日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

ソメイヨシノ咲く、東林間逍遥

2014年03月31日 | 日記
 昨日の猛烈な春の嵐、雨は夕方には止んで日差しが望めた。その夜の帰宅時、駅前広場に一本だけ残された染井吉野サクラの古木が満開で、照明に浮かび上がっていたのを目にしてそのもとへ歩み寄る。もともと広場には、三本の古木があって毎年春を楽しませてくれていた。ところが近年は枯れ死したり、台風で幹が倒されたりして、とうとうこの一本だけになってしまったのだけれど健気に今年も咲いてくれている。すぐ横には、車道の排気ガス、根元はコンクリートタイルでがっちり固められてしまっていて、相当厳しい環境には違いないのだが、思わず「ありがとう、頑張れ!」って声をかけてあげたくなる存在だ。夏の季節になれば、その周辺に緑陰を作ってくれて夏祭りの様子を見守ってくれている。踏切前の「千代の松」とともに東林間駅広場のシンボルだ(とひそかに思っている)。



 そして31日の今日は、早朝から雲一つないさわやかなサクラ日和で、いよいよ本格的な春の到来だ。
 
 朝の散歩へ、久しぶりに東林間の上鶴間周辺をぶらぶらと歩いてみようと思い立った。近くの深堀中央公園のサクラを見にいくと、ソメイヨシノが見事な枝ぶりを拡げていた。まだ、7分咲きでピンク色の花びらに濃いピンクの膨らみかけた蕾が、早春の青空に映えて美しい、いいな、ニッポンの春って!公園の周遊路を散策しながら、黄色のレンギョウ、白いユキヤナギの花々が次々と咲きだしていて華やかな気分になってくる。
 国道16号沿いのケヤキの並木も新芽がむずむず?といった感じでのび出していて、ああ春だなあと改めて時間させられる。今朝の新聞朝刊に、「伊藤銀次さんとたどる大瀧詠一の哲学」と題された記事が特集されている。大瀧氏の音楽スタジオは、この16号を八王子のさらにずっと先まで進んだ都内瑞穂町の米軍ハウスにあった。改めてここからとにかく進んでいけば、いずれ16号線の先でつながっていると思うと、ただうれしく感慨深い気持ちになってくるから、不思議な気分だ。

 やがて、市立南大野小学校の手前を住宅地側に入っていくと、学校グランドにも満開のソメイヨシノが。入学式には散ってしまうだろうけれどね。その先にいくと世田谷区長の保坂展人氏のご実家が見えてくる。こちらは以前、散歩の途中に保坂氏の政治活動連絡先の看板があって見つけたものだ。ここにご両親の家があるなんて意外だった。区長転身の前は、社民党の衆議院議員、さらに私が学生時代は、自身の「麹町中学校内申書裁判」で公の教育制度を批判的に問うていた活動家だった。正義を前面に出したその言論ぶりには、やや距離を置いて見つめていた記憶がある。なぜなら、彼自身が越境入学というルール破りを行ってエリートを目指していたのだから、体制を批判する前にもっと自身が謙虚になっていいはずだから。
 
 さらに進んで住宅地を抜けけていくと、オレンジ瓦を乗せたスパニッシュ風の特徴ある素敵な住宅の前に出る。どんなひとが住んでいるのだろう?その先を左折しての一本道は、深堀川へ向かうアップダウンとなっていて、そこを登りきる途中右手に日本美術院重鎮で文化勲章受章の栄誉を受けた日本画家岩橋英遠(故人)のアトリエ兼住宅がある。さらにすこし離れたところには、小説家古山高麗雄が亡くなるまで住んでいた家があった。古山は芥川賞を1970年に受けているが、10年ほどまえに亡くなったときの死亡記事で初めてその存在を知った次第。
 
 と、まあ探してみると普通の住宅地であるここの地にもさまざまが文化人が住まいを構えていらして、ちょっと地元愛に目覚めるなあ。最後に、異色の文化人を記して終わることにしようか。
 小原銀之助(1898-1983)、京都出身の美術評論家・編集者だそうで、この上鶴間の地で亡くなった。もしかして玉川学園創設の小原一族かとも連想されるが、じつは国際的な日時計製作者としてその世界では名を知られた人なんだそうだ。あちこちで見かける日時計の台座には、たいてい「小原式日時計」と記されていて、国内だけでも北海道から沖縄、海外ではヨーロッパやアメリカ本土にハワイ大学にもあるそう。そのお住まいだったマンション隣接の公園にも小原式日時計が設置されている。白赤の御影石が敷かれた台座に設置由緒と小原銀之助についての紹介が記されているのを目にすることができる。

 朝のちかくの散歩で、見たこと考えたことを書き連ねてみたけれど、最後の一枚をどうぞ。


 昨夜の嵐で小枝ごと吹き飛ばされて落ちてしまったサクラの花々を、家人が小さな沖縄壺屋焼にアレンジしてみた。
 流れているのは、ビーチボーイズの2013年リリースの「神がつくりし給うレイディオ」。




早春のICUキャンパス、再び。

2014年03月21日 | 日記
 「ICU図書館の60年」というタイトルの記念展が開かれていた国際基督教大学キャンパス(三鷹市大沢)を3月17日に訪れた。昨年の11月以来の訪問となる。

 前回は、季節的に武蔵野の紅葉にはまだ早かったけれど、この日は早春の兆しが濃厚なポカポカ陽気が気持ちよく、お昼前に現地に到着する。正門から600メートル続く直線の桜並木の正面ロータリー右手奥の本館前芝生広場は、まだ新芽の緑がふき出そうとする前で、きれいに等間隔に植えられた梅の花(キリスト教主義の学園との組み合わせが意外!)が見頃だった。広場前にそびえる横長のコンクリート造四階建本館は、大学が創立される前の戦前からこの地にあった旧中島飛行機研究所(現富士重工業)を一部増築したうえで、大学教室棟へと転用したとのこと。中央部分が塔屋分高くなっていて、全体的に重厚な質実本位のモダニズム建築の原型をみせていた。

 ロータリー前の正門からアイストップに当たる位置に、キリスト教を建学の精神とする大学らしく、木々に囲まれるように教会堂が見えている。1950年代の創立当初、ヴォーリーズ建築事務所により建てられたものが、主に音響の問題から数年後にA.レーモンド建築設計事務所の手によって大幅に改築されていて、まったく別物の建築意匠となっている。正面入口の木の扉の真鍮製のノブに手をかけると鍵はかかっておらず、中は無人で祭壇とパイプオルガンが見えた。中に入ってみよう、そう思って扉を開いてそうと足を踏み入れる。薄暗くてひんやりとした神聖な空間の中を木の長椅子の中央を進み、祭壇前にすすんで正面のパイプオルガンに初めて見入る。その外見デザインの印象から、もしやと思って調べると規模は大きく異なるが、サントリーホールと同じオーストリア・リーガー社製[1970年設置)だ。入り口方向を振り返ってみると、両側壁の細いスリット型窓の連続から明るい外光が鮮やかに見えるのが、いかにもレーモンドらしい。二階席もある教会堂だ。

 本日のメイン、やはりレーモンド事務所の設計による大学図書館(1960年)にも立ち寄り、冒頭の資料展を見学させておいただく。掘り下げ式半地階、地上二階建ての機能的な明るい図書館、学習環境は抜群でじつにうらやましくなる。こんな大学ってほかに知らない。兵庫県西宮市にある関西学院大学(ヴォーリーズ!)も実に美しい大学だったが、森の雰囲気はICUのほうが遥に濃厚だ。なにしろ武蔵野の面影を残す敷地面積は60万平方メートルを超えるそうで、創立当初は農場にゴルフ場もあったというから、まったくもってスケールが日本離れしすぎているのも当然だ。単一キャンパスの広さからいうと玉川大学が町田・横浜・川崎飛び地にまたがっていて同じ規模だが、こちらは丘陵地帯で様相が異なる。

 それから少し迷って、学内郵便局の先の新築されて数年の開放的な大学食堂でメンチカツ定食を採る。食事の後に、村上春樹「羊をめぐる冒険」の第一章『1970/11/25 水曜の午後のピクニック』(三島由紀夫自決の日)部分をめくる。ここには、2回にわたってICUの情景が引用され、大学食堂で昼食をとる僕と彼女のことが書かれている。もちろん、いまある食堂は当時のものではなく、最近に新築されたものだ。それでも文章の合間に、当時の武蔵野の面影を色濃く残す大学キャンパスの雰囲気を感じながら、学生気分に戻って時間を過ごすのはなかなかの気分。1970年代の頃の小説の世界に迷い込んだような気がしてきて、不思議な気分になる。

 キャンパス内には、三階建ての創立当初の頃の学生寮や平屋の教員住宅もいくつか残っており、W.M.ヴォ―リーズの特徴あるスパニッシュ意匠が残っていた。リータリーの脇から大学フィールドの横を抜け、北口門付近まで歩いて、富士重工業東京事業所との境目にそって、大学ジムの傍を通り、駐車場に戻ったら本日のキャンパス探検はひとまず終了だ。



PINK MARTINI&SAORI YUKI 1969

2014年03月14日 | 音楽
 音楽と時代の話を続ける。

全体が薄水色で左隅に小さく男女が寄り添って歩く写真に、白抜きで「PINK MARTINI&SAORI YUKI 1969」とタイトルがクレジットされたジャケットデザインのCDがある。一見洋楽のような印象だけれど、一昨年2012年に、海外から日本に飛び火した形で突如?ブレークした日本人歌手由紀さおりとアメリカ西海岸オレゴン州ポートランドに本拠をおくビッグバンドのコラボレーションアルバムだ。2011年の暮れくらいだったか、まほろ市のいまはもう無くなってしまった輸入盤と中古版を扱うお気に入りのCDショップ店頭で初めて目にして以来、気になっていたアルバムをようやくブックオフで手に入れた。このCDのヒットにより、由紀さおり&ピンク・マルティーニは、アメリカとイギリスを含むヨーロッパツアーを敢行して盛況だったというから、あの「スキヤキ」以来の大ヒットだそうで恐れ入った。その様子の一部はNHKでもドキュメンタリーとして構成、放送されて興味深く見ることができた。

 さて、このアルバムデザイン、どこかで見たような気がしていたがしばらくして気が付いた。サイモン&ガーファンクルのアルバム「明日に架ける橋」の裏面のレイアウトと色調にそっくりなのだ。ちなみに「1969」のほうは、写真のクレジットにハービー山口!、デザイン&レイアウトにマイク・キング(ポートランド、オレゴン州)の名前が掲載されている。「明日に架ける橋」は1969年の作品なので、このビジュアル上の類似は、もしかしたら同時代のタイトルからその辺を意識したある種のリスペクト?からくるものなのかもしれない、と思っておこう。

 このアルバムに興味を引かれた理由はほかにもふたつあり、そのひとつはタイトル「1969」の意味するもの、もうひとつは昭和40・50年代歌謡曲全盛時代の歌手イメージのある(ややレトロな世代に属する)由紀さおりと、共演のピンク・マルティーニ(まるで酒場のカクテルメニュー!のようなヘンな名前だ)という殆どの日本人が知らないであろう楽団がいかにして結びついたか、である。

 1969年すなわち昭和44年は、このアルバムの成立に即していえば、由紀さおり(姓名というよりもよくある日本女性の名前を重ねたような芸名だ)が、山上路夫作詞、いずみたく作曲の「夜明けのスキャット」でデビューした年であり、その年に日本でラジオから流れていた曲を和洋問わずにセレクトして、ピンク・マルティーニの演奏のもと由紀本人が歌うという企画が本アルバム「1969」ということになる。選ばれたのは、歌謡曲6、洋楽5の計11曲+新曲。ベタ歌謡曲もこうして今の時代に聴くと妙に新鮮に聞こえるのが不思議だ。あまり、統一感は感じられないが、かえってその何でもアリ感がおもしろい。以下その曲目リストをあげてみよう(タイトル後※が洋楽)。
  
 1.ブルー・ライト・ヨコハマ
 2.真夜中のボサノバ
 3.さらば夏の日※
 4.パフ※
 5.いいじゃないの幸せならば
 6.夕月
 7.夜明けのスキャット
 8.マシュ・ケ・ナダ※
 9.イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?※
 10. 私もあなたとないていい?
 11. わすれたいのに※
 12. 季節の足音(2011年曲)

 CD解説文には、この選曲にあたっては日本人プロデューサーの意向とともに共演者側、とくにバンドリーダーのトーマス・M・ローダーデールの意見も取り入れられたと記されている。トーマスは1971年生まれとあるから、40代前半と意外にも若いことに驚く。両者の出会いは、彼がポートランド市内の音楽店で、たまたま見つけた由紀さおりのデビューアルバムLP(1969年)を“ジャケ買い”したことに始まる。その中の由紀さおりの歌声に魅了され、彼がリーダーを務めるバンド、ピンク・マルティーニのアルバムでカバーし、それが「YOU TUBE」を通して日本で関係者により発見され、あれよというまに両者の関係がつながって共同アルバムの制作に行きついたという、インターネット時代ならではのエピソードだ。
 ピンク・マルティーニというボーカルも入った12人編成の楽団自体が、昨今の音楽シーンとは一線を画した存在のようで、1940年代から60年代にかけて流行した古き良き時代のジャズ、映画音楽、ミュージカルを主なレパートリーとするバンドらしい。いわゆるダンスホールミュージックを奏でるイメージで、日本だと40年から50年代の歌謡番組の演奏を受け持っていた楽団テイストと似通っており、その意味では歌謡曲との親近性はもともと高かったのだろう。

 このCDの中で、欧米人の持つオリエンタルな印象をくすぐるであろう楽曲が、イントロに琴をフューチャーリングしたオリジナルを黛ジュンが歌った「夕月」(1968年、三木たかし作曲)で、選曲したトーマスの素直だけれどなかなか絶妙な商業センスが感じれる。また、久しぶりに聴くこととなった「夜明けのスキャット」(1969年、いすみたく作曲)は、浮遊感のあるエキゾチックな印象で、高度成長期の時代を象徴するような感がある。この曲の冒頭、ギターで導かれるイントロがサイモン&ガーファンクル「サウンド・オブ・サイレンス」のイントロとかぶるのは、洋楽通のうちでは有名なエピソードだそうで、グッチ裕三がお笑いネタにしているのをテレビでも見ていて、なにも知らずに彼のネタのハマり具合に喝采してのだけれど、あとで自己の無知を恥じた。でもこれは、パクリというよりも本歌取りのようなもの?で日本人の器用さ、固有性に対するあいまいさの表れのようなものだと思うのは、日本の伝統?的文化の弁護にもなっていないだろうか?
(3.12書き出し、3.14校了)

 

洋楽ヒット全集1964-1976年は昭和の香り

2014年03月09日 | 音楽
 今年2014年1月22日にソニー・ミュージックから「青春のゴールデンポップス イン SHOWA40S」という、いまどき和様折衷のなんともアカ抜けないタイトルの2枚組のCDが突如(という感じで)発売となった。その広告を朝日新聞で見つけて、曲目リストを見た途端にこれはすぐに購入したいと思い、まほろ市内の新星堂で手に入れたものをたったいま聴きながら、このブログを書いている。流れているのは、
 サイモン&ガーファンクル「コンドルは飛んでゆく」(1970)
 ブラザース・フォア「七つの水仙」(1964)
 プロコル・ハルム「青い影」(1967)
など、1964年以降の洋楽ポップス・ロックのヒット曲の数々である。まさしく新潟の田舎の少年が小学生から中校生にかけて、ようやく洋楽に触れだしたころのオリジン的楽曲の数々だ。洋楽なのに昭和40年代(1965-1974)の洋楽ヒットとして括ってあるのがなんとも日本的感性にかなっていておもしろい。おそらく、この企画盤のプロデュサーは1960年前後生まれの世代だろうと想像する。

 いろいろ能書きを書き連ねるより、このCDの楽曲とアーティストを列記したほうが、はっきりと時代状況が明晰に浮かんでくるだろう。そして何故このようなことを書いてみたくなったのかを雄弁に語ってくれるはずだ。

 「シバの女王」(1969)/レーモン・ルフェーブル・オーケストラ
 「雨のささやき」(1969)/ホセ・フェリシアーノ(盲目の天才歌手といったら、日本では長谷川きよしか)
 「ブラック・マジック・ウーマン」(1970)/サンタナ(「同じサンタナの「哀愁のヨーロッパ」はストリップ劇場の定番BGM)
 「ひまわり」(1970)/ヘンリー・マンシーニ楽団(S.ローレン主演の大人の映画だった)
 「ある愛の詩」(1969)/アンディ・ウイリアムス
(いわずと知れたシネマ「ラブ・ストーリー」テーマ曲、日本では「愛と死を見つめて」を彷彿)
 「マンダム 男の世界」(1970)/エンゲルベルト・フンバーディング
   (「ウ~ン、マンダム」、C.ブロンソンを一躍ポピュラーにした男性化粧品のCMで大ヒット!) 
 「カントリー・ロード」(1971)/ジョン・デンバー(O.N.ジョンでも大ヒットした。あちらアメリカの南こうせつ!?)
 「アローン・アゲイン」(1972)/ギルバート・オサリバン(奥歯をかみしめたような歌い方が・・・)
 「ゴッドファーザー 愛のテーマ」(1972)/アンディ・ウイリアムス
 「この胸のときめきを」(1970)/エルビス・プレスリー
 「愛の休日」(1972)/ミシェル・ポルナレフ(中学時代強烈にはまった。ユーミンもリスペクトしていると知って、やっぱり!)
 「天国への扉」(1973)/ボブ.ディラン
(黒人シンガー、ランディ・クロフォードの歌唱で初めて聞いたけれど、B.ディランと知って驚いた) 
 「ローズ・ガーデン」(1970)/リン・アンダーソン(南沙織「17才」の原曲?と噂されたポップス、さすが筒美京平!)
 「愛するハーモニー」(1972)/ニュー・シンガース(これも初期の南沙織LPで聴いたアメリカンポップスの甘酸っぱい想いで)
 「カルフォニルアの青い空」(1972)/アルバート・ハモンド(実によく流れていた。シンシアののびのびした歌唱が爽やか印象的)
 「天使のささやき」(1974)/スリー・ディグリーズ(ソウルを越えた?ブラックポピュラーミュージック)
 「エマニエル夫人」(1974)/ピエール・バシュレ
             (青い未熟な高校生は性の誘惑に二見書房ブックスを隠れ読み、えーと主演女優は?S.クリステル)
 「あまい囁き」(1973)/ダリダ&アラン・ドロン
(二人の歌と語りのかけあいが見事、いま聴いても新鮮だ!パローレ♪パローレ♪のリフレイン)
 「愛の贈り物」(1975)/バリー・マニロー(ピノキオのようなお鼻が印象的なあまいあまい声)
 「17才の頃」(1975)「ラヴ・イズ・ブラインド」(1976)/ジャニス・イアン
(高校生の頃の記念碑的楽曲、本格的に洋楽女性ボーカルに入れ込んだ)

 こうして、振り返ると個人的に洋楽が日常的にリアルタイムで入ってきたのは、1970年以降になることがわかる。それらのきっかけは、ラジオの深夜放送と当時のアイドル歌手で英語でポップスも歌えた、シンシアこと南沙織だったということになるだろう。その意味では、シンシア(現在の篠山紀信夫人)は、「ローズ・ガーデン」(1970)/「愛するハーモニー」(1972)/「カルフォニルアの青い空」(1972)などのヒット曲を同時代に取り上げていたし、J・イアン提供の楽曲も歌っていたのだからなかなか貴重な存在だった。
 1975年ロスアンゼルス録音の全曲オリジナル作品「Cynthia Street」は、A面が安井かずみ作詩、筒美京平作曲、B面が現地ミュージシャン(G.クリントン、A.オディーなど)が参加した当時としては非常に意欲的なアルバムでじつに!画期的だったとひそかに思っている。もっともっと歌手としての可能性が拡がってもよかったのになあ、と少し残念に思うのだ。

藤沢市労働会館~70年代モダニズム建築の光芒

2014年03月08日 | 建築
 藤沢宿ちょいぶらの続きで、いよいよ今回のまちあるきのハイライト、藤沢市労働会館(1976年竣工、設計:群建築研究所・緒形昭義)に辿り着いた。

 この建物の存在を知ったのは、数年前「湘南庭園文化祭」という、毎年秋行われる神奈川湘南地区の旧別荘地域に遺された歴史文化資産を活用した市民主体事業のキックオフイベントの会場として訪れた時が最初だ。藤沢駅から徒歩10分ほど南仲通り沿いにの高台にそのやや古びた建物はあるのだが、その前に立ってみて、ここが小田急江ノ島線で藤沢駅に到着する少し手前の鉄橋をすぎたあたりの左手側の方向に見える、周囲から少しとびぬけた高さの錆色列柱に持ち上げられた塔屋の建物であることに気がつく。建物正面部分の外側に非常階段がらせん状についていて、ファサードデザインとして大胆かつ強烈な自己主張をしている。コンクリート、鉄とアルミ、ガラスを材料とするモダニズム建築の特徴が見事に表出した建物で、今回はその空間と外観を解説付きでじっくりと見れる機会となった。

 坂道をすこし上った傾斜地にある会館は、コンクリート打ち放しの一階、地階一階部分が城壁のようで、その上に合計12本の円柱で持ち上げられた三層分の本館が乗っかるなんとも大胆な構造と空間構成だ。中二階部分は周辺に向けて開かれたピロテイーもしくは空中庭園のようになっていて、裏手の丘陵高さに合わせて自由に出入りできるようになっている。城壁部分の縦長や円形の窓枠とあわせて、コルビジェの唱えた近代建築の条件を意識して適えたかの印象すらある。ただし、赤レンガ床なのがなんともおもしろい。中島先生に、「“スカイハウス”(1958年竣工、文京区大塚、設計:菊竹清訓)を彷彿とさせますね」と話すと(お互いに実物は見たことがないものの)一応?同意していただいたので、まんざら見当はずれでもないのだろう。
 中世の城郭のような低い入り口を通り抜けてエントランスホールに入ると大きく天井までの空間が広がり、思わずため息がでる。内面の一部はコンクリート打つ放しの壁面が外からそのまま内部にも露出してきたかのようだ。天井もコンクリート梁が格子状に露出している。う~ん、40年近くを経たとはいえ、この生々しさすら漂ってくる雰囲気は、設計者のこの建物に込めた迫力というか執念のようなものから来ているのだろうか、しばし沈黙。

   
     ≪正面入り口から本館を見上げる。これだけでこの建物の全貌を想像するのは難しい。≫

 正面からは本館の存在は強調されるが、裏側に回って空中広場に出ると、ホール棟と食堂等の楼閣屋根が立ち上がり、まるでチベットラサのポタラ宮殿のような印象すらある。地階一階および一階建物底地の約三分の一程度に地上四階建ての本館が立ち上がっているという特異な(建築効率から言えばなんと贅沢な!)設計であり、いまこのような建築を成立させることは不可能である、と断言できるほどの建築物がこの地で現実のものとして存在している。その意味で、70年代モダニズム建築の奇跡を体現する「巡礼の旅」の終点に相応しいのかもしれない。

  一階には、300席ほどのホールと和室があるがここも見どころ満載だ。まず、ホール。中に入ってみると荒々しい赤レンガ壁面、天井照明の黒いグリッド、むきだしでうねるような真っ赤な空調ダクトの異様な迫力に一瞬、息を飲む。座席は四角いスペースを三方から平土間舞台を囲むような配列。対面する舞台後方の壁面には木製の音響反射板が取りつけられていて、扉に張られた木板とあわせたホール室内意匠の一部ともなっている。
 それでは和室はどうか。この建物内に和室があるということがちょっとした意外性だと思うのだけれど、これがまたモダン和様ともいうべき二十四畳の広さ。なんといっても入り口の襖戸と中の障子戸のサイズが通常の1.5倍ほどの幅がとってあって、とくに障子戸は四隅の一角二辺を合わせる形でレイアウトされ、その2枚をそれぞれいっぱいに開くと、ガラス越しに鮮やかに大きく外庭が望める仕掛けとなっている。隅を支える室内柱をなくした代わりに、建物外に張り出した二本の列柱を設けている。ここにも構造体を建物の外側こ押し出して、モダニズム建築意匠の一部として強調し、内外との開かれた関係性を保ちながら室内空間を魅力的に構成するという手法がみてとれるようで、これらには意外性の二乗!くらいに驚かされた。コンクリート建築の中の和室としては、様相は異なるが、現在の目黒区役所本庁舎としてコンバートされた旧千代田生命本社ビル(1966年竣工、設計:村野藤吾)を見たときの感動を思い起こした。

 中二階は会議室、三階も会議室四室があり、窓が横長水平方向に連続して大きく取られていて、高台周囲の眺めをみわたすことができるようになっている。そして最上階である四階は、驚いたことに体育室のスペースがとられている。三方向はガラス張り!となっていてこんなに眺めの良いフロアで汗を流すことができたらさぞかし壮快に違いないだろう。遠方には江の島や富士山も望めるはずだから、なんとまあ贅沢なスペース!しかも驚いたことに、竣工当時からしばらくは、サウナも併設されていたというから、さらにびっくりである。
建物設計者、緒形昭義(1927-2006)は、基本構想として五箇条からなる「藤沢労働会館基本法」を遺していて、この原則に則って建物空間を構成したことを今回の中島先生の説明で初めて知り、当時40、30代だった建築家集団のモダニズム建築への意気込みと“労働運動”“革新自治体”(当時の藤沢市長は葉山峻氏)がまだ輝きの残り香を放っていた時代精神=ヒストリカル・スピリットを感じないではいられなかった。
 この建物が数年後に改築される可能性があるという話もでていたけれど、1970年代モダニズム建築の光芒を体現しているこの知られざる傑作(もしかしたら記念的問題作か?)をぜひとも遺したうえで、活用してもらいたいと切に願う。

 全体を見終わった最後に全員が三階の会議室に戻り、群建築研究所所員でこの建築設計に関わられたK氏が市民運動にも熱心だった緒形昭義の設計思想と生き様について語って下さった話がとても興味深かった。
 終了後、K氏と建築家A夫妻と、労働会館から歩いてすぐの漆喰壁蔵造りの蕎麦処“喜庵”に立ち寄る。そこで緒形氏をめぐる70年から80年代に建築に情熱を傾けた青年像のエピソードの数々を伺うことになり、時代と建築を切り結ぼうと意気込む姿になんともいえないうらやましさと敬意を感じつつ、話ははずんだ。K氏より「緒形昭義のこと」というタイトルの2008年発行追悼文集の思わぬプレゼントがあり、ありがたく頂戴した。2006年に故人となられた緒形氏の肖像を初めて拝見したが、はにかみを含んだ笑顔が魅力的な印象でその生き様を彷彿とさせる。

 群研究所+緒形昭義の建築は、同じ藤沢市内ライフタウンの湘南大庭市民センターを見学にいったことがあるが、新横浜のオルタナティブ生活館も同時代(1985年)の設計であることを知り、ほかの竹山団地センターや寿町総合労働福祉会館も見に行ってみようと思う。緒形氏の遺稿である「書評:前川國男ー賊軍の将」が興味深く、もしかしたら緒形氏は自分の建築家としての生き様を、前川國男に重ねていたのかもしれない。

 この日は終日雨だったが、早春の人と建築と歴史性との僥倖に感謝!

 

東海道藤沢宿ちょいぶら ~常光寺、1970年代モダニズム建築

2014年03月03日 | 建築
 二日はあいにくの雨天だったが、旧東海道藤沢宿まつりに出かける。小田急江ノ島線藤沢本町で下車して、徒歩数分の白旗神社境内を通りぬけ会場の御殿辺公園へ到着。雨の中いくつかのテントが並んでいたなかに、慶應大学湘南藤沢キャンパス大学院中島ゼミのブースをみつけることができた。

 きっかけは、約一年ぶりにいただいた静岡伊豆半島在住のK氏からのメールだった。直接お会いしたことはないのだけれど、気になっていたモダニズム建築「藤沢市労働会館」の設計にかかわられて、その直後郷里に戻られ、いまも建築事務所を主宰していらっしゃる。今回の藤沢宿まつり参加プログラムの中に、藤沢市労働会館をとりあげて見学するツアーがあり、興味があれば参加しませんかというお誘い、二つ返事で申し込みを済ませて当日、K氏の到着をテントの中で待った。
やがて、集合時間の11時半近くに、地元外といった感じの三人連れが受付に立ち寄られた。もしやと思いお声掛けすると、案の定、K氏当人と建築仲間の方だった。K氏は白髪交じりの眼鏡をかけた中背の紳士、やや長身のコート姿の男性と黒上下の女性のお二人は横浜市内に事務所を構える建築家ご夫妻である。初めての対面の挨拶を交わして、さっそく今回のツアーのコースを地理模型図上で確認して、しばし歓談。
しばらくして、別のコースガイドから戻ってこられた今回の企画者である慶應大学の中島直人先生の先導で、ほかの数人の参加者とともに雨の中を傘を差しながら、東海道を渡って向かいの常光寺(浄土宗)に到着。門をくぐると楠の木の大木がそびえていて、よく手入れされた境内はすぐ手前の街頭とは異なる静寂な雰囲気を醸し出している。さらに奥左手の墓地中に、樹齢350年といわれるカヤの巨樹が見事だ。
 ここには、彫刻家にしてランドスケープデザイナーのイサム・ノグチの父、詩人・評論家の野口米次郎(1875-1947)が眠る墓がある。前回の横浜こどもの国に引き続くイサム・ノグチとの邂逅で、藤沢のつながりが全くもって意外な驚きだったが、米次郎の兄がここの住職をしていた縁だという。その墓石は御影石の台座の上に、黒色で密度のある長方体石を三つ組み合わせたもので、ローマ字サインで墓名が刻まれていた。30代の若き中島先生によるとイサムノグチのデザインによる可能性があるというが、真偽のほどははっきりしない。イサム・ノグチは米次郎が米国留学のときに、現地の恋人との間に生まれた子供でその直後、米次郎は二人を残して帰国してしまう。なんだか当時の知識人のひとつの典型で、森鴎外を連想させる。その複雑な関係が父子と親族関係にも影を落としているようだ。ちなみに米次郎は、慶應大学文学部英文学科主任教授の職にあった、これも今回の企画主催が慶應大学ゼミであることと、まあつながるという偶然のような必然的不思議ではある。

 さてさらに進むと、今回のコースゆかりのもうひとりの人物、中島統一(日本特殊鋼管株式会社の創立者、のちの新日本製鐵につながる会社のひとつ)一族の墓石も少し先の小高い丘部分に木立に囲まれてある。一般になじみのない名前で、今回のツアーで初めてその経歴を知ることになるのだが、次に訪ねる70年代モダニズム建築の隠れた?傑作(いや問題作?)の藤沢市労働会館敷地は、昭和40年代中頃まで中島氏邸宅と江の島相模湾の望める庭園があったところだという。明治中期以降、藤沢駅周辺が新興の住宅地として開けてきたころの記憶をとどめる丘陵の突端の景勝地であったわけだ。

 江戸時代以降、宿場としての発展してきた町の記憶の堆積と現在に残る社寺、そして大邸宅跡の70年代モダニズム建築をめぐる巡礼の旅、次回はメインの「藤沢市労働会館」(1975年竣工、設計:群建築研究所、緒形昭義)についての訪問について記そう。   (3.3書きおろし、3.6初回校了)