四月清明すぎの八日、高潔なお人柄にふさわしいこの時節に、江橋慎四郎先生が逝去された。御年九十七歳、心不全だったということだから、天寿を全うされたということだろうと思う。爽やかな笑顔とさっそうとされた長身のお姿が目に浮かぶ。
その訃報が十四日付新聞に掲載されていたのを、複数の友人が見つけてメールで知らせてきてくれた。通勤途中の電車の中で気がつき、あわてて取り寄せた朝日新聞社会面の見出しには、「学徒出陣 代表で答辞」とあった。つねに江橋先生について語られるときに、影のようについてまわった言葉で、今回もまたかと苦笑されておられることだろう。
ここに江橋先生との出逢いのきっかけとなった、三十四年前にさかのぼる青少年指導者大学講座と中野サンプラザでの同期の仲間との日々を思い起こしながら、遠くで感じ思いをめぐらしていたことを記し、僭越ながら大きな包容力のある存在であられた江橋先生への追悼の意を捧げたい。
七十五年目前にさかのぼる昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会は、江橋先生との歴史的な運命の結びつきととして終生つきまとい続けられることとなった。そこにいたる経緯は、御本人の本意ではなかったことは想像に難くないが、胸の奥に秘められたまま長く語られることはなかったという。ようやく最晩年にいたって、なかば苦笑しながらも重い口をひらかれて、第二次大戦回顧と平和を巡るインタヴュー記事にも答えておられていた。わたしたち戦争を知らない平和な時代に育った世代の人間としては、なんとも複雑な思いを抱かされたのだった。
いまその跡地に、二年後の2020年東京オリンピックのメイン会場として新国立競技場の建設が進んでいることは、歴史のおおきな巡り合わせだろうか。そのオリンピックについての「平和の尊さを味わうことが五輪開催の意味」「平和の重さを感じてほしい。平和を守るには忍耐が必要だ」と語られる江橋先生の言葉を静かに噛みしめたい。“相互理解”というより“忍耐が必要”とは、戦争体験世代ならではの発言だが、モノ・情報が溢れる現代社会との対極にある、きれいごとでは済まされない実感のこもった言葉だ。
もし、先生がオリンピック開催までご健在であったなら、鵠沼在住の先生のことだから、新国立競技場はともかく江の島ヨット競技会場にまでなら足を運ばれるだろうと思う。
その学徒出陣式において、時の首相東條英樹も訓示のために列席していたなか、当時東京帝国大学の文学部二年生で体育会総務だった江橋先生が学徒代表として指名されて答辞を読むことになったのは、宿命だったというしかなかったと思われる。なぜ、江橋青年に白羽の矢がたったのか、また会場を埋め尽くした満場の聴衆の感涙を絞ることとなった、“添削された答辞”を読み上げることになったてんまつは、正確に知られることがないまま、ただ歴史とシンクロしてしまったその激烈な映像の音声の記憶だけがひとリ歩きを始めてしまったのだ。
数年前の終戦記念日の特集で、そのときの映像が偶然流れ、競技場を行進する学徒たちと答辞を読み上げる長身の眼鏡に学帽姿が目に飛び込んできて、一瞬でこれは!と驚きを禁じ得なかったのをいまも鮮烈に覚えている。その姿はまことに堂々としてして、異様な緊迫感ただよう大競技場の場において、あっぱれというほかなく演じきられていた。ひとりの人間の命運とは、このような一コマにより長く歴史として記憶され続けるものなのか、と。
そして、江橋青年はこの歴史的な神宮外苑の壮行会のあと、ついに最前線に送られることなく、特攻で命を捨てることになった学徒も多いなか、立川陸軍基地をへて疎開先の滋賀県八日市で終戦を迎えられた。その当時のことを「モノ言えば唇寒し、みんな過去の話。自分は過去を背負って生きてはいない」と語られている。たしかに当時のエリートとはいえ、苛酷な運命の中で、この潔さ!
戦後は、東大に戻られ、教育者として後進を育てることに尽くされた。当時の労働省青少年局を動かして、青少年指導者大学講座創設の中心になられたのもそのひとつであり、鹿屋体育大の初代学長としての大役を果されあとは、悠々と泰然自若の晩年であられたと思う。これも巡り合わせか、鹿屋の地は海軍特攻隊の出撃基地だった。しかし、江橋先生は「目的がまったく違う。平和を愛好する人材の養成だから」とこだわることなく、人間としての器の大きさをもって真摯にその責務にとりくまれた。
江橋先生のお人柄を彷彿させることとして、学生時代のニックネームは「シャイン」だったそうだ。それは、あの包容力の溢れる太陽のような笑顔からきているのだそうだ。ご自宅に招いた後進を、早朝自転車で海岸のサイクリングロードへ誘われていたという。その理由は、爽やかな朝日を浴びて走ったあとの朝飯は格別にうまいからと、にこやかに笑われて言われていたそうだ。苦難の時代を乗り越えてこられたからこそ、平和な世に心身ともに健やか過ごせるありがたさを実感され、よくわかっておられのだろう。
江橋先生のとりくまれたことひとつにレクレーション論とその実践があるが、「レクレーション」とは「リ・クリエーション=人生の再創造」といわれていたことを思い出す。それは、政治的イデオロギーから離れた、先生の人生論そのものでもあったに違いない。
また、いまでも九州の友人の結婚式に来賓として招かれた先生の祝辞を思い出す。それは「人生において持つべきは愛妻と友人、よきベターハーフとなって」という、人生讃歌、エールの言葉である。
仰ぎ見るばかりで、ちがう世界のひとと決めつけてしまい、なかなか心をひらいて向き合わせていただくことができなかった不肖のわが身、わが卑屈さが悔やまれます。前向きに生きていくことを身を以てお示しくださった、江橋慎四郎先生、ありがとうございました。
この緑爽やかなよき季節、あらためてご冥福を心よりお祈り申し上げます。
その訃報が十四日付新聞に掲載されていたのを、複数の友人が見つけてメールで知らせてきてくれた。通勤途中の電車の中で気がつき、あわてて取り寄せた朝日新聞社会面の見出しには、「学徒出陣 代表で答辞」とあった。つねに江橋先生について語られるときに、影のようについてまわった言葉で、今回もまたかと苦笑されておられることだろう。
ここに江橋先生との出逢いのきっかけとなった、三十四年前にさかのぼる青少年指導者大学講座と中野サンプラザでの同期の仲間との日々を思い起こしながら、遠くで感じ思いをめぐらしていたことを記し、僭越ながら大きな包容力のある存在であられた江橋先生への追悼の意を捧げたい。
七十五年目前にさかのぼる昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場で行われた学徒出陣壮行会は、江橋先生との歴史的な運命の結びつきととして終生つきまとい続けられることとなった。そこにいたる経緯は、御本人の本意ではなかったことは想像に難くないが、胸の奥に秘められたまま長く語られることはなかったという。ようやく最晩年にいたって、なかば苦笑しながらも重い口をひらかれて、第二次大戦回顧と平和を巡るインタヴュー記事にも答えておられていた。わたしたち戦争を知らない平和な時代に育った世代の人間としては、なんとも複雑な思いを抱かされたのだった。
いまその跡地に、二年後の2020年東京オリンピックのメイン会場として新国立競技場の建設が進んでいることは、歴史のおおきな巡り合わせだろうか。そのオリンピックについての「平和の尊さを味わうことが五輪開催の意味」「平和の重さを感じてほしい。平和を守るには忍耐が必要だ」と語られる江橋先生の言葉を静かに噛みしめたい。“相互理解”というより“忍耐が必要”とは、戦争体験世代ならではの発言だが、モノ・情報が溢れる現代社会との対極にある、きれいごとでは済まされない実感のこもった言葉だ。
もし、先生がオリンピック開催までご健在であったなら、鵠沼在住の先生のことだから、新国立競技場はともかく江の島ヨット競技会場にまでなら足を運ばれるだろうと思う。
その学徒出陣式において、時の首相東條英樹も訓示のために列席していたなか、当時東京帝国大学の文学部二年生で体育会総務だった江橋先生が学徒代表として指名されて答辞を読むことになったのは、宿命だったというしかなかったと思われる。なぜ、江橋青年に白羽の矢がたったのか、また会場を埋め尽くした満場の聴衆の感涙を絞ることとなった、“添削された答辞”を読み上げることになったてんまつは、正確に知られることがないまま、ただ歴史とシンクロしてしまったその激烈な映像の音声の記憶だけがひとリ歩きを始めてしまったのだ。
数年前の終戦記念日の特集で、そのときの映像が偶然流れ、競技場を行進する学徒たちと答辞を読み上げる長身の眼鏡に学帽姿が目に飛び込んできて、一瞬でこれは!と驚きを禁じ得なかったのをいまも鮮烈に覚えている。その姿はまことに堂々としてして、異様な緊迫感ただよう大競技場の場において、あっぱれというほかなく演じきられていた。ひとりの人間の命運とは、このような一コマにより長く歴史として記憶され続けるものなのか、と。
そして、江橋青年はこの歴史的な神宮外苑の壮行会のあと、ついに最前線に送られることなく、特攻で命を捨てることになった学徒も多いなか、立川陸軍基地をへて疎開先の滋賀県八日市で終戦を迎えられた。その当時のことを「モノ言えば唇寒し、みんな過去の話。自分は過去を背負って生きてはいない」と語られている。たしかに当時のエリートとはいえ、苛酷な運命の中で、この潔さ!
戦後は、東大に戻られ、教育者として後進を育てることに尽くされた。当時の労働省青少年局を動かして、青少年指導者大学講座創設の中心になられたのもそのひとつであり、鹿屋体育大の初代学長としての大役を果されあとは、悠々と泰然自若の晩年であられたと思う。これも巡り合わせか、鹿屋の地は海軍特攻隊の出撃基地だった。しかし、江橋先生は「目的がまったく違う。平和を愛好する人材の養成だから」とこだわることなく、人間としての器の大きさをもって真摯にその責務にとりくまれた。
江橋先生のお人柄を彷彿させることとして、学生時代のニックネームは「シャイン」だったそうだ。それは、あの包容力の溢れる太陽のような笑顔からきているのだそうだ。ご自宅に招いた後進を、早朝自転車で海岸のサイクリングロードへ誘われていたという。その理由は、爽やかな朝日を浴びて走ったあとの朝飯は格別にうまいからと、にこやかに笑われて言われていたそうだ。苦難の時代を乗り越えてこられたからこそ、平和な世に心身ともに健やか過ごせるありがたさを実感され、よくわかっておられのだろう。
江橋先生のとりくまれたことひとつにレクレーション論とその実践があるが、「レクレーション」とは「リ・クリエーション=人生の再創造」といわれていたことを思い出す。それは、政治的イデオロギーから離れた、先生の人生論そのものでもあったに違いない。
また、いまでも九州の友人の結婚式に来賓として招かれた先生の祝辞を思い出す。それは「人生において持つべきは愛妻と友人、よきベターハーフとなって」という、人生讃歌、エールの言葉である。
仰ぎ見るばかりで、ちがう世界のひとと決めつけてしまい、なかなか心をひらいて向き合わせていただくことができなかった不肖のわが身、わが卑屈さが悔やまれます。前向きに生きていくことを身を以てお示しくださった、江橋慎四郎先生、ありがとうございました。
この緑爽やかなよき季節、あらためてご冥福を心よりお祈り申し上げます。