日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

追悼 江橋慎四郎先生

2018年04月28日 | 日記
 四月清明すぎの八日、高潔なお人柄にふさわしいこの時節に、江橋慎四郎先生が逝去された。御年九十七歳、心不全だったということだから、天寿を全うされたということだろうと思う。爽やかな笑顔とさっそうとされた長身のお姿が目に浮かぶ。

 その訃報が十四日付新聞に掲載されていたのを、複数の友人が見つけてメールで知らせてきてくれた。通勤途中の電車の中で気がつき、あわてて取り寄せた朝日新聞社会面の見出しには、「学徒出陣 代表で答辞」とあった。つねに江橋先生について語られるときに、影のようについてまわった言葉で、今回もまたかと苦笑されておられることだろう。
 ここに江橋先生との出逢いのきっかけとなった、三十四年前にさかのぼる青少年指導者大学講座と中野サンプラザでの同期の仲間との日々を思い起こしながら、遠くで感じ思いをめぐらしていたことを記し、僭越ながら大きな包容力のある存在であられた江橋先生への追悼の意を捧げたい。

 
 七十五年目前にさかのぼる昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会は、江橋先生との歴史的な運命の結びつきととして終生つきまとい続けられることとなった。そこにいたる経緯は、御本人の本意ではなかったことは想像に難くないが、胸の奥に秘められたまま長く語られることはなかったという。ようやく最晩年にいたって、なかば苦笑しながらも重い口をひらかれて、第二次大戦回顧と平和を巡るインタヴュー記事にも答えておられていた。わたしたち戦争を知らない平和な時代に育った世代の人間としては、なんとも複雑な思いを抱かされたのだった。
 いまその跡地に、二年後の2020年東京オリンピックのメイン会場として新国立競技場の建設が進んでいることは、歴史のおおきな巡り合わせだろうか。そのオリンピックについての「平和の尊さを味わうことが五輪開催の意味」「平和の重さを感じてほしい。平和を守るには忍耐が必要だ」と語られる江橋先生の言葉を静かに噛みしめたい。“相互理解”というより“忍耐が必要”とは、戦争体験世代ならではの発言だが、モノ・情報が溢れる現代社会との対極にある、きれいごとでは済まされない実感のこもった言葉だ。
 もし、先生がオリンピック開催までご健在であったなら、鵠沼在住の先生のことだから、新国立競技場はともかく江の島ヨット競技会場にまでなら足を運ばれるだろうと思う。

 その学徒出陣式において、時の首相東條英樹も訓示のために列席していたなか、当時東京帝国大学の文学部二年生で体育会総務だった江橋先生が学徒代表として指名されて答辞を読むことになったのは、宿命だったというしかなかったと思われる。なぜ、江橋青年に白羽の矢がたったのか、また会場を埋め尽くした満場の聴衆の感涙を絞ることとなった、“添削された答辞”を読み上げることになったてんまつは、正確に知られることがないまま、ただ歴史とシンクロしてしまったその激烈な映像の音声の記憶だけがひとリ歩きを始めてしまったのだ。

 数年前の終戦記念日の特集で、そのときの映像が偶然流れ、競技場を行進する学徒たちと答辞を読み上げる長身の眼鏡に学帽姿が目に飛び込んできて、一瞬でこれは!と驚きを禁じ得なかったのをいまも鮮烈に覚えている。その姿はまことに堂々としてして、異様な緊迫感ただよう大競技場の場において、あっぱれというほかなく演じきられていた。ひとりの人間の命運とは、このような一コマにより長く歴史として記憶され続けるものなのか、と。
 そして、江橋青年はこの歴史的な神宮外苑の壮行会のあと、ついに最前線に送られることなく、特攻で命を捨てることになった学徒も多いなか、立川陸軍基地をへて疎開先の滋賀県八日市で終戦を迎えられた。その当時のことを「モノ言えば唇寒し、みんな過去の話。自分は過去を背負って生きてはいない」と語られている。たしかに当時のエリートとはいえ、苛酷な運命の中で、この潔さ!

 戦後は、東大に戻られ、教育者として後進を育てることに尽くされた。当時の労働省青少年局を動かして、青少年指導者大学講座創設の中心になられたのもそのひとつであり、鹿屋体育大の初代学長としての大役を果されあとは、悠々と泰然自若の晩年であられたと思う。これも巡り合わせか、鹿屋の地は海軍特攻隊の出撃基地だった。しかし、江橋先生は「目的がまったく違う。平和を愛好する人材の養成だから」とこだわることなく、人間としての器の大きさをもって真摯にその責務にとりくまれた。
 
 江橋先生のお人柄を彷彿させることとして、学生時代のニックネームは「シャイン」だったそうだ。それは、あの包容力の溢れる太陽のような笑顔からきているのだそうだ。ご自宅に招いた後進を、早朝自転車で海岸のサイクリングロードへ誘われていたという。その理由は、爽やかな朝日を浴びて走ったあとの朝飯は格別にうまいからと、にこやかに笑われて言われていたそうだ。苦難の時代を乗り越えてこられたからこそ、平和な世に心身ともに健やか過ごせるありがたさを実感され、よくわかっておられのだろう。

 江橋先生のとりくまれたことひとつにレクレーション論とその実践があるが、「レクレーション」とは「リ・クリエーション=人生の再創造」といわれていたことを思い出す。それは、政治的イデオロギーから離れた、先生の人生論そのものでもあったに違いない。
 また、いまでも九州の友人の結婚式に来賓として招かれた先生の祝辞を思い出す。それは「人生において持つべきは愛妻と友人、よきベターハーフとなって」という、人生讃歌、エールの言葉である。
 
 仰ぎ見るばかりで、ちがう世界のひとと決めつけてしまい、なかなか心をひらいて向き合わせていただくことができなかった不肖のわが身、わが卑屈さが悔やまれます。前向きに生きていくことを身を以てお示しくださった、江橋慎四郎先生、ありがとうございました。

 この緑爽やかなよき季節、あらためてご冥福を心よりお祈り申し上げます。


イサム・ノグチの野外彫刻

2018年04月04日 | 美術
 昼過ぎの葉山しおさい公園をぬけて、そのとなりにある神奈川県立近代美術館を訪れる。ゆったりとした敷地のさきに一段下がったひろい駐車場があり、建物の外観には海と山からの陽光がきらめくように映えて、二階建ての白い箱型の典型的な現代モダニズム建築だ。
 正面から明るく軽快で開放的な受付ロビーのさきに展示空間が続く。その日は、現代日本画家の「堀文子展」最終日にあたっていた。伝統的な花鳥風月を描いたものに加えて、絵本の挿絵として描かれたものが多数あり、自分の年齢相応なのだろうか、落ち着いた構図にきれいな色使いが目の保養になる。やはり圧倒的に女性層が中心のようで、数人の女性グループ、熟年夫婦と若いカップルといった雰囲気である。

 展示室をぬけると、廊下沿いのおおきな硝子越しに花崗岩張りの中庭がのぞめる。その真ん中、円形の芝生地に置かれた二体並んだ後ろ姿の石像が目に入る。どこかで何度か目にしているようなフォルム、もしかしてと思い、庭にでて正面の位置へ移動して眺めると、やっぱりイサム・ノグチの彫刻作品だ。ふたつの石像は男女のカップルを象徴していて、男は女にほうに左手を伸ばし、横長の顔をした女のほうは、その胸部がふっくらとふたつふくらみ、左乳房の脇下あたりを男に抱きとめられている。やわらかな表情は微かに微笑むかのようだ。ふたりは中庭から山の方向、三ケ岡山の緑にむかってたつ。
 その作品は、たしか≪コケシ≫といったような、と思いつつキャプションを確かめると、≪こけし≫(1951)とある。鎌倉八幡宮内にあった美術館の黒石板張りの中庭で、市松模様の大谷石のブロック壁を背景に何度も目にしていた姿だ、そこから台座ごと移設されてきのは、いつのことだろう?そう思っていたら、同行のMが、館内におかれていた小さな冊子を渡してくれた。「たいせつな風景」と題された、美術館発行のたより24号には「特集:彫刻のある風景」とある。いま、その冊子を手にしている。
 それによるとこの彫刻が最初に鎌倉館に運ばれたのは、1952年に開催された「イサム・ノグチ展」であり、当時鎌倉の美術館中庭にはロダンの作品が置かれていたという。意外にもイサム・ノグチの≪こけし≫は、何度かの変遷をへたあと1991年になってから修復されて、新しい現在の台座(これは和泉正敏の作)とともにようやく中庭に設置されたのを初めて知った。それまでは、鎌倉館の開館以来ずっと周囲の環境とひそかに対話を続けながら、あの坂倉準三の設計した鎌倉館の中庭に馴染んできたとすっかり思い込んでいた。それくらい自然に鎌倉の風景として馴染んでいたのだろう。

 そして、2016年3月の鎌倉館閉館にともない、この彫刻もふたたび移設されて、いまはここ葉山の中庭に静かにたたずんでいる。うまく自分の中で、すこし馴染まないところがあるのは、鎌倉の記憶がまだ残されているからだろう。しかしながら、はじめてのひとにとっては、この風景はもうなんの違和感もないようだ。ふたつの石像の愛らしい姿に、記念スナップを取り合っている若い無邪気な女学生たちがなんとも自然にのびやかで微笑ましい。ここ葉山の海と山の風光にすっかりなじんでいるかのようだ。

 おなじイサム・ノグチ彫刻であっても、鎌倉と葉山での≪こけし≫印象は、その置かれた周囲の環境との関係により印象が異なって、それがまたとても不思議で興味深い。“たいせつな風景”とは、ひとの記憶の中で対話を繰り返すことで成長していく、自然な関係性のことだと思う。
(2018.04.04初校、04.05追記)

 
 中庭で夕陽をあびる≪こけし≫1951。万成石像(鎌倉1991-2016、葉山2016-2018)

葉山三ケ岡風光絶佳

2018年04月01日 | 旅行
 先週末の早春桜の季節、三浦半島への旅をした。その二日目は、葉山町三ケ岡周辺のまちなみを巡る。寒さが緩み、空気が澄んで陽光がきらめくもと、県道207号からすこしそれて、住宅地のなかを縫うようにのびていく、風化した佐島石を積んだ擁壁の小径をあるいていくのはこのうえなく楽しいひとときだ。
 
 最初に訪れた山口逢春記念館は、新緑萌え出した三ケ岡を背景としてゆるやかな傾斜にいだかれるように、相模湾にむかって明るくひらかれていた。邸宅入口への小路の両側には、サクラ、モクレン、スイセン、ボケなどが盛りで、ゆっくりと玄関まで誘ってくれる。
 邸宅の中の展示は茶の湯がテーマで、逢春の小作品とお茶にまつわるコレクション、茶道具や陶器などが並べられていた。ここの記念館のメインはやはり、吉田五十八が設計した画室空間と相模湾方面にむかってひらかれた大きなガラス窓からのながめだろう。ことにソファにふかく腰をおろして庭をながめてくつろぐのが最高の贅沢だ。
 中庭には、甘夏のだいだい色の果実に足もとはシャガ、クリスマスローズなど、ミモザの木を見上げれば、その枝の先に黄色く色づきはじめた花房が半島の陽光にふさわしく、いまにも咲きだそうとしていた。その先には、これからの初夏に白い大きな花をつける泰山木とここの温暖な風土にあうのだろう、常緑のナギの木も大きく枝をひろげていた。イロハモミジは芽吹きまえで繊細な枝ぶりのさきにエネルギーを蓄えている。
 中庭から眺める画室は、三面のおおきなガラス戸と細身のベランダ手すりのシルエット、そのたたずまいは、すっきりとしてモダンなちいさな美の宝石箱のようだ。



 中庭でひと休みした後に記念館をでたら、住宅地をぬうようにのびる佐島石こみちをぬけていく。このさきにみえてきたのは、葉山を代表する別荘建築といえる旧加地邸だ。ひよこ色の外壁に銅ぶき屋根が年輪を重ねている。正面にたつと、同時期竣工の自由学園講堂との類似もみてとれる。
 昭和二年(1927)の竣工、大谷石の門柱、階段と玄関迄の床のアプローチへの印象が、芦屋にあるF.L.ライトの旧山邑邸(1924)を彷彿とさせるのは、同時期の木造と鉄筋コンクリートの違いがあるにしろ、その両方に弟子の遠藤新(1889-1951)が深くかかわっているのと、なによりもその得難い立地であり、丘の中腹から海に向ってひらけている素晴らしいロケーションだろう。
 若き建築家遠藤新が師ライトのもと旧山邑邸の実施設計で学びつつ試行したかったことを、数年後の湘南葉山の加地邸において、ようやく自身単独の設計で変奏しつつ、表現されているようにも思える。

 ここをあとにして、相模湾にむかって御用邸脇の砂道をぬけて一色公園へむかう。ぽかぽかと暖かくコートを脱いで、砂浜をのぞむ松林の丘の石に腰をかける。すぐ眼の前に、いつかいっしょに見たかった海面の眺めがひらけている。そこからのかたむきかけた春の陽光を反射した波幾重の瀬頭がきらめきいて、時の流れのままに美しい。ちいさく海上のさきに江の島、やがてもうすこしたてば、海のむこうにうっすら富士山のシルエットが浮かびだすだろう。