憶も冷めやらぬままに江島神社へ初もうでに出かける。午前九時すぎ、小田急片瀬江の島駅到着、人出はまだそれほどでもなく、思いのほかまばらといった感じ。
 駅舎は一昨年に赤色の柱に白壁を基調として新調され、華やかさとお目出度さが満載といった印象がして新年に相応しいと思う。残念ながら、元旦のテレビ映像には映らなかったけれど。


 龍宮殿?みたいなイルカの鉾が載った小田急片瀬江島駅。青空トンビが舞う。 

 駅前広場から引地川にかかる橋をわたり、国道地下道をくぐっっていく。弁天橋からは、冠雪の富士の秀麗としかいいようのない姿がくっきりと望める。この情景、何度訪れて見ても感嘆のため息がでるくらいにDNAの琴線に触れて、繰り返し心象風景に刻み込まれていく。
 青銅の鳥居をくぐり、両側にお店がひしめく参道は、まだ時間が早く空いていて進みやすい。やはり、正月の参拝は午前中に限る。石段をあがり、大鳥居前の広場につく。タモリはここからエスカーに乗り込んだけれど、例年通りそのまま急な石段をのぼっていく。上がるにつれて、見える風景がパノラマのように広がってゆく愉しさ。まずは辺津宮へ参拝、となりに祀られる弁財天様にもお参りする。

 八角形の奉安殿内には、八ッぴ弁財天と妙音弁財天の二体が並んで安置され、周囲を十五体の待童子が取り囲んでいる。妙音弁財天のほうは、すらりとした中性的な裸像で白塗りの肢体に琵琶を抱えて左足を下ろしたお姿。あらためて眺めれば、不思議な空間でタモリと鶴瓶のおふたりが訪れたというのもなんだか本当なの?という気がしてくる。いっそのこと、ご両人もこの先いつかここに祀られることがあれば、いあまどきの参拝者があふれるだろうなあ。

 さらに進んで亀ヶ岡広場に着くと、早咲きの河津桜が日当たりのよい枝先にぽつぽつりと咲き出している。デッキからは、相模湾越し真正面に浮かぶ富士と姿と対面できて、月並みに感動する。ここから、奥の宮までは石畳をあとすこしのアップダウンだ。締めの参拝を済ませてから、いつもの江之島亭でひと休み、富士山が眺められる海側の席で早めの昼食をいただく。このいつものお正月の習慣がささやかながらも、最高の贅沢のひとつなのかもしれない。
 お土産に黒糖饅頭を買いもとめ、稚児が淵まで降りて春の海を眺めにゆく。ここから遊覧船「べんてん丸」に乗船する。海上はあたたかで風もなく穏やかで、小型船の進む後にひとすじの白波線が引かれていくばかりだ。
 小さな航海は、江の島を右手に相模の山並みを左手に見ながら、ほんの五分ほどで弁天橋の江の島寄り桟橋へと到着する。


相模湾越し湘南平と丹沢箱根山のむこう、冠雪抱く霊峰不二(2023.1.3撮影)


 江の島頂上二景。龍野ヶ岡の向こうに富士と展望塔灯台(2023.1.3)