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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

ノルウェー映画『わたしは最悪。』は悪くない

2022年09月06日 | 映画

 ノルウェー映画『わたしは最悪。』(2021年)は、原題が「ザ・ワーストパーソン・イン・ザ・ワールド」のほぼ直訳だ。このタイトル、はたして主題と内容を象徴しているのかどうか。

 この映画のフライヤーには、主人公の若い女性ユリアが濃紺のシャツを着て、白い歯の笑顔をみせて長い髪をなびかせながら、オスロの街並みを疾走している上半身の写真があしらわれている。演じた映画初主演のR.レインスヴェは、2021年の第74回カンヌ国際映画祭女優賞を受けていて、濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」が脚本賞を受賞したときと同時だったことになる。そんなこと、ちっとも知らなかったけれど面白い偶然だ。
 この二つの作品は、その後の第94回米アカデミー賞でも国際長編映画賞を争っているから(結果は「ドライブ・マイ・カーが受賞)、それぞれを観終わったいま、比較しながら感想を書き連ねてみるのもいいだろうと思う。

 この映画、最近どきどき足を延ばしている、元厚木パルコが入居していた建物をそのまま居ぬきでテナントビル化したアミュー厚木内の「あつぎのえいが館kiki」スクリーン1で観た。まだ厚木市内に青山学院大学キャンパスがあって、バブルの余波が残るころに華々しく開館したもの、十年ほどの短い営業ののち、あえなく閉館してしまって14年になる。その最上階のパルコ映像施設をそのまま引き継いで、別団体が運営している。ここのところ還暦過ぎてのシネマ体験はここか、新百合ヶ丘の川崎市アートセンターのどちらかだ。

 さて、この映画について。主人公の30歳女性ユリアは、たしかにそこそこ魅力的ではあると思う。きっと才能にも恵まれてて爽やかさもあり、すらりとした肢体から発散される雰囲気は、オスロの街の風景にお似合いだ。
 映像の中で描かれる衣食住要素については、全体にノーブルではある。特に印象的なシーンは、すべての情景が突如ストップモーションとなる心象風景の中、ユリアが街中を駆け抜けて新しい恋人に会いに行こうとするところ。室内風景も含めた住についてはそれほど記憶に残る色といったものが思いだせない。ユリアの勤務する書店の様子やパーティーシーンについてもあえて取り上げるような鮮やかに欠ける。北欧の街は確かに美しいが、白と薄いブルーの情景が全体の基調だろうか。
 
 カンヌ映画祭で脚本賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」が、赤のサーブ900コンバーティブル(村上春樹原作本では、裏表紙カヴァーにイエロー色のオープンカーとして描かれる)が昼夜問わず、さまざまなシーンを疾走してエピソードを繋ぐ役割を果たして、三時間近くの上映時間に渡り引き込ませていくのに比すると、こちらはやや散漫であり、退屈とも感じてしまうのは、練り上げられたどうかの脚本力の差だろう。

 それでは、人間の三大本能の描かれ方はどうだったか。睡眠欲と食欲については、あきらかに「ドライブ・マイ・カー」がはるかに上等。というのは「わたしは、最悪。」のほうは、主人公の生き方と新旧ふたりの恋人との関係性における人物造形が深まらずに、未消化でよく分からないまま展開しているきらいがある。主人公が不測の妊娠について思い悩むところや最初の恋人が末期がんに侵され、病院で二人が会話を交わすシーンにおいても、主人公の心情はいったいどこにあるのだろう、といった感じがする。ヒリヒリしているはずの現実が、映像の中でリアルに迫ってくるとは言い難い気がする。

 ただ面白いと思えたのは、ユリア自身の性愛についての描き方だ。いまを生きる若い女性としては、自然で本能の導くままだと思う。最初の恋人との関係で男の望むようには生きられず、その反動で新しく出会った恋人とのアヴァンチュールが刺激的だ。新しい男の方は頼りなくもあるが、明らかに欲望に素直で好色だ。パーティーでの戯言、思わせぶりなふたりの会話、たばこの煙を接吻もどきに吸い込みあう仕草はやや陳腐だけれど、二人の肉体の奥からは、欲望のままに本能の疼きのようなものを感じ取ることができる。

 あるとき、偶然男が恋人といっしょにユリアのアルバイト先の書店を訪れた際に、おずおずと再会を果たしたのち、あらたな恋の勢いに乗って求め合う関係になるのは、もう自然の成り行きだろう。
 あるときはバスルームのなかで、お互いの排尿行為を見せあって楽しむ様子がじっくりと描かれる。男は立ったままの姿勢で放水するのを横で女が眺め、次に女は便座に腰をかけると黒の下着を素早く膝上までずり下げて、立った上半身裸の男に向かってほほ笑むと、やがて放尿はじまりの勢いのある音が短くしたあとに、ひとしきり放水の長い解放音が生々しく響き渡り、女と男は満足そうに視線を交わす。エロスを描いてこれまでありそうでなかったシーン、内心の欲望にかられながらも、こんなことも見せ合ってしまっていいのだというカタルシスのような奇妙な感覚を覚えさせる。これも同意の性愛行為のひとつなのだから、なにも後ろめたく思う必要はないんだと。

 秘密行為をオープンにと、主導権を取るのはユリアのほうで「まだ柔らかさを残して、そそりかけたおとこのモノを最終的に雄々しくさせるのは、おんなとして無上の歓びなの」とさりげなく言い放ってみせる。本能と情動の赴くままの姿にいやらしさはみじんもなく。さすがに自慰行為の模写はなかったけれども、カンヌはこのあたりを評価した?のかもしれない。

 ふたりは関係が深まる先、上半身服を脱ぎすてるのももどかしく、衝動的に床の上で女が仰向けになり、男と向い合って求め合い、激しい交接行為があり、その絶頂でユリアは思わず歓喜の表情で声をあげる。リビングで男が机にむかっている姿を見つけると、微笑みながら上着の裾をたくし上げ、小ぶりで形の良い両方の乳房を男に向けて近づけていく。男は微笑みながらその姿を見ている。

 ユリアはこの男性とも結婚という社会制度に終結することなく、新たなアイデテンティ探しを続けてゆく。章仕立てのエピローグとなる映画のラストは、映画の撮影所で新人と思しき女優のスチールを撮影しているユリアの姿である。ユリアはいくつものターニングポイントを経た人生探しの先に、いつか主役になれるのだろうか?と希望よりも、一抹の不安を残しながら終わる。

 最後に流れる音楽には、意表をつかれた。A・ガーファンクルのエフェクトがかった歌声が流れる。「夏の終わりを告げる 三月の雨 君の心には 生命の約束」とうたう、A.C.ジョビン作詞作曲の「三月の水」だ。このストーリーの終わりに相応しい。長いエンドロールが余韻を残す。