日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

近江八幡~ヴォーリズ建築とラ・コリーナを巡る

2015年12月31日 | 建築
 師走冬至前後の頃、淡海でのその日々は、遠くに比叡山を望む湖畔の点々と連なる夜景に、夜明け方から朝方に眺めた山あいにたなびく霧もや、天空と湖面の境目が薄墨から薄紫色そして淡いブルーへと刻々と変化する様子で記憶されるだろう。

 
 名古屋駅六番ホームからJR東海道線に乗り込む。関ヶ原の山間をぬけると米原駅、そこで乗り換えてしばらく下り、思い出の近江八幡へ30数年ぶりで降り立つ。あいにくの小雨模様、ここ近江八幡は小さな町だ。この地にある、W.M.ヴォーリズの面影と生きた建築を目指して、駅前のロータリーから路線バスに乗ろうとするときに、ちょうどヴォ―リズ記念病院行のマイクロバスが停まっていることに気がついた。わたしたちも訪問者の一員に違いはないので、遠慮しながらも運転手の方に伺うと、こころよく乗車させてもらえてうれしくもなんだか得をした気分になる。

 病院行きのバスは駅前通りを真っ直ぐと進み、やがて低い町屋が立ち並ぶ旧市街地に入っていく。日牟礼八幡参道前をすぎて、右手奥ににオレンジ色の瓦屋根が特徴的なヴォーリズ学園(近江兄弟社学園)校舎群が見えてくるが、どうも最近の建築のようだ。その角を左折して、県道右手方向にずうと平原が続くなかをさらに進む。しばらくすると住宅地を左手に折れてすぐに病院敷地本館前のロータリーに到着した。
 見回す周囲の建物は、ここ十数年くらいで鉄筋コンクリートの現代建築へ建て替えられたようで、さすがに以前とはすっかり変わってしまっている。当時の建物は残っているのだろうか、すこし不安になりながら本館内に入ってみる。こじんまりとした空間、ヴォーリズのモノクロ写真が掲げられ、全体にアットホームなホスピタリティ精神は受け継がれている感じがする。あの山麓をすこし階段で上った先の小さな礼拝堂は残っているのだろうか、受付で尋ねると親切に案内図を渡してくれた。
 外に出て本館の奥、「希望館」と名付けられたホスピス棟の脇をのぼると、左手に古びた見覚えのある三階建ての建物、旧本館である。記憶よりもずいぶんと小さい印象、現在は使用されていない様子で、大正期か昭和初期の建物に違いない。その先の最も奥まった位置に、あの礼拝堂はやはり残っていた!左右対称の三角屋根、丸みのある正面扉のアーチへと至る年季の入った石階段は思いのほか急で、これは当時のままに近いだろう。建物全体はきれいに化粧直しされて、左側部分のアプローチが増築されている。
 そうっと、左手の玄関で靴を脱いで入ってみる。礼拝室の木の扉をあけて中に入れさせていただくと、ほんとうに小さな数十人ほどの静謐な祈りの空間。正面には薄あかりの中にステンドグラスの輝き、振り返った背後の壁一面には、青い制服をつけいたイエス・キリストがたたずむ絵画が掲げてある。ここが大正時代にヴォ―リズが開いた医療と福祉のユートピアの精神的中心が宿った場所だと思うと、自然と神聖な気持ちになってくる。
 礼拝室を出たところで、奥の部屋の扉が突然ひらいて牧師と思しき男性が出てきてびっくり。一瞬緊張したが、たまには私たちの様な物好きなヴォーリズ建築ファンも訪れるのだろうか、思いのほか寛容な表情で建物に関しての会話を交わしてくれた。この礼拝堂の裏手左の奥には、大正期創立当時の結核病棟が残されていて、ナースステーション室を中心に五弁の花びらが広がるような様な病室の配置に、患者を配慮した設計となっていることが伺える。

 旧本館を回り込み、ホスピス棟から老健センターの横を下ると、そのすぐ隣の広い敷地の中に横長の芝で覆われた山型草屋根を抱く特徴ある建物が望める。地元の老舗和菓子の「たねや」グループの洋菓子ブランド「クラブハリエ」フラッグ・ショップのラ・コリーナ、その日のもう一つの目的の建物である。ルーツは和にあるからなのか、「ハリエ」とは“貼り絵”からきていると伺った。かつての滋賀厚生年金休暇センター跡地にできた、というか自然と共生した食と農とお菓子の壮大な全体プロジェクトは現在進行中である。初めて近江八幡を訪れたときは、できてすぐのこの旧センターに宿泊してヴォーリズ建築を巡ったのだと思うとなんとも感慨深い。まさか、フジモリ建築にここヴォ―リズ建築の故郷で出会うなんて!思ってもみなかった。

 そんなわけでアメリカのカンザス州出身の一キリスト教信者の青年により大正期に開設された結核患者のサナトリウムを発祥とする医療福祉のユートピアから、近江八幡の老舗和菓子屋がいまに描く里山再生と食・お菓子のユートピアへ移動することにした。途中の道路沿いの石垣と植生は、旧厚生年金休暇センターであった当時の面影をわずかに残している。
 背後も含むと全体で三万五千坪におよぶ敷地は、前庭が広く取ってあってクマザサが植えられている。一文字のタタキ銅板屋根でつないだ洋風長屋門のような入口に「La Collina」の手書きロゴを鋳物で造形して浮き上がらせている。イタリア語で「丘」の意味なんだそうで、背後の八幡山をはじめとする水郷周囲の丘の連なりからきているのだろう。正面には、その山々を模したような芝屋根のユニークな水平に横長のメインショップの姿。昨年2014年秋の竣工、藤森照信氏の基本設計、中世の城郭のようでもあり、軒先には無垢の栗の木の庇柱が等間隔に並ぶ。なんだか、田舎屋のような雰囲気もあるなつかしい感情を呼び起こす姿だ。木枠の屋根窓がリズミカルに並び、屋根の端々のとんがりにはちょこんと落葉樹が植えられていて愛嬌のあるアクセントとなっている。小雨がそぼ降る中、手前の一本足の東屋にしばし佇んで、建物越しに北ノ庄と呼ばれる周囲のたおやかな景観の眺めを愉しむ。気がつくと同行者は、傘を並べてその先の建物を記念に撮っている、これって和気相合傘?
 そこでいま思ったのだが、この外観はあきらかに同じフジモリ建築の伊豆大島ツバキ城や秋野不矩美術館の姉妹形であるといっていいのではないだろうか、写真上での印象だけれども。草屋根の連なりと土色の壁の軒先の栗の木柱、全体が土から生え出したような、いってみればキノコの変種。これはやはり、浜松市天竜の二俣町へもいってみて実際を確かめてみたくなった。



 さて建物に近づくと、ベージュ色の壁は藁クズを練り込んだ漆喰で、風土をとりこんだような土俗性がおもしろい。芝屋根一面には噴水用スプリンクラーとおぼしき配管、メンテナンス用の段々も仕込まれている。ここまでの複数のアプローチを振り返って俯瞰してみれば、大きな落葉樹型あるいは木の葉の葉脈を模しているのに気がつく。あとでここのお菓子カタログを見ていておもったのだが、リーフパイの模様をデザインしているのかもしれないと思えば、まあ合点がいく。
 次に中に入ってふきぬけの白のしっくい天井を見上げると、なんとも不思議なごま塩のような模様が広がる。外から三階建てに見えたが、実はふきぬけの二階建てだった。天上に近づいて見れば、炭(備長炭だそう)を社員がひとつひとつ埋め込んで作り上げたのだそう。これって、消臭などの実用効果もあるだろうが、視覚的にはなんだろう、と考えてはたと思い当たったことがある。“ありんこ”=蟻、なのではあるまいか。美味しいお菓子に群がるアリの姿と思えば、これまた、なるほどと合点がいくだろう、真偽のほどは確かめてはいないけれど。内装も手触り感満載で楽しいが、建物本体はやはり鉄筋コンクリートだろう。外見を含む表面は土俗的をまとっているけれども、躯体そのものや設備はしっかりと現代建築である。

 

 と、まあアプローチの門から始まって建物外観と内面に至るまで、フジモリワールドのオンパレードを満喫、である。なんとも余裕のあるゆったりした造りの店内でどら焼きをいただきながら一服しようとすると、目の前の壁を飾る不思議な木片群が目に入った。シャレた演出のインテリアなのかと思って近づいてみると、落雁木型枠をコラージュしたもの。道具をもって仕事の記憶が刻まれていることに、和菓子老舗点ならではの矜持をみた思いがする。二階の喫茶コーナーをひとめぐりして、次の目的地である日牟禮ビレッジ、ヴォーリズ建築の旧忠田邸をリニューアルしたカフェを目指して、八幡堀通りを歩み出す。

 歩みながら思ったのは、ヴォーリズとフジモリ建築が五十年の時を経て和洋の「お菓子」を媒介にここ近江八幡で遭遇して、その事実を市井のアマチュア建築愛好家が目の当たりに、しかとの心象のなかで結びついたのが2015年の師走であり、そのはしりは三十数年前のひとり旅にあったということである。これってひととの出逢いに似ていて、じつに偶然の必然だけれど、建築的にはヴォ―リズとフジモリ建築における有機的要素やアマチュア精神の内在といったいくつかの和洋の共鳴点、共振性を考えるうえでなかなか面白い!のではないか?


豊田市美術館はランドスケープの機微

2015年12月29日 | 建築
 十二月のしぐれ雨、師走の三河からの旅はそんな空模様ではじまった。もっと正確にいうと自宅を出て、まほろ駅午前八時ちょうど発の小田急ロマンスカーはこね3号7号車3A席に座り、小田原に向かっていたときからすでに今回の旅は始まっていたのだけれど。
 
 小田原駅から新幹線に乗り換えて豊橋へ、そこから名鉄名古屋本線を乗り継いで山あいの住宅地がまじった鄙びた風景の中を進んでゆく。途中、岡崎に近くなるとようやく郊外らしい街並みが続き、知立で名鉄三河線に乗り換える。ここで来年2月中旬に「世界劇場会議フォーラム」が開催※されるので、もしかしたら再度訪れることになるかもしれないと思ってホームから周囲を見回す。まだ、それほど再開発の波に洗われていないのどかな地方都市のようだ。それからしばらくして豊田市駅には正午すこし前に着く。ここまでくるともう、名古屋近郊の中核都市の貌が見えてくる。
 ※これって記憶違いで再確認したところ、フォーラム2016の開催会場は可児市文化創造センター(岐阜県)。

 ブルーのコートを着た笑顔の友人が改札前で待っていてくれた。そのまま駅前のデッキを渡り、徒歩で十五分の豊田市美術館に向かう。愛知環状鉄道の高架をくぐって左方向へ緩やかな坂を上った先が旧七州城郭跡で、そこにすっと水平線方向横長にたたずむのが、開館二十周年を機にリニューアルしたばかりの美術館だ。
 以前最初に訪れた時とは逆の裏ルートからのアプローチが新鮮で、目的地に近づくにつれて高揚感が増してくる。上りきった丘の上は公園のようであり、周囲を見わたせる絶好のランドスケープ、アメリカの環境デザイナー、ピーター・ウオーカーによる設計で、人工池に映る建物姿が印象的である。さらに谷口吉生設計の建物本館前と人口池の間に横一直線に伸びる深緑色のパーゴラ(日陰棚)が風景を引き締めて美しく、効果的な周囲とのコラボレーションとなっている。建物正面の乳白色のグリット面の集合体は、リニューアルで幾分白さを増したようでこれまた清々しい。
 お腹がすいていたので、眺めのよいミュージアム内レストランへ。ここからは中庭テラスの彫刻作品、「色の浮遊 三つの破裂した小屋」が見える。立方形の外観はミラー仕様で周囲を写し、それぞれの内側が赤、青、黄と塗り分けられている。あとで外に出て近づいてみると美術館本体やテラス周囲と視覚的に共鳴して構想され、設置されていることに気がつく。ここで童心に帰ってかくれんぼごっこをしてみると、互いの実像と虚像が入りまじって実に楽しい。
 この池の端には、能舞台のような形状の突きだしがあって歩み出てみる。そこに佇むブルーのコートに城のタートルネックセーター、格子柄ズボン姿の解放された笑顔は、青空を水平に区切るパーゴラと雨があがってその澄んだ青空を映した水面のひかりを受けて爽やかだ。ちょっと北欧の風景の中の透き通った情景を連像させ、全体の風景と一体になっている。ふと、昨年の今頃公開されたスウェーデン映画「ストックホルムでワルツを」を思いだし、また観てみたくなった!

 隣接の日本庭園童子苑の茶室でお茶をいただき、外に出るとあたりはすっかり夕暮れ時で、闇が増してくる中、東には上弦のお月様、西方向は澄んだ空がかすかに光ってまぶしい。人工池の水面には、行燈のような美術館の逆さ姿が映っている。その美しさにふうと深呼吸、池の周囲を巡りながら暗闇にすうと浮かび上がる美術館をふたりして眺めていると、初めて出逢ったときに想像していたその夜の姿が夢の中のようで、しばしのあいだを慈しむ。

「ピロスマニ」を観て、故郷の画家を偲ぶ

2015年12月16日 | 美術
 休日の朝に、NHKEテレ「日曜美術館」で「佐野元春・鳥取への旅 世界的写真家の魅力」(どうやら、これが正式のタイトルらしい)を見た後、小田急線から地下鉄を乗り継いで、都内神保町まで出る。改札の階段を上って交差点に出ると、はす向かいに10階建ての岩波ビルが見える。その一階はみずほ銀行、最上階が岩波ホールで、その日はここでグルジア映画「ピロスマニ」を観ることにしていたのだけれど、午後からの上映開始まであと一時間ほどある。
 昼食のお店を探そうと一度すずらん通りを通りぬけ、横丁に入った老舗喫茶「さぼうる」は定休日、少々がっかりしながら再び交差点に戻り、さらに水道橋方面に歩き出してから戻ってきて、結局すずらん通りの古くからありそうなロシア料理レストランに入る。席についてランチセットを注文すると、すぐにピンク色のスープとサラダが出てきて、メインはグラタンのようなもの。さっぱりとしたデザートがついていた。コーカサス山脈の南になるグルジアはたしか旧ロシア領だから、あらかじめ意識していたわけではないのに、映画を観る前の食事としてはなかなかのものだろう。

 上映開始の時間ちょうどよい頃に十階のホールへ。このホールへ足を踏み入れるのは本当に久しぶりで、前回がいつだったか思い出せないでいたが、ロビーのたたずまいと場内の雰囲気はまったく変わっていないように見受けられる。かつてここで映画を見る体験自体がスノッブな感じが漂っていて、それはいまも同じだろう。当時はそれが嫌味にも感じられたが、逆にぶれないその姿勢がいいなと思える自分がいた。
 かつて一度見たことのあるこの映画そのものは、静謐で淡々とした美しい映像が印象的で心に残っていた。それから約三十年以上たっての再見がはたしてどのようなものが、密かに期待をしていた。はたして、控えめな色彩もそうだし寡黙なセリフにグルジアの町や草原の風景、人々の暮らしの様子、民族音楽とすべてに押しつけがましさがなく、変わらずよかったのである。いわゆる素朴なナイーブ派の系譜に連なるピロスマニの絵画は、この映像とよく調和していて、じつに好ましかった。

 
「ピロスマニ」を観て、故郷出身の画家を偲び、そのひと横尾茂のエピソードについて記したい。

 二週間ほど前の新潟に帰省した際に、たまたま近くの宿泊施設“月影の郷”で開催されていた同郷の画家の回顧絵画展の看板を偶然に目にして、あっと思ってしまった。おそらく相当の苦労しながら好きな絵の道を歩んだその人生が、ピロスマニの姿と重なるような気がしたのだ。いったいこの片田舎出身の画家、横尾茂という人と作品ははどのようなものかひどく興味をそそられて、実家から目と鼻の先にある会場に足を運んだのだった。
 会場の旧小学校体育館に入ると、受付の男の方はどうも故人の親族であるらしい。その先の移動式ボードで区切られたスペースに30数展の絵画が並べられていた。最初は「父」と題された油彩の人物画、なんとも重々しい色彩とタッチ、青木繁を連想した。1970年前後の作品から独特の抽象度の比重が高まってきたらしく、「季の唄」(1974年)は、冬枯れと思われる山の情景を茶褐色をベースに有機的な曲線で描いている。1977年の安井賞受賞後、横尾茂は公的な場所への作品提供の機会に恵まれるようになり、78年にまほろ市民ホール緞帳原画を制作とあるが、これはこの画家が市内小野路在住だったことがあるのだろう。どんな作品なのか、ホールを訪れた機会にぜひ拝見してみたいものと思う。

 さらにこの画家のプロフィールに目を通すといろいろと興味深い。昭和八年に旧安塚村横住に八人兄弟の七番目として生まれ、小学校の先生の影響で描くことが好きになったそうだ。家業の農業を手伝いながら二十歳まで過ごした後に上京し、お茶の水にある文化学院美術科を卒業して辛苦を重ねた末に、五十歳をすぎてから安井賞を受賞したとある。そのことでようやく一般に名が知られ、画業で生計を立てていくことが可能になったらしい。1996年の村役場落成のさいには、「曙」と題された妙高山をモデルにしたのであろうか、黒味を帯びた赤色で力強く山肌を現した500号の大作、2001年の月影小学校閉校にあたっては記念校歌碑(作詞:相馬御風)を制作している。そうか、そうだったのか!
 全体的な絵の作風は、土くれ色を変化させた具象と抽象のあいだのような地味な印象である。雪国なのにあえて白を避けているのは何故か。北国の人間にとって天から降り続く白い雪に対する心情は複雑なものがある。とくにこの画家の少年時代であればなおさらで、ひたすら“忍”の一文字で表わせられる長い季節だと実感されるから。よくもまあ、けっして楽ではなかったであろう日々の暮らしのなか、専門学校である文化学院に進んで、辛苦して画家の道を歩まれたものだ。おそらくそこに雪国から抜け出す唯一の夢を描くことができたからだろう。大正自由教育の流れを汲み、建築家でもあった西村伊作によって創立された文化学院は、いまもお茶の水明治大学の近くに健在※で、都会派の裕福な子息が学ぶイメージがある自由教養主義を標榜する学校に地方の農家出身のせがれが学んだことも、わたしにとってはちょっとした驚きであった。

 最後に安井賞受賞した直後のこの画家が雑誌取材の折に記したという言葉をひいておく。
 「故郷は山間で段々畑のような田んぼばかりの山里である。だから故郷を描くとなると固定した場所を描く気になれず、どうして(も)その風土とそこに住む人達を思う。すべてのものが茶褐色に枯れ果て、暗い空から灰を思わせる雪、止むことを知らぬように降り続ける粉雪の冬を待つ晩秋、それを好んで描く。(中略)少年期をだだっ子のように過ごした山河と人々の中にある種の風貌を感じさせる人間像が私の心の中に深く沈着し、人々の表情が私の画想を豊かにしてくれた。」
 なんだか少しさびしくもほっとした気持ちにもなる不思議な心情、これは昭和の時代を過ごした雪国の同郷の人間であれば、なおいっそう身に染みて感じる言葉だ。大人になって振り返ると、幼少を過ごしたけっして豊かではなかったはずの寒村の故郷をなつかしく慈しみをこめて思い出すのだろう。県境に近い多摩境にある小野路の里もそのような雰囲気が当時はまだ濃厚に残っているところだったからこそ、この画家が終いの棲家に選んだのではないだろうか。このひとは、つつましくもささやかな幸せをつかんだのだろう、なんともいえない気持ちになって、その人生を表わす言葉にしばし戸惑う。

(2015.12.16初校、12.25改定、26再改定)※註:学校経営を巡っていろいろあったようで、つい最近に両国近くに移転した。


70´sバイブレーション~佐野元春「新しい夜明け」

2015年12月14日 | 音楽
 前回、鳥取の植田正治写真美術館を訪れる佐野元春のことに触れた。それに誘発されてこの夏に横浜で開催された、1970年代日本ポピュラー音楽文化をめぐる展覧会の関連イベントとして行われた彼のトークショーの様子について記すことにする。なお、この記述はわたしが直接会場で体験したものではなく、後日の録音からメモした資料をもとにしている。

 八月二日、新港埠頭の赤レンガ倉庫3Fホール、トークのお相手は、60年代から70年代にかけての同時代アメリカン・カウンターカルチャーの生き証人、ビートニク派詩人で今様ボヘミアンのムロケンさん、16時スタート。全体の進行構成は、お二人が70年代を中心に影響を受けた、またはエポックメイキング的と思われる欧米のポピュラー曲をそれぞれ六曲づつセレクトしてきたものを流して、その曲そのものの魅力と時代に与えた影響を語り合うというもの。最初は、ムロケンさんからの選曲。

1.オーティス・レディング「サイティスファクション」(1967)
2.ジミー・ヘンドリックス「星条旗よ、永遠なれ」(1969 ウッドストック・ライブ)
3.クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング「ティーチ・ユア・チィルドレン」(1970)
4.ニール・ヤング「アフター・ザ・ゴールドラッシュ」(1970)
5.グレイトルフ・デッド「トラッキン」(1970)
6.ジョニ・ミッチェル、CSN&Y「ゲット・トゥゲザー」(1969)

 1は、黒人人気シンガーが白人であるローリングストーンズの有名曲をカバーしたという事実が人種の垣根を越えた象徴的事例とされたもの。2は伝説のウッドストックコンサートライブ音源、次第に電気的に増幅され、歪んだアメリカ国歌メロディーと増加するノイズ音を初めて聴く。当時の時代状況の中では、じつに衝撃的かつ象徴的なパフォーマンスだったのだろう。3は爽やかなメロディーとハーモニーに乗せて、当時の世代間対立をシニカルに歌っている。この曲を聴くと思い浮かべるのは、映画「小さな恋のメロディー」で、CSN&Yよりも、よりハーモニーの美しさとエモーショナルさで、ビージーズ三兄弟の歌う「ラブ・サムバディ」の印象のほうが強い、特にイントロのハープとパーカッション。
 6は様々な世代や地域、信条の対立を乗り越えようと呼びかけた60年代を象徴する曲との解説だったがその背景がよく呑み込めていない。
 
 後半は、佐野元春のセレクト曲で何を選ぶのか興味深々だったが、以下の通り。

1.リッキー・リー・ジョーンズ「チャッキーズ・イン・ラブ」(1979)
2.ヴァン・モリソン「クレイジー・ラブ」(1970)
3.エルトン・ジョン「テイク・ミー・ザ・パイロット」(1970)
4.ジョニ・ミッチェル「ヘルプ・ミー」(1974)
5.ミルトン・ナシメント「ブリッジ」(1968)
6.ザ・バンド+etc 「アイ・シャルビー・リリースド」(1976)

 意外にも指向性にとらわれない選曲、若かりし頃の佐野元春は素直だった?そんな感じがしたのは私だけだろうか。特定のエッジをきかせ方を発揮するのではなくて、間口が広くて柔軟性がある。
 最初のリッキー・リー・ジョーンズのデビュー曲はリアルタイムで聴いていた唯一の曲。このセレクトはなかなか親しみを持たせる始まりだった。4曲目、ジョニ・ミッチェルは大好きな歌手のひとりで、この後の変貌ぶりに目をみはった。20年くらい前の奈良東大寺境内での世界遺産ライブが記憶に残る。5のミルトン・ナシメントは唯一欧米意外のアーティストでブラジルの至宝、この曲はサイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」と並ぶ同時代のメモリアル楽曲だろう。6の作者は、もちろんボブ・ディランの超有名曲で、閉塞感ただよう時代にこそ、自由を希求して歌い継がれるものだろう。

 おふたりの対話の中で音楽以外に出てきたもの、おもな人名や書籍のタイトルはつぎのとおり。
 精神分析フロイドとユング、「カッコーの巣の上で」、「結ぼれ」D.H.レイン、ビート世代文学を代表してアレン・ギンズバークとジョン・ケルアック「オン・ザ・ロード」(最近見たこれを原作とした映画のほうはつまらなかったが)、1970年スタートの世界環境の日アースデーに関連して、チャールズ.A.ライク「緑色革命」(1970)、B.フラー「宇宙船地球号」(1969)、S.ブランド「全地球カタログ」(1968)、アン・アローベル「地球の上に生きる」は、いずれも転換期の時代にもうひとつの選択や価値観を示したものとみなされる。いまはまた時代がひとめぐりして、大震災と津波や原発放射能問題などにより、当時の課題が再考されるときが来ているのだろうと思う。



植田正治と写真美術館

2015年12月09日 | 文学思想
 さきの日曜日はお休みだったので、のんびりとリビングで何を観ようかと新聞のテレビ欄を眺めていたら、NHKEテレ「日曜美術館」のところで目が留まった。番組タイトルに「佐野元春 世界的写真家を訪ね鳥取へ!」とあって、これはもう当然、植田正治のことだろうとチャンネルボタンを合わせる。意表をついた面白い組み合わせだと思ったが、ちょっと気取った感じの佐野元春が、田園の中にコンクリート打ち放しの直方体を横に並べた異形の写真美術館建物や境港市にある植田の住まい、鳥取砂丘と訪ねて歩く姿を見ていたら、どうして佐野が植田正治の写真世界にひかれたのかわかってきて、UEDA調と称される鳥取砂丘を舞台にした一連のシュールなモノクロ作品の世界は、佐野元春本人の興味の対象や指向する世界観とつながっていることが理解できたのだった。

 それで、この植田個人名義の美術館のことは、赤瀬川原平「個人美術館の愉しみ」(光文社新書)で取り上げられていたのだろうかと思い、改めて目次ページをめくると、第6話「田んぼの中の写真館」と題されて紹介されているではないか。
それによると「植田正治の写真は、上品なカステラみたいだ」と端的に比喩しているのがなんともおもしろい。その赤瀬川さん自身も写真をよくしたカメラマニアであるので「きちんとナイフを入れた綺麗な立方体が、白い皿に載って紅茶と一緒に出てくる感じ」と書かれると、なるほどと思う。そうするとそのカステラは、さしずめ長崎の老舗「福砂屋」キューブ、紅茶のほうは国産の日東紅茶でもいいのだが、やはり物足りなくて仏国ブランドのフォションであってもよい気がした。だとすると、手にするカップもボーンチャイナ製、ヨーロッパブランドのジノリかロイヤルコペンハーゲンあたりかなあ、とどうでもよさそうなことを想像して遊んでみたくなる。

 この美術館(設計は高松伸)、その周囲の田園の向こうには大山の美しい山裾までの全容が望めるそうで、美術館人工池には晴天の日には見事な逆さ大山が映っているらしく、いつかMといっしょに訪れてみたいなあ。もちろん、生前の植田が「わたしの青空スタジオ」と呼んでいた鳥取砂丘も。

 
 NHK「日曜美術館」より、シュールなショットを。鳥取砂丘を歩く佐野元春、手前には植田正治へのオマージュの黒いハットとステッキ棒