日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

成瀬山吹緑地へ

2020年04月25日 | 日記

 今週末から大型連休が始まった。新型ウイルス拡大の影響を抑えるために、政府や都知事から都内の企業に対しては、来月六日までのなんと十二連休の要請が出されているそうだ。まったく、やれやれである。感染防止のためであるにしても、その先の希望や明確な着地点が示されないことには、ステイ・ホームと連呼する掛け声に不安だけがあおられて、意図されない閉塞感だけが増していく。

 この展望のなさは、自ら何とかするしかない。思考停止にとどまることがないように、ちかくの成瀬山吹緑地へ出かけた。ここは東京都町田市と神奈川県横浜市の境目にあたる丘陵地だ。すぐ際まで住宅地が迫ってきてはいるが、都県境にあたる尾根沿いにそって緑地が保全され、南から西方向に大きく展望が開けている。町田市街地の向こうに丹沢大山から遠く高尾山奥多摩あたりの連なりがパノラマ舞台のように広がって、ほれぼれするような眺望だ。

 お昼ちかく、その眺めを横目にしながら犬を連れた散歩途中の方が通り過ぎていく。クルマのトランクから折りたたみチェアを引っ張り出し、草地のさきの見晴らしのよい方向に向けて、しばらく遠望を愉しもう。青空を背景にしたいくつかの雲の流れ、風はひんやりと日差しは暖かい。すこし蒸気があがってきているのか、丹沢の山並みのむこうに望めるはずの富士の冠雪を拝むことはかなわないけれども。

 それでも近郊の市街地を俯瞰するむこうの視界の広がりは、ほんとうに素晴らしい。近くににラッパ型スピーオーを模したような横長のオーディオテクニカ本社、成瀬駅あたりの高層都営住宅棟、その先に小田急町田駅周辺のデパートが確認できる。西成瀬の方向に見えるウコン色屋根集合住宅は、メゾネット型低層賃貸マンションのロイヤルタウンである。こうして俯瞰すると思いのほか送電線鉄塔の連なりが目につく。それだけ住宅地化されるほんの少し前までは、典型的な“のどかな郊外”だったのだ。
 わきの坂道をそろそろと下って成瀬街道へとでる。町田方面にむかって恩田川を渡るときに左手に見えたソメイヨシノの並木は、もうすっかり青々とした葉桜とかわり、右手の方向、西洋ハナミズキの白い花がやけにまぶしい。

 やがて、白い三角とんがり屋根の特徴ある建物がみえてくる。パウンドケーキが美味しい「コガサカベイク」本店である。ここの建物は、元フレンチレストランだった時期もあったらしいが、どことなくセルフビルドっぽい雰囲気が漂う。背後の大きなケヤキの木が目印なのだけれど、最近その枝を落としてすっきりとなった。白く塗られた外壁に囲まれたレンガ敷きの中庭からショップへと入る。
 季節ものの桜モンブラン三個1200円を持ち帰り購入したついでに、久しぶりだから喫茶スペースで寛ぐことにしよう。周り階段を踏みしめて二階へ登っていくと、ひんやりとした空気がする。厚い床板と真っ白の壁、女性雑誌のグラビアページに出てきても不思議ではない雰囲気だ。もう、たぶん何度も登場しているのかもしれない。先客は一組の熟年カップルだけ、まあこれならソーシャルディスタンスは十分だろう。

 ゆったりしたテーブル配置と高い天井が開放的、音量を控えめにしたボサノバのボーカルを聴きながら、あっさり味のシュークリームとアッサム茶でアフタヌーンティータイム中、四年前のリオデジャネイロ・オリンピックの夏を思い出した。今夏のTOKYO2020は延期されてしまったけれど、はたして来年の夏には無事に開けるのかどうか。やるなら、思い切りコンパクトにして終わった後のレガシーを残してほしい。
 ひとまずは、これから五月へ向かっての予定をどう過ごしていくかのほうが大事と、そう思いなおす。

 来月に入ったら立夏はもうすぐ、新緑はあっという間に濃くなっていってしまうだろう。もしかしたら梅雨を通り抜けて、一気に夏がやってきてしまうような予感がする。そうしたら、あのひとは人生暦をひと巡りして、ここにまた戻ってくる時があるでしょう。
 
 歩きながらときに立ち止まり深呼吸して、ときどき遠くの景色を眺めてみる。それは、あわただしい世界の流れに惑わされずに、自分とまわりの関係性といまここの足元を見つめるために、生きる手掛かりを得るために必要なことだから。


青空中庭の西洋ハナミズキが色づく季節。(2020.4.25s撮影)


まほろ郊外里山田園風景

2020年04月19日 | 日記

 四月半ばの週末は、田舎への冬自宅明けの帰省予定が新型ウイルス拡大騒動による在宅勤務から、引き続き思わぬ四連休となってしまった。もし新潟へ帰省できていたとすれば、今ごろは空き家となっている実家の玄関や縁側の羽目板をはずして、家周りと庭先の伸び始めた雑草に呆然として立ち尽くしてしまっているだろう。
 もう、母が丹精をこめて手入れをしていたさまざま植物や土手の芝サクラはほとんどダメになってしまっているだろうし、屋根の軒先玄関や板羽目の痛みも進んでしまっているだろう。その昔、四十数年前に田舎を出てのうのうと暮らす“やわな”都市生活者には、厳しい現実が突きつけられている。

 昨日からの激しい雨と風がやんで、朝から晴れ上がり大きく青空が広がる。家にこもっていても気持ちが滅入るばかり、と言い訳はともかく、気分転換に外に出てみたくなって、となり街郊外の新しく開かれたばかりの自然公園へ出かける。
 車で三十分ほど、鎌倉街道を進んで市街地が途切れた里山風景の残るあたり、“四季彩の杜(しきさいのもり)”と今風にネーミングされた場所へと到着する。前からある地元の名勝地薬師池公園に隣接した、畑と山林が混在する丘陵地の原風景をなるべく残して整備されたところだ。街道に近い駐車スペースは、かつてゴルフ練習場のあった跡地である。

 駐車場を降りると、丘陵の上がり具合にあわせたように黒塗板壁のあたらしい平屋建物が五棟連なって点在する。ビジターセンター兼地産農産物販売所にレストランや休憩所といった用途だが、このウイルス騒ぎでオープンが延びている。丘の上に向かってジグザグに遊歩道が伸びていて、植栽されたばかりの幼木林をぬけると頂上の芝生広場にでることができ、一気に周囲への視界が広がる。この気持ちよさといったらなかなかのもので、この季節は爽快感きわまりなく大きく背伸びして寝転がって体全体に光線を浴び、青空と対面してみたい気分に駆られる。

 南東方向の丘には、中世の教会みたいな市立児童体験型施設であるひなた村のレンガ壁とカリヨンつき銅拭きとんがり屋根が望める。ここは日帰りの野外キャンプ場に小さな劇場もあって、なかなか素敵な建物である。
 視界の反対側は、両脇が新緑の自然林と一面の黄色に染まる菜の花畑だ。尾根の林の向こうは、もうすぐに住宅地が取り囲む。この新しい公園が拓かれたことで、尾根沿いに残された緑地と里山がつながって、まるで箱庭のように気軽に森林浴ができる回遊性遊歩道として楽しめるようになった。これにくわえて住宅地に残された最大の里山である七国山緑地とぼたん園に隣接する民権の森、ファーマーズセンターのある北園地をつなげてみれば、東京郊外でも有数となる自然と農作地と住宅地域共存型の田園地帯が成立するのではないだろうか。

 このあたりを巡れば、しばし日常から抜け出して手軽に数時間で田園風景を楽しめる。風が吹き抜けるなか、人の暮らしと自然の関係を確かめて実感することができる。いま人間社会で起きていることに、すこし距離をおいて歩きながら静かに考えを及ぼすことができるだろう。

 付記: 帰路に着こうとして公園のわきをぬけると反対側の高台に上っていく坂道に、ウイルス騒ぎが鎮まるようにと深い祈りの言葉が掲げてある。カソリック教会なのかと思って表札を探すと、なんとマリアさまの名を冠した修道院の名称が目に飛び込んできた。少し離れて眺めるとと丘の上には、白壁に赤い屋根の清楚な建物が並び、すぐ周りは住宅地に囲まれている。俗世界を離れた修道院のイメージから連想されるように、ほんの半世紀少し前まではこのあたりは、のどかな農村地帯だったはずなのだ。そしてすぐわきの小さな河川は、湧き水が流れ込み小魚が泳ぎ、春にはチョウが舞い、夏にはトンボたちが飛び回り、幾匹もの蛍たちがほのかに光瞬いていたに違いないだろう。


 薬師池公園西園(撮影:上2020.04.17、下04.19)

手前の踏み固められた道は昔からある稜線の山道。宅地がすぐそばに迫る。
森からはウグイスのさえずり。


清明過ぎて玄鳥至る花まつり

2020年04月08日 | 日記

 きょうは、お釈迦様の誕生日(旧暦)にちなんだ「花まつり」の日、さわやかな青空が広がり、よく晴れ上がった一日となった。季節は二十四節気五番目にあたる清明とまさに春爛漫のはずが、新型ウイルス感染拡大で行く先の見えない閉塞感が充満している。
 
 人命よりオリンピックの延期都合を優先させて、遅きに失した感のある政府による史上初の「緊急事態宣言」で文字通り世の中は閑散としている。だが、こうなったら嘆いてばかりはいられない。これを機会に普段見えていなかったことに注意をむけて、あたらしい視点からの発見と創意工夫をしていくチャンスでもあると発想の転換を図りたい。  
  
   ポカポカ陽気だった清明の日は、相模川べりの座架依橋たもとの河原土手の桜と見納めのスイセン畑を眺めに出かけた。風が強く吹いていて閉口したが、相模川を隔てて大山と丹沢の山並みがくっきとと見渡せる爽快な気分だった。
   帰り道、座間キャンプちかくの一軒家レストラン「ラ・リチエッタ」へ久しぶりに立ち寄ると、駐車場はがら空き、玄関で茶色のラブラドール犬が人物査定よろしく出迎えてくれていた。午後一時半すぎの遅めのランチタイム、天井の高い店内の隅の席で、ひき肉カレーセットをとった。付け合わせのサラダ野菜は、地元のものらしく新鮮でせっかくだからピザにワインでもと思ったが、ひとり車運転なのであきらめよう。  

 そこから急いで帰宅し、パソコンからYou-tubeライブ午後三時配信のズーラシアンブラス結成二十周年公演「ズーラシアンカーニバル」を見る。インターネットによる生中継ははじめての体験なので、どんなものか興味津々だったが、なんとも観客のいないホールの舞台演奏会とは不思議なものである。さらに動物キャラクターのオーケストラメンバーが並ぶステージ光景は、観客のいない客席と対比するとシュールだ。スタジオライブとも違ってカメラアングルは切り替えられても編集がきかないし、当然ながら司会者がいなければ演奏者だけでは成り立たない。それでも、生配信ということで見ても、その熱演と迫力がすばらしくて感動した。  

 今宵、花まつりは満月と重なる。中庭に面したベランダから覗いてみると、月は東の空にきっきりと浮かんでいる。朗々とした月下の夜、昨今の騒動をどう考えたらよいのだろうかという想いが募る。
 ウイルスは、細菌とも異なり無生物と生物の間に漂っている奇妙な存在である。多くのウイルスは宿主と共存しているが、ときに個体の死をもたらすということの輪廻にも似た現象は、自然界全体の摂理を想わざるを得ない。それはいわば“生命系の黙示録”=サイレントボイスと呼ぶべきものだろうか。
 静謐な満月のもとに夜桜は咲き残り、沈黙の声に耳を傾けながら、人類を脅かすかのように振る舞う新型ウイルス騒動がやがて落ち着いて(それは必ず犠牲をともなうけれども)共生していくことを願う。


  余談:清明の日のおやつは、地元のお菓子屋「松月」で求めた桜もちとどら焼きの二本立て。どうして季節ものにどら焼きの組み合わせかというと、この四日は「あんパンの日」(銀座木村屋)と並んで「どら焼きの日」なんだそうだ。だいたいにおいて加工した食べ物にちなんだ記念日は食品業界からの提案によるものが多い。案の定、こちらは平成20年に島根県米子市の菓子屋京丸製菓が公称している。まだ一般的ではないから、地元のお菓子屋さんも知らなかった!
 そのココロは、桃の節句と端午の節句に挟まれた日、カステラにあんを挟んだどら焼きを食べて幸せ(4合わせ)になろうと洒落たからという。ならばいっそのこと、この季節らしく桜餅とどら焼き、ということで日本茶で味わった和の甘味はなかなかに結構なものでした。

 
町田郊外三輪の令和最初の桜の里山風景。  
さまざまなサクラが次々とスイセン、菜の花などと競うように咲く(撮影:2020.3.30)

 
 同じく三輪、民家の裏山に咲く山桜。こんもりした土盛(墳墓?)の上に鎮魂のごとく。