上野公園の東京都美術館で開催されていた「ポンピドウー・センター傑作展」を見に行ったのは先週木曜日の15日のこと。なんだか、もう一か月くらい前のことのようにも思える。
そこまでのアプローチから思い起こしてみよう。
家を出たのが九時前で、小田急線を利用して代々木上原から地下鉄を乗り継ぎ、上野駅まで約一時間半ほど。古い構内の出口に向かってゆるく傾斜した通路を歩くと公園下地上口。そこから目の前の通りを横断して正面の飲食ビルを上がると、西郷ドンの銅像横に出た。ここからむこうは、もうずうと広大な上野公園が広がる。
清水観音堂と上野の森美術館の間をぬけていけば、東京文化会館大ホール奥屋の壁面を正面に見ることになる。その脇を抜けたさきの右手に、国立西洋美術館が姿を現す。世界文化遺産登録騒ぎまでは、正直そんなに魅力的に見えることはなかったのに注目されてからは、落ち着きの中に華やかさも誇らしさも放っているように感じてしまう感覚は不思議なものだ。半ば神格化されたル・コルビジュの設計、1959年に竣工しているが、その図面は意匠スケッチのようなものであり、寸法すら表示がなかったというから驚きだ。
実際の設計にあたったのが三人の日本人愛弟子であるのは、関係者にはよく知られているが、一般にはどうだろうか。ともあれ、コルビジュの受容した日本文化が反映された基本プランを、日本人がいかに翻訳して現実の建物に反映していったかの過程とその帰結が、目の前の世界遺産の価値と言えるのではないだろうか。
噴水広場を横目に見て進めば、赤レンガの東京都美術館が見えてくる。手前に置かれた球形のステンレス製オブジェ、これって町田市立国際版画美術館のある公園入口にあるものとよく似ている。もしかして同じ作者だろうか?表面には美術館周囲の風景を映し込んで、なかなか効果的な配置となっている。
コの字型にレイアウトされた建物は半地下広場から入場するために階段を下る。右手が企画棟、左手が公募等と分けられていて、中央がロビーとレストラン、カフェ、ショップなどの交流棟となっている。地下広場の周囲は柔らかなアーチで構成され、コンクリートで打ち放し、はつり面は薄く透明な黄土色がほどこされていて、全体に柔らかで上品な雰囲気を醸し出している。
さて、展覧会のほうはどうか。副題に「ピカソ/マティス/デュシヤンからクリストまで」とあって、現代アートの巨匠の名前がずらり、センターの収蔵する20世紀美術作品を俯瞰する展覧会であることを示している。1906年デュフィ以降、一年一作品を制作年に並べて同じ作家は登場しないという特異な構成の仕方。地階フロアは1934年J.ゴランまで、一階が1935年ピカソ「ミューズ」から1959年の雑誌コラージュまで、二階が1960年アルマンの「ホーム・スイート・ホーム」(ガスマスクを集めた作品に皮肉を込めて)から、1977年センター開館までを並べている。1913年はデュシャン「自転車の車輪」、シャガール「ワイングラスを捧げる二人の肖像」は1917年、カンディンスキーにアレキサンダー・カルダーのモビール、マリー・ローランサンも戦前の作品がえらばれている。戦後はマティスにビュッフェ、ジャコメッティ、1961年がクリスト「パッケージ」と巨匠オンパレードは続く。
年代が下がるほど、絵画・彫刻・オブジェ・写真・映像・建築模型と表現の多様化が加速する。会場構成を担当したフランスを拠点にする建築家の田根剛は、フロアごとに展示壁配列と壁色を変化させ、年度単位で作品を対照する繰り返しの構成となっていて見飽きさせない。各フロアごとの年度の区切り方に深い意味はなさそうで、単に作品と展示スペースの物理的関係によると思われる。
ところで日本人にとってのポンピドウー・センターとは、あらためてどんな存在なのだろうか? ループル美術館と並ぶ存在ながら、その内実はあまり知られていないのが実情だろうと思う。今回の展示の最後に、建築当時の記録映像を映すスクリーン、余り知られていない裏側の様子も見ることのできる!センターの模型とイタリア人設計者のプロフィールが示されているが、センターが国立総合文化施設であり、計画された当時の大統領名を冠した建築である事実以外は、くわしく説明がされていないのが不思議だ。ポストモダン建築物としての構造配管設備がむき出しになったガラス張り長方形の外観のみがよく知られたイメージで、完成した当時はセンセーショナルな話題を呼んだというが、その内実はまるでフランス文化のるつぼかブラックホールみたいな存在の印象が残る。
かつてその全域が寛永寺境内であった上野公園一帯は、まさしく江戸德川時代の遺産だ。その聖地が明治以降、どのように日本が西洋文化を受容してきたかを示しているかの集積地であることを考えると、今回の展示会とのとりあわせは実に興味深いものといえるのではないだろうか、そんなことを思って会場を後にする。
そこまでのアプローチから思い起こしてみよう。
家を出たのが九時前で、小田急線を利用して代々木上原から地下鉄を乗り継ぎ、上野駅まで約一時間半ほど。古い構内の出口に向かってゆるく傾斜した通路を歩くと公園下地上口。そこから目の前の通りを横断して正面の飲食ビルを上がると、西郷ドンの銅像横に出た。ここからむこうは、もうずうと広大な上野公園が広がる。
清水観音堂と上野の森美術館の間をぬけていけば、東京文化会館大ホール奥屋の壁面を正面に見ることになる。その脇を抜けたさきの右手に、国立西洋美術館が姿を現す。世界文化遺産登録騒ぎまでは、正直そんなに魅力的に見えることはなかったのに注目されてからは、落ち着きの中に華やかさも誇らしさも放っているように感じてしまう感覚は不思議なものだ。半ば神格化されたル・コルビジュの設計、1959年に竣工しているが、その図面は意匠スケッチのようなものであり、寸法すら表示がなかったというから驚きだ。
実際の設計にあたったのが三人の日本人愛弟子であるのは、関係者にはよく知られているが、一般にはどうだろうか。ともあれ、コルビジュの受容した日本文化が反映された基本プランを、日本人がいかに翻訳して現実の建物に反映していったかの過程とその帰結が、目の前の世界遺産の価値と言えるのではないだろうか。
噴水広場を横目に見て進めば、赤レンガの東京都美術館が見えてくる。手前に置かれた球形のステンレス製オブジェ、これって町田市立国際版画美術館のある公園入口にあるものとよく似ている。もしかして同じ作者だろうか?表面には美術館周囲の風景を映し込んで、なかなか効果的な配置となっている。
コの字型にレイアウトされた建物は半地下広場から入場するために階段を下る。右手が企画棟、左手が公募等と分けられていて、中央がロビーとレストラン、カフェ、ショップなどの交流棟となっている。地下広場の周囲は柔らかなアーチで構成され、コンクリートで打ち放し、はつり面は薄く透明な黄土色がほどこされていて、全体に柔らかで上品な雰囲気を醸し出している。
さて、展覧会のほうはどうか。副題に「ピカソ/マティス/デュシヤンからクリストまで」とあって、現代アートの巨匠の名前がずらり、センターの収蔵する20世紀美術作品を俯瞰する展覧会であることを示している。1906年デュフィ以降、一年一作品を制作年に並べて同じ作家は登場しないという特異な構成の仕方。地階フロアは1934年J.ゴランまで、一階が1935年ピカソ「ミューズ」から1959年の雑誌コラージュまで、二階が1960年アルマンの「ホーム・スイート・ホーム」(ガスマスクを集めた作品に皮肉を込めて)から、1977年センター開館までを並べている。1913年はデュシャン「自転車の車輪」、シャガール「ワイングラスを捧げる二人の肖像」は1917年、カンディンスキーにアレキサンダー・カルダーのモビール、マリー・ローランサンも戦前の作品がえらばれている。戦後はマティスにビュッフェ、ジャコメッティ、1961年がクリスト「パッケージ」と巨匠オンパレードは続く。
年代が下がるほど、絵画・彫刻・オブジェ・写真・映像・建築模型と表現の多様化が加速する。会場構成を担当したフランスを拠点にする建築家の田根剛は、フロアごとに展示壁配列と壁色を変化させ、年度単位で作品を対照する繰り返しの構成となっていて見飽きさせない。各フロアごとの年度の区切り方に深い意味はなさそうで、単に作品と展示スペースの物理的関係によると思われる。
ところで日本人にとってのポンピドウー・センターとは、あらためてどんな存在なのだろうか? ループル美術館と並ぶ存在ながら、その内実はあまり知られていないのが実情だろうと思う。今回の展示の最後に、建築当時の記録映像を映すスクリーン、余り知られていない裏側の様子も見ることのできる!センターの模型とイタリア人設計者のプロフィールが示されているが、センターが国立総合文化施設であり、計画された当時の大統領名を冠した建築である事実以外は、くわしく説明がされていないのが不思議だ。ポストモダン建築物としての構造配管設備がむき出しになったガラス張り長方形の外観のみがよく知られたイメージで、完成した当時はセンセーショナルな話題を呼んだというが、その内実はまるでフランス文化のるつぼかブラックホールみたいな存在の印象が残る。
かつてその全域が寛永寺境内であった上野公園一帯は、まさしく江戸德川時代の遺産だ。その聖地が明治以降、どのように日本が西洋文化を受容してきたかを示しているかの集積地であることを考えると、今回の展示会とのとりあわせは実に興味深いものといえるのではないだろうか、そんなことを思って会場を後にする。