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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

東京するめクラブ「地球のはぐれ方」

2014年08月29日 | 日記
 東京するめクラブなる三人組が、今世紀初頭というと大げさになるけれど、要するに2002年から3年にかけて「ちょっとヘンな」あるいは「すこし気になる」、ひらたくいえば海外を含む各地のB級的観光地?を巡った紀行文集が「地球のはぐれ方」というタイトルで文庫本化されているのを読んだ。

 そこに取り上げられた地所の標題は順に、
「魔都、名古屋に挑む」食材編:失われた世界としての名古屋 文化編:日本は世界の名古屋だったのか
「62万ドルの夜景もまた楽し―熱海」諦観の静けさに幸あれ
「このゆるさがとってもたまらない―ハワイ」 夢のハワイで盆踊り
「誰も(たぶん)知らない江の島」 へえ、江の島ってこうだったのか
「ああ、サハリンの灯は遠く」 サハリン大旅行 ワイルド・ウエストとしてのサハリン
「清里―夢のひとつのどんづまり」 清里 メルヘンの果て
となっていて、一見脈絡のなさそうなその地所の選び方自体が興味深くおもしろいでしょ。

 東京するめクラブと称する三人組は、村上春樹に吉本由美、都築響一の組み合わせでこの名前をみただけで好奇心をそそられる。村上、吉本は団塊の同世代でともにプロ野球ヤクルトファン、都築はその少し下の1956年生まれで結構前からの旅行仲間だからというから、へえっ、意外という感じ。

 最初の訪問地に選ばれたのは、名古屋。この選択は隊長こと村上春樹の主導だったのかはわからないけれど、前半の食材編(食べ歩き記)のお店のセレクトは都築隊員らしいニオイがする、もっとも取材にあたっての案内役には、名古屋在住の人があたったていたと書かれているけれど。まずは軽いノリでの食べ歩きであちこちの名古屋人には普通?でも少なくとも東京人にはマニアックなお店を巡り、レポートしてる。あのハルキさんも10数年前はこんな感じの仕事も受けてたんだ、とちょっと意外でもあります。もしかしたら、息抜き的に、いや積極的に次回小説の題材探しをしていた、という説もあり、ムラカミ隊長担当の冒頭文「失われた世界としての名古屋」「名古屋道路事情」「名古屋に来たらラブホテル」(つい先日市内の新栄から千種あたりのメイン通りからの一歩奥のブロックを歩いてみると、派手なネオン輝くホテルが林立してた)を読んでみて、あらためて現時点での最新書き下ろし小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(2013年4月)に思いを巡らしてみるとおもしろいかも。ひとりの人間の体験したことが創作において何かしらの無意識の影響、インスピレーションを与えていることは当然のことだろうけれど、ひとつはっきりしているのは「地球のはぐれ方」も「色彩を持たない・・・」もともに文芸春秋からの発行であるということなんだ。職業作家村上春樹としては、しっかり結果を出したうえで仁義を果たしているということは言えると思う。名古屋、たしかに掴みどころがない街です。

 この紀行文集のなかでもうひとつ興味深かったのは、秋の江の島宿泊訪問編。江の島の不思議な魅力は個人的にも大好きで、このブロブでもこれまで二回触れる機会あり、新年の冠雪の富士を望む江ノ島神社詣でから始まって、つい最近は晩夏の恒例イベント「江の島BALI SUNSET2014」に行ってきたばかり。訪問記最後の鼎談会でムラカミ隊長が「どことなく土着的、アンダーグランド的な凄味がある」と発言することに応じてツヅキ隊員が「バリ島みたいな感じ?」、隊長「誰かが江の島ケチャダンスとか作っちゃえばいいんだ」となっていたけれど、その数年後本当に「「江の島BALI SUNSET」なるインドネシア大使館後援、ガルーダ航空協賛のイベントが始まってしまったのだ。江の島にバリですよ!おまけに時期が前後してハワイアンダンスのイベントも並行して行われていて、もっとすごいことになってしまっている。
 宿泊先の岩本楼の洞窟風呂とローマ風呂ステンドグラスは確かに一見の体験価値あり。ここのよくできたテラコッタやタイルが陶芸作家の小森忍(1889-1962)だとは知らなかった。大阪生まれで京都で浜田庄司や河井寛次郎などとともに修業し、たしか愛知にもゆかりの人ではなかったかな。島内めぐりのエスカレーター“エスカー”は1959年設置のバリアリー施設の先駆け?野良猫天国なのは、参道や民家の並ぶ路地をあるいてみるとすぐわかります、ムラカミ隊長が猫好きだったとはね。シャッターの降りた店先でトラ猫に手を伸ばす隊長のなんとも幸せそうな表情が楽しい。

 江戸時代からの宗教的要素と参詣の伝統が息づき、明治にはE.モースが臨海生物観測を行い、50年前の東京オリンピック大会ではヨット会場となり、平成になって展望塔が建替えられ、高野山真言宗の江ノ島大師ができたと思ったら、そこの住職が東京九段の朝鮮人民団体が入居するビルの売却を巡って登場して世間を騒がせたのは記憶に新しい。そして、ハワイにバリである、やれやれ、世界広しといえどもこんなごった煮的要素をもった島はないだろう。あれもこれもウワバミのように飲み込んで、今日も江の島は平和であるうちに暮れていく(だろう)。
 
 境川を跨ぐ国道134号線の向こうの“異界”の島。江の島大橋に椰子の並木が伸びる、空には秋雲の気配か。


 江の島とは関係ないけれど、青空ついでに住まいの上空を横っていく「オスプレイ」、プロペラが上向きモード。正直他人事と思っていた日米安保上の懸案事項が、身近になった瞬間。独特の爆音を響かせて、数機が富士演習場での訓練後に厚木飛行場に向かって戻っていった姿だろう。24日には沖縄の普天間基地に帰っていったと報道されていた。

 
  

残暑、谷根千あたり

2014年08月15日 | 日記
 台風11号が去った後、しばらくは涼しい日が訪れたかと思っていたら、また残暑さが戻ってきた。百日紅(サルスベリを変換するとこうなります、漢字表記は花木の植物的形態、読みは樹木の比喩からきているみたいでおもしろい)が日差しに揺れて咲いている。昨日の夕刊に、生産が途絶えていた国産の線香花火が関係者の努力によって復活してきた記事が掲載されていて、ちょっとうれしくなった。百日紅の花弁の細かいヒダヒダがそよ風に揺れているのを見るとその線香花火を連想してしまうのです、わたくしは。

 11日は幕末明治期に活躍した落語家の三遊亭圓朝(1839-1900)忌で、この時期なら怪談話でおなじみ、子どもの頃祖父が圓朝全集本をもっていたのを記憶している。というわけで、その二日後に圓朝墓石がある都内谷中の全生庵までかけてきた。
 地下鉄千駄木駅を降りて、ゆるやかな三崎坂をのぼっていくと左手途中に、臨済宗全生庵はある。門を入って本堂右手に勝海舟書の巨大な山岡鉄舟居士碑がどーんと建っている。明治維新の憂国の士の功績と人徳が長々と刻んであり、昨今歴代の右寄りとされる時の首相が参禅する由縁だろう。
 その奥の境内の圓朝墓を尋ねると八月の圓朝まつりの始まりにあたって落語協会からの供花台がたっていた。先日のNHKの夜ニュースで、桂歌丸師が国立演芸場中席で恒例の圓朝作怪談話を口演するにあたって、ここを墓参する様子が映されてもいた。改めてみると、圓朝墓石隣には初代から四代までの三遊亭円生墓も建っており、その由縁は知らないが、ここは日本の芸能史あるいは落語界の神聖なる精神が宿っているトポスであって、そんなことの積み重ねの場所にいままさに自分が立っていることを想う。
 墓参のついでのお目当ては、本堂横の部屋で行われている展示会、圓朝が創作の参考にコレクションしていたといわれる幽霊絵の見物。有名無名作家を問わず、水墨画の掛け軸約40点が陳列されていた。あきらかにおどろおどろしいものは意外と少なくて、身体をあからさまに出すことのない着物姿がかえってじんわりと恐怖を考えさせるように迫ってくる、とでもいえばいいのだろうか。これを見て落語口演を聴くと、いっそう臨場感が増すのではないかしら。

 せっかくだから、旧初音町あたりを抜けて谷中銀座を通っていくことにした。途中、中規模の新しいホテルや旅館ができていて、外国人や若者の姿が目立ってくる。以前訪れたときの活気はあるがやや鄙びてのどかな印象とはどうも少し違う。横丁から老舗らしき御茶店舗にはいるとその印象はさらに深まり、谷中銀座通りは浴衣姿の若い女性もチラホラ、にぎやかな軒先が連なっていて言い古された言い方だが“ディスカバー・ジャパン”の世界に目を見張る。もしかしたら、外国人旅行客には有名な場所なのかもしれない。
 通称“夕焼けだんだん階段”を上って振り返る商店街の連なりとその先の町並みの眺めがなかなかよいのです、とくに名前のとおり夕方の頃は郷愁漂う昭和の雰囲気らしい。そのまままっつぐ(江戸言葉で)歩くとJR日暮里駅、右手には広大な谷中墓地が拡がる。線路を跨ぐ陸橋の先、かつて駄菓子問屋があったあたりは再開発されて、高層マンションに様変わりしていた。しばらく訪れないうちに街並みは変わってしまっていて、ちょっとした浦島太郎状態に陥ってしまう。


 欅板に力強く揮号篆刻された“全生庵”額。明治16年(1883)、鉄舟により建立されたというから意外に新しい。
 庵の文字の上が“草冠”のように見えるのは、草庵からはじまったということ?

ワンダフルライフ

2014年08月10日 | 音楽
 毎週日曜日にフジテレビ系で今年の四月から放映中(まさにいま、野田秀樹が出演している)の「ワンダフルライフ」は、リリー・フランキーが聴き手となって、毎回一人のゲストを招いての対話番組なんだけれど、正直ほとんど気に留めたことはなかった。

 それが正面に出てきたのは、竹内まりやの新しいシングルCD「静かな伝説」が発売されるにあたって、その番組のエンディングテーマ曲であると知ってからだ。リリー・フランキーが出ていることも、同時期にNHK土曜ドラマ枠で6月14日に放送された村上龍原作「55歳からのハローライフ」を見た後にようやく意識した。このドラマは主役がリリー&戸田恵子の夫婦で二人とも、なかなか中年夫婦の倦怠感とでも呼ぶだけでは表しきれないようないい味を出していて、同世代である自身にとって文字通り身につまされる内容だった。ここではじめて、リリー・フランキーという存在を認識して、「ワンダフルライフ」という番組も見てみたいと思うようになった。

 それで初めて見た時のゲストが阿川佐和子さん、いつも落ち着いて聴き手としては優秀な印象のリリーが珍しく少し、いやあきらかに上がっていたように見うけられた。毎回変えて被ってる帽子がなんともお洒落で才人っぽく、相手の話に低くうなずくリリーが好印象。もうひとつ、オープニング曲が、ビートルズの「IN MY LIFE」(アルバム「ラバーソウル」1965年から)のギターイントロで始まるのも、ちょっとした意表を突かれたが、リリーの一見飄々とした雰囲気にマッチしていてじつによかった。この曲のセレクトは、リリー自身かプロデューサーかいったいどちらなのだろう?いすれにしてもセンスを感じる秀逸な選曲だ。

 そして、エンディングが竹内まりやの「静かな伝説」であり、番組冒頭のテーマ曲、ビートルズ「IN MY LIFE」とのカップリングが絶妙であると思う。前者は、同世代を代表して活躍する仲間たちへの讃歌で、前作「人生の扉」の発展系という感じだし、後者のビートルズの曲は、これまでの人生を懐かしくも振り返りながら、いま愛する女性に出会った喜び、これからのふたりの将来への希望を歌った内容で、その対比もいい。1955年出雲生まれの竹内まりやは、ビートルズフリークを公言してはばからないし、この組み合わせを一番に喜んでいるだろうな。


旧古河庭園とJ.コンドルの洋館

2014年08月09日 | 建築
 真夏日の酷暑になった伯父の命日の五日、墓参の帰りに旧古河庭園へ足を延ばした。JR上中里駅を初めて降りて急な切り通し坂を上って五分ほどで、本郷通りにつきあたる。横断歩道を渡って田端駒込方面へ歩いていくと立派な石柱門がみえてきて、ここが旧古河庭園の入口、明治初期の政府御雇いイギリス人建築家のジョサイア・コンドル設計の旧古河虎之介邸(1916=大正6年竣工)との久しぶりの対面だ。
 
   夏の日差しの下、芝生前庭の先に英国貴族カントリーハウスのような洋館の東面を望む
   ヴィクトリアン洋式の煉瓦構造二階建て、深い赤味を帯びた外壁は真鶴小松石(安山岩)

 石柱門の前に、NHK文化センターの旗を持った男性が立っていたので何事か伺ってみると、街歩きツアー当日で、この旧古河庭園を参加者が講師とともに巡っているところだという。武蔵野台地の縁に立つ英国貴族風洋館をメインに薔薇で知られる洋式庭園(これもコンドルの設計)と、台地が下がった位置には“植治”こと小川治兵衛作庭の心字池を配した日本庭園からなる総面積三万平方メートル余り。都内でも有数の規模と景観を誇る文化財庭園だから、ときどきこのようなツアーが催されているのだろう。

 ちなみにその講師とは誰だろうと目を凝らすと、なんと重森千青氏!重森氏は私より少し若い年代の作庭家で、昭和期に名を遺すモダンな作風の作庭家、重森三玲の孫にあたる。2006年秋にワタリウム美術館で「重森三玲展」がひらかれた関連で京都庭園ツアーが行われた際、やはり講師を務めていらして、東福寺境内でほんの少し話を交わせていただいたことがある。その時は、京都芸術センターで行われた重森三果&中村善郎コンサート“和楽×ボサノバ”を聴きに行った翌日のことだったと思う。重森三果さんは千青氏の従妹にあたり、京都在住の三味線奏者、面長和服姿の現代美人で微細な発声までよくコントロールされ、丹田の底からでてくるかのような“気”の籠った唄には、本物の芸能がもつ香気と気品が伝わってきた。そのお二人に真近に接することができて感じたのは、思い込みがあるにしても、祖父重森三玲の遺伝子が代々綿々と伝わっているということ。

 庭園散策は後回しにして、まずは洋館内の喫茶室に入ろうと玄関までくると、午後二時から館内見学ツアーがあるというのでそれを待つことにした。受付後に一階ホール南東角、薔薇の壁紙の暖炉つき応接間で、私たち以外の参加者の二組のカップル計六名で待つことしばらくして、時間になると案内の女性(マネージャーの坪井美紀さん?)が出てきてくれて、館内巡りが始まった。古河財閥の当主邸宅らしくビリヤドー室と付属サンルーム、書斎があり、真紅のビロード壁の大食堂がため息が出るくらいゴージャスな雰囲気で、当時としたら驚くべき豪華さだっただろう。天上の果物を掘り込んだ漆喰の技がなんとも素晴らしい。
 ホールにでて玄関左手の階段を上がって二階へ。この手すりも細やかで丁寧な木彫りの仕事が残り、日本職人の優秀さを表す。ここからさきの二階がこの洋館の見どころで、寝室以外が外観からは全く想像だにできない完全“和風”なのである。扉を開けた先が忽然と畳と障子の日本間が開けて魔法にかかったかのようにびっくりさせられる。とくに仏間の花頭窓をかたどった意匠には、これがイギリス人コンドル?とうなってしまう。となりの客間も見事な意匠の書院造り(ただし天上高は3.5メートルと高い)で、日本の女性と結婚して日本画を習得し、日本文化を生活を通して理解しようとし続け、1920(大正9)年、67歳で日本に骨を埋めたコンドルの建築家としての人生の総決算がこの古河邸なのだろう。コンドルの人生は前半がスコットランド、後半が日本で織りなされ、その両方を愛した。それは建物内では壁紙や暖炉などいたるところに見られる薔薇の意匠と、一階の洋間そして二階の和室と分けた造り(安易な融合ではなく)、外においては建物前面すぐのバラの植えられた西洋庭園と平面に下がった位置の和風庭園の完全並列にあわられている。

 あらためて外に出て建物の外観を眺め、附属の台所や使用人家屋の造りも面白く、高台から下がって小川治兵衛の手になる日本庭園の心字池、枯れ瀧、深山幽谷といったたたずまいの茶室を巡りながら、大瀧の前でガイドを終えた重森さんを見つけ、思い切ってお声掛けさせていただく。一仕事終えた後でほっとされたのか、思いのほかフレンドリーな感じで京都重森庭園美術館、神奈川近代美術館の保存問題の話題、重森三玲と交流のあったイサム・ノグチのことなど話が弾んだ。
  
 ふたたび、階段を上って東屋のある展望台に戻る。ここからは東南方向の洋館とその前の薔薇園と台地斜面に展開する植栽刈込の幾何学模様、その先の木立を経て広がる日本庭園が望め、もっとも全体を俯瞰できる園内の一等席だ。おそらく、完成当時古河家当主はもちろん、晩年のJ.コンドル自身も施工中に幾度となくこの展望台からの風景を時には思案しながら、時には心安らかに眺めていたことなんだろうなと思うとこちらも感慨深くなってくる。


 日本庭園木立から洋館南面を眺めたところ。左右が非対称で、入口からの東側とはまた表情が異なる。

 最後におまけ、一昨年の3月に京都に家族旅行したときに東山で見つけた看板、小川治兵衛の“植治”造園会社。


※本文を書くあたって、石田繁之介「J.コンドルの綱町三井倶楽部」(2012年相模書房)に教えられた。

 (8月8日書始、9日初校。)

 


ヨコハマトリエンナーレ2014 プレビュー

2014年08月02日 | 美術
 八月、夏真っ盛り。故郷新潟の高田城址公園外堀では、19haに及ぶ広さに蓮花が咲き始めていて、そこに天上世界を見てきた。

 話題?の先取りで七月末日の午後から、翌日開幕の「ヨコハマトリエンナーレ2014」プレビューにみなとみらい&新港地区に出かける。主な会場は、横浜美術館と新港埠頭市営倉庫(新港ピア)の二カ所。人口350万巨大都市ヨコハマでの地元開催がたたって?いまひとつ期待感というか、盛り上がりがたりないような印象がしてしまうのは時代感度のズレか、芸術とあれども経済面予算の関係なきわけはなく、あふれる様々な情報量のなかに乱立もしくは埋没してしまうパラドックスからは免れない。今年開催されるほかの二つの連携するトリエンナーレ、札幌や福岡が正式タイトルを漢字表記にしているのに対して、横浜名の場合はカタカナ表記であり、それは差異を強調するよりもステレオタイプな心象を与える。いっそのこと最初からローマ字表記のままのほうが潔いのに、と思ったりもする。
 それでも、正面入口前まで来ると、全長20メートルくらいはありそうな金属製トレーラーのオブジェで、細部はゴシック建築意匠の金具の集合体からなっているのがわかる。アンモニュメンタルなモニュメントという副題には、やや無理がある。その理由は既製品だからということではなくて、このみなとみらい地区の場所の歴史地域性を反映して制作されたものではないからだろうか?

 美術館エントランスに入ると、プレスや内覧招待客、コアなアート関係者であふれかえっていて、やはりこの美術展がそれなりの大きなイベントであることがようやく実感される。
 そして3F吹き抜けの天井まで届くような、ガラス張りの巨大なケース。「ART BIN」という名称の「芸術作品のゴミ箱」(マイケル・ランンディ:1963年ロンドン生)。このケースに、創作過程で発生した試行品や失敗作を投げ入れるという“芸術行為”のパフォーマンスが衆人の取り巻く中行われるのに運よく遭遇した。最初は、芸術監督の森村泰昌による、千手観音?に扮したかのような巨大なポートレイト幕を拡げてみせたあと、いっきに落下させると軽いどよめきがおこるが、それすら予定調和的に見合ていたのは皮肉だろうか?(翌日の朝日新聞夕刊一面には、このプレパフォーマンスの記事が写真付きで掲載されていたのは、広報的にはまずまずの成果だろうか。まあ、朝日新聞社は主催者の一員でもある)

 このトリエンナーレのテーマは「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」、華氏451とは、自然界で書物媒体である紙が自然発火する温度のことだそうで、SF小説のタイトルから来ている暗示的なもの。それにならって全体構成は物語仕立てで、美術館会場が屋外の序章から始まり第一話から九話まで(だだし九話は作品ではなく、音楽パフォーマンスらしい)、10・11話が新港ピア会場で展開されている。
 新港ピアへは、無料の連絡バスに乗り継いで五分くらい。荷揚げ用の一時保管倉庫だからそっけなく埠頭の先端にたたずんでいる。こちらのロケーションのほうがミナト町らしくていい。入口には、デコレーションをほどこされた巨大な本物の!台湾製トレーラー(わなぎみわ:1967年神戸生まれ)。荷台箱部分が開かれると電飾付の≪夏芙蓉≫が描かれた背景つきの派手な舞台装置に様変わりする。今回はここに金属製の御柱を立てて、ビキニ姿の女性による猥雑なエネルギーが充満した見世物“ポールダンス”が披露されて、ちょっとした興奮をもたらしてくれたのだった。来年は、京都での芸術祭で中上健次原作の演劇作品をこの舞台で上演するというから、覚えておこう!

 会場のラストは海を臨む、「カフェ・オブリビオン(忘却)」である。たしか、アストル・ピアソラのタンゴ曲のなかに“OBLIVION”と題された曲があったのを連想する。屋外には、現代の高層建築ビルとの対比の中に巨大なクレーンが一基、忘却の海に向かって何かをすくい出すかのように佇んでいる。

 
 見上げる真夏の蒼き空と潮風に輝く太陽の光!