日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

乃木坂から湯島切通坂へ

2016年07月30日 | 日記
 本格的な盛夏がやってきた週末午前、小田急線で都心に向かう。途中代々木上原で地下鉄千代田線に乗り換え、乃木坂駅で下車して、新国立美術館で開催中の「第68回毎日書道展」を見にゆく。
 地下鉄駅改札から直結の連絡口から館内に入ると、巨大なガラス張りの曲線を描いたアナトリウム。手前の企画展示室では「ルノワール展」に多くのひとが吸い込まれていくが、一番奥が会場の書道展のほうは落ち着いた雰囲気だ。それこそ壁一面に並んだ額装の書の数々、巨大な公募書展ならではの迫力のなかを、家人の佳作入選作品を探しながら巡っていく。モノクロの世界の中の一点、その所の前で記念撮影のあとは、足の赴くままに時々気になった所の前で立ち止まってみたり、漢字、ひらかなと流しながらの変化に身を任せてみる。刻字がいくつか出品されていて、地の木肌色と刻まれた文字に塗り込められた深緑色の対照の妙が、職人的というのか筆文字とは異なる味わいでおもしろい。

 一階のアナトリウムに戻り、カフェで飲み物を手に屋外のデッキにでて、欅の緑陰のコーナーでひと休み。周囲への視界が広がり、思いのほか蒸し暑くなくて過ごしやすい。と、一羽の雀が飛んできてデッキの上をちょんちょん歩き回ると、お隣のテーブルのサンドイッチのおこぼれをおねだりしている。もう人慣れしているのか、そのうちに椅子の縁に停まったかと思うとテーブルのうえまでやってきて催促の様子、かわいいものだ。田舎では害鳥扱いの雀も、都会では生きていくために環境に順応して、人間社会とうまく折り合いをつけて共存しているのだろう。


 カフェデッキから見上げた新国立美術館(設計:黒川紀章)の外曲面ガラス、緑陰を抜けた先の夏空

 ふたたび地下鉄地下鉄千代田線に乗って湯島へと向かう。地上に出ると陽射しは強さを増している。東大付属病院に入院中の叔母の見舞いのために、交差点角「つる瀬」で夏の和菓子を購入してから、湯島天神を左に高級マンションのはしりといわれた湯島ハイタウンを右に見ながら、ゆるくカーブする切通坂を上っていく。マンションの向こうは広大な旧岩崎邸庭園の緑の森だ。旧竜岡町までくると病院の古風な入口門がみえてくる。入ってすぐに大学本部棟があり、その脇をまっすぐに桜と欅の大木の並木が並行して構内を貫いている。並木通りの緑陰を歩いて右手の建物が巨大な付属病院棟だ。手前がスクラッチタイル貼り本棟で、奥が高層新棟となっていて十ニ階が叔母の病室である。
 仕切りカーテンの奥での面会、思った以上に元気そうな姿で一安心する。病室の窓からは、隅田川のむこうのスカイツリーが、目の前真正面、天空に向かって雄々しくそびえていた。すぐ眼下には、旧岩崎邸洋館、和館の瓦屋根、芝生広場と庭園が手に取るように見下ろせる。明治時代のお雇い外国人で日本を愛し、帰化したジョサイア・コンドルによる建築設計だ。江戸時代は越後高田藩の屋敷だったそうだから、故郷ゆかりの場所でもある。
 「このさきからの眺めのほうがもっと絶景だから」と、叔母の言葉に促されて食堂に移動する。その窓の先に広がるのは、不忍池全体と上野公園の森が一望できる眺めだ。不忍池弁天堂あたり一面の蓮の葉が風にそよぐと、裏面が返ってさざ波のように揺れては流れていく。 
 世界遺産となったばかりの国立西洋美術館は、低層のため木々に隠れてわからないが、湖畔にのぞむ精養軒、清水観音堂、東京文化会館大ホール上屋、国立科学博物館、博物館のオレンジがかった横長の瓦屋根、表慶館の緑色のドーム、芸大キャンパスの棟々などが俯瞰される。じっと目を凝らせば、上野時鐘堂とそのすぐ隣に横山大観ゆかりの食事処韻松亭が見えて、あそこで食事したんだなあ、そのときにこの高層棟も望めたっけと、まるで天空人になったかのような気分がしてくる。

 帰りは、旧岩崎庭園裏手の年代物の煉瓦積塀にそってまがりながら、無縁坂をおりていく。森鴎外小説ゆかりの坂というよりも、やはり同時代人にとってはより身近であろう、さだまさしのあの歌を口ずさみながら、不忍池のほとりに出る。池の半分は、蓮の大きな葉でびっしり覆われて水面が見えないくらい。濃いピンク色のふくらみを持った蕾がところどころからすっと細長い茎を延ばしていた。

 しのばずの蓮華に浮かぶ慈しみふみづきのひと白日の夢




 この蓮の花は、越後上越高田公園のハス、不忍よりも雪国の花は色白で密やかか(2016.07.21撮影)

 

三年前の夏の同窓会

2016年07月28日 | 日記
 三年前の2013年の夏の終わり、久しぶりの同窓会が都内中野で開かれた。

すこし早目の午後三時過ぎに一番乗りで中野サンプラザ16階のホテルロビーで待機していたら、エレベーター口から次々になつかしい顔、顔が現れて、気分は一気に四半世紀前に遡っていく。遠くは熊本、広島からも駆けつけてくれて総勢男女12名だったと記憶している。みんな確実に年輪を重ねているのにもかかわらず、当時とさほど変わらぬ雰囲気の面々に、なんともほっとした気持ちになった記憶がある。若き日の出会いの交友とは、ときが流れてもこのようなものなのかとうれしかった。

 その日の午後は、当時に想いをはせてサンプラザ地下ボーリング場でのゲームのあとに、中野ブロードウェイ商店街の居酒屋『陸蒸気』での親睦会へと臨んだのだった。お店の面影はあまり当時と変わっていないようで入口には鉄道信号機の中古実物、店内に入ると古民家のような重厚な梁におおきなカウンター周りの豪快な木製テーブルがあって、いかにもようし、吞むぞ食べるぞといった食欲をわかせる造りだ。二階の個室で出された料理の数々もお刺身の鮮度よし、焼き佳し、美味しくいただけて大満足だった。それぞれが持ち寄った各地名産品を、さきのボーリングゲームの結果順に分け合って大騒ぎ、はてこちらが持参したワインセットは誰が持ち帰ってくれたのだろう。
 宴会散会後はサンプラザへと戻って、宿泊の一室で深夜までの語らいは続いたのだった。あのとき次回は何年後か、幹事名と場所は瀬戸内あたり、などと話題には出たと思うが、その後すすんではいない。個人的には三十周年を経た今年あたりの開催を希望していたのだけれど、いまのところ実現しようになし、どうも誰かがつぶやいていた還暦記念、ということになりそうである。ああ、「青年老い易く、学成り難し」とはいつの時代にも通用する格言なのだと思うことしきり。

 この同窓会にあわせて近況日記や当時の思い出を綴ったささやかな文集を編んでいて、その頃にこのブログを始めたばかりの当方も一文を寄せている。前回のブログで今年の「夕涼み奄美島唄ライブ」のことを記しているが、その当時の文集の中にも三年前の夕涼み島唄ライブ体験を含めた、いまや地元となったまちで暮らすことへのセンチメンタルな心境が、つたない文章ではずかしくらい自己満足的に!書かれている。

 なんとも、あきれるくらい心境はまったく変わっていないのだ、でもこの日を契機にして、一度しまいかけて忘れそうになっていた記憶が蘇ってきて、限りある人生もうすこし前向きに生きようと思うようになった、そんな大切な一日になったと思う。



「あれから二十八年、このごろ考えることのいくつか」(再掲改訂版) 

 昭和六十年(1985年)に大学講座を修了してから二十八年目の夏を迎えて、月並みだけど時の流れる早さを感じます。とりわけ、出逢い前の歳月よりも出会ってからの歳月の長さのほうが上回ってしまったということに、改めて!感慨を持たずにはいられません。
 特にここ十年位を振り返って月日の過ぎることの速さと言ったら唖然呆然?とするばかりです。いいかげん、わが道を定めて充実の日々といきたいところなのですが、どうしてどうして相変わらずの混迷さを抱えたまま右往左往といったところが正直な実情でしょう。重ねた年齢からするといささか頼りないというか、優柔不断でしっかりせよ!と肩をたたかれそうな感じでしょうか。そんな意味では、私自身よくも悪くも?あまり成長がなく変わっていないのかもしれません。

 そして年齢相応に考えざるを得ないのは、ひろく家族と肉親の今後、故郷との関係など誰でもが通過していく人生の節目について。幸運にもいままで比較的自由気ままにすごしてきたことが許容されていた分、ようやく一回り遅れて人並みに課題を意識せざるを得ない状況となってきたわけです。みなさん、それぞれ苦労されているのでしょうが、それなりに懸命に対処してきているんでしょうね。そのあたりを、努めて明るく久しぶりに意見交換できたらいいのかな、と思っている次第です。

 ところで好きな街はどこ?と聞かれたら「まほろ」と答えるでしょう。JR横浜線を利用しているのですが、鶴見川に沿って続く車窓風景は見飽きることがありませんし、多摩丘陵の端っこにあって神奈川県内ともよく勘違いされる微妙な地理関係にあるこの街が実におもしろいと思います。ここのところの朝夕の活気はなかなかのもので随分と学生の姿が増えましたが、老若男女それぞれが共存して楽しめるところがこの街の魅力ではないでしょうか。遠くに丹沢の雄大な眺め、ちかくには多摩里山の緑、まちなかには都心に足を延ばさずとも消費欲を十分に満足させる小売飲食店の数々、小田急線を利用すれば箱根や江ノ島にも気軽に足を運べる“ほどほどの利便性”、地方から出てきた都市郊外生活者には、気疲れしないで付き合える街なのです。

 今年春、この街を主な舞台にしたドラマ「まほろ駅前番外地」が、テレビ東京で放映されていました。原作は三十代の人気作家三浦しをん、主演は瑛太と松田龍平で、ロケ地もまほろの中心街が登場しました。近隣住民としては、実際の街並みがドラマ舞台に頻繁に登場することで、これまでと違った感慨を街に対して抱くこととなりました。すくなくともわたしにとっては不思議な体験と発見の連続でした。よく登場するマクドナルドの店舗を背にして二人がゆっくりと歩くシーンは、駅前の通称“円形マック”、かつては相互銀行!でした。
 ドラマは基本一話完結式で十二話あったのですが、いかしたタイトルシーン(ここの商店街風景、実は相模原西門モールあたり)にオープニングテーマ曲が流れるところから、原作とは異なったおもしろさの本編へと続き、毎回の深夜放送が楽しみでした。

 この街との付き合いは、大学生時代から始まり、濃淡こそあれ三十年以上になるわけで、たとえば小田急駅上に作られたデパートでは、中元期歳末期のアルバイトや大学講座の実習先としてもお世話になったし、まちなかを抜けた先の巨大な動くステンレス製モニュメントが設置された噴水池がある広大な公園などは幾度となく訪れています。
 最近、奄美群島物産店にあわせて「夕涼み島唄ライブ」があり、会場のデパート屋上に上がったのですが、ひさしぶりに地上十階から三百六十度見回すことのできた駅周辺の風景に見とれてしまいました。随分と高層の建物はふえましたが遠くの山々の姿はそのままでよく晴れた夏空の夕暮れに広がっていて、時間と共に涼風が吹き抜けていきこの上なく気持ちよいひとときでした。

 この沿線を通して暮らすことで知り合った人や、その間の周辺、玉川学園や鶴川あたりの変貌もふくめて、いまも街なかのそこかしこにこれまでの記憶が堆積していて、特に目的がなくともぶらりと歩き回るだけで様々な思いが湧き出てくる自分にとっては稀有な場所なのです。(原文2013/08/15了)
                          

夕暮れ奄美島唄

2016年07月17日 | 日記
 連休の週末二日間、梅雨は明けきらず曇り空の一日だった。少し前の時期から蝉の鳴き声が聞こえだした。百日紅サルスベリの枝先から鮮やかな花火のような朱色の花が咲きだしていることだし、本格的な夏の到来は、もうすぐだろう。
 夕暮れどきの午後六時十五分くらい、西方向の雲の切れ目から沈もうとする陽の光が中学校校舎へと淡く斜めに差し込み、白い壁を照らしているのを横目でみていた。すこし涼しくなってきたのか、さきほどまで裏の林のほうからはヒグラシの声が聞こえていて、これはやっぱり梅雨明けもすぐに違いない。
 
 今年の夏は暑くなるのだろうか?

 ほんの数時間前まで、まほろ駅ビルにあるデパート屋上で「奄美島唄夕涼みライヴ」を聴いて帰ってきたばかりだ。そこの催事場では、奄美群島物産展というのがひらかれていて、それに合わせたイベントの一環なのだけれど、今日はなんと元ちとせ&中孝介“お中元”コンビのステージが無料で聴けるとあって、あー都会になったもんだな(奄美からは大都会?)、と半ば感心しながらも愉しみに待っていた。
 こんな郊外の地で奄美群島物産展っていうのはじつに珍しく、姉妹都市かなにかの縁と思ったらそうでもないようだ。遡ること三年前、やはりこの時期に初めて開催されていて、屋上で若手による島唄ライブを聴いた。“お中元”ライブはそのときもあったのだけれど、これは仕事の都合で残念ながら聴くことができなかった。この年の夏の終わりには久しぶりの大学講座同窓会があって、この屋上ライブ体験とそのときの感慨を記念文集に寄せたものだから、まあよく覚えているのだ。

 ということで、満を持しての?“お中元”ライブの開始は午後四時、ほんとうにこんな地元のデパート催事イベントに出演するのかしらと思いつつ屋上に上ると、すでにたくさんの開演を待つ、ひと・人・ヒトで大盛況の混雑ぶり。
 そうこーしてると、明るく元気なMCに呼び込まれてお二人の登場。初めて生で見る元ちとせは、細身の小柄な体に黒の薄地ドレスを合わせて、その上に淡いブルーショールにサンダル、いっぽうの中孝介は、白シャツ、白ズボン、白い靴と白ずくめで焼けた精悍な肢体を際だだせてる。まずは、三線を抱えて伝統的なスタイルの島唄をデュオで一曲、独特の裏声を使った節回しで挨拶代りといったところ。すぐに中孝介のソロにかわり、バラード調オリジナル二曲をエレクトリックピアノの伴奏で歌う。なんだか、夏の夕暮れにぴったり、ちょっと風貌も似ている平井堅?みたいな印象だけれど、繊細と力強さを併せ持ったような声と節回しがなんとも独特だ。

 次は、おまちかねの元ちとせのコーナー。なんと意表をついて、伝説のデビュー曲「ワダツミの木」とあのホセ・フェリシアーノ1971年の大ヒット曲「ケ・セラ」!を謳う。じつに独特の呼吸、節回しでとても印象的、好き嫌いがわかれるかもしれないが、その声は南島の精霊を彷彿とさせるといったらよいのだろうか。とにかく、まほろで聴く初奄美の唄者、元ちとせ体験はインパクト充分なのでした。
 ただPAが良くなくてリバーヴがかかり過ぎて高音が割れてしまっていたのが残念といえば残念、催事イベントでリハーサルが充分にできていなかったのだろうか。これは、音響スタッフの責任だろうな。
 最後はふたたび二人の三線と唄によるにぎやかな曲に合わせて、群島出身者が踊り出す。


 ともあれ、これで本格的な夏を迎える心づもりが整ったような気がしてきた。すこし風も涼しくなってきたようだ。ライブの後半は別コンビに変わり、しばらく聴いた後に約束の時間となり会場を抜け出す。階下デパート内スカイレストラン街で、ジム帰りの娘と待ち合わせて夕食をとることにしていた。選ぶ楽しみ、少し迷って最初にあたりをつけていた仙台名物牛タン焼きと盛岡冷麺の組み合わせを選ぶ、じつに健康的なもの。
 店内新宿寄りの広い窓からは、まだ暮れていない街並みとその先につづく多摩丘陵が見渡せた。そんな風景を眺めているとどこにでもある郊外のひとつで一見平凡ながら、やっぱりこの地ならでは生活感情というものがわいてきて、センチメンタルな感情とノスタルジーが交錯して、ほんとうに飽きるということがない。

 月並みだが、ここからは江の島、小田原、箱根にも近く、横浜線で新幹線に乗り換えれば、名古屋は一駅、京都はその次だ。大学の頃から偶然とはいえ、住み着いて三十年を経て、周縁暮らしがすっかり身についた日々を過ごしている。やっぱり、まほろ周辺に暮らしてよかったなあとしみじみ思う。



夏越しの祓え

2016年07月03日 | 日記
 水無月の末日、明日からは七月の折り返しとなる。それならば、午後から近くの神社へ夏越大祓祭に合わせて茅輪くぐりを体験し、この半年間についた小さな罪や穢れを清めて蘇りの心身で後半を迎えることにしよう、と思い立った。

 その前にランチをどこにするのか、すこしの思案で浮かんだのが、車で20分程で行けるベトナムとタイの味覚を楽しめるオリエンタルレストラン。ここからは、次の目的地への移動もスムーズなので、休日の午後をゆっくりと過ごすにはなかなかよい選択だろう。
 北里方面へ走らせて、大学病院の手前で左折、住宅街に残された貴重な雑木林の道を抜けてしばらくすると、右側に忽然といった感じで平屋建ての白い瀟洒な建物が見えてくる。レストラン「SUIREN 睡蓮」、名前からしてこの季節にふさわしくさわやかで涼しい気分になってくる。店内ランタン製の椅子や木製テーブルなど、オリエンタルなインテリアが基調で天井にある扇風機が回り、室内の空気を緩くかき回して白壁まで届かせている。この空間全体が南国風なのは、そのせいもあるだろう。

 窓際のテーブルに座ってしばらくすると、ランチセットの紫玉ねぎスライスの入ったサラダの小鉢が出される。二の鉢が目に鮮やかなエビの半身の入った生春巻きと揚げ物、これを魚醤ベースのソースでいただく。メインは鶏肉の入った土鍋ごはん、味付けがベトナム風でもさっぱりとしていて、底のおこげが香ばしく、ポリポリした食感が食欲をそそる。
 そして向かい席で湯気を上げているフォー(ベトナムの米粉麺)の澄んだスープを口にすると、ライムスライスやさまざまな香辛料の混じった複雑な酸っぱみのあるさっぱり味が、湿度の高い外の空気から一転、天国へと連れていかれたかのよう。澄んだ塩風味の出汁は、おそらく干しエビなどの魚介類がベース、彩りと香りのメインの香菜パクチーは大好きだが、大学生の娘によると通称カメムシ草と呼ばれるそうで、人によって好みが大きく別れるのがおもしろい。
 食後の飲み物にジャスミンティーとヨーグルトベースのマンゴー、ココナッツなど南国フルーツ賽の目切が入ったデザート、さっぱりした冷たいお茶と濃厚な果汁の対照が食事を締めくくった。隣の席には三人組の乳児を連れた若いママさんグループ、だっこされた赤ちゃんがこちらをみて愛想を振りまいてくれてたので、ほっとその場が和む。

 ゆっくりとした時間の後は、車で通称行幸道路を座間キャンプ方面少し先の鈴鹿神明社へと移動する。このあたり、湧水の里として道路わきには疏水が整備された遊歩道があり、古くからのまちなかで鈴鹿長宿と呼ばれるところ。その中心に目指す神社はあって、すぐとなりの座間農協の駐車場に車をおかせてもらう。
 この神社の由緒書きには、鈴鹿の名の通り古代の時世に伊勢の鈴鹿郷から、相模入海の東嶺に流れ着いた神輿を崇めまつったのが起源とある。境内には古墳遺跡もあることから古くから人が住み着いていたのは確かで、由緒の真偽のほどはともかくあれこれ想像力を刺激される。そういえば、武相荘旧白洲邸の裏手の森につづく入口に「鈴鹿峠」の碑が置かれていたことを憶いだし、白洲正子がたどったであろう伊勢から伊賀、甲賀から信楽、そして琵琶湖畔への道を想像して、いつか巡礼の旅に誘われてみたい。

 本殿の正面に置かれた茅の輪には、すでに人の列が長くつづいていて間もなく儀式が始まる雰囲気だ。その流れに沿って、しずしずとこうべを垂れて神妙に輪をくぐる。本殿内には、すでに祭壇のしつらえと氏子の方々、神主が祝詞をあげるのを後方に立って聴き入る。やがてふたりの神官が本殿をでて四方を修祓してめぐるとしまいとなり、参列者退席のさいに直会(なおらい)のお神酒がふるまわれ、草で編まれた五本の関西風粽ちまきを模したわら細工を渡してくれる。
 これって縁起物か厄除けなのだろうか、「蘇民将来子孫也」と書かれた和紙の付箋がついているその品をありがたく受け取って持ち帰ってきたのだけれど、こんな近所で!、人生初めてのおもしろい体験だった。
 

 ここの前でまず一礼、それから左回り、右回り、左回りと順に三回巡って、本殿にお辞儀する習わし


“蘇民将来子孫也”の文字、今年後半の無事を願って玄関扉の上に供えることに。
 

 (2016.6.30書出し、7.3初校)