日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

寺家回廊めぐり

2021年11月04日 | 美術

   神無月晩秋のおわり、横浜郊外の寺家ふるさと村を訪ねた。自宅からは車で30分ほどの距離にある雑木林と田園が保全されて、希少な里山の営みが広がる地域だ。ここで活動する複数の工芸&アート作家たちの作品がアトリエとともに公開される「寺家回廊」は、今年でもう十五回目。参加する作家たちの十五の拠点を歩いて巡る。

 まずは、作業所を改装して作られた「JIKE STUDIO」へ。駐車場に車を止めさせてもらって、開催中の絵本『やとのいえ』原画展をみる。精緻に描かれた画と文は八尾慶二という方で、相模原市橋本の出身だ。おそらく多摩ニュータウンあたりの谷戸にある江戸時代からの民家らしく、その周辺の里山風景の150年にわたるうつりかわりを丹念に描いている。茅葺の民家の前には、八体の地蔵様が鎮座していて、あたりが開発の波にもまれても大きく変化してもその佇まいを変えずに見守っている。
 ギャラリーに併設されたカフェで少し早めのワンプレートのランチタイム、もう店内は込み始めている。東側に取られた横長の窓からは柿生から鉄町方面の丘陵が望めて、目の前には大きな柿の木と畑、点在する民家、すこし遠くに幹線道路に沿っての住宅や商店など。視線がさえぎられることなく180度の視野に広がってのびている。

 カフェを出たすぐ先の畑の手前の角地で、銀色に塗られた少女像と赤いトレンチのようなものを規則的に打ち込んで並べたアート作品が目に入る。すこし遠目には花畑に立つ少女の祈りの姿に見えなくもない。傍らに作者らしき若い男性が傘をさして控えていて、ちかくの横浜美術大学で彫刻を教えている教員だった。ここへの来場者の反応が知りたいようで、学生の関心はいまひとつと話していたが勿体ない!
 その先の坂をすこし上がったNAKAHARA家具工房でもアトリエが公開されている。材料を吟味して丁寧に作られた椅子やテーブルと陶製オブジェの共同展示がされる小さな気持ちの良い空間。プロフィールを読むと、この家具作家の父親は、建築家奥村昭雄や吉村順三とつながるひとで、その影響を息子として幼少のころから少なからず受けているそうだ。陶製オブジェ作者でまん丸メガネの中野滋氏もその系譜らしく、小さないくつかの作品は中世の教会にあるような宗教的雰囲気を纏ったものたっだ。

 路を引き返し、少し歩いて居谷戸池のさきにあるもう一軒の家具工房へ。「ハーフムーン・ファニチャー」と名付けられた、本格的な展示ギャラリーが付属している。こちらは小栗崇&久美子による一枚板のテーブルや調度品など素材の良さを生かしたモノづくり。入り口に参考展示してあるコンパクトな移動式理髪椅子と、鏡台ほか用具入れ棚も同じ家具作家のもので、しっかりした造りの組み合わせが面白い。
 家具類と一緒に展示しているのは、若い女性木彫作家宮崎みどりさんという方で、やわらかくやさしい印象の小さな作品が置かれていた。家具も彫刻も木から作られていることもあって、この空間と家具の雰囲気によくマッチしている。

 最後に比較的新しく天井のある倉庫空間を改装して作られた「JIKE RABORORY」を覗く。以前にも拝見したことのある澤岡泰子さんの木のリトグラフ作品と息子の織里部さんの陶芸作品。澤岡さんからお話を伺うと、この寺家にアート&クラフト作家が集積する“はしり”となった方らしいとわかる。藍色と黒が基調の架空の花を描いた作品群と版木の対比がおもしろく、連作ならではの迫力がある。
 息子の織里部さんの白磁は、おもに藍色を使ったシンプルな絵付け。自然の草花もあるが、数年前に大津に工房を移されてからは、幾何学模様の器も制作している。坂本にもちかく京阪電車沿線にある工房は、住宅地のなかにあるそうだが、琵琶湖畔まで一キロあまり、眺めの良いところだと話していた。愛知芸大の出身で関西から関東までフットワーク良く活動しているのがうらやましい。当然ながら、陶芸をやっていて“織里部”の名目はすぐに話題になるし、印象に残るだろう。ご本人によると小さいころは、時代劇みたいな名前でからかわれたこともあったが、いまは職業上プラスに働くことも多いから、慣れもあってまんざらでもなさそうな素振り。

 いろいろとそんな話を伺っていると、久しぶりにまた琵琶湖まで足を延してみたい気持ちがムクムクと募ってきた。とにかく別名“淡海“と呼ばれるくらいの対岸がみえない広大さである。その湖岸道路を一周ドライブして回るのはこの上なく気持ちが晴れ晴れするそうだ。
 佐川美術館の茶室から湖面を眺めたあと琵琶湖大橋をわたり、湖岸道路を走り坂本まで行って、そこからケーブルで比叡山頂まで上がっていて、大きな湖を俯瞰できることを想像してみる。それはどんなに爽快なことだろうか。(2021.11.4)


冬の夕暮れ Impressions

2019年01月24日 | 美術
 冬の晴れた空の澄んだ光りと冷えた空気の中、国道16号線を西に走り目的地へと向かう。市役所で所要を済ませ、久しぶりに郊外の「光と緑の美術館」へ行ってみようと思いたった。

 桜並木の大通りを正面にみえる大山方面にむかってしばらく走り、横山六丁目交差点を右折してやや下り坂を進む。左側に横山公園がみえてきたらその向かいの煉瓦とコンクリートで弧を描いた建物が目指す美術館だ。ネーミングがなんとも素敵で本当に?と疑ってしまうかもしれないが、住宅地にありながら正面が公園ということで視界が遮られることがなく、その名に恥じることのない佇まいは、開館してから今に至るまで変わらないのではないか。シャープなコンクリート壁面と深みのあるレンガの組み合わせ、三角に突き出た喫茶ルームのガラス窓の組み合わせが特徴的だ。
 駐車スペースから、くねったステップ通路を数段すすむと入口にあたる。二つある扉の間の大理石壁面に背中あわせで横になってうつむく姿勢のブロンズ女性裸体像が、二体取り付けられている。作者はわからないけれどこのアプローチの印象はなかなかのものだ。中に入ってみるとこじんまりとしてはいるが三室ある展示空間は、天井高が五メートル近くもあって、個人美術館のスケールとしては立派すぎるくらい。

 受付におかれていたパンフレットによると、オーナーは市内在住の不動産業を営むS氏である。1984年(平成6年.11.26)の開館とあるが、いかなる思いと経緯で開設に至ったのかはふれられていないのが少し残念だ。そのコレクションはというと、いずれも1900年代生れのほぼ同時代を生きた四人のイタリア現代美術作家作品が中心だ。その多くは単色の版画作品、数点の小彫刻、ゆったりとした展示がうれしい。ジャコモ・マンズーのやわらかな人物描写と色合い、エミリオ・グレコの女性の横たわった姿やときに男女が抱き合って愛撫する姿を素描している。重ねた黒い線が余白のなかで浮き上がってきて清楚でありながら艶めかしく、いっぺんで好きになった。受付前のコンクリート打ち放し壁面には、唯一の日本人作家(名前は覚えていない)大判版画作品が掲げられていた。モノクローム系の配色のせいか、好ましいくらいの控えめ加減が絶妙だった。

 展示室のすぐ隣にこじんまりとしたルームがあったので入ってみた。スタッフは五十代すぎの女性ふたりで、一見してセンスよく、アートの世界の雰囲気を漂わせている。入念にお手入れされた髪と肌に目鼻立ちがくっきり、すらりとした容姿なのだ。奥に席に座ろうとすると、こんどは金髪痩身の同輩女性の姿にびっくり、お客さんかと思ったらスタッフのようで、流暢な日本語を話しながらブラインドを下ろしてくれる。メニューはオーガニック、おいてあるチラシ類も気が利いている。そして壁にはクリムトの「抱擁」。
 そろそろと思って席をたち、ふたたび展示空間へと。この空間でもし版画に絞るなら、池田満寿夫や山本容子、それから田中陽子の作品をみてみたいものだと思う。谷川俊太郎と佐野洋子の詩画集「女に」や風景に絞ったモノクロ写真展示もすてきでいいな。植田正治やカート・マーカスはどうだろう? と、気分はすっかり、赤瀬川原平「個人美術館の愉しみ」の世界である。

 駐車場から見渡す建物全体をスマホカメラに収めて帰ろうとすると、先ほどの金髪女性がでてきて、気になっていた濃いグレーのマツダスポーツカーに近づくはないか。やっぱり、優雅なマダムライフを謳歌しているのだろうと勝手に想像は膨らむが、とにかく暮れる前に帰路につこう。そう思って走り出ししばらくするとすぐ後ろから低い車高のマツダカーが走ってくるのに気がついてびっくり、あのマダムの運転姿である。なんともセクシーでカッコ良すぎる!
 しばらく後ろについてきたので、ひょっとして同じ16号線を横浜方面かと思っていたら、多摩ナンバーのその車はやがて交差点を左折し、さっそう?と相模原駅方面へ去って行ったのだった。2019年冬、夕暮れのインプレッションズ!



 Light and Greenery Art Museum エントランス壁面ブロンズ像(2019.01.24)

デュシャンの向こうの日本、芸術と日常の間にあるもの

2018年12月30日 | 美術
 さきの「マルセル・デュシャンと日本美術」第2部タイトルは「デュシャンの向こうに日本がみえる」となっていて、フライヤーのコピーには次のように記されている。
「Q.花入と便器の共通点は?」「美術(わざわざ“デュシャン”とルビがふられている)は見るんじゃない。考えるんだ。」
 まあ、デュシャンと日本の伝統文化との対比において共通の水脈を見出そうとする、いささか大胆とも想われる企画意図が伺える。はたして、どうだったか。

 もっとも一般的に有名な“泉”(1917)は、カッコ書きで「レディメイド」と付記されていて、これはなんなのだろうとずっと思っていた。ムンクの“叫び”と同様、“泉”はデュシャンの代名詞として、しばしばパロディの対象にすらなっている。かつてデュシャンが“モナリザ”の複製写真に髭を書きこんでパロディ化したことを思うと、これは皮肉な現象なのだろうか、それとも喜ぶべきことなのか。
 また、この“泉”は、今回の展覧会のアイコンとしてデザイン化されてもいて、ソフト帽子もしくは、サン・テグジュペリ「星の王子様」にでてくる、象をまるごとに見込んでしまった“ウワバミ”のようにも見えてうなってしまった。まあ、既成の美術概念をまるごと飲み込んでしまったという意味では、本質を突いた秀逸なデザインだと思う。

 レディメイド=既製品、ありふれた日常品、といった意味で、芸術品のオリジナル、唯一性とは対比の概念になるだろう。いってみれば、レディメイドの小便器に偽のサイン「R.MUTT 1917」としただけで、芸術品と称し提示してみせたところに、とりすました権威的美術界に対するデュシャンの挑発性を超えた衝撃があったといえるだろうか。でも、一般の日常生活者からみれば、だだのありふれた小便器にすぎないのが可笑しい。

 ふりかえってみるに初めてデュヤンの名前を知ったのは、大学生のときに手にした池田満寿夫(1934.2.13-1997.3.8)よる「摸倣と創造」(中公新書、1969年)だった。芸術と非芸術について、すでに華々しく活躍中だった俊英芸術家が論じたこの小冊子の中で、繰り返し強迫神経症のように取り上げられていたのがデュシャンであり、終章はそっくりデュシャンを通した現代芸術のありかたにあてられている。ここに印刷された“泉”の写真は、今回の出品物(レプリカ 1950)とかなりちがう。便器は薄汚れてかなりの年季ものように見える、また便器周囲の縁の曲がり具合が大きく、小便を流す穴の配置と数も異なっている。レプリカのほうは妙にのっぺりして白く光ってみえるのだ。両者の違いは、“泉”はオリジナルのモノから離れて、抽象、観念の産物であることを示している。

 ここで改めて新書の頁をめくっていたら、おもしろい記述を見つけた。著者がフィラデルフィア美術館でデュシャンの膨大なオブジェを見た時のことを次のように記述している。
「正直言って、私は失望したのである。美術館にいるというよりも“博物館”にいるといった感じが強く、当然芸術作品から受けなければななないある種の崇高さの感情からすっかり私は見放されてしまっていた。デュシャンのオブジェはあまりに物体でありすぎたのだ。」
 なんとも正直で率直な感想であり、今回の展示が奇しくも博物館でおこなわれたことにつながってくるではないか。池田は、この衝撃がひとの感覚の作用でなく「言葉」(観念)の問題であることを知る。オブジェを人間の目を通して脳が見ているのだ。芸術の価値とありきたりの日常をつなげるもの、あるいは隔てるものはいったい何なのか。
 
 デュシャンといえば、もうひとり忘れられないのが、この小冊子のなかでもふれられていた赤瀬川原平(本名は赤瀬川克彦、1937.3.27-2013.10.26)さんである。亡くなられてもう五年になるから、来年が七回忌だ。ともに芥川賞作家(受賞は1977年池田、1981年赤瀬川)であるが、1970年代における世間的な立場はスターとアウトサイダー、評価は大いに異なっていた。ふたりの芸術家としてのスタンスの違いもあれこれ興味深いが、そのことは別の機会にしよう。
 赤瀬川さんは、五十代のころに書いた「千利休 無言の前衛」(岩波新書1990年)で、デュシャンにふれている。小便器を“泉”と命名して鑑賞した行為は、日本の伝統文化における“見立て”の思想に通じなくもない、と。とすれば、デュシャンは日本における千利休のような存在か。
 西洋の目が小便器を泉に見立てたならば、日本の目では、利休と秀吉の関係になぞらえて、夏の早朝の一輪の朝顔の花に見立てるのが、ふさわしいだろう。便器に放たれた小便の飛び散りは、花弁についた清々しい朝露のしずくと思えば美しいだろう。

 この冊子の終章で赤瀬川さんは、かつて池田満寿夫が突き当たった芸術と「言葉=意識」の問題をさらに超える考察、人間と自然の関係から導き出された“無意識”に焦点があてられていること、いってみれば“偶然”、閃きや直観という要素の重要さを指摘している。
 「直観とは言葉の論理を追い抜く感覚にほかならない」(赤瀬川)
 「侘びたるはよし、侘びしたるは悪し」(利休)
 と続き、そのさきは仏教でいうところの他力本願思想につながっていき、いたく感動させられるのだ。「偶然を待ち、偶然を楽しむことは、他力思想の基本だろう」と説く。「他力思想とは、自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら、人間を超えようとすることではないかと思う」と結ぶ。


 Fontaine“噴水”(2018)、竹一重花入 銘 園城寺 天正十八年(1590)

追記;さてこれで「デュシャンと日本美術」展をきっかけにして、長年気になっていたデュシャンと池田満寿夫、赤瀬川原平、千利休の三人の日本人を語ってみた。はたして落語の三題噺よろしく、なんとかつながっただろうか。



 

デュシャン、デュシャン、デュシャン

2018年12月20日 | 美術
 ようやくのこと、上野の国立博物館平成館でひらかれていた「マルセル・デュシャンと日本美術」展の最終日に足を運んできた。

 会場までは、自宅から小田急線経由で地下鉄千代田線に乗換えたら、湯島駅で地上に出るルート。ビルの合間から覗いている不忍池の端っこをかすめるようにして、上野恩賜公園の正面入り口のゆるやかな坂道を上っていく。冬のさえて晴れ渡った青空のもと、枯れたハスが不忍池水面を覆い尽くしていた。ひと冬のあいだの沈んだ死を連想させる水墨画のような世界がこの日の展覧会前奏にふさわしく、やがてそれは春に向けての再生願望へと連なってゆく。

 道すがら清水観音堂を右手にみながら、春は桜が美しい韻松亭、不忍池が一望できる西洋料理のさきがけである精養軒、すこし離れて伊豆栄梅川亭といった老舗をやりすごす。石灯籠が並ぶ参道の先の東照宮を過ぎて目に入ってきたのは、上野の森美術館「フェルメール」、東京都美術館「ムンク」、国立西洋美術館「ルーベンス」展といずれも巨匠だらけの展覧会看板で、こんな目を回すようなところって上野の森以外いったい世界のどこにあるのだろうと思う。
 それはともかくお目当の展覧会会場、岡倉天心や森鴎外ゆかりの東京国立“博物館”であるのがいい。M.デュシャン(1887-1968)のオブジェには装置空間としてのいわゆる美術館よりも、古典的な博物館のほうがモノとしての象徴性がきわだってくる。ともかく実物を見て確かめておかないときっと後悔する、そう思っていた。
 今となっては、伝説を目の当たりにしてあれこれ考えを巡らして謎が解けたわけではないけれども、伝説は謎かウワサのままであっていい、とすこし安堵した気持ちになっている。
 
 この展覧会第一部は、四章建ての構成で章ごとにいくつかのみどころがある。最初のコーナーでは“画家としてのデュシャン”の「絵画作品」をみることができる。印象主義からフォヴュスム様式までの額縁に収まった油彩画の数々は、デュシャンにもこのような美術史における系統発生をたどる遍歴があったのかと妙納得させられつつも、妙な気分になる。いくつかの描かれた風景画は美しくとても新鮮な印象だが、このままであれば、デュシャンは伝説の存在とはならなかっただろう。
 あの「階段を降りる裸体No.2」もいま見れば、青を基調としたおとなし目の表現で、発表時(1912)に大スキャンダルとなったという驚きを感じることはむずかしい。すべてはときの流れの中で相対化されて、絶対的なものなど存在しないのか、といった気分が支配的になってしまっている。
 第二章は、1920年代以降のデュシャンをデュシャン伝説のイメージたらしめた“泉”をはじめとするレディメイド作品の陳列がつづく。“泉”をしげしげとまわり込んで眺めてみたが、縁の部分に「R.MUTT]とサインが入った白い男性用小便器は、泉というよりも、日本でいうところの“朝顔”という俗称がふさわしい気がする。おかしなことに、この“泉”をみるたびに田舎の実家の古いそっくりな小便器を思い出してしまう。
 第三章は、謎めいた“ローズ・セラヴィ”や映像遊びとテェス・プレーヤーの世界だ。すでにこのころは美術界で華々しく成功した有名人となっていたM.D.だから、世俗的な欲望はもう超越していて、余裕すら感じてしまう。

 最後の四章の≪遺作≫欲望の女 がもっとも秘密めいてエロスの匂いが満ちている。M.D.らしいと感じたのは、その作品につけられたタイトルにある。「1947年のシュルレアリスム」「雌のイチジクの葉」は、それぞれ男性器、女性器らしきを写し取ったもので、「排水栓」「オブジェ・ダール」なんて半分悪ふざけみたいな、わけのわからないものもある。
 もっとも謎めいていたのは、遺作の「与えられたとせよ 1.落ちる水 2.照明用ガス」だ。これは作者の死後、望み通りにフィラデルフィア美術館内の所定空間へと移設された。そこでは、木の扉にあけられた二つのぞき穴の向こうに、草むらに横たわった裸体の女が大股をひろげ、片手に瓦斯ランプを掲げている。草むらのなかの白い肢体なのか死体なのか股の割れ目には、ひとすじの陰毛らしき黒い影が見える。そして、首から上の顔部分が見えないのは、草むらに沈んでしまっているのか、なにかの事件でなくなってしまっているのか。そのむこうの森の先に目を凝らしてみると、渓流にかかった滝が水しぶきを落とし続けているのがわかる。
 この全体が醸し出しているのは何だろうかと考えてみるに、漂ってくるのはエロスと死の濃厚な匂いだ。ランプの灯りと滝から流れる水は、東洋的な輪廻転生の世界を彷彿とさせる。

 初めに還って、公園の入り口のビルの森の向こうに見えた不忍の池冬枯れ水墨画の世界が、この≪遺作≫にふさわしく、デュシャンへとつながってくるような気がしてくる。思うにM.DUCHMPは、自らの存在を謎の物語仕立てにしていった節があり、いってみればその思想と産み出された作品は、“タマネギ”のようなものである。謎を剥いても剥いても、芯=真、解はでてくることがないだろう。これまでも、これからも、永遠の伝説として解はないのだろうから。


 M.D.の肖像大パネルをみる博物館展示室最終日12.9の観客たち


 美術館移設前のNY11丁目アトリエにあるM.D.≪遺作≫(1968) 
 デニス・ブラウン・ヘア(撮影)

越後妻有郷 大地の芸術祭 

2018年09月04日 | 美術
 昨日から台風21号が関西を北上していて、朝からその余波で断続的に横殴りの雨がふり、突風がふきつけて木立ちを揺らし続けている。今夜、日本列島をぬけて明日からはまた残暑がもどってきて厳しくなるようだ。

 今週末、都内で「ふるさと回帰フェア2018」という催事があり、そのオープニングとして「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2018」総合ディレクターの北川フラムさんの講演会を有楽町まで聴きにいくことにしている。それにしても芸術祭会期中なのに、いやだからこそだろう、その超人的なタフさにはあらためて畏敬の念を抱く。肉声のフラムさんは、現地の熱気を運んで何をかたってくださるのだろうか。
 それにしてもおもわぬ台風続きで越後妻有地域も風雨にあてられ、里山でのアート巡りには少なからぬ障害が生じてしまい、後半の入れ込みにも影響がでているだろう。けれども酷暑もそうだが、自然の天変地異すべてが織り込まれたありようが、ひとをアートを道しるべに五感をひらく旅へと誘うのであって、「人間は自然に内包される」というテーマを掲げて始められて二十年近くになる「大地の芸術祭」のほんとうの姿を著わしていると思う。

 開催にさきだつ七月のはじめ、この朝日新聞にカラー刷りのJR東日本びゅうトラベルの全面広告が掲載された。イラスト入りの越後妻有マップ、家族の姿がレイアウトされた、この夏の芸術祭を紹介する内容でなかなか魅力的なものだった。惜しむjらくは、日帰りではなく宿泊してこそ体感できる愉しみを前面に押し出してほしかったが、作品のピックアップ12点と食の魅力もかなりくわしく伝えられていて、よく制作された紙面で広報媒体としても画期的だと思った。

 また、先日のNHK「日曜美術館」でこの芸術祭が特集されて、いくつかのアート作品とアーティストの姿と声、地域の協働作業の様子が放送され、それはとても興味深く、地元の方々と制作者の会話など印象深いシーンもいくつか流された。
 とくに印象的だったのは、2009年から津南において地域とひとと協働作業で作品を制作している、台湾からのアーティスト、リン・シュンロンさんが、片言の日本語でしずかに語っていた「この大地の芸術祭は“ゆるやかな革命”です。」という言葉だろう。これまでの継続があってこその実感に裏打ちされた重みがある。「いまの社会は、効率第一になってしまっているが、地域はゆっくりと変わらなければいけない。」

 中谷ミチコの「川の向こう、船を呼ぶ声」という魅惑的なタイトルの広い壁一面に掲げられた彫刻作品は、その背景のエピソードも雪の中の厳しい暮らしを生き抜いてきた地域のひとの姿、暮らしの営みを彷彿とさせてしずかに感動的だった。わかくて華奢な印象の作者と作品のモチーフとなる昔の暮らしを語ってきかせたという老夫婦が作品の前で出会って交わす会話に味わいがあって、じんわりとする。

 とおく信濃川河岸段丘にたつ送電線鉄塔(首都圏山手線を動かす電力、里山に日本の現実をみる)が望める斜面にひろがる一面田圃のなかの道両側にならぶ二百本の素朴な竹製鳥よけ風車「カクラ・クルクル・アット・ツマリ」。ふきぬける風に軽やかな音を奏でて、作者ダダン・クリスタントのふるさとインドネシアバリ島の風を運んできて越後妻有とつながる。
 大学生の夏にはじめての海外旅行で訪れたのがバリ島で、乗ったのはガルーダ航空、現地で見た椰子の実越しの棚田の夕暮れの情景、寺院境内バリの民族ダンス、ガムランの響き、その空気と熱い匂いの記憶が蘇る。

 磯辺行久「川はどこにいった」は、広大な田園風景のランドスケープ、越後大地を流れる信濃川のいにしえの姿を視覚化し、かつての川の流れに沿った黄色の木製ポールが連なり、風にハンカチのような黄色の三角旗布がなびく。芸術祭初回2000年以来の情景が今夏再制作されて蘇った、この芸術祭のテーマ的なモニュメントのひとつだ。自分にとって懐かしい風景と映るのは、初回のときにたまたま目にしていたからで、たんぼの中のあぜ道を歩いてみて体感している。同様のコンセプトで制作された2015年「土石流のモニュメント」は、三年前の酷暑のもと汗をかきながらながめている。自然のエネルギーに圧倒され、土木工事の巨大な鋼鉄製円柱ドラムと一体化したような記憶に残る風景だ。

 残りの会期、稲穂が実り、頭を垂れはじめるこれからの秋晴れの田園風景のなか、おおくの人が現地に足を運んでその魅力を体感、実感してほしい。


「カクラ・クルクル・アット・ツマリ」ダダン・クリスタント/インドネシア(2009~)
バンプーに取り付けられたブリキ製風車がまわると、乾いた音を響かせ、農民と水牛が田圃を抄くさまざまな姿の仕掛けがいっせいに動きだす。その情景のなんともいえない素朴な微笑ましさ、懐かしさよ! そのたんぼ、稲がなびくみどり一面のさきの段丘には、首都圏への送電線鉄塔が小さくならんでみえる。こんな里山にも都会というものは!
 眼のまえ、吹き抜ける風が鳴らす音の中、あいだの道をあゆむひとの日傘の後ろ姿をまぶしくみつめていた。


「ライトケープ」マ・ヤンソン/MAD アーキテクツ 中国(2018)
 清津峡トンネル内の終点にある見晴らし場所に、改修であたらにできた。溪谷をのぞむ床面の水盤鏡に溪谷の風景が反転する。天上はステンレス板でおおわれ、朝夕のひかりで様子が異なるであろう万華鏡のような幻想世界。そこに立ち尽くすひとの姿が静物になる。家族連れにも人気のようで、外国人の姿も目立った。
 

永遠に、そしてふたたび、ひそかに、そっと(やさしく)

2018年05月27日 | 美術
 富士山麓の美術館リゾート、クレマチスの丘へ行ってきた。東海道線三島駅北口から、無料シャトルバスに乗って約二十分余り、東に箱根連山、南にひろがる市街地を見下ろす風光明媚な丘の中腹におりたつ。したたるような若葉が目に飛び込んできて、澄みきったひかりがまぶしくみちていて、まるで別天地のようだ。

 欅の木陰のさき、IZU PHOTO MUSEUM の入り口がある。そこでの五人の女性作家による写真および映像の企画展をみてまわる。「永遠に、そしてふたたび」、意味深なタイトルだ。英語表記だと「Forever(and again)」とあって、時の流れと記憶がうみだすところの生き続ける物語が共通のテーマとなっていることをあらわしているのだろうと想像する。
 わたしの印象に残ったのは、川内倫子(1972生まれ)と長島有里枝(1973年生まれ)の写真。前者が自身の祖父母を中心とした滋賀の家族とその風景を十三年間にわたって撮り続けたもので、後者は長島がスイスに滞在していたとき、祖母のとった花の写真からインスパイアを受けて、当時の生活の周囲にあった花々を写し取ったものである。いずれも血のつながりのある家族の積み重ねられた記憶を、庭に咲く花や畑の野菜、日常のさりげない人物像と室内外の風景から物語ろうと試みている。
 ちなみに川内倫子の作品集タイトル「Cui Cui」は、フランス語で小鳥のさえずりをあらわすそうで、さりげない日常のなかに流れる永遠であろうとする記憶のかけら、の隠喩なのかもしれない。
 見終わって建物をでると、すこし離れたところからウグイスの鳴き声が聴こえてくる。丘に流れる空気がさわやかだ。真っ青な空を見上げると、ぽっかりと浮かんだ雲と眉のようなかたちの白い月影がかすかに見える。
(死して記憶の中に)永遠に、そしてふたたび(物語のなかに生きる)。これらの自然と風景のなかに自分が同化していくような気がして、友人の「ほら、このスマホ画像の三日月ってわたしたちなら、わかるね」っていう呼びかけに、はっと我に還ったのだった。そして「空をななめに横切る送電線、まるで五線譜みたいだね」って。これから、どんな音符を書き記そうか。

 ロータリーのむこう、木木に囲まれたガラス張りのレストラン「テッセン」で日本料理の昼食をとる。ひとやすみしてから、案内所横のスロープをのぼったら、一気に前方の視野がひらけた。なだらかにひろがる芝生広場や石畳のなかに赤味の巨大な石像やブロンズ彫刻が点在し、そのさきには、シャープにスカイラインを切り取って、コンクリート打ち放しのヴァンジ彫刻庭園美術館がつづく。
 この丘の高低段差を活かした敷地全体のランドスケープデザインは、じつにうまくできていて遠方の山並みもとりこみ、実際の広さ以上の視覚的効果をあたえてくれる。
 クレマチスガーデンは、その広場周囲と美術館をおりた先にもひろがる。前回におとずれた早春の時は、まだ花には出会えなくて残念な思いだったが、ちょうど今の季節は見頃の紫、白、赤と花の姿形もさまざまでほんとうに華やかだ。すこし盛り上がった丘の上のクスノキの木陰のベンチにたたずむと、さえぎられることのない箱根連山の風景、天空、自然にこころが高揚してくる。すこしむこうには、空の色を映す睡蓮の池とローズガーデン。

 満たされた気持ちのなかで、いまを咲き誇る花々を愛でることのこのうえない贅沢さ!これから夕暮れまで、まだ時間はあたえられている。三島方面にもどって、せせらぎと湧水の記憶をたどりながらゆっくりとまちなかめぐりの散策をしよう。ひそかに、そっと(やさしく)、どんな新しい物語を生きようか。
 

クレマチスの丘、ヴァンジ彫刻庭園美術館入口と石畳広場(2018.05.20)

 あとで気がついたら、そのクレマチスの花々を撮ることさえすっかり忘れていた。でも、その情景と空気感覚は、しっかり脳裏の記憶として深まり、焼きついている。そして花を愛でるように(顔をよせ)、小鳥の羽ばたきのような(気配に耳をすまし)、小石がころがる川のせせらぎのような(感触をたたえた泉をたどり)、ささやかにはじまる交歓のひとときを忘れない。

イサム・ノグチの野外彫刻

2018年04月04日 | 美術
 昼過ぎの葉山しおさい公園をぬけて、そのとなりにある神奈川県立近代美術館を訪れる。ゆったりとした敷地のさきに一段下がったひろい駐車場があり、建物の外観には海と山からの陽光がきらめくように映えて、二階建ての白い箱型の典型的な現代モダニズム建築だ。
 正面から明るく軽快で開放的な受付ロビーのさきに展示空間が続く。その日は、現代日本画家の「堀文子展」最終日にあたっていた。伝統的な花鳥風月を描いたものに加えて、絵本の挿絵として描かれたものが多数あり、自分の年齢相応なのだろうか、落ち着いた構図にきれいな色使いが目の保養になる。やはり圧倒的に女性層が中心のようで、数人の女性グループ、熟年夫婦と若いカップルといった雰囲気である。

 展示室をぬけると、廊下沿いのおおきな硝子越しに花崗岩張りの中庭がのぞめる。その真ん中、円形の芝生地に置かれた二体並んだ後ろ姿の石像が目に入る。どこかで何度か目にしているようなフォルム、もしかしてと思い、庭にでて正面の位置へ移動して眺めると、やっぱりイサム・ノグチの彫刻作品だ。ふたつの石像は男女のカップルを象徴していて、男は女にほうに左手を伸ばし、横長の顔をした女のほうは、その胸部がふっくらとふたつふくらみ、左乳房の脇下あたりを男に抱きとめられている。やわらかな表情は微かに微笑むかのようだ。ふたりは中庭から山の方向、三ケ岡山の緑にむかってたつ。
 その作品は、たしか≪コケシ≫といったような、と思いつつキャプションを確かめると、≪こけし≫(1951)とある。鎌倉八幡宮内にあった美術館の黒石板張りの中庭で、市松模様の大谷石のブロック壁を背景に何度も目にしていた姿だ、そこから台座ごと移設されてきのは、いつのことだろう?そう思っていたら、同行のMが、館内におかれていた小さな冊子を渡してくれた。「たいせつな風景」と題された、美術館発行のたより24号には「特集:彫刻のある風景」とある。いま、その冊子を手にしている。
 それによるとこの彫刻が最初に鎌倉館に運ばれたのは、1952年に開催された「イサム・ノグチ展」であり、当時鎌倉の美術館中庭にはロダンの作品が置かれていたという。意外にもイサム・ノグチの≪こけし≫は、何度かの変遷をへたあと1991年になってから修復されて、新しい現在の台座(これは和泉正敏の作)とともにようやく中庭に設置されたのを初めて知った。それまでは、鎌倉館の開館以来ずっと周囲の環境とひそかに対話を続けながら、あの坂倉準三の設計した鎌倉館の中庭に馴染んできたとすっかり思い込んでいた。それくらい自然に鎌倉の風景として馴染んでいたのだろう。

 そして、2016年3月の鎌倉館閉館にともない、この彫刻もふたたび移設されて、いまはここ葉山の中庭に静かにたたずんでいる。うまく自分の中で、すこし馴染まないところがあるのは、鎌倉の記憶がまだ残されているからだろう。しかしながら、はじめてのひとにとっては、この風景はもうなんの違和感もないようだ。ふたつの石像の愛らしい姿に、記念スナップを取り合っている若い無邪気な女学生たちがなんとも自然にのびやかで微笑ましい。ここ葉山の海と山の風光にすっかりなじんでいるかのようだ。

 おなじイサム・ノグチ彫刻であっても、鎌倉と葉山での≪こけし≫印象は、その置かれた周囲の環境との関係により印象が異なって、それがまたとても不思議で興味深い。“たいせつな風景”とは、ひとの記憶の中で対話を繰り返すことで成長していく、自然な関係性のことだと思う。
(2018.04.04初校、04.05追記)

 
 中庭で夕陽をあびる≪こけし≫1951。万成石像(鎌倉1991-2016、葉山2016-2018)

”my sky hole 88 .4” と東山 “哲学の庭” をつなぐ彫刻

2017年08月13日 | 美術
 六月末の文章に、芹が谷公園入口のレンガ敷きのスペースに鎮座する巨大なステンレス製球体彫刻”my sky hole 88 .4”のつぶやきを聴きに出かけたことについて記した。
 この球体彫刻シリーズはいくつかあるらしく、そのひとつ上野公園内東京都美術館入口広場に置かれている”my sky hole85”と芹が谷の球体が同類であることに気がついたときに、芹が谷と上野のふたつの公園が時空を超えてつながった。ふたつの公園は、台地の縁に起伏をなしていて、樹木豊かな園内にはレンガで覆われた美術館が存在していることも共通点だ。この一致は、おそらく彫刻作者自身も設置者も意識したことではなく、偶然のなせる必然だったと推測され、人智を超えたおもしろいことの具体例だと思う。
 作者の井上武吉(1930-1977)は、奈良県室生村生まれで武蔵野美術学校に学んだ彫刻家だ。赤瀬川源平(1937-2014)や中西夏之(1935-2016)、高松次郎(1936-2010)、荒川修作(1936-2010)、河原温(1932または33-2014)といった前衛アートの旗手たちよりもすこし上の世代に当たる。井上はもっとも年上で、ルーツが都会やその近郊でなく、純田舎派のモダンアーチストということになる。
 
 最近、立て続けにその井上武吉について知ることとなった。きっかけは、朝日新聞8月8日付の夕刊記事「アートトリップ」である。この欄に井上の遺作“水面への回廊、琵琶湖”の情景が、大津城と港の歴史とともに以下のように紹介されていた。
「湖に向かって、高さ6メートルの列中を左右に一八本づつ配したアプローチを進むと『石のシンボル彫刻』を経て砂利式の円形広場に出た。中央に一本のクスノキがたち階段貯穀に囲まれた空間は、古代ギリシャの遺跡のようだ。」
 いささかベタな表現で記述された内容からは、この作品空間の魅力が伝わりにくい気がするが、それでも実際に足を運んでみたい気にはさせられる。一昨年の冬、このすぐ近くまで出かけながら、その作品広場までたどり着けなかったことが悔やまれる。それも仕方なし、なにしろそのときは作品の存在や井上武吉の名前すら意識していなかったのだから。もし、足を踏み入れていたならば、その印象はかえってよりピュアなものとなっただろう。

 その関連でいろいろとネット検索をしてみた。この作家の一般的な知名度は決して高くはなく、評伝的なだぐいのコンテンツが出てこないと諦めかけていたら、ある建築事務所のHPで思わぬ写真付きエッセイに目が停まった。そこに「奈良が生んだ彫刻家・井上武吉の“哲学の庭”と題された一文があり、四年ほど前にウエスティン都ホテル京都に停まった際、ひとり早朝に部屋を抜け出し、偶然に見つけた中庭の写真が添えられてあって、はっとさせられたのだ。

 家族旅行でこのホテルに泊まったのは、ひとえに建築家村野藤吾のモダン和風建築の傑作“佳水園”を目当てに、館内に遺された意匠の面影を探し求めてのことだった。ひとり早起きして園内の野鳥の小道をのぼり、東山からの市内遠望を楽しんだ後、館内探索に歩き回っている途中の見つけたこの幾何学的なモダンな庭は、だだものでない気配を漂わせていた。いささか古びてはいたが、これも村野?、それとも昭和の作庭家、重森三玲かとおもわせる段差のある立体造形のキレの良さ。人工池に落ちる長い石の水路からのひとすじの流れ、白洲と刈り込まれた植栽のコンストラスト、驚きだった。

 なんの予感もなく、その場には説明版もなく(有名な佳水園には立派な説明版があった)、予備知識ゼロで出逢うことのできたこのモダン庭園の設計者こそが、彫刻家・井上武吉だったのである。芹が谷公園の”my sky hole 88 .4”と京都哲学の道ならぬ東山山麓ホテル内の幾何学的“哲学の庭”がここにつながった瞬間である。

 これでまたいつか京都・琵琶湖周辺に旅することの楽しみが増す。京都タワーからの眺望、村野藤吾のホテルに藤井厚二の聴竹居、W.M.ヴォーリズ建築、円山公園の洋館長楽館、小川治兵衛に重森三玲の庭園、ああ、いつ訪れることができるだろう。 


2017年夏至 ”my sky hole 88 .4”

2017年06月30日 | 美術
 そのステンレス製の球体彫刻は、まほろ公園の中の小径入口にあって、レンガタイル床の展望広場の中心に佇んでいた。あふれる木々の緑に囲まれた所に立ってみると、初夏の深い森を上から覗き込むような、そんな錯覚にとらわれる。
 
 金属球体の表面は、周囲の空と森を映した地球儀のよう。この球体のある展望広場から下っていくと、薄ベージュ色レンガの躯体と薄青緑色屋根の版画美術館へと至る斜面の小径。その球体の中心を貫いて、前方斜め上方向、天空に向かって穿たれた空洞がある。球体彫刻の名前は、”my sky hole 88.4”、数字は時の流れを記憶しているとすると、来年がこの森にきてから三十周年になるのだろう。

 深夜になって森の暗闇と静寂のなかで、その金属球体は穿たれた空洞の先に北極星を捉える。球体の表面に映した森の影と星座に触れてみる。金属球体は微かな振動を帯びていて、それは天空を超えて遥か上野の森と交信を行っている。上野の森にあるレンガの美術館の中庭には球体彫刻の分身が鎮座していて、多摩丘陵のさき、ここの森の中の球体彫刻からの振動に共鳴しているのだから。

 森のざわめきの中にかすかな湧水の流れが聴こえる。夜行性のふくろうが獲物を求めて、展望台のさきの大木の伸びた枝の影にたたずんでいる。遠くで私鉄電車の終電が通り抜けていく音がする。

 夏至の日、一年で一番夜の時間の短いその当日、森の展望台広場の球体彫刻は、天体観測の安息日を迎える、翌日からの夜の時間の長さの回復を祈って。

(2017.06.25書出し、06.30 初校)

東京都美術館 ポンピドウー・センター傑作展

2016年09月24日 | 美術
 上野公園の東京都美術館で開催されていた「ポンピドウー・センター傑作展」を見に行ったのは先週木曜日の15日のこと。なんだか、もう一か月くらい前のことのようにも思える。

 そこまでのアプローチから思い起こしてみよう。
 家を出たのが九時前で、小田急線を利用して代々木上原から地下鉄を乗り継ぎ、上野駅まで約一時間半ほど。古い構内の出口に向かってゆるく傾斜した通路を歩くと公園下地上口。そこから目の前の通りを横断して正面の飲食ビルを上がると、西郷ドンの銅像横に出た。ここからむこうは、もうずうと広大な上野公園が広がる。
 清水観音堂と上野の森美術館の間をぬけていけば、東京文化会館大ホール奥屋の壁面を正面に見ることになる。その脇を抜けたさきの右手に、国立西洋美術館が姿を現す。世界文化遺産登録騒ぎまでは、正直そんなに魅力的に見えることはなかったのに注目されてからは、落ち着きの中に華やかさも誇らしさも放っているように感じてしまう感覚は不思議なものだ。半ば神格化されたル・コルビジュの設計、1959年に竣工しているが、その図面は意匠スケッチのようなものであり、寸法すら表示がなかったというから驚きだ。
 実際の設計にあたったのが三人の日本人愛弟子であるのは、関係者にはよく知られているが、一般にはどうだろうか。ともあれ、コルビジュの受容した日本文化が反映された基本プランを、日本人がいかに翻訳して現実の建物に反映していったかの過程とその帰結が、目の前の世界遺産の価値と言えるのではないだろうか。

 噴水広場を横目に見て進めば、赤レンガの東京都美術館が見えてくる。手前に置かれた球形のステンレス製オブジェ、これって町田市立国際版画美術館のある公園入口にあるものとよく似ている。もしかして同じ作者だろうか?表面には美術館周囲の風景を映し込んで、なかなか効果的な配置となっている。
 コの字型にレイアウトされた建物は半地下広場から入場するために階段を下る。右手が企画棟、左手が公募等と分けられていて、中央がロビーとレストラン、カフェ、ショップなどの交流棟となっている。地下広場の周囲は柔らかなアーチで構成され、コンクリートで打ち放し、はつり面は薄く透明な黄土色がほどこされていて、全体に柔らかで上品な雰囲気を醸し出している。

 さて、展覧会のほうはどうか。副題に「ピカソ/マティス/デュシヤンからクリストまで」とあって、現代アートの巨匠の名前がずらり、センターの収蔵する20世紀美術作品を俯瞰する展覧会であることを示している。1906年デュフィ以降、一年一作品を制作年に並べて同じ作家は登場しないという特異な構成の仕方。地階フロアは1934年J.ゴランまで、一階が1935年ピカソ「ミューズ」から1959年の雑誌コラージュまで、二階が1960年アルマンの「ホーム・スイート・ホーム」(ガスマスクを集めた作品に皮肉を込めて)から、1977年センター開館までを並べている。1913年はデュシャン「自転車の車輪」、シャガール「ワイングラスを捧げる二人の肖像」は1917年、カンディンスキーにアレキサンダー・カルダーのモビール、マリー・ローランサンも戦前の作品がえらばれている。戦後はマティスにビュッフェ、ジャコメッティ、1961年がクリスト「パッケージ」と巨匠オンパレードは続く。
 年代が下がるほど、絵画・彫刻・オブジェ・写真・映像・建築模型と表現の多様化が加速する。会場構成を担当したフランスを拠点にする建築家の田根剛は、フロアごとに展示壁配列と壁色を変化させ、年度単位で作品を対照する繰り返しの構成となっていて見飽きさせない。各フロアごとの年度の区切り方に深い意味はなさそうで、単に作品と展示スペースの物理的関係によると思われる。

 ところで日本人にとってのポンピドウー・センターとは、あらためてどんな存在なのだろうか? ループル美術館と並ぶ存在ながら、その内実はあまり知られていないのが実情だろうと思う。今回の展示の最後に、建築当時の記録映像を映すスクリーン、余り知られていない裏側の様子も見ることのできる!センターの模型とイタリア人設計者のプロフィールが示されているが、センターが国立総合文化施設であり、計画された当時の大統領名を冠した建築である事実以外は、くわしく説明がされていないのが不思議だ。ポストモダン建築物としての構造配管設備がむき出しになったガラス張り長方形の外観のみがよく知られたイメージで、完成した当時はセンセーショナルな話題を呼んだというが、その内実はまるでフランス文化のるつぼかブラックホールみたいな存在の印象が残る。

 かつてその全域が寛永寺境内であった上野公園一帯は、まさしく江戸德川時代の遺産だ。その聖地が明治以降、どのように日本が西洋文化を受容してきたかを示しているかの集積地であることを考えると、今回の展示会とのとりあわせは実に興味深いものといえるのではないだろうか、そんなことを思って会場を後にする。