日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

公園前の白い家はレーシーな装い

2015年02月28日 | 建築
 よく晴れた冬の青空の下、公園越しに丹沢大山の山並みを望める郊外にある白い家の見学会へと立ち寄る。JR相模原駅からバスに乗って10分ほどの大通りからひと区画入った相模原台地のはずれに近い住宅街にある住まい。建物のすぐ前には、けやきなどの樹木や遊具などが据えられた「てるて公園」が広がる。ちょっと不思議な名称だけれど、テルテル坊主とはまったく関係なくて、じつは説経節やスーパー歌舞伎で知られる「小栗判官と照手姫」の「てるて」にちなむ命名と知ると、たちまち中世に想像力が飛翔していく。この横山の地は、地方豪族横山一族の「照手姫」誕生伝説の地のひとつであって、その意味では歴史的に由緒のある名称なのだ。

 まあ、前置きはそんなところにして、その公園に面して竣工したばかりのホワイトハウスの前にたたずむ。40坪余りの敷地に在来木造二階建ての端正な住宅。外壁は弾性シリン吹付、妻入り屋根はガルバリム鋼板仕上げと呼ぶのだそうで、太陽光発電パネルが乗っかっている、。特徴的なのは、公園と対する南面テラス部分を覆う、表面を白く吹き付けられた花ブロックとよばれるコンクリートブロックの組み合わせ。この組み合わせが織りなすレース模様がなんともエレガントで美しい。テラスの下が車2台分の駐車スペースとなっていて前玄関口につながっている。設計したのは、都内雑司ヶ谷に本拠を構える設計事務所「アトリエマナ」の河内真菜さん。

 引戸をくぐると20平方メートルあまりの中庭があって、施主が自ら山野から移したというモミジなどの木々が植えられている。ここで始まる生活とともにこれらの木々も芽吹き、緑を茂らせ、紅葉そして落葉、ふたたびの芽吹きを繰り返し、家族とともに成長をしていくのだろう。ちょっとした市井の山居といった雰囲気、自然を呼び込んでいる
 前玄関から90度の角度で中庭に面した玄関口があって、大きな引戸をひらいていよいよ建物の中へ、外界のつながりから室内へと引き込む歩調のリズムがなんとも心地よい。玄関左手に階段があって少し掘り下げた西側は、大型居室(寝室)・ダイニングキッチン・ロフトの三層からなり、反対の東側一階はトイレ・バスルームなどの水回り、二階が20平方あまりの横長リビングスペースとなっていて、全体がゆったりとしたスキップフロア形式となってつながっている。そしてそれぞれの上層階は斜め天上高でじつに解放感あふれる空間だ。
 リビング前の広めのテラスに出てみると、さきの花ブロックの隙間から西日が壁に差し込んでできるシルエットがやさしくて美しく、まるでA.レーモンドが設計した教会堂の中にいるかのような不思議な感覚に陥る。その模様が陽光の動きにつれて移動していくさまを想像するだけでうっとりとしてしまう。おおきく拡げられた両手の中に内包されるかのような安心感に溢れ、テラス側からブロック壁模様を通して正面の公園の木々の様子が伺えて、このホワイトハウスが周囲の街なみと緩やかに繋がっている。


 夕暮れ時、公園前のケヤキのシルエットが端正なホワイトハウスの花ブロック壁面に映り込む様子にはっとさせられる。

 帰りはJR横浜線に乗って、まほろ駅前のベデストリアンデッキを乗り換えのために人ごみの中を急いでいていると、小田急デパートの巨大なガラス面にまもなく沈もうとする如月最終日の夕陽が輝く。そのあまりに郊外都市を象徴するような情景に思わず足を止めて見入る。小田急線をまたいでそびえるデパートの屋上壁面には、ウルトラマンの貌みたいな旧小田急のアイコン。太陽の塔の作者、岡本太郎が見たらきっと喜びそう。


 

熱海聖地で光琳アート三昧

2015年02月15日 | 音楽
 週末土曜日の早朝、小田急線が藤沢に到着するすこし手前のJR東海道線を跨ぐ鉄橋からは、ちょうどビルの間にのびた鉄路の遥か先に、白き冠雪をいだいた富士山の姿が望める。JR東海道線に乗り換えて、8時52分発熱海行きに乗車すると、この先の車窓からは進行右手方向に富士山を眺めながらの風景を愉しむことができる。平塚を過ぎるとその姿はいったん湘南平に隠れてしまうが、大磯を経て國府津を出るとすぐ足柄の山並みの先に、大きくクローズアップされた真白な山頂が再び顔を出してくれる。それが鴨宮あたりではさらに迫力が増したところで、まもなく小田原に到着した。小田原からは、しばらく相模灘の眺めに見とれながら、根府川、真鶴、湯河原ときて県境を越え、泉越トンネルと三つの短いトンネルをすぎるともうそこが熱海である。

 目指すは大観山麓にひろがるMOA美術館、20数年ぶりの来訪か。駅からバスでわずか10数分程度上った場所なのに、文字通り俗塵から離れて、相模灘を一望する世界救世教の天上聖地巡礼である。美術館入口前広場の右手には、教団本部である救世会館の真っ白な巨大な建物。あたりにはチリ一つなく奇妙ななくらいの清潔感が漂う。にこやかに迎えてくれるスタッフはみなさんおしなべて親切、おっとりとした感じの方ばかり。宗教らしさや教団の宣伝臭などいっさい感じられないのが逆に不思議なくらいだ。美術館入口から続く山中トンネル内に設けられた長大なエスカレータ―を数台乗り継ぐと、ようやく美術館本体のエントランスに到着する。この序奏はなかなかのもので、これから体験するであろう至上の芸術世界への期待感?と浄化作用をいやがおうにも高めさせてくれる前戯のようでやや大げさだけれど生物の体内を通過するような恍惚感に包まれる。

 エントランスから一度外に出て、ヘンリー・ムアの彫刻「王と王妃」が展示された屋外広場に出ると、正面に伊豆大島が浮かぶ見事な眺望、この高さからは熱海市街はことさら隠れて見えない、絶景である。そこに据えられたムアの彫刻自体はさほど感心しないが、青空と紺碧の海を臨む建築環境の中では映え渡っていて、白洲正子が「MOA美術館を見て」(1982=昭和57年4月)で思いのほか好意的に述べていることが実感を持ってうなずける。ここからは、大階段が本館二階へとつながり、見上げる高低差も威圧感がなく見事だ。本館は薄ベージュ色のインド砂岩を割り肌仕上げで囲った四角い箱を横につなげた形状で、右側の立方体には海に向かって大きく四面のガラスとなっている。三階建ての上品で豪華な建築だけれど宗教色は感じられない。竹中工務店と鹿島建設の設計施工で1982年の竣工。

 一階美術館の入口に戻り、エスカレーターで二階のメインロビーへ、ここで入場券を購入していよいよ展示室へと向かう。展覧会名称「光琳アート」には、「尾形光琳300年忌記念特別展」とあり、尾形光琳(1658-1716)の過去100年、200年忌の歴史をふまえての構成である。今回の展示の目玉は、なんといっても、「燕子花」と「紅白梅図」屏風が同時公開されることで、これって皇太子ご成婚を記念した1959年=昭和34年の根津美術館での開催以来56年ぶりだそう。56年ぶりっていうことは、ちょうど自分が生まれて現在までの年数と重なるわけで、ちょっとした偶然にして感慨深い。しかもこの梅の季節にそのふたつを対面させて展示する粋な計らいに心動かされた!
 はじめて見る本物、300年以上たっているので、当然描かれた当時と異なり、背景の金箔や川の流れをあらわす泥銀もくすんで渋い風情である。当時の自然のひかりの具合でみた印象を想像すると、現在の経年による全体の深まりがいっそうおもしろい。また「燕子花」が描かれたのは、光琳40代のころ、「紅白梅」は晩年の60代と推定されるそうで、そんな年代の違いも興味深くて見飽きることがない。しかも日本画なのに、構図の巧みさを“デザイン”の視点からたたえられるあたりが光琳のモダン性なのだろう。白洲正子くらいになると、随筆においてこの有名作品にはほとんど触れることがないが、手垢にまみれていない独自の見方を伝えてもらいたい気がする。

 ひとしきり展示ケースをよく見ると「紅梅梅図」屏風の下には、紅白の梅の花ビラが散らばっておかれている。ちょっと粋な演出と思っっていたら、こちらのほうは、現代アーティストの須田悦弘の光琳画とコラボした作品であることを後で知った。この展覧会のもうひとつのおもしろさは、琳派の系譜を現代美術に探っていていること。なるほど、チラシをよく見ると小さく「光琳と現代美術」と書かれてはいるけれど、あまり前面には出ていないのは、美術館運営母体の教団の奥ゆかしさか?こちらのほうが現代人には興味をひく点で、今回企画の特質といえるだろう。

 教祖の岡田茂吉は、若きころ茨城県五浦にあった日本美術院の岡倉天心を訪ねた折り、「これから日本美術再興には、光琳の再生が必要だ」とのことばを聴きとっていたそうで、この事実には驚かされた。まさしく岡倉天心の意志が、今回出品されている現代美術作品とつながっていて、彼の予言した歴史的流れの正しさを証明しているかのようだ。福田平八郎「漣」、加山又造「紅白梅」「群鶴図」、田中一光の一連のグラフィックアート、村上隆、会田誠、福田美蘭などの作品に琳派の影響を重ねてみると、日本美術における無意識下の水脈を感じ取ることができるだろう。
 やはり特別なのは、高解析デジタルカメラで撮影されたという杉本博司の「月下紅白梅図」屏風と「華厳滝図」掛け軸表装の二点。以前、その撮影風景をNHKがドキュメント放送していて月光下の華厳滝はさもありなん、だが「紅白梅」のほうは意表を突かれた感じがした。光琳屏風図は梅の枝姿の構図と花の紅白の対比の印象が強くて、暗闇では白が浮かんでさて赤はどんなものだろうと思ったからだ。それが杉本の「月下紅白梅図」では、赤も白と同じように薄明かりのように闇に浮かんでいた。これは、おそらく心象風景に近いものなのかもしれない。ここではデジタルモノクロ精密画像を伝統的な屏風仕立てと掛け軸表装にしたところがミソで、静謐な闇の中に凛として馥郁とした香りがあたり一面に漂うかのようだ。

 最後にひとつ、「紅白梅図屏風」の中央の川の流れ、もともとは群青の川面に流れ模様を銀で描いたものが年月により酸化して現在の色調に落ち着いたのだろう。この川の流れ、わたしには不遜かもしれないが、農家の軒先にできた「スズメバチの巣」の表面模様とそっくりのように見えてしまった。そして光琳の描く川辺には“あえて”なのか、草木がいっさい省略されて描かれていないのはなんだか奇妙な感じもするが、どうしてなのだろう。より水面のながれをシンプルに様式化して表したかったのだろうか。いずれにしてもこれは都市生活者の視点であり、江戸にして現代につながる光琳のモダン性を感じるのである。

 
  相模灘のさきに正観音浄土か、伊豆方面を眺望する。
 


   聖地巡礼。熱海の世界救世教水晶殿(設計:岡田茂吉、あの山田守を彷彿させる)、海も空も紺碧のひとこと。


付記:夕暮れの県立小田原高校訪問記

 熱海の帰り道、小田原で下車してお堀端の市民会館小ホールで「宮廷音楽への招待状」を聴く。チェンバロとヴァイオリンの共演で、中野振一郎さんのトークが大阪人らしく軽妙洒脱で、なかなか愉快かつ優雅な演奏会だった。
 演奏会の余韻を引きずりながら、お堀端を歩いて馬出門から城址公園に入り、いまが見頃の紅白梅を眺めて歩く。そこから報徳神社の横の坂を上り、競輪場の先の県立小田原高校まで歩いてみる。明治時代創立で県下の名門校、先代の校舎は現在のグランド側にあったらしくほとんど建替えられてしまって当時の面影は少ないようようだが、体育館と武道場だけは当時のままだろうか。戦国時代はこの八幡山と呼ばれる校地が小田城の中心だったとの説明板が建っていた。高台にあるグランド端からは、相模の海が臨める素晴らしいロケーションで、訪れた時は野球部の練習中だった。正門前を通りかかると長い歴史と伝統を伝える校訓碑、さて校章のモチーフは何の植物だろうか。
 夕暮れの闇が迫りつつある中、球庭場横の通称“百段阪”階段を下り、城山中学校脇を抜けると新幹線ホームの端が見えてきた。ここから小田原駅はもうすぐだ。エスカレータをのぼり、コンコース内売店で家へのおみやげに、ようやく念願の箱根湯元の和菓子店ちもと謹製の「湯もち」を買って帰る。

(2015.02.15初校、02.17改定)


Peace to BAGU's memory!

2015年02月13日 | 音楽
 愛犬、といっても母とずうと同居していたキャバリア犬雄のBAGUが、先月の28日深夜から29日早朝にかけて、天国に旅立っていった。生まれて間もなくに近所からもらわれてきて、全体が白と茶色の二色、そのときはまだ尾っぽの毛並がしっかり伸びきってなくて、幼い感じがたまらなく愛らしかった。

 あれから11年、何度こちらと新潟の実家を車に乗って高速道路で往復してくれたことだろう。すっかり車に乗るのが好きになって、助手席から窓ガラスに前足を延ばしてずうと外を眺めていた姿を思い出す。夏は新潟の実家で母と過ごして、野良仕事にも付き合ってきてくれていたようで、冬に入る前にこちらにやってくると、炬燵まわりでジャレついて食べ物をおねだりしていた。人懐こくて穏やかな性格、母の散歩の友にして、娘が幼稚園の小さいころから時々の遊び相手をしてくれてた。けっして必要以上に近づき過ぎず、お互いに適度な距離を保ってくてれてとてもいい関係だったように思う。そうかと思うと、時々はキャバリア=騎士の名称どおり、猫やイタチらしきニオイがしたり姿を見かけると、祖先の猟犬としての血統が騒ぐのか、激しく鳴いて反応するのが意外にもたくましかった。

 この夏に年齢もあって新潟ではすこし体調を崩していたが、こちらに戻ってきてからは、体毛も綺麗に生えそろって見た目には、また元気になってくれたかのように見えていたのに、突然という感じだった。数日近くの動物病院に入院してから、一度お見舞いに行ったときは、点滴中の身体で起き上がってきて、きょとんとした顔で尻尾を振ってくれてた。最後まで迷惑をかけないように、両前足のあいだに顔を伏せていつもの眠るようなやすらかな姿で、夜中静かに黄泉の世界に旅立っていってしまった。もどってきた姿は眠っているようでぬいぐるみといっしょ、やっぱり、ずうと一緒にすごしてくれた生き物だから、亡くなってしまったことでいろんな思い出を引き寄せてくれるものだなあ、となんだか切ないような感慨深かった。
 翌30日は朝方目覚めると一面の雪、お見送りにはことさら印象的な日となって、雪国で半分を過ごしたBAGUとのサヨナラに相応しかった気がする。願わくは彼の魂よ、安らかなれ!


 2014年7月下旬帰省した時のBAGUの姿、すこし元気を回復していたがこれが遺影となった。
 沖縄の海で拾った材料と貝殻で飾ったフレームは、高校生の娘の手作り

追記:山下家のグーフィーのこと
 最近、竹内まりあCD「SOUVENIR」を購入した。これは、2000年初夏に行われた武道館と大阪城ホールでのライブステージを収録したもの。このアルバムは、彼女というか山下家の長男?のシュナイザー犬Goofyの魂に捧げられている。このグーフィー、じつは1984年のアルバム「VARIETY」の裏ジャケットにすでに登場していて、それだけでなく、「本気でオンリーユー」(夫の達郎氏との結婚にいたる思いをモチーフに歌った内容)曲中にまで鳴き声で客演?しているのだ。そして、今回手に入れたアルバムリーフレットの最後には、1982年にまりやさんがステージを降りてから、再びステージにあがる2000年までの18年間、いつも家族のそばにいて幸せな思い出を作ってくれたその愛犬の写真が再び、掲げられている。

根府川の海、早川港から小田原城下へ

2015年02月07日 | 旅行
 如月に入っての最初の晴れ渡った日曜日の早朝、小田急江ノ島線を藤沢まで下り、JR東海道線小田原止まりの車両に乗り換えて、湘南の地を西へと向かう。小田原で一度コンコースまで上がり、隣のホームに下って熱海行きを待っていた時が午前9時すぎ、ちょうど二週間前にMと待ち合わせた熱海行きの際のホームと時刻も天候も全く同じで、その偶然に少しとまどいを感じながら、小さくため息をつく。これから見にゆく旧片浦中学校近くのリフォーム住宅は、いったいどんな佇まいでそこから望む眺めはどんなものだろう。

 やがて、熱海行きの電車がやってきて乗り込む。小田原から二駅目で根府川駅に到着、ホームの向こうには180度の相模湾の雄大な水平線が拡がる。透き通って凛とした空気の中を、まだ上りきっていない午前中の陽光が、たおやかな海面にひとすじを煌めかせ、幾つかの船がゆらゆら揺れている。右手斜め方向に目をやると、江ノ浦地区のミカン畑の斜面がなだらかに真鶴半島までつながっている。かつてブルーノ・タウトが日本滞在中、熱海の旧日向別邸に向かう際、このあたりの風景を目にして“東洋のリヴィエラ”と絶賛したそうだけれども、さもありなん、そんな情景にのっけから立ち尽くして、いったいこの眺めにどう向き合ったらいいのだろうか。まあ、小さなことは気にするなよ、あるがままに心をひらいて、ゆっくりと自然に身を任せてみたらいい。

 ホームから階段を上がって連絡橋を渡り無人の改札を出ると、木造の鄙びた水色の駅舎内の額縁に毛筆で和紙に書かれて掲げられた一篇の詩は、茨木のり子「根府川の海」。何年か前の八月終戦記念日の新聞記事で読んだ覚えがあって、二十歳の時に終戦を迎えた作者のもうこれ以上何も失う恐れのない青春の彷徨を、抜けるような空と海の碧さに託して謳った清々しさが印象に残っている。それ以来、根府川といったら、この詩のことが連想される。

 

 冬のこの季節、海側ホームの前にはカンナの花はもちろん咲いていなかったけど、駅舎を出た広場正面の南斜面には、小さな金色の冠をいただくニホンスイセンの花々が群生しているが目に入ってきた。楚々とした立ち姿がここでは眩しいくらいで、いつもの秘めた感じと少し勝手が違う。かぐわしい香りは何を誘っているのだろうか。

 約束の時間にはまだ余裕があったので、ここからは連絡バスに乗ってさらに高台にそびえるヒルトン小田原リゾートへ。10数年ぶりだろうか、以前はバブル時代に計画された勤労者のための豪華すぎる厚生保養施設が、いまは高級リゾートホテルに変わっているのは時代の流れを感じさせる。正面玄関でバスをおりて館内に入ると、意外にもロビーの雰囲気はそのままだ。あいにく最上階のレストランは改装中とのことで、時間調整の当てがはずれてしまい、仕方なく周辺を歩いてみることにする。敷地を少し外れるとあたりはミカン畑、もうすっかり収穫は済んでいて葉っぱだけが青々と陽光を浴びている。斜面のミカン畑から眺める相模湾もなかなかいいものだ。

 ここから海を眺めつつ曲がりくねった道を目的地まで下っていくことにする。駅方面に戻って石垣の積まれた人家の先を中学校の裏手に進むと、どんづまりの場所に目的の家はあった。予想通りの眺望、玄関先の奥が展示ギャラりーというので、初めてこの家が陶芸作家の一階工房兼二階が住宅であることを知る(だたし、その主人高橋誠氏は、不慮の事故で一昨年に亡くなられたということだ)。しばらくリニューアルを担当した女性建築家の説明を伺う。
 二階に上げていただくと、そこが生活スペースで海に向かったリビングとキッチンが広がる。ベランダからは、庭の桜の木越しに相模湾と真鶴岬が望める素晴らしい眺め。いまの時期、朝日は左手の海上から昇ってくるそうで、新年初日の出が自宅から拝めるなんてうらやましい! 30年前とはいえ、よくこんなところに住まい兼工房を構えられたものだと感心しきり。日常生活は買い出しなど大変であっただろうに、自宅兼工房として陶芸制作を行うには、理想の環境であったのだろう。初夏にはギャラリーを公開されるそうで、その折りにはまた訪れてみたいものと思った。
  
 途中の片浦中学近くの道端でみかけた水仙の花、まぶしいくらい黄金に輝やく。

 帰りはふたたび根府川からJRに乗り、となりの早川駅で降りて漁港まで歩く。魚市場食堂の海鮮丼をいただいたあとは、そのまま早川を渡って南町西海子小路のお屋敷街をぬけ、途中小田原文学館に立ち寄ってから、国道沿いの「ういろう本店」喫茶でひと休み。それからお城を眺めながらお堀端を抜けて小田原駅まで、この一日よく歩いた。小田原は前日から「梅まつり」が始まっていて、南向きの梅の花はそろそろ見頃を迎えている。お城と海と富士山の眺め、すこし行けば箱根・伊豆の温泉地も近くと、小田原の魅力は近すぎてうっかり気がつかなかった感がある。

 先月30日から朝日新聞夕刊では、「各駅停話」という欄で小田急小田原線が紹介されている。その最初は「城下町 宿場町 今グローバル」と題された小田原駅から始まり、これから順番に上り方面の駅を紹介していく。二回目の足柄駅では「ライバル“アマゾン行き”」とあり、13年9月にあのネット通販大手アマゾンの物流センターが駅近くに開設されてから、人の流れが大きく変わりつつあることを紹介している。これまでは千葉県市川にある物流センターから注文品が送られてきたけれど、いまはここが国内最大の流通拠点になったそうそうで、今後アマゾンを利用するときは、富士山の望める足柄駅を思い浮かべることとしよう。

(2014.02。07初校/02.08改定)