日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

湯河原温泉と梅の宴

2024年03月01日 | 旅行

 梅の開花だよりの季節、まだ寒さの残る湯河原へ足をのばす。湯河原行きは久しぶりで、日帰りは別にして宿泊となると40年ぶりくらい。
 1983年、研修先の小田急百貨店町田店で配属された総務課人事係の方々に連れて行っていただいて以来だ。夏のお盆過ぎの時期、休業日に自分を加えて男3、女2の総勢5人車で出かけたのだった。行き先は奥湯河原の「青巒荘」という露天風呂から滝が望めた老舗宿で、社員旅行の名残が残るノリでほのぼの和気あいあいとした雰囲気が懐かしい。女性二人がともに独身、対照的なキャラクターで面白かったし、男性社員のおふたりもいい方で若僧に対してやさしかった。いまでも思いだせば、なんともいい思い出だ。

 小田原まで小田急線にのり、JR東海道線に乗り換えて一時間ちょっとで湯河原に着く。料金は片道1000円ほど、こんなに気軽に来れるなんて。駅前の雰囲気は当時からあまり変わっていないように思えるけれど、駅正面口前の広場には大屋根が張り出していた。足湯ならぬ無料手湯の設備もできている。
 もうロータリーバス乗り場には梅林にむかう行列ができていた。一台を乗り越して、吉浜方面から幕山へと向かう。公園のなかは「梅の宴」の最中で、たくさんの屋台と人出があり賑わっていた。大気はひんやりと澄んで、肝心の梅は七分咲きといったところ、ちょうど見ごろだ。ここの梅林は山裾にそって一面に植えられている様が壮観で、これで青空が出てくれたなら咲いている紅白が映えて見事なのだけれど、あいにくの曇り空がちょっと恨めしい。
 遊歩道の両側に咲く枝垂れや紅白梅を愉しみながら、つづら折りに上がっていく。視界がだんだんとひらけていって気持ちが晴れ晴れとしてくる。少しずつ雲が切れてきた。やがてお昼過ぎ、広場の舞台では民謡と津軽三味線の演奏が始まり、折り畳み椅子席へと園内の観光客が集まってくる。文字通り、梅の宴たけなわといったのどかで平和な光景だ。

 演奏が終わるとすぐに駅への連絡バスが出るというので、会場をあとにする。ふたたび駅前に戻って、そこから街中を宿まで歩いて向かう。公園の先にその名称も懐かしい「ゆがわら万葉荘」がみえてきた。かつて公共宿泊所だったままのレトロな三階建ての建物で、広めの敷地は人工滝と池のある庭でゆったりとしている。室内も同様でひろめの和洋室、窓からは庭の全景が見下ろせ、千歳川をはさんだ低い山のつらなりは静岡県熱海市だ。川沿いにすこし歩いて行けば、海浜公園と相模灘がひろがる。

 さっそく、温泉に浸かろう。脱衣場の天井は高く、外から見た時に気になった一見民家風の三角屋根はここだったのか。さほど広くはないけれど、清潔で石張りのなかなか豪華な湯舟に浸かる。かけ流しのお湯は癖がなくて柔らかく、これぞ宿の温泉浴場といった感じで、寛げることこの上なし。 
 湯上りに千歳川沿いを上流へとぶらぶら、東海道線と新幹線高架を越えて元湯温泉方面へと向かってみるが思いのほか先なので、首大仏で有名な福泉寺を見物してから宿へと引き返すことにした。よく手入れされた境内で、こちらの本堂はなんと茅葺屋根だったことにちょっと驚く。
 夕食は大広間で揃っていただく。日曜日なのに思いのほか宿泊客が多い。おそらくゆったりとした空間で浴場もきれい、手頃な料金とそのわりに豪華な海鮮会席にリピーターが多いのかもしれない。
 
 食後二度目の入浴してから、ここ湯河原で愉しむために最後の第三部を残しておいた読みかけ小説「街とその不確かな壁」を読みはじめる。40年ほど前の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を彷彿とさせるストーリ、久しぶりの村上ワールドに浸りながら、湯河原の夜は更けてゆくのだった。


湯河原梅林と背後の幕山(撮影:2024.2.18)


新緑八ヶ岳山麓小海線の旅

2023年06月03日 | 旅行

 先月末、二泊三日の八ヶ岳山麓を巡る旅に出かけた。山麓といっても広大な地域ゆえ巡ったのは、小淵沢から小海線に乗り換えた北杜市高根町の清泉寮周辺と、そこからJR国内最高地点のある県境を越えたお隣り、信州野辺山駅を降りた八ヶ岳カラマツ白樺高原地帯(佐久郡南牧村にあたる)の二か所。
 いずれも三十年来ずうっと訪れたいと思い続けていたところ、優柔不断な背中を後押して一緒に時間を過ごしてくれた友人のおかげであり深く感謝する。

 小淵沢から小海線に乗り込み、清泉寮のある清里まで来ると、もう八ヶ岳の山々は、前面にぐっとせまってくる感じで雄大そのものだ。まだ山頂近くの山襞には、白い斑点筋の残雪が残っている。意外と雪解けは早く、清涼そのものの大気で爽やかな気分になる。新緑の木々が目に染み込んで優しく、全身で光合成をしているかのよう。
 先に駅前で待機していた連絡バスへ乗り込み、寮へと一直線に伸びた通称“ポール・ラッシュ通り”を走りだせば、一気に旅へと解放気分は昂まり、遥か?むかしの学生時代へと時空を超えてしまう。でも、けっして浮かれた気分だけではなく、たぶんに厳粛な気持ちもあった。それはこの地にいまも連綿と受け継がれる戦前戦後からの“開拓者スピリッツ”と幾多にも重なった歴史を感じてしまうから。
 一直線道路の両側には牧草用地が広がっている。終戦直後の1946年にはじまるキリスト教精神を底流とする「清里教育実験計画」(KEEP)の流れをくむ情景であって、その壮大な構想が具現化した土地だ。個人的には高校生のころ、この構想と提唱者ポール・ラッシュ、財団法人キープ協会の存在を知って、興味を持った。


 本館正面から甲府盆地と秩父方面を望む(2023.05.27) 

 まもなくマイクロバスは道路から横道へと入って行くと、清泉寮新館前へ到着する。とうとうやってきた!2009年にできたまだ新しいロビーへ入ると、暖炉造りに高い天井の木組空間がひろがる。
 荷物を預かってもらい、すぐに近くの木立の中を歩いてポール・ラッシュ記念館へ。ここは、彼が1979年に82歳で亡くなるまでの住まいとしていた木造平屋建ての家屋だ。
 八角形の広い暖炉付きの居間が当時のまま保存されて公開されている。ソファにテーブルがゆったりと配置され、窓際腰台と壁側にはさまさまな調度品や立て皿をはじめとする陶芸品や工芸品が並ぶ。窓の上の壁に掲出された額入りのモノクロ写真が歴史の流れを物語る。農耕具を再利用したと思われる天井からの照明器具、ほぼ半周分の区切られた木枠窓から眺められる風景と差し込むひかりが室内に微妙な陰影を与えていた。



 記念館内フットボールの殿堂コーナーを見た後に本館のほうへと回ってみる。三角形屋根が特徴的で軒先正面にアンデレ・クロスが掲げられた清泉寮本館建物、ポールラッシュ像のあるロータリー広場だ。やはり、ここは40年ほど前に訪れた記憶がおぼろげに残り、変わらぬ懐かしい風景だ!
 白い柵に囲まれた牧草地のはるか先に連なる雄大な眺めは、金峰山から茅ヶ岳に連なる山々だろう。その右には雲の上から富士山頂が浮かぶように覗いている。このすばらしく開放的な眺めと清浄な大気は、気持ちを自然とおおらかにさせてくれる。
 もちろん、清泉寮といったらジャージー牛乳を原料としたソフトクリームだ。迷うことなくレストラン棟ジャージーハットの受付に並び、その名物を手にしてふたたび屋外へと出る。ながらかな斜面にひろがる牧草地の木製ベンチに並んで、そよぐ高原の風のなかでソフトクリームを味わうのは、やっぱり変わらぬ至高の満足に違いない。

 草原のはずれに野外結婚式に使用されたらしい椅子が数列、並んだままになっている。真ん中の通路脇の座席には白いレース生地が結ばれている。半分照れながらひとつ席を空けて腰を掛け、はるか先の山並みを眺めてみる。すぐ前には風景の象徴のような一本の樹木が樹勢良く立ち上がり、周囲の背景と相まってここでアルペンホルンを聴けたら、まるで「アルプスの少女ハイジ」の世界に入り込んだような気分になるだろう。
 
 ちかくの素朴なハーブガーデンの入り口には、つる状のクレマチスに似た植物がきれいなピンク色の花をつけて木製アーチ状にのびて咲き誇り整えられている。青空に陽ざしが眩しくて、そこで写真を撮ろうとすると、日傘を差したそのひとの影はするりと姿を翻して、画面から消えていってしまった。



 今宵の宿は、そのガーデンを望む位置の赤い屋根の歴史ある落ち着いた雰囲気の木造建物である。受付は新館で行って、迷路のようにつながった連絡通路から本館ホールをぬけて狭い廊下を進んでゆく。床を踏みしめるとすこし懐かしい音がする。廊下突き当りの手前、鍵穴は旧式のままの「KITA」(南アルプス最高峰の北岳の意味だろうか)と記された木製扉を開けて室内に入れば、ベランダ付きのこじんまりした室内だ。シンプルだけれど暖かで必要にして十分なしつらえに、ひとまずホッとする。

 まずは“喫茶去”、お茶を一服どうですか?
 
 そして二重窓を開けて、そこから望める松の木々越しに開けた山並みをただひたすらずうと眺めていたい。まだまだ夕暮れには時間があるし、高地での夜は長くて深く慎み深いだろう。
 明日は早起き!でいこう。


 本館入り口前、ツツジとライラックが咲いていた。(2023.05.27)


 本館正面アンデレクロス、夜はステンドグラスが蒼く浮かぶ。


年の瀬相模湾、江之浦測候所

2022年12月31日 | 旅行

 令和四年の年の瀬に小田原の江之浦測候所を訪れた。早朝のJR東海道線根府川駅下り四番ホーム、降り立つと目の前一面に相模湾の陽光が広がって眩しい。なぎの海面は白波もなく穏やかであり、水平線まで光って三浦半島や房総半島まで続き、手前右に伊豆大島の姿もくっきりと望める。ホーム脇の海側空地には、かつてレンガ造りの倉庫蔵が残されていたのだが、いまは更地となってしまっていて何もない。すっきりとしてあまりの眺望の良さは、あっけにとられるくらい。

 ふと、あのレンガ倉庫を改装したこの海原と水平線をただ黙って眺めるだけのカフェがあったらいいのになあ、と思った。そのすぐ脇に初夏には赤いカンナの花々の咲く、海風の吹き抜ける横長の窓枠のある無垢の木の柱と床と白い内壁の小さな空間がいい。そのなかで晴れの日も荒れたときも、空と海の表情とただ向き合いながら、世の平和と平安を祈れるような鎮魂と安息のひと時を過ごすための空間。


上り四番線から駅舎へと向かう、細くて長い連絡橋。

 そんな夢想をしばし楽しんだ後にホーム中ほどの階段を上ってゆく。壁が白く塗られたすれ違うのがやっとの細い連絡橋を渡ると、小さな昔からの駅舎へと連絡している。こちらの外観はペパーミントブルーに塗られていて、懐かしさを覚えるようだ。舎内壁の端には、茨木のり子「根府川の海」の一篇が、真新しい和紙に墨書鮮やかに額装されて掲げられている。誰かがいつも様子をみて手入れをしているような気がした。

 駅前から連絡のシャトルバスで10分ほど、江之浦測候所参道入り口に着く。ここは、公開前の見学を含めると三度目の訪問だ。入り口に柑橘ならぬ「甘橘山」(かんきつざん)の一篇が掲げられている。「く」の字に折り曲がった道を進むと、岩石が敷き詰められた眺望の良い広場にたどり着く。石のテーブルに石柱をたてた椅子と石づくしの「ストーンエイジ・カフェ」だ。屋外厨房は、鉄製の菅柱で組まれた粗末な鉄板波板屋根の屋台で、これらが時を経て錆びつき次第に味わいを増すであろうことが織り込まれているのであろうか。
 ここからは相模湾がひらけて、真鶴半島も真近かに三ツ石も目にすることができる。残念ながら、カフェは週末だけの営業で、搾りたての果汁は味わうことができない。ふと眺めれば、扁額に「万事汁す」とあり、思わず揮毫者の得意満面の表情が浮かんでしまう。しばし休憩時間のひととき、持参のペットボトル茶で一服、おにぎりを海に向かって思い切り頬張る。

 この先の敷地、相模湾に向かって豊かな光の降り注ぐ南東に開けて、なだらかに下ってゆく。建築物と作庭に関わるもろもろは、その地理特性を生かし切って配置されて、来館者はその通路を巡ってゆけば、杉本博司の意図するところを自然と堪能できる仕掛けとなっている。

 今回特に興味を惹かれたところは、榊の森をくだって現れたかつての蜜柑作業小屋を改装した「化石窟」である。ここに展示された化石コレクションの数々は見事だ。まず最初のモロッコ産数億年前のウミユリの巨大な姿に驚かされる。とにかくアンモナイトの螺旋姿といい、経てきた時間軸の桁数が違うのだ。
 らせん構造といえば、遺伝子DNAの基本構造も螺旋状の組み合わせからなり、太古の記憶を今に伝える。蜜柑小屋、三葉虫や海サソリ、ヤシの葉の化石そして家屋の裏に佇む楠の木の根元にある磐座(いわくら)の佇まいは、不思議な気配に満ちていた。
 遊歩道の途中にさりげなくおかれたベンチは、園内整備で切り出された巨大な丸太を割って組んだものと思いきや、巨大な丸太状の化石の珪化木を真っ二つに割ってしつらえたものだった。今春勧請されたという朱色が鮮やかな春日社に詣でると、背後にはひたすら相模湾の海原が広がっている。

 駅まで向かう県道135号の帰路、ベーカーリー「MUGIFUMI」に立ち寄る。表札にある大野家末裔の敷地にできた古民家カフェの縁側でひと休み。
 ここは天正18年(1590)、秀吉の小田原北条攻めのさにに千利休に銘じて茶席天正庵を設けた跡だという。その面影を捜しても何もなく、ただ気配だけが通り過ぎて行く。この敷地に佇んですごした体験をこのたびの江之浦紀行の結節点とすることは、四百三十年余りを遡る歴史が個人の記憶に連なって、時空を超えた想像に相応しいことなのではないだろう。

 ミカン畑に海、水平線と切れ目のない天空。


相模湾の水平線。海上右端に真鶴半島と伊豆大島(2022.12.26)


霜月三河旅、豊田から岡崎

2022年12月04日 | 旅行

 霜月の終いに岡崎を拠点に三河地方巡りをして、締めくくりに念願の熱田神宮を訪れてきた。この旅、当初通りの予定ならば八月二十八日からのはずだったのが、寸前で家族の新型コロナウイルス感染が判明してしまって延期になっていたものだった。ようやく三か月ぶりで実現した二泊三日の旅、これまでなく難産の末にようやく実現を果たしたものの、道中は和やかに進むように願いつつも、行き違いの修復が果たせない予兆を秘めながら、ときに対話が成り立たなくなって思いやりと寛容さを失いそうになり、ほろ苦い思いも含んだこれまでにない旅となった。

 豊田市美術館「ゲルハルト・リヒター展」をガイド付きで観たあと、足を延ばした豊田市民芸館からの帰路だった。片野元彦・かほり父子による藍染の絞りは良かったし、茶室からの紅葉と矢作川勘八渓谷の眺めもよかった。
 冬の日の暮れ始めた中岡崎駅へ降り立ったときには、どことなく不安な思いがしていた。岡崎は初めてであったし、滞在先最寄り駅は名鉄本線「東岡崎駅」がメインと案内を受けていたこともあり、虚を突かれた感じがしたのは致し方ないだろう。ふたつの駅は乗り換え可能ではあったものの、いったん改札を出る必要があったことが下車してわかる。これが振り返るには、どうもあまり良くなかった気がする。
 ここから滞在先までは徒歩圏ではあるらしいのだけれど、荷物を持っての暗い道中はできればタクシーを利用したかった。思いのほかローカルな中岡崎駅前に車が回送してきそうな気配はなく、もう疲れてはいたと思うが、仕方なくといった感じで暗闇を歩き出す。不条理さに加えて非と責められると、昼間なら何でもない道行が、なんとも遠くに感じて気持ちがすっかり萎んでしまった。
 ようやくといった感じで岡崎公園に隣り合った滞在先に到着したのだが、落ち着かずになんとも気まずいままで夜を過ごすことになりそうで、たまらなく気が重くなる。。受付もスムーズにはいかなくて動揺し、落ち着こうと自分に言い聞かせる。

 窓からは暗く沈んだ内堀に木々の影とライトアップされた天守閣と、その左隣り先に南欧風のそれとわかる安っぽいヴィラが浮かび上がっている。まあ、行ないの結末はもう悔やんでも仕方ないし、こんなこともあるさと自分を慰めてみる。ひとまずはアルコールを口にして体を温め、空腹を満たそう。深い眠りに入る前に展望大浴場に身を浸してみる愉しみだってあるさ、と気を取りなおす。

 翌朝、目覚めるとまだ暗がりの中に見知らぬ街が沈んで灯かりが瞬いている。眼下には乙川の広い河川敷、そこにはグランドと遊歩道が整備されているようで、コース道幅を記すLEDサインが点々と連なっている。そのコースを時折、別の灯かりが単独で進んでいくのを目を凝らして眺めていると、夜明け前のランニングをしている人のヘッドライトだった。大小の連なって揺れる灯かりは、どうやら犬をお供に散歩する姿である。こうしていつものようにこの町の情景は一日の始まりを迎えることを繰り返しているのだろうか。

 明るくになるにつれ、岡崎城址に隣り合って滞在したコーナールームの部屋からは、乙川の流れと天守閣が真正面に望める絶好のロケーションとなり、朝の光とともに気持ちも晴れてきた。
 せっかく岡崎を訪れたのだから、展望浴場の朝風呂ですっきりとして、お城を眺めながらの朝食を取り、まずはすぐの岡崎城址をめぐって徳川家康公生誕の足跡を確かめることにしよう。それからは、やはり外せない「八丁味噌の郷」巡りへと旧東海道を歩いて行けばいいさ。
 その日の行程プランが見通せるとほっとする。気を取り直して滞在そのものをじっくりと楽しもう、と思えるようになり、嬉しくなる。午前中のダラダラはリラックスできていい気分でシアワセな気持ちになれる貴重なひと時だ。そうだ、急ぐことはない、すこし部屋でゆっくりしてからお昼前に出かけたらいいよねって、お城を眺めながら、天下人の気分でうたた寝をするのも悪くない、緩急自在で行こう。


 東海道新幹線車中。新富士駅を通過し、富士川鉄橋を渡る(撮影:2022.11.27) 


秋深し、甲州府中の旅 その二

2022年11月11日 | 旅行

 翌朝の六時に目覚めると、東からのひかりが窓の外の山並みにも射し始めている。曇りの予想が青空も覗いてくれていてまずまずの天候、美しくも雄大な光景で、今日は良いことがありそうだ。
 まずは、目覚めに大浴場で入浴してから、朝食会場へと向かう。バイキング形式の会場は入り口から順番待ちの列ができていた。三階屋上庭園と外が望める窓脇に並んで席をとる。目の前には、敷き詰められた小石の庭と紅葉した植栽の木々、その先にはうすっらと紅葉が始まった湯村山のたおやかな山並みが広がる。


 
 食事をいただいた後、湯村温泉巡りに繰り出す。一階ロビーからそのままコンベンションホール前をぬけてゆくと、併設されたコンビニの横に出て温泉通りへとつながっている。早朝通勤のためなのか、車がスピードをあげて走り去ってゆく。
 温泉街通りを行けば、そこはかとなくさびれた感は否めない。湯川橋を過ぎると、廃業になったらしいホテル建物は閉鎖されたままか、老人ホームやデイサービス施設に転用されていた。太宰治が新婚時代に逗留したという旅館明治も古びて時代がかった外観を晒している。
 弘法大師伝説が残る、杖温泉弘法湯の道路にかかる渡り廊下をくくり抜けると塩澤寺だ。石段階段の参道のさきにそびえる立派な山門を見上げる。ここの脇にあるのは舞鶴の松、石組に囲まれて張り出した枝ぶりの、これまたとても立派なこと。鶴が翼を大きく広げた様子にたがわず、左右の枝ぶりは三十メートルほどもあり、樹勢いはなお盛んな様子だ。この境内本堂前からは前方はるか南アルプスのむこうに、富士山頂が望める天下一品の絶景だ。お寺の脇には、湯村温泉発祥の湯跡があるらしい。

 ここから折り返して擬宝珠つきの庚甲橋を渡り、一本裏通りをぬけて引き返す。温泉通りの入り口の向かいは、皇室御用達で囲碁将棋のタイトル戦にも利用される常盤ホテルがある。玄関入り口前では、ドアマンがうやうやしく迎え入れてくれる。中に入れば大きく広がるロビー、そこから望めるよく手入れされた美しい庭園が望める。外には数棟の離れが点在していて、ケヤキや松の大木、皇室お手植えの栗の木、ツツジの植え込みを縫うように流れが注ぎ、ロビーソファに座ると、目の前の池には優雅に錦鯉が泳ぐ。外界の喧騒からはまったく伺えない別世界だ。

 十時に昇仙峡めぐり観光タクシーの予約を入れていた。宿泊先に戻ってロビーで待っていると年配の運転手が迎えにきてくれた。黒のプリウス、初めての乗車でちょっとワクワクする。当初、シーズン運行のルーフトップバスを予約していたのに、前日の思わぬトラブルで突然の中止となってしまって、途方に暮れていた。たまたま手にしたチラシで、観光タクシーの四時間コースが甲府市の助成付きと知り、急きょ当日申し込んだら、首尾よく予約がとれて手配がつき、ほんとうにラッキーだった。

 昇仙峡まで一時間あまりの道のりである。平日だったので、渓谷にそった遊歩道は上り一方通行の通り抜けが可能となっていて、車窓から紅葉と奇観絶景を楽しむことができるという。十年ほど前は観光馬車が運航していた遊歩道を、その日はプリウス後部座席に乗り、速度を落としてもらって巡っていると気持ちは半分ロイヤル気分で、覗き込むハイカーたちにも手を振りたくなってくる。
 途中の仙我滝では、運転手さんが車を降りて待っていてくれた。昼の日が射して落差三十メートルの滝壺には、うっすら虹のアーチがかかっている。



 渓谷遊歩道の階段を上がりきったら、こんどは昇仙峡ロープウェイで山頂展望台へと昇る。ゴンドラの標高が上がるにつれて雄大さが増し、周囲を取り巻く山肌の紅葉のグラデーションが見事である。南アルプスの向こうには、富士山の頂きが雲の上に浮かんで見えて雄大さはこの上なし。甲府市街全体と盆地も俯瞰して天下一望のままだ。


 昇仙峡ロープウェイ展望台から南アルプス、富士山頂を望む(2022.11.7 撮影)

 ロープウェイを下ってから、さらに上流の荒川ダムまで走ってもらう。ダム湖である能泉湖畔の民芸茶屋大黒屋で昼食にして、運転手さんを囲んで御岳そばと“おざく”をいただく。聞きなれないメニューの“おざく”とは、ゴマ汁だれにつけていただく“ほうとう“のことで、冷たくてシンプルかつ、しこしことのどごしがよい。付け合わせのお漬物と桑の葉入り豆腐は、自家製のものらしく美味しかった。

 いよいよコースも終盤で、和田峠からは長い長いくねった下り路、千代田湖のわきをぬけて武田神社へすすむ。ここはかつて武田家三代居城だったところで、周囲には当時の濠や土塁が残る。風林火山ののぼりがはためく武田神社正面からは、甲府駅方向まで一直線の桜並木参道、武田通りがゆるやかに下りながら伸びている。その左右に広がる住宅地や山梨大学敷地は、かつての武家屋敷が立ち並んでいたところで、当時の町割りがそのままに想像できる。
 戦国時代、武田氏によって整えられた甲府最初の城下町起点は、ここから始まっていたのだった。


秋深し、甲州府中の旅

2022年11月09日 | 旅行

 この晩秋に、今年二回目の甲府を旅してきた。十月の中旬に一人旅をしてきてから、新潟への冬支度帰省をはさんで半月後の甲州巡りを満喫する。街歩きによる新しい発見や昇仙峡紅葉の進み具合も鮮やかで、その記憶の新しいうちに旅行記を残しておく。
 
 旅は横浜線経由ではじまり、八王子で乗り換え、JR臨時特急「かいじ57号」(9:57発)へ乗車して、中央線を一路西へ、甲州へと向かう。天気は上々澄み切った青空のもと、相模湖を左側に見下ろして、神奈川と山梨県境の桂川渓谷に沿って鉄路は続く。
 途中、大月では富士急行と接続するが、そのまま中央線のほうは笹子の長いトンネルを抜けることになる。甲斐大和でいったん地上に出たあと、こんどは新大日影トンネルを抜けると、左手方向にさあっと視界がひらけて甲府盆地が見えてくる。あたり一面ブドウ畑が広がり、そのはるか先の山並みの向こうには、雲の上に黒々と雄々しい富士の頂が覗いている。いちど冠雪が降りて途中まで白くなったものの、ここしばらくの陽気ですっかり溶けてしまっている。

 鉄路は勝沼ぶどう郷駅からはぐっと山寄りに北上し、大きく盆地を迂回する経路をたどってゆく。塩山駅を北の頂点として、南に大きく下っていき、石和温泉あたりでは旧甲州街道に近づいて、しばらくすると左手に善光寺の本堂大屋根をみながら、この旅の目的地である甲府へと到着する。
 目の前には、舞鶴公園として整備された甲府城の石垣がそびえている。甲府城は、戦国時代武田信玄が亡くなり、織田徳川連合によって武田家三代が滅ぼされた後に、豊臣秀吉の意向によって築城された城郭跡なのでした。石垣は典型的な野面積みで、天守台にどのような楼閣があったかは不明なのだそう。
 平成に入ってから復元された高麗門から入ってゆくと、そこは格好の展望台となっていて、甲府市街と南アルプス、八ヶ岳方面と360度が俯瞰できる。線路を挟んで北側には、1960年代モダン建築の代表作である山梨放送文化会館(設計:丹下健三)と甲府一番の高層マンション一棟が横並びでそびえる。
 本丸には熟年ガイドのおじさんがいて、天守台へと登りながら、ゆったりした口調でこの城郭の変遷を話してくれる。その語りによるとこの甲府城は関ヶ原の戦いの後、徳川幕府直轄地となり、江戸期1700年代初めには柳沢吉保・吉里親子が城主だったと知って、その意外性にちょっとびっくり。
 また、巨大な御影石製で剣状のモニュメントが直立する遺蹟は、お城そのものとは直接関係なく、明治時代に起きた笛吹川大洪水被害に際し、明治天皇からお見舞いを賜ったことに対しての謝恩碑です、との解説にも、なるほどそうだったのかと疑問が解消した。この台座、監修していたのは伊東忠太で設計には大江新太郎があたったとある。



 このあと山梨県庁敷地をぬけて。駅前通りの蕎麦屋奥藤本店に入り、昼からハイボールを傾けると、その名も「信玄御膳」を奮発注文し、甘辛さが癖になる名物甲府鶏もつ煮や手作り刺身こんにゃくなどをいただく。
 お店を後にして、酔い覚ましに徒歩10分ほどの印傳博物館へ足を運ぶことにする。ここは甲州印伝老舗の上原勇七商店本店二階に併設された施設展示スペーズで、印伝の製法説明と変遷、江戸期から昭和初期にかけての巾着、皮羽織半纏、財布入れなど渋い工芸品の数々の陳列があって歴史を感じさせる。一階のショールームのほうは、現代的センスでまとめられていてエルメス、グッチなどの高級皮革ブランド店に匹敵するような雰囲気が漂っている。二階との展示との対比が鮮やか、伝統と革新を体現しているような様子にいたく感心した。

 通りを挟んで博物館の反対側に、和風モダンの店舗が目に入ったので寄らせてもらうと、和菓子の老舗「澤田屋」本店。こちらはウグイス餡を黒糖ベースで包んだ名物「くろ玉」の製造元で、店内は洗練されたデザインだ。アカシア蜜を使用した本店限定の「櫻町38番地」の胡桃菓子もあり、その包装がまた清楚である。当日は売り切れとのことで、せっかくだからと翌日の取り置き予約をお願いする。

 この日の滞在は、駅から少し離れた湯村温泉につき、歩き回って少々疲れたので、駅北口からタクシーを利用することにした。夕暮れ時、部屋からは湯山の紅葉し始めたおだやかな山並みが見通せる。きょう一日ぽかぽかとあたたかく晴れて本当に良かった。
 ゆっくりと大浴場の温泉に浸かり、明日は早起きをして湯村温泉街めぐりをしてみようと思う。


いささか感傷的に 越後高田城下町

2022年07月01日 | 旅行

 信州から戻って約三週間後、こんどは越後高田へ実家の様子を確かめに帰省した。母はこちらの高齢者生活住宅へと移り住み、田舎の実家周辺は過疎化が進んでしまい、もはや住んでいる家族はいない。数年前からはまったくの空き家となってしまい、その管理に頭を悩ませていて、春から伸び切った家回りの草刈りを森林組合に依頼して、この度はその作業の立ち合いに帰ってきたというわけである。

 案の定というか、帰省前の当月14日に北陸東海地方の梅雨入りが発表されて、生憎のタイミングとなってしまった。それでも関越自動車道の湯沢インターを降りると夏の青空である。そのまま17号線をまっすぐ一走りして、ひと息つこうと石打の珈琲店「邪宗門」へ立ち寄る。ロードサイドに独特の書体で書かれた大きな看板が目印だ。

 白壁とレンガ造りのちいさな教会のような佇まいは、ヨーロッパの山岳地帯にでもありそうな雰囲気がする。三角屋根の頂点には凝った意匠の十字架が乗っかていて、その下の白壁にはカウベルを大きくしたような青銅色の鐘、その下には帯状の流し枠に「邪宗門」とある。店内入り口は、階段を四段上がった腰回りの高さの赤レンガとその上部分が漆喰で作られた小屋根付き門柱の木製外扉のさらに奥まったところ、年季の入った内扉の先になる。この凝ったつくりは、意匠よりも雪の季節を考えてのことだろう。



 気温が上がってきて少し雲の向こうに霞んではいるが、正面には八海山、駒ケ岳、中岳の越後三山が望めるし、建物の脇には田植えが済んだばかりの稲の若苗が揺れている。よく見ればオタマジャクシたちが浅い水面を泳ぎ回って、水中の泥を巻き上げたりしていた。すぐ横の国道を行きかう車は多くても、やはりここには、モンスーン地帯の懐かしい田園風景が広がっている。
 店内に入ってみると、古くて太い木材で組まれた柱と天井の梁が重厚でどっしりとしていて、木製のテーブルに椅子も調度も落ち着く。壁にはいくつものアンテーク時計が駆けられているが、すべて指し示す時間が異なっている。その中でどうやら動いているのは二台だけ、ここでは時間が重層的に流れていく。


  石打邪宗門。入り口階段脇に欅古木の幹。テッセンの蔓に花一輪

 魚沼丘陵を超えた十日町市街では、まだ真新しさのある越後妻有文化ホール「段十ろう」に立ち寄る。軒先が雁木通りのモチーフだ。そこから信濃川を渡り、頚城丘陵のいくつかのトンネルをひた走り、夕方になってようやく元小学校だった体験型宿泊施設、月影の郷近くの実家に到着した。

 翌日の早朝はあいにくの雨降りだったが、幸いにも草刈り作業が始まるころには、あがってくれた。家回りの草刈りは、ゆきぐに森林組合のふたりの作業員が昼過ぎまでかかって、きれいに仕上げてくれた。最後に刈った草をいくつかの山状に集めてようやくのこと、ほっとした。

 それから昼食を取ろうと高田市街まで小一時間ほどかけて出かける。途中の高田城三重櫓前通りを走っていると、なんとスターバックスコーヒーのドライブスルーができていたのにはびっくりした。大きなガラス張りの黒い平屋建て、広い駐車場つきで城址を望む絶好のロケーションである。ふるさとの町にも都会の標準的要素が浸食していることを感じた瞬間だった。


  城址公園の先の青田川ほとりのタイ風料理店、その名も「Cafe かわのほとり」へ到着。こじんまりといい佇まいだ。出されたランチセットは、エスニック風味を田舎向けにアレンジしていてやさしい味わいだ。
 すこし周辺を歩いてみる。この総構堀にあたる青田川周辺までが、かつての侍屋敷であったところなのだろうが、いまは静かな住宅地が並び、川沿いはソメイヨシノ並木の遊歩道となっている。
 いまの高田駅がある旧信越本線、いまの妙高はねうまラインに並行して大町通(北国街道)、本町通、仲町通りと三つの主要街道が南北にぬけ、鉄道のむこうは浄土真宗本山のひとつである浄興寺や東本願寺別院など六十を超える寺社が並ぶ独特の雰囲気のある表寺町、裏寺町通だ。
 旧信越線を渡って浄興寺山門どおりの入り口に佇んでいるのが、落ち着いた黒塀に囲まれた格子のある建物が割烹旅館長養館で惹かれる。奥まった建物とよく手入れされたお庭が広がっていて、ここにはいつかゆっくりと泊まってみたいと思っている。そのちかくの天ぷら五郎で夕食の天丼をいただく。

 高田の城下町は、南北の主要道と東西にぬける道が碁盤の目状に町割りされて全体ができている。その城下町のはじまりは1614年、徳川家康の六男松平忠輝の代から輝かしく始まる、はずだった。
 ところが大阪冬・夏の陣をはさんで、天下普請で築上された高田城の開城後わずか二年の1616年七月、改易流罪されてしまう。忠輝は伊勢、高山と流転を続け、最終的には諏訪高島藩に幽閉の身となって、当時としては驚異的な長寿の92歳で現地に没している。晩年は比較的自由な身となり、達観して諏訪湖での釣りや趣味三昧の日々であったという。
 そもそもの始まりでケチが付き躓いてしまった高田藩の命運は、四代松平光長の時代にようやく繁栄を迎えたものの、その後もお家騒動による懲罰や雪と地震による飢饉災害などが相次ぎ、北陸街道や北前船寄港地に近い要という地勢的有利さを活かしきれないままに、不運としかいいようのない悲哀を帯びた変遷をたどってしまう。
 1685年に小田原から稲葉正通氏が入封してからは、小藩ながらやや持ち直し、松尾芭蕉が「おくの細道」の途中で立ち寄っている。財政的に厳しかった戸田氏、桑名から入封の松平氏の時代、最後は姫路から榊原氏が移って政治的には安定したものの、頻発する災害に苦しめられながら忍耐の130年間で、最後は反新政府軍側として敗戦側となり、同じく降伏側会津藩士を預かって激動の明治維新を迎えた。幕末には、十返舎一九が来高していて一文を残し、そのゆかりの飴やがいまでも存続している。
 と、ここまでくるとまったく踏んだり蹴ったり、貧乏くじを引いてばかりのように見えるだろう。おそらくその命運のなかで高田藩士と城下庶民の身に染みたのは、表立っての主張を控えて本意は腹の奥底にしまい込んで、なかば諦めも混じった“忍耐の精神”ではなかったか。地に足をつける、といったら格好はよいが、まあ仕方がないし、なるようにしかならない、といった心情はなんとも歯がゆい気もするが、さまざまな出来事に拘束される中で選ばざるを得なかった“叡智”なのかもしれない、と納得しよう。

 敗者の論理が身に染みている分、城下町の街並みと人情は慎ましやかであり、口調もどこかおだやかで優しい。城址も伊達政宗などによる天下普請とはいえ、天守閣も石垣もなくわずか本丸に土塁を残すのみである。それでも本丸三重櫓を望める内堀にかかる太鼓橋の名称は“極楽橋“という。春になるとソメイヨシノが濠の夜景に浮かんで見事らしい。ふるさとなのに、サクラの夜景はじっくりと見たことがないのだ。

 そしてこの初夏に時期に外堀には、もともとは維新後の困窮対策として窮余の策で植えられたという蓮根が泥中から地上天国に茎をのばす。そうして緑の皿のようにおおきな円形の葉の連なりと、もうすぐうす紅白色のハスの花々が辺り一面に埋め尽くされて、それはそれは見事だ。
 どちらも哀愁の城下町には、この時期だけひときわ華やかでもあり清々してふさわしい情景と思える。その花々の情景に、城下町が抱えてきた様々な出来事への鎮魂の意味も含めて。
(2022.6.29 書き始め、7.1 初稿了)


皐月から水無月を跨いで 信州松本城下町  

2022年06月27日 | 旅行

 今月六日に梅雨入りした関東甲信地方だが、もう梅雨明けの本格的な真夏のような、ここ数日の急激な暑さと言ったらどうしたことだろうか。

 梅雨入り前の信州松本と、14日に梅雨入りした越後高田とふたつの城下町を旅してきた。隣接した県にありながら、対照的とも思えるふたつの城下町を訪れて歩いて巡ったこと見たこと、感じたことを思いのままに記してみる。まずは、先月末日からの月跨ぎ信州路の旅のあれこれから。

 信州松本を訪れるのは、2018年11月25日以来四度目になる。もうあれから四年が過ぎている。それが遠い前のことのようにも思えるし、あっという間の出来事のようにも思い返される。
 八王子からのあずさ5号が松本に到着したのは午前十時半過ぎ、駅前に降りてタクシーに乗り、車中の高揚感とともに不思議に安堵感を覚えるのは、そのときと同じ友が同行していてくれるからなのだろうか。以前泊まったことのある同じ松本ホテル花月に到着した時の懐かしい気持ち、また戻ってきましたよ、と語りかけたいくらいだった。荷物を預けたら、別館一階の「八十六温館」でのワンプレートランチでひと休み、松本に滞在するんだという気持ちにじわじわと馴染んでいく感じだ。

 このカフェのすぐ脇、本館とのあいだには豊かな水路が流れている。それはおそらく松本盆地を流れる伏流水がもとで、そのすぐさきの女鳥羽川に注いでいるのだろうけれど、涼やかである種の生命感を与えてくれている。そうして水路をはさんだ本館も別館も正面入口はお城側をむいていて、建物本体はすこし段差の下がった位置に高低差を正面口の高さにあわせて建てられているようだ。水路が流れているあいだの細い通路は外堀小路と呼ばれているらしく、いまは両側に建物の背後で挟まれていて、通りぬける人もいない。
 宿の隣、かつてにぎわいの名残りが感じられる鄙びた上土通りの角には、ちょっとした植え込みの中に東門の井戸が残っていた。女鳥羽川沿いの縄手通りにでる手前にも、辰巳の庭公園というところがあって、古い家屋に囲まれたいい感じの水路と植栽が整備されている。

 このあたりは観光客もちらほらと見かけるくらいで、落ち着いて滞在し散歩するにはもってこいのところだ。ここからは松本城公園も、女鳥羽川のむこうの老舗店が軒を連ねる中町通りへも、のんびりと歩いて行けるし、もうすこし足を延ばせば住宅地やお寺をぬけて、松本市美術館やまつもと市民芸術館、その先の旧制松本高校跡地、ヒマラヤ杉並木が立派で伝統を感じさせる、あがたの森公園までも行ける。翌日の街めぐりの散歩コースとなった。

 初日昼食後は、バスに乗り郊外にある漆塗作家の器工房を尋ねた。思いがけず、帰りは松本城のすぐ正面の市役所前まで送っていただくことに。車から降りたあとに、せっかくだからと市役所展望台から天守閣と対面を果たすことにした。築五十年超えると思えるようなレトロ感のある市役所に入って、最上階から階段で昇っていくと、四方がガラス張りの展望室になっている。そこは天守閣を望む特等席、松本城のその向こうには冠雪を残した北アルプスの山々が一望できる。岳都ならではの雄大な風景と八万石城下町のいまのすがたを堪能した。

 両日とも夕食は、まちに繰り出していただく。初日、宿から歩いて近くの民芸居酒屋「しづか」にて、ここは焼き鳥とおでんが看板なのだそうだ。二日目は、松本民芸館からの帰り路に立ち寄った川のほとりの古いビルにある自称時代遅れの洋食屋「おきな堂」で卓を挟みながら。店内に入って席に着けば、室内の様子から地元に愛されている雰囲気が伝わってくる。若くてきびびきびした看板娘?さんが、丁寧な説明付きで給仕をしてくれていて気持ちよかった。
 帰り際のこと、レジ横の壁には数年前に来店した日付がある小澤征爾のサイン色紙が飾られていた。

 ローカルで落ち着いた松本のまちの雰囲気が感じられる絶好のロケーションで、二泊過ごせることの幸運を想う。月跨ぎの信州松本の夜は長い。


大場芳郎漆部(松本市岡田)2022.5.31


 市役所展望室から松本城と街並み、その向こうの北アルプスを望む(2022.5.30)

 翌日、松本から長野まで篠ノ井線で善光寺平を往復して、新装なった長野県立美術館と東山魁夷館をめぐる。美術館本館は昨2021年四月に新装なったばかりのぴかぴか。設計は宮崎浩/プランツアソシエイツ、隣接する東山魁夷館とブリッジで結ばれていて、建築的にもよく調和がとれている(2022年度の建築学会賞を受賞した)。間の段差のある人工池の流れには、一日三回定時になると中谷芙美子の霧の彫刻が出現する仕掛けとなっていた。ちょうどその午後の回に遭遇することができた。
 美術館屋上テラスに出てみると、目の前に国宝善光寺本堂の大屋根が望める。暑いくらいの陽気に恵まれて、ここからの大きく開けた風景は雄大で気持ちがいい。
 東山魁夷館は、ロビーを抜けた人工池を取り込んだ内庭とアルミパネル壁の建築と切り取られた周囲の風景と天空のがすばらしい。展示室棟ロビーからの人工池ごしの眺めもなかなかのものだ。
 美術館のあとに立ち寄った善光寺境内は、一年遅れの前立ご本尊御開扉でにぎわっていた。私たちもお参りを果たして、急ぎ足で帰路に着く。


 東山魁夷館内庭より。設計谷口吉生/竣工1990年、2019年改修(撮影:2022.6.2)


江の島サムエル・コッキング苑

2021年12月18日 | 旅行

 湘南モノレールは、大船駅を起点に湘南江の島まで八駅を結ぶ6.6㌔mの単線懸垂式、その浮遊感といったら、まるで遊園地のゴースターに乗ったみたいでたまらない気分になる。鎌倉の山襞を縫うようにときに曲がりくねりながら上り下りして、途中トンネル潜りもあり、スリリングなことこの上ない。
 その特色はなんといっても高架ならではの眺望の良さ。冬の快晴の時期、車窓からは冠雪を纏った富士山の姿が見え隠れして思わず歓声を上げたくなる。基本は沿線住民の生活をささえる通勤通学路線なのだけれど、それだけにとどめているにはもったいないくらい。首都圏において面白さ抜群のローカル線である。

 始発の大船から乗車するのは久しぶりで、こどものようにワクワクしてしまう。乗車して約三十分足らずで、終点の湘南江の島駅に到着する。ビル五階にあるホームは改札を出ると、海岸方面に開けた展望スペースがあり、その先真正面にはもうこれでもかというばかりに堂々とした富士山が構える。あまりのストレートさが潔すぎて、なんだかあっけにとられるくらいだ。
 一階に降りて江ノ電踏切をわたり、まっすぐ洲鼻通りを江の島へと向かう。鄙びた雰囲気のあったこの昔ながらの通りも、ここ数年は新しいショップが次々とできて新旧混じったにぎやかな明るい感じである。
 通りをすすんで、国道134号線をくぐると江の島弁天橋につながっていく。この日は海風が強く吹いていて、さめるような快晴の青空に冬の太陽が眩しかった。橋を進む途中白い幾重もの波頭のむこうに丹沢大山、そして富士山が眺められる。この解放感と気持ちの良さは、何度来てみても素晴らしく代えがたいものがある。

 橋を渡り切ったら青銅の鳥居をくぐり、両側がにぎやかな商店街の参道をすすむ。正面に赤い大鳥、階段を上ると竜宮城のような端心門。そのまま石段を上れば辺津宮に至るが、この日はバリアフリーコース?を選択して、昭和レトロ気分満載の江の島エスカーを乗り継ぐことにした。このエスカーは、なんと昭和34年7月(1959年)に開業していて、以来六十年余りにわたって参拝観光客を運び続けていることになる。
 二回の乗り継ぎを経て、あっという間に山頂広場にたどりつく。サムエルコッキング苑は、明治初頭期イギリス人貿易商コッキング氏が作った別邸庭園跡とレンガ造り温室の遺構だ。南洋諸島原産の珍しい植物が残っている回遊式の園内は、近年新たにバラ園や椿園が整えられ、藤沢市との友好都市アメリカ・マイアミ、カナダ・ウインザー、韓国保寧、中国昆明ゆかりの四つの広場が設けられている。関東大震災などで倒壊してしまったレンガ積基礎の温室は、完成当時石炭燃焼により発生させた蒸気で温める仕組みの配管や、地中トンネル通路、雨水利用の循環施設もあったというからスゴイ。
 11月にコッキング氏の年表や写真画像ほか資料を展示したスペースがオープンしたばかり。彼の来日後における国内外での商業活動や日本人妻と結婚した暮らしぶり、最後は横浜平沼に骨を埋めたという生涯には興味を惹かれた。生き方は全く異なるが、同じ異邦人小泉八雲の生涯を連想してしまう。

 せっかくだから江の島展望台に昇ってみることに。今風シーキャンドルという愛称の塔は、正式な灯台であり、展望施設も兼ねているというのが正しい。夕暮れ時間には早いが、展望台に上がってみればまたまた相模湾ごしの白波、冠雪富士の雄大な姿。周囲三百六十度の眺望でまことに爽快、と言いたいところだが、あいにくのものすごい強風で、ゆっくりと不気味な揺れが伝わってくる。この空中浮遊感はあまり快適にあらず思わずすくんでいると、その腰の引けた様子をみて同行者がニヤニヤしているのがう~ん、恨めしい。

 そこそこに下界におり、石段を登り下ろして奥津宮への参道を進み、洒落た感じのカフェMaduでひと休み。ここの窓辺からも相模湾沿いの辻堂・茅ヶ崎・平塚の街と湘南平大磯、背後に丹沢箱根の山並み、植栽に隠れてしまっている富士山頂の白い部分だけが見えている。
 それぞれが注文したパスタ料理、思いのほか野菜とソースが調和しておいしかったのは、程よい疲れと空腹感、眺めの良さだけでなく、ともに過ごした時間の堆積もあったからなのだろうか。
 あとで調べたら、ここは東京北青山が一号店でどうやらその二号店らしい。イタリアンと海鮮丼ものが混じったメニュー、若者カップルむけの店内雰囲気は、そのあたりからきているのかな。

 ここまで来ると表通りはがらんとしている。帰りの裏道は甘いものが頬張りたくなって、出桁造り中村屋羊羹店舗の奥で湯気をあげていた二色のひと口饅頭を求める。
 饅頭を口にしながら山側民家の細い路地をぬけて進むと、しばらくして海側の木立が途切れたさきに、またしてもの富士山、空気が凛として澄んだこの時期の姿は、とりわけ素晴らしい。北斎富嶽三十六景には及ばないにしても、島内道中折々そのさまざまな変化の眺めは見飽きることがないだろう。


冠雪芙蓉三昧 横浜三渓園

2021年12月14日 | 旅行

 翌日、しばらくのあいだ温もりと戯れながら目覚めると冬の青空の光がまぶしい。まだ気だるさが残る朝を入浴で気持ちを切り替えて、九時過ぎに一階の白ヤギ珈琲店で遅いモーニング食をとる。ゆっくりとした冬の朝、人々の日常は動いているなかで、きょうの予定を話し合う。

 JR根岸線で大船から6駅、根岸まで行く。駅前からはタクシーで本牧通りを10分ほど、三渓園正門前へ到着する。ここは通俗的な呼び名をしてしまうと、ミナト横浜における小京都の世界だ。もとは明治期横浜の大経済人にして文化方面に造詣の深かった原富太郎(号三渓)の私邸跡と庭園であり、明治39年(1906)から一般公開されている。
 いまの紅葉の季節、日本各地から集められた伝統的建築物とよく手入れされた回遊式庭園美の調和を愛でるにはもってこいの場所、いまならメセナ大賞もの、はるばる訪れるだけの価値がある。
 正門をくぐってまず対面するのが大池越しの丘に建つ、京都木津川から大正時代に移された旧燈明寺、室町時代三重塔の立ち上がった姿。この庭園は、この塔の眺めを中心に配置が考えられているといっていい。まずは大池の脇路を移動しながら、その姿の眺めの変化を愉しむことだ。


 すぐ右手に原三渓本宅だった鶴翔閣の茅葺大屋根が迫ってくる。平成元年に竣工した三渓記念館の横をぬけて、内苑にはいると池の対岸に端正な姿を映すのは、紀州徳川家書院造り別荘を移築した臨春閣。もとあった和歌山紀ノ川のイメージを彷彿とさせる。これも風景の見立てのようなものか。
 池に流れる渓流の先は二手に分かれ、月華殿(元は京都伏見)と天授院(元は北鎌倉の地蔵堂)の先と聴秋閣(元は京都二城内)側となり、ここはイロハモミジの紅葉が歴史建造物と相まって絵になるように計算されて植えられている、その遊歩道を一巡り。途中で立ち止まれば、塔楼屋根と鮮やかな紅葉越しに決まった三重塔が望めた。この季節の三渓園におけるハイライトシーン、なかなかスマホ画像では構図をはじめ、逆光になったりで、うまく取れない。

 

 せっかくだから、その三重塔の近くまで行こう。小高い丘に向かって坂を上って、根岸湾を望める松風閣へと進む。行ってみてはっとした、ここからは石油精製コンビナート越しの冠雪富士と丹沢の山並みが望める。かつて眼下の先は埋め立てられる前の磯子湾だったはず。変わらぬ悠久な自然と現代の人工物の対比が面白く、見入ってしまうことに。石油タンクと煙突の間の富士山、東海道新幹線で富士川あたりを通過するシーンの遠景版のようだ。あの葛飾北斎もびっくりの現代ならではの情景だろう。
 

 下り路の脇には、大正時代末に起きた関東大震災で倒壊してしまった旧松風閣のレンガ壁遺構が残されている。ここのがれき跡こそ、かつてインドから来日した詩人タゴールがしばらくのあいだ滞在していた場所だと思えば、自然災害の迫力とその時の流れの無常さがいっそう感慨深い。

 尾根路を進んで旧燈明寺三重塔の真下にたつ。ここからは園内大池を見下ろし、本牧マンション群が一望のもとだ。階段を下って小川を渡り、白川郷合掌造り住宅に立ち寄ってから、待春軒で一休み。旧燈明寺本堂の横をやり過ごして、最後に大江宏の遺作設計でもある近代モダン建築書院造りの三渓記念館を訪れる。入ってすぐのロビーから、内池のまわりの隠れた紅葉が愉しめる。原三渓の生涯を記した年表・資料とゆかりの美術品を眺めて、半日に渡った三渓園めぐりは締めくくり。
 本牧通りからバスに乗り磯子まで行き、JR根岸線にて大船まで戻ったのが夕方四時だった。駅ビルで買いだして、夕食は部屋でのお寿司をつまみながらのワインの乾杯!夜更かしは禁物なのに、密林の迷宮に誘われて気がつけばいつ頃眠りについたのだろう?