日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

霜降前、碧空が恋しい

2017年10月22日 | 日記
 季節外れの台風21号が近づいている影響で、きょうも目覚めのときからの雨が降りつづく。今朝、起きてからの話題は、やはりきょうが投票日の国政選挙についてひとしきり。

 昨日の出がけ途中、まほろ駅前街頭で現職都知事が代表を務める政党が午後からの演説会を行う準備中だった。そのスタッフが選挙ビラを配っていたのを受け取り持ち帰っていたままだったので、その紙面をあらためて眺めてみる。
 緑色がシンボルカラーのこの政党、女性党首が広告塔であちこち顔を売っている活躍ぶり、中間層有権者へのアピールと比例代表得票にかけているのだろう、顔写真が掲載されたそのビラのレイアウト・配色は目につきやすくて効果的、最後に黒と赤文字が効果的に使われている。盛られた公約の表現は周到に練られているようでソツがなくツルリとして、どこかのよそ事のようにも読める。そして現政権への直接的な批判は、巧妙にカモフラージュされている。その真意や是非はともかく、総体として聴こえがよくわかりやすいことは確かだ。はたして、この政党は信頼に価するのだろうか。
 リビングのテーブルのうえにはもうひとつ、選挙PRハガキが届いていた。こちらも表面は緑がイメージカラーとなっていて「くらしを支え、いのちを守る〇〇党」とあり、裏面をみると赤色文字で「憲法を活かす政治 比例区は〇〇党」と書かれていて、現党首は男性のはずなのだがにこやかに前代表の女性の姿が映っていた。党名は黄色の大きな太ゴシックで目立つ。こちらは、印象としてはずっとストレートな表現でオーソドックスではある。
 いまの社会、暮らしに閉塞感を感じて暮らしているひとが大部分だろうと思う。さて、今回与えらえた状況のなかで大きな転換期とはいかなくとも、よりまっとうな現実としての政治を選択するためにはどうしたものだろう。

 食事を早めにすませたあと、車で投票所まで行き、家族で投票をすませたあと、アルバイトにでかける娘をちかくの駅まで送る。これから、雨はひどくなっていくようで明日まで続く。この二日間はお休みだから、ゆっくり読書の続きをして、明日の午後は週末の帰省の準備にあてよう。

 ふたたび家に戻ってから、初冬の関西行きのことについてあれこれ考えてみることにした。
 
 まずは旅程と宿泊先の予約だけれど、京都大山崎町にある聴竹居と大山崎美術館を訪れるのがおおきな目的のひとつ、それから都ホテル別館佳水園と井上武吉の作庭による“哲学の庭”への再訪、その幾何学的に構成された姿の再確認だ。
 昭和三十五年に竣工した佳水園全体が、小川白楊による自然石に琵琶湖疏水からの流水を配した庭園と、村野藤吾による近代数寄屋建築および庭園のコラボレーションなら、人工池に滝を配した近代彫刻のような“哲学の庭”は、井上と村野建築の静かな極上の対峙空間である。
 聴竹居の見学のほうは、土曜がお休みなので翌日の日曜午前の時間帯を予約することにした。そうすると二泊三日の旅は、初日早めに大津に着いて荷物を解いた後に、すぐ前のなぎさ公園をぶらぶら歩きしながら大津港までいって、井上武吉の遺作「水面への回廊 琵琶湖」を眺めてから、その足で前回行けなかった三井寺までいってみようと思う。
 それのあと、こんどは京阪電車で蹴上に移動して、東山都ホテル周辺から岡崎、円山公園周辺をじっくり巡ろうか。それから四条通へ、ここで立ち寄りたい個人美術館、何必館がある。
 ふたたび電車で大津へ戻ったら、琵琶湖畔のすぐ前の宿で湖面に映る夜景のゆらめきを眺めながら、あとうはもうひたすらゆっくりと過ごせばいい。

 二日目の朝目覚めたら、朝の光で比叡山方向がしだいに白み始めて、やがて淡海の名にふさわしく、よせる波のない静かな湖面の水面に蒼く澄んだ姿が映し出されるまで、その風景をあきることなく眺めていよう。
 お昼前、大津から東海道線で京都をすぎて天王山のふもと、大山崎町へと移動する。まずは駅前すぐの妙喜庵茶室と、坂道を上って大山崎美術館をおとずれよう。民芸運動の余韻を残す室内の調度、しつらえと睡蓮を描いたモネの絵画が飾られた安藤忠雄によるコンクリート建築地中空間の取り合わせ、ここの二階のベランダからの雄大な淀川方面の眺めが楽しみ。
 
 最終日には、いよいよ数年越しの念願、近代和風モダニズム建築の傑作“聴竹居”へ初訪問だ。もうイロハモミジの紅葉はすっかり散ってしまっているだろうが、手前のドウダンツツジのほうは赤い葉っぱが残っているかもしれない。
 いずれにしても素顔のままの藤井厚二建築との対面ということになるだろうから、ほんとうに楽しみ。ここからは、いまも淀川や対岸の大パノラマ風景は眺められるのだろうか。

 
 庭先のサンシュユが赤い実をつけた。アキグミ、アキサンゴとも呼ばれる。(2017.10.21撮影)




黄昏時、みみずくは森に還る

2017年10月13日 | 文学思想
 ここ春に読み終えていた小説を最近になって再読した。そのさいに思いめぐらしたことのいくつか。
 
 先立つ五月、村上春樹の最新作小説「騎士団長殺し」を通勤帰りのブックオフで探すことにした。行ってみると、はやくも店頭に並んだそのリサイクル本は簡単に見つけることができた。ムラカミのような人気作家になると新作の発表自体が大きな話題となり、その話題を共有すること自体が社会現象の一翼となる。新潮社の宣伝も破格なら書店店頭での扱いも平置きが当然で、時代と共振するとはこういうことなんだと実感させられる。そのうち実際に読みとおす人は、はたしてどのくらいの割合なのだろう。
 その本は思ったりよりも地味な印象の装幀で上下二巻1000頁あまりの大作、話題の余韻のうちに読むのも同時代に生きる者の特権とばかり、やや前のめりになって数日のうちに興味深く読み終えていた。

 物語の舞台となる主人公が住む借家は、小田原郊外山中の高名な日本画家アトリエという設定で、ほかには箱根ターンパイクから伊豆スカイラインさきの高原にある相模湾を望む高級老人養護施設、それに都内青山、広尾、四谷、新宿御苑といったあたりがでてくる。フィックションに実在の地名が出てくる効用は、その地理を承知していればいっそうのこと想像力が刺激されることにある。わたしがお気に入りのご近所、小田原厚木道路なんてややマイナーな高速道路を中古のカローラワゴンで主人公と友人雨田が行き来しているのがおもしろく、思わずシンパシーを感じてしまう。

 冒頭、三十六歳の主人公で肖像画家の私が結婚生活に行きづまり妻とは別居、いよいよ離婚の危機を迎えて、あてどの無い東北・北海道の旅に出たことの回想からはじまる。戻ってから小田原に引っ越してすぐに講師をしている絵画教室の生徒である人妻たちとの出逢いがあり、そんなこと現実にあるのかなあと思いつつも、いとも簡単というか当然のように情交に至ってしまう。今回はいつになくその情景がくりかえし描かれていて、おまけに少女愛のような心情もでてきて(とくに幾度も執拗なくらい胸のふくらみに言及している)、これは読者サービス?と思ったりもする。でも妙にこちらの深層心理に迫ってくるようで、これは困ったな、素直にハルキマジックにハマッってしまったのだろうか。とりわけお互いのそれまでの喪失感を埋めるように求め合うかのような性愛行為については。

 このひと、ムラカミハルキの心理は、やはりフロイド派というよりもユング派のようであり、夢とか象徴といったものが物語の主題をなすようだ。例によってクラシックとポピュラー音楽曲もちりばめられ、さながらこれまでの村上ワールド要素全開といった様相なのだ。作者の心理は80年代の若いままピーターパンのようで変わってはいない、むしろ原点に還ってきたかのように思えるのだ。
 
 謎の絵画から飛び出してきた幾人かのキャラクターに、主人公向かいの丘の豪邸に住む謎の人物、免色渉など物語の展開にともなって次々と意表をつくような人物が登場してきて、まとまりがなさそうな気もしていたが、最終的にはそれらの登場人物の絡みの中で飽きさせない。ちなみに村上春樹は、安西水丸によるとみずからなかなか素敵な抽象画を描くのだそうだ。
 最初からえんえんと描かれている謎の祠の下の石室は、子宮を象徴して描れているのか、主人公が夢の中での愛するユズとのめくるめくような交歓のはてに産道をぬけての試練の末に再生し、ラストの女の子の誕生につながっていると読めるが、これってあまりに安直にすぎるだろうか。
 それにしても、主人公が完成した「雑木林の中の穴」の絵を謎めいた人物の免色に贈呈してしまったことはどうにも附におちない。ひょっとして免色は主人公の私の半分(影あるいは地下二階の無意識の世界)なのかもしれない。それは、作者の村上自身の二面性をも深く投影したものではあるまいか?
 小田原郊外山中のアトリエは、震災後の火事によって焼け落ちてしまって、謎の絵画も喪失してしまったという。女の子の誕生によって新しく再生した私とユズとムロの三人家族は、2011年の震災をへた日々の暮らしのなかで、ささやかな幸せを慈しみながら平凡に暮らしているのだろう。

 蛇足ながら、あのお守りのペンギンのストラップ、どうしてもJR東日本のSUICAキャラクターを連想してしまう。やはりペンギンは現世のお守りにふさわしいとしたら、屋根裏のみみずくはどこに行ってしまったのだろうか。みみずくは古代からの叡智の象徴とされているから、無意識の深相であるところの黄昏の森に還ってゆくのだろう。