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まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

ボブ・ディランを巡るノーベル文学賞騒動と村上春樹はどう関係するか?

2016年10月28日 | 音楽
 昨今のボブ・ディランを巡るノーベル文学賞受賞騒ぎの中でふと蘇った記憶に、1980年ころだったか大学入学試験が終わった帰り、回り道をして田安門から北の丸公園に入って、日本武道館の脇を通りかかったその時に、正面入口真上に大きく「ボブ・ディラン武道館公演」の看板が掲げられているのを見かけた。そうか、今夜があの有名なアメリカ人歌手の来日公演が行われるのかと知り、ここに開演時間まで残っていてその歌を聴いてみたいような衝動というか、たまたま遭遇した同時代性にひどく興奮した思い出がある。

 また、ボブ・ディランの詞については、本屋へいくたびに晶文社から出されていた片桐ユズル、中山容両氏による「全訳詞集」の厚い背表紙を音楽関係書籍の棚で見かけては、その中身を確かめないまま気になっていたのだった。最近まで存在した京都の同志社大学近くの喫茶店「ほんやら胴」には、そのディランに代表されるカウンターカルチャーの匂いが濃厚に残っていた。その昔、京都へのフリー旅の際に、ヒッピームーブメント名残のある店の前を通りかかっては、その中を覗き込んでみたい衝動に駆られつつも、ついぞ果たせせないまま建物自体は消失してしまった。まったく、ボブ・ディランの存在の壁は高かったのである。
 いくつかの有名な曲、たとえば「くよくするなよ」「風に吹かれて」などは、カバー曲としてほかの歌い手による歌唱は聴いたことはあった。前者は、なんと70年代アイドル歌手シンシアこと南沙織のアルバムで取り上げられていて、実に素直な歌唱のシンプルないいメロディーだと感じたし、後者のほうは、この曲を有名にしたピーター・ポール&マリーの三人組によるものだった。何故かどうしても、作者本人のアルバムに向き合って聴いてみようとすることは、その後の三十六年の間ついぞなく、ディランの名前だけが心の隅に引っかかかったままだった。あの初期の頃のそっけなささえあるしわがれ声や時代に立ち向かう社会的な姿勢に勝手に気おくれし、苦手意識を持っていただけなのかもしれない。

 それが昨今の騒ぎのなかで、向き合うきっかけを与えられたというか、機が熟して時間の流れがその気にさせてくれたのか、ようやく先週末に「フリーホーリン・ボブ・ディラン」を手に入れて聴きだしている。これは1963年5月発売の二枚目のアルバムで、「風に吹かれて」、そして「くよくよするなよ」といった、よく知られる曲が含まれている。なによりも、アルバムジャケット写真が当時のブロンド長髪の恋人と手を組んだ姿で、雪の積もったニューヨーク街頭を歩く若き日のディランを捉えているのが興味をひく。アルバム裏写真はさらにそのアップで、よくディランがこの写真の使用を了解したものだと不思議に思えるくらい、いまも変わらぬ普通の二十代前半の恋人どうしの微笑ましい姿だ。その愛らしいイタリア移民系の恋人、スーズ・ロトロこそがディラン本人に公民権運動とのかかわりをもたらし、人種差別や反核運動に関心を持たせた存在だった。その女性は、数年前に此の世を去っていると知った時に、やはり時代の流れの中の感慨を覚えずにはいられない。
 ノーベル文学賞のニュース映像の中には、当時の面影がいまも残るこの通りから中継をしてる局があって、なかなか気が利いていると感心してしまった。もしかしたら、音楽ファンの中でこの通りは、ロンドンのアビーロードスタジオ前通りと並んで、ニューヨークではもっとも有名な通りの光景、観光名所になるのかもしれない。

 さて、そのアルバム、収録曲訳詞は、すべて片桐ユズル氏によるもの。
 この中の「はげしい雨が降る」が聴いてみたかった曲のひとつで、村上春樹が36歳の時の書き下ろし「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」(1985年6月発行)に引用されている、と今月中旬の「天声人語」に紹介されている。当時のキューバ危機によるアメリカとの緊張が高まり、核戦争が現実性を増す中で作られた曲であることは、この小説を構想するムラカミハルキの頭にもあったのだろうと想像するに難くない。そうであれば、当のディランが受賞したのだから、次のムラカミ文学の受賞も近いのでは?また、ミュージシャンの受賞により、文学の定義を拡げようとしたのであれば、映画監督、たとえばマーティン・スコセッシや亡くなってしまったアンジェイ・ワイダの受賞も十分ありあることだろうと思う。

 この曲の誕生から半世紀近くがたった今年、オバマ大統領の意志により両国の国交はひとまず回復し、「時代は変わる」ことが実感されたかのように思える。しかし、ディランによれば、この歌詞の真意には「人々から自分で考えることを奪ってしまうような、メディアで流される嘘っぱちの情報」のことも歌っていたのだというから、その時代を見通す感性の鋭さに驚かされるばかりだ。
 戦争ではなくとも、原子力エネルギーによる放射能汚染の環境危機とインターネットで情報があふれかえり、世界がつながったかのように思い込まされるこの時代こそ、「はげしい雨」の中の歌声に耳を澄ますことが何よりも必要とされているだろう。

 そのボブ・ディランは、ノーベル命日の12月10日にストックホルムで予定されているーベル文学賞受賞式に、はたして顔を表すのだろうか? タキシード姿で受賞講演にのぞみ、ストックホルム市庁舎の晩餐会で乾杯するディランの姿など想像できなくて、いっそのこと北欧の国民的音楽家シべリウスゆかりのホールで受賞記念コンサートを行ったらどうかと空想していたら、ノーベル財団事務局のコメントがあって、受賞講演を受賞コンサートとすることも可能らしい。それならば、これまでのディラン側の沈黙は、授賞式当日のサプライズにむけての、財団事務当局とのひそかな約束事なのかもしれない、と思ってみたりもする。

(2016.10.27書出し、10.28初校了)

1986年6月3日のドトール・コーヒーショップ

2016年10月08日 | 日記
 今月15日17時、小田急江の島線沿線にひろがるごく普通の住宅地にある駅前コーヒーショップが最後の営業日を迎える。ショップ入口に掲出された挨拶文によれば、開店は1986年つまり昭和61年6月のことだそうだから、なんと今年で三十周年を迎えたというのに、まさに青天の霹靂のできごと!

 当時、カフェという言葉自体がまだ世間に認知されてはいなくて、この手の新興資本による少しシャレた雰囲気のコーヒーショップは、都心ならともかく、この郊外の地に置いてはまだまだ珍しく新鮮そのものであった。 
 なにしろ、第一号店が原宿に開店したのが1980年(昭和55年)4月だから、ドトールというブランド自体がいまほどは知名度は高くなかったはず。それが早くもここにできたことで、この駅前もすこし都会的になったかのような気がして嬉しかったのを覚えている。いまなら鳥取県にスターバックスが開店した時のような気分だろうか? だだし、そのようなマスコミを巻き込んだおおげさな空騒ぎはなくて、謙虚なものだったと記憶している。まあ、そこがこの地域らしくて好きなのだが。この周辺は、小田急が小田原線から江ノ島線に分岐して最初の駅で、おとなりが田園都市線の始発に接続する中央林間という、言ってみればエアポケットのような土地柄で、商売には少々難しいところだ。

 そのドトールショップのオリジンである原宿店は、もう新しいビルになってしまっている。当時、地元のお蕎麦屋さんがあって、その隣がショップ、うなぎの寝床式のスタンドが主体の店内だった。珈琲一杯が150円というのが新鮮かつ衝撃であり、看板メニューであるジャーマンドッグとの組み合わせが当時としてはじつに旨く、大学生になったばかりの僕は、よく原宿表参道ぶらぶら歩きや明治神宮の行き帰りにひと休みしようと通ったものだ。この年に村上春樹、翌年に田中康夫が小説デヴューしている、そんな時代だ。
 あのころは駅前歩道橋のそばに国土計画本社があり、いまも参道並木のケヤキの緑に沿って、高級分譲マンションのはしり、コープオリンピアが健在だ。すこし下るとケーキのコロンバン、ステーキのスエヒロ、メンズショップのSHIPS、そして明治通り交差点のラ・フォーレ原宿、パレ・フランセ、セントラルアパートメント、レトロな同潤会アパートとメガロポリス東京の記号の集積、まさしく1980年代の表層文化を象徴するような小説“なんとなく、クリスタル”の舞台が続く。
 その余波のなかに堅実な1号店をスタートさせて勢いのあったドトールショップが、早くも地元の駅前に堂々と登場したのである。まだ、バブルがはじける前で、まほろ周辺や相模大野にも同じ形態のショップはなかったと思う。その驚きは、同じくコープオリンピアにあった有名中華料理「南国酒家」がまほろ駅ちかくに開店したとき以上のちょっとした感慨深さだった。これからは、郊外がおもしろくなる、なんとなくそんな予感がしていた。

 あれから三十年、すっかりショップ自体が地域になじんで、地元住人には憩いの場として親しまれるようになっていた。ある意味ここになくてはならない場所となりえていたから、効率を旨とする大資本論理からすると、継続して存在していたこと自体が奇跡のようだったのかもしれない。これまでマクドナルドもケンタッキーも撤退してしまったし、思い起こせば現ドトールの前のテナントは、あの「レストラン・ジロー」だったのだから!
(ジローはすこし形態をかえて、最近になって玉川学園、鶴川駅近くに復活したのは喜ばしい)

 ひょっとしたら、創業者の志にあるように地域に親しまれるコーヒー文化を提供するという使命が結果的に叶っていた、ユートピアのような場所たりえたのかもしれないと想像する。この小さなわずか28席のショップ空間の中に、この三十年の時代の流れと記憶が象徴されていた。きたる15日はその閉店に立ち会うことで、まあたぶん、やれやれとつぶやきながら、村上春樹にとっての1973年のピンボールのように何かが失われて過ぎ去ってしまった時代の転換を思うだろう。

 ドトール、のち、はれやか、あなたは三十年前、誰と出会ってどこで何をしていましたか?
 (閉店間際の東林間店を見る 小田急駅ビル)