日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

23年ぶりに営業再開したティールーム「BURTON」

2014年04月30日 | 日記
 近所にある喫茶店が3月下旬、23年ぶりの営業を再開した。駅のすぐ近くの白亜のコロニアル風外観の一軒家、前庭によく剪定された西洋カエデ?が二本植えられていて、なかなか瀟洒な雰囲気を漂わせている。ある日、営業再開の張り紙があるのに気がついたとき、ちょっとした驚きに加えて学生時代にしばしば通った懐かしい感情が蘇ってきた。せっかくだから、再開に相応しい訪問のきっかけが欲しかった。今月の18日に村上春樹の最新短編集「女のいない男たち」が発売されて読み始めているうちに、そうだアフタヌーンティータイムにこの小説をあの店内で読んでみるのが、本当に久しぶりの営業再開にふさわしいだろうと思い始めて、その「BURTON]を訪れてみた。
 
 当日は、午前中鶴川にある茅葺古民家「可喜庵」で開かれている三澤喜美子さんのリトグラフ展に立ち寄らせてもらい、しばしの間、三澤さんとおしゃべりを楽しむ。三澤さんとの対話はいつもキャッチボールのようにおもしろく弾み、今まで自分が気が付かなかった領域に連れて行ってもらう感じがして、ダイアローグの精神そのものだと実感する。その帰り道ちかくの三輪町まで足を延ばし、高蔵寺向かいの在農家でこの時期が旬のとれた取り立て湯でたての竹の子を五百円にて直産購入。さらに和光台住宅のはずれの小田急線4号踏切を渡って玉川大学農学部敷地を散策し、町田・横浜・川崎の境界が接する道標を見物した後、東林間まで戻ってきたところで「BURTON」前庭の駐車スペースに車を止めて、夕方5時だったと思うけれど本当に久しぶりにパンドラの箱を開くような気持ちで、白い木製扉を押した。

 入り口で迎えてくださった女性は、オーナーの奥様だとすぐにわかった。久しぶりの訪問のことを伝えると、33年前にお店を開いて10年間の営業のあと事業により休業してこのたびが23年ぶり営業再開です、と話してくださった。店内は、30年以上前の学生時代の記憶のまま、無垢の木製テーブルと椅子もフローリングの床も天井からの照明も壁もほとんどすべて。すこし新たに家具調度が加わったくらい、壁のモノクロの写真もそのままの様子で、頭がクラクラした。いったい、これはなんだろう、まるでタイムトラベラーになったかのような錯覚にとらわれてしまった。
 店内は禁煙、そのときのBGMにはカーペンターズ、今は亡きカレンの歌声が静かに流れていた。奥のテーブルについて、メニューを見るとこれも当時のままで食べ物は数種の手造りケーキ類とサンドイッチのみ、アルコール類を全くおいていないのも同じだ。これほど過去がそのまま封印をとかれて再開された空間はちょっとないだろう。ふたたび思う、いったい今体験しているこの無菌状態の室内空間、これはなんだろう?
 ひとまず、紅茶とのケーキセットをオーダーして、短編集のページを括り、著者自身による「まえがき」から読み始める。最初の「ドライブ・マイ・カー」「イエスタディ」といずれもビートルズの曲がタイトルとなっている二編を読み終える(正確には再読だ)。あと、四編残っているが、そのうちすでに二編は読んでいて、残りの二編は楽しみにとっておこう。BGMは、クリストファー.クロスからカーリー.サイモン(たぶんおそらく)と続き、そしてウエストコースト風サウンドへと変わっていった。バラクーダのスイングトップに紺色のベスト、ボタンダウンの綿シャツ、リーバイスのジーンズとオーナーの男性の風貌が浮かぶようだ。

 午後六時前にレジへいくと、オーナーの男性がでてきて、声をかけてくれる。30年前の顔を覚えてくれていた。私とほぼ同世代、お互いに重ねた年輪を感じあう。ちかくのK中学校一期生、ということは途中で転向してきた原辰徳監督と同期生ということになる。1981年の開店、最初は妹さんと二人で切り盛りしていて、やがて結婚して奥様と二人の営業となり、その後の休業期間は、オーナーが写真をやっていたこともあり(店内の写真は、NYとボストンの街角で撮ったもの)貸しスタジオとして営業していたという。そういえば雑誌などでこの店内で撮影した広告を時々見かけたものだ。今回の再開のきっかけは、再びこの家に戻ってきて暮らしてみたくなったことにあるという。暮らすと同時にお店も再開させたのだそうだ。少年時代の相模大野南口の米軍住宅の様子についても語ってくれた。建て替え前の駅舎のことも。

 最後に「BURTON=バートン」という店名について聴いてみたが、特に何かの引用ではなく響きのよさから命名したという。もしかしらた何か無意識のものがあるのかもしれない、33年前の若き時代、開店に当たってふっと彼の脳裏をよこぎったものが。でもそれは、彼の中の世界を想像するしかない。とにかく時代は33年間、確実に巡ったのだから。そしてこうしていまを生きながら、当時と対面している。
 

 

横浜水道みちでウグイスの鳴声を聴いた

2014年04月22日 | 日記
 今朝の春の日差しのなか、駅に向かう途中の横浜水道みちを歩いていたら、今年初めてのウグイスの鳴声が聴こえた。昨年もこのあたりの住宅の前の水道みちでよく聴いたから、同じウグイスが住み着いていて今年も鳴いてくれたのかもしれない。ウグイスって、山の中の鳥のイメージで勝手に思っていたのだけれど、まだ緑の残っているかつての里山周辺の住宅地の近くまで降りてきてくれているのが意外だった。
 この横浜水道みちは、1989年の横浜開港後、急速に都市化して人口が増加したことによる水の需要に対応するために、英国人お雇い技術者のH.S.パーマーの指導により、1885年に着工し1888(明治20)年に落成した日本で最初の近代水道が埋設されている。当時の津久井村青山の道志川取水口からはるばる横浜市中区の野毛山浄水場まで南西方向ほぼ一直線に引かれた総延長44キロにわたる歴史的遺産道なんだ。

 ここ東林間地区では小田急江ノ島線を45度の交差して、大和市下鶴間を経由して続いてゆく。その経路に沿って遊歩道が整備され、春は次々と咲く花々で季節を感じさせてくれ、春の季節はつきみ野方面に向かって数種類の開花時期の異なった見事なサクラの花々が、国道16号をまたぎ南町田駅ちかくの鶴間公園までずっと続く。その先は東名高速の高架下の先の東京都と神奈川県の境をとおり横浜市域に入り、川井浄水場から旧16号沿いにのびて行って西谷浄水場、相鉄西横浜駅の脇から終点の野毛山公園内の浄水場へと至る。
 初鳴きにしてはなかなか上手なウグイスの鳴声を聴きながら、何気なく通っている駅までの道のりも、明治期の横浜開港がなければ存在していなかった、そう知ると神妙な気分になってくる。ウグイスはもちろんそんなことは知る由もなく、生命の喜びを美声にのせて鳴き続けている。

新緑・花ミズキ・女子大百年桜

2014年04月18日 | 日記
 ここのところ一気に春めいてきて、マンション中庭にあるケヤキが日々芽吹き出し、その新緑の変化振りをみているだけで生命の息吹を感じる今日この頃。やがて四月下旬くらいになると、やさしい黄緑色のやわらかな生まれたての葉っぱが樹木全体に拡がり清々しい気分になり、陽春の青空に映えてくるだろう。我が家のベランダからは、その様子が毎日ライブで望むことができる、なんという贅沢!

 今朝のまほろ周辺は少し肌寒い気候だったけれども、街中を車で駅まで走りぬける途中、街路樹の花ミズキがいつの間にか花開いていることに目を奪われた。ホワイトとピンクのがく弁が雨に濡れて鮮やかだ。ソメイヨシノが散ってしまった後にまったく突然、という感じで不意をつかれたような気がする。花ミズキはここのマンション内にも植栽されていて、そう思ってみると確かにしっかりと花をつけていて、灯台下暗しとはこのこと!
 花ミズキといえば思い出すのが、東京北青山の洋菓子店ヨックモック本店にある、西洋花ミズキ。コの字型の建物に囲まれた中庭にあるよく手入れされた紅白ミズキを喫茶室から眺めながら談笑するのが憧れで、それがガールフレンドと実現したときに、なんだか自分たちが“都会人”の仲間入りをしたようなとても高揚した気分になったものだ。いまから思うとまったくの赤面もの!だけれども、お菓子のシガールを食べるたびにその感覚がよみがえる。

 ところでまほろ周辺の女子大といったら相模女子大学のことを指す。相模大野駅周辺が随分と都市化が進んだためか、駅から徒歩15分ほどの創立114年を迎えるやや地味な印象だった老舗女子大学の存在もかなりソフイストケイトされた印象がある。ここのキャンパスは、終戦まで陸軍通信学校敷地であってそれらの遺構がいまも残る。くわえて戦後から建てられた校舎群は、コンクリート打放しにガラズ張りの典型的モダン建築の百周年記念館マーガレット館まで、建築変遷の実物を見る教科書のようで楽しい。特に好きなのが大教室と学生用サロンのある3・4号館、ここだけが北欧風の白壁低層の屋根の連なりと内装に木の桟が使用されている建築で、独特の雰囲気はアルヴォ・アアルトにも通じる落ち着いた印象だ。
 
 このキャンパスはまたこの季節、かくれた花の名所であり梅に始まり、桃花、数種の桜と見事な花のオンパレードが続く。今は枝垂桜が終わって、牡丹桜がピンクの雪のように咲き誇っているのが正門通りからも望める。文字通り「女の花園」であって、この言葉がこれほど相応しい光景は近隣ではちょっと知らない。
 その敷地のもっとも奥に、通称“女子大学百年サクラ”と呼ばれる通信学校時代からのヨメイヨシノの大木が見事な枝ぶりを拡げている。その周辺にも数本の大きな山桜?がこころもち?清楚に咲き誇っていて別世界のようなのだけれども、大学敷地の最も奥に位置することもあり、その姿を実際に愛でることのできる人は少ない。在校女子大生でもその存在は意外と知られていないようで、訪れた日は何人かの女子高生が記念写真を撮っていた。

 サクラだよりの最後に、かつては戦争の行く末を見つめ、戦後60年は女子大生エッセンス?を吸って長生きしてきた数奇で艶やかな百年桜の情景をアップしておこうっと。


臨済宗常福寺ライブ-死を想え  

2014年04月16日 | 音楽
 このあたり、まほろ周辺のソメイヨシノの季節は過ぎてしまったけれど、八重・ボタンなどほかの桜の花々の季節はまだつづく。すこし郊外に出てみれば、いまが盛りの相模川新磯地区の芝桜が見事だ。今月末くらいまでは大丈夫だと思うから、次の休日に散歩にいってみようっと。

 常福寺は、その芝桜の名所からもほど近い相模線相武台下から徒歩すこしのところ、大山丹沢の山並みを望む新戸集落の縁にある臨済宗建長寺派のよく手入れされた庭園のあるお寺。ここで毎年4月上旬の桜の季節にひらかれる恒例の講演会と演奏会「常福寺ライブ ‐be‐」を聴きに行ってきた。副題が“メメントモリ”、ラテン語でmemento mori「 死を想え」、30年くらい前にそのようなタイトルのアジア・インド放浪記が話題になったっけ。案内には「生も死も“生死”と一括りにして、話す人も、奏でる人も、桜の下でひとつ溶けあう。」とある。

 その言葉通り、本堂前の石庭には見事な染井吉野が大きく枝を拡げている。ライブ当日はその桜がちょうど満開で、会場の明け放れた本堂からは、額縁の絵画のようにサクラと孟宗竹が望める。4日午後1時過ぎに、すこしできすぎたかのように設えられた舞台で講演会が始まった。今年は(も)異色の顔ぶれで、山田圭輔(金沢大学がん哲学外来医師)、大友良英(音楽家)、今井道子(元医師、登山家)の順番でそれぞれ一時間づつ、生と死をめぐるテーマについての語りに耳を傾ける。
 山田氏は、大学病院麻酔医師で自身の職業上の経験を深く掘り下げての「いまを肯定して生きることと、やすらかに死ぬことの哲学」を丁寧な言葉で語る。大友氏は、「あまちゃん」のヒットでポピュラーになったが、知る人ぞ知る映画やドラマへの楽曲提供や自身の前衛音楽活動で大活躍の昨今、どんな話なのか注目していたが、なかなか人の気を逸らさない話上手ぶりには感心した。十代をすごした福島での、3.11震災直後からのアクティブな音楽活動を生き生きと語るその姿に魅了された。自身を“職人音楽家”と称する姿勢に同感、人を巻き込むことの上手なオーガナイザーという印象。
 今井さんは、医師というよりも登山家として余裕の語り口。人間が自然と共生すること尊重すること、人間がひろく自然に内包されいることの大事さの実感を語られていたと思う。ひとことでいうと、“くよくよするなよ!なるようになるさ”っていう感じで、山登りに関しても無理なく経験を積んで周到に準備を重ねていけば、山の頂がその人を呼んでくれる、って話されていた。う~ん、なるほど!

 夜の演奏会まで、石庭に面した書院で茶をいただきながら、枝垂れ桜の上方の下弦の月を愛でる。いい春の宵だ、裏庭の相模線のもっと先、相模川のむこうには丹沢の山塊が望める。
 

 18時、ふたたび本堂に戻って、八木美知依(21弦筝、17弦筝、歌)+ベース、ドラムストリオによる演奏会。この楽器による即興を主体とした演奏はずっと聴いてみたいと思っていた。八木さんは、沢井忠夫・一恵門下の古典をふまえた前衛的演奏に取り組んでいるのが興味深い。外国人にとっては、なおさらオリエンタルな印象に違いなく、北欧の中心にヨーロッパで受けるというのもわかる気がする。昨夏は、同じこの常福寺で、フランス国営放送の音楽ドキュメンタリー収録があったそうだ。きっと座禅とか声明に世界に通じるものがあるのだろう。前衛とされるものがじつは究極の原点=オリジンであることの好例。当夜は、やや場を意識したおとなしい?演奏だったが、コキリコ節に使われる木棒で弦を押さえた奏法など、その片鱗がうかがえた。オリジナル曲よりも、映画音楽“ローズマリーの赤ちゃん”やアンコールの“サクラサクラ”変奏曲のゆったりした深い弦の響きのほうが余韻と間が生きていて、よりしっくりきた感じがした。
 演奏会のあとは、本堂で予約したお弁当をたべての交流会。主宰の常福寺原住職も参加者の間を回られて語り合い、春の宵は過ぎて行った。

目白逍遥~ゆかりの建築家と二つの教会を巡って

2014年04月06日 | 建築
 目白ケ丘教会と東京カテドラル聖マリア大聖堂。目白駅をはさんで山手線の外側と内側にあるふたつの教会は、その建築としてのたたずまいも、設計した二人の建築家の生き様も鮮やかなまでに対照的だ。目白という緑豊かな、まるで都会の中のエア・ポケットのような周辺を語ろうとするときに、このふたつの教会の存在から導き出される事柄はとても興味深いものがある。
 そして目白周辺ゆかりの建築家との関わりでいうと、目白ケ丘教会を設計した遠藤新、東京カテドラル聖マリア大聖堂を設計した丹下健三にくわえて、あとふたりの著名な存在をあげなければならない。この地に晩年の約10年間、事務所を構えて活動した吉村順三と、自由学園明日館(国重要文化財)を設計したフランク・ロイド・ライト。目白周辺を逍遥しながら、建築作品を通して四人の建築家に想いを巡らしてみることにした。

 
 3月22日午前10時半、目白駅前ではるばる名古屋から来てくれた友人Mと待ち合わせ。昨年来の再会がうれしい。すぐに目白通りを横断して、山手線沿いに池袋方面に歩いて目的地へと向かう。10分ほど歩くと左手方向に婦人の友社社屋が見えてきて、そのすぐ先を左手に折れた住宅地のなかに自由学園明日館が飛び込んでくる。中央の二階建てのホールと食堂棟を中心にして水平に両手をひろげたように芝生広場を取り囲む、高さを抑えたプレーリー様式と呼ばれる建物。F.L.ライト(1867-1959)と遠藤新(1889-1951)の日米師弟による設計で大正10年(1921)の竣工。自由学園明日館は、ライトが帝国ホテルの設計のために来日した際に、遠藤が学園創立者の羽仁吉一・もと子夫妻から依頼されて紹介し、共同設計した建築作品だ。簡素でありながら、壁のベージュと軒先や窓枠の濃い緑のラインの対比、大谷石の階段が美しい。広場前の道路にそってソメイヨシノの大木が枝を拡げていて、桜の季節には少し早いが、もうすぐの満開の時期は素晴らしく美しいに違いない。この日も建物をはさんだ道路前でスケッチしている何人もの方たちがいる。竣工当時、この風景はまだ出現していなかったはずだから、もしライトが桜風景と明日館との夢見ごこちの競演を知ったならば、大変驚くと同時にさぞかし喜ぶに違いないだろう。
 この日は貸切の結婚式が執り行われていたので、室内を見学できなかったのがすこし残念!だが、以前ホールの中に入ったときには、外見の印象からは想像できないくらいの豊かな高さのある空間が拡がっていた。ホール室内からは、正面左右対称の五つの縦長窓ガラスから差し込む外光と、中からの広場の眺めが印象的だった。幾何学的なデザインの小ぶりの椅子やテーブルは遠藤新によるオリジナルデザイン。
 通りを挟んで明日館の右手向かいには、遠藤新設計による講堂があって、こちらは昭和2年(1927)竣工の国の重要文化財指定。いわゆる脊椎動物の背骨と肋骨を応用した、遠藤が三枚おろし構造と呼んだ初めての建築で、落ち着いた室内空間だ。二階席から眺めた舞台と距離感がほどよい。大正時代の自由主義教育運動の流れの中で創立された学園のモットーは、キリスト教精神に基づき「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」(まるでH.D.ソローそのもの)だそうだが、それに相応しい雰囲気が確かにここには漂っている。さほど広くはない敷地に、F.L.ライトと遠藤新の師弟建築がふたつ調和してじつに豊かな空間をつくりだし、背景の近代高層ビル建築との対比がこの地の奇跡ともいえる稀少な空間をいっそう鮮やかに浮かび上がらす。ふうっとため息が出てくるのだ。

 明日館をあとにふたたび歩きだし、西武池袋線を渡って区立目白庭園へ。Mをここへ案内したかったのは、もう20年くらい前に勤労青少年大学講座仲間と宿泊したことがある思い出の「うずら荘」(公立学校共済組合宿舎)跡地だから。でもよくよく聞くと、Mはその時は参加できなくて宿泊はしていない!現在は、長屋門のある緑ゆたかな回遊式泉水庭園としてよく手入れされ、都会の中のオアシスとして、まるでもとからそこにあったかのように存在している。庭園の塀の向こうに、かつて勤務していたことのある池袋サンシャイン60がなぜか墓標!のように望めた。
 お昼時になって、何を食べようかと話しながら目白通りを歩いていて「志むら」へ。和菓子と甘味屋さんなんだけれど食事もできて一階が売店、ニ階が満席で三階を案内される。周りを見ると地元人に愛されているんあだなあと実感する顔ぶれ、おいしくて値段も良心的で落ち着ける。ここでMが今回用に購入してきた「東京建築散策ガイド」を見せてもらい、次の訪問場所をあれこれ検討。さらに私が持参した愛用の「どこでもアウトドア 東京山手・下町散歩」(昭文社)を開いて、地図上で実際のルートと距離を確認する。

 次は、目白ゆかりの建築家の三人目、吉村順三(1908-1997)の建築事務所をギャラリーとして公開している場所へとむかう。そこへの道はどうも目白骨董通りと呼ばれているらしい。歩いていると古美術や古道具が並べられているあきらかに何か独特な雰囲気を放つ店舗の前で、Mが立ち止まって中を覗きこんでいる。一呼吸おいて、中に入れていただくとヨーロッパや中国韓国の陶器、アフリカの古い民具などが置かれている。男性の先客がふたり、奥にご主人らしき人。どうやら白洲正子とも交流があった、高名な骨董の目利きとして知る人ぞ知る方の店舗らしい。Mによると芸術新潮に連載を持っているそうだけれど未読だ。店内は選び抜かれた骨董品と著作本が並び、静謐な雰囲気が横溢していて、私たちの会話も自然と声を潜めた感じになっていく。

 そして吉村ギャラリーへ到着。吉村順三は住宅の名作を多く残した建築家で、A.レーモンド直系の弟子、そのレーモンドは、帝国ホテルの設計の仕事でライトに呼ばれて来日後、独立して日本にモダニズム建築を確立させた人だから、吉村はライトの遺伝子を継ぐ孫弟子のひとりで、その意味ではまあ、遠藤新とは伯父と甥っ子の関係にたとえられようか。端正で合理的な意匠は、モダニズムの正統を引き継ぎながらそこに日本の伝統を加味して、ヒューマンな味わいがある好きな建築家のひとりだ。
 代表作のひとつ、愛知県立芸術大学キャンパスは写真と資料でしか見たことがないけれども、昨年新潟への帰省の途中に群馬谷川岳のふもとにある、遺作となった山の別荘といった感じの「天一美術館」を訪れることができた。また数年前に、初期の設計になる「箱根ホテル小涌園」(1959年竣工)へ宿泊してわずかに残された竣工当時の意匠の面影を外観に探ったりしたものだ。古さは否めないが、外国人向けリゾートホテルの草分けらしく、部屋の間取りはゆったりとしている。裏側の庭園から望む外観に当時の意匠が残されていた。
 今回は、晩年の代表作のひとつ、八ヶ岳高原音楽堂で1989年に録音されたCD(チェンバロ演奏:キース・ジャレット)を持参、そのCDジャケットには、白地に金文字でタイプしたかのように「J.S.BACH GOLDBERG VARIATIONS]と印字されている。この音楽堂をいつか実際に訪れてみたいと思い続けている。せめて、設計者の吉村ギャラリーに持参することで実現するようにと願っての思いだ。一階の落ち着いた雰囲気のVIP応接室を拝見しながら、建築資料を参照していると思いかけず、かつての仕事部屋であるスぺースを見せていただけることになった。二階から三階の半分は吹き抜けで外観からは想像できないくらいのゆったりした容量の空間に設計デスクが並ぶ。ここで、おそらく八ヶ岳高原音楽堂も設計されたのだろうと思うと感激もひとしおのものがある。

 ギャラリーに隣接した尾張徳川当主家東京屋敷にある、通称“徳川ビレッジ”を通り抜けて目白通りを渡って旧近衛町へ。その通りの真ん中に残された大ケヤキを過ぎると、美しい鐘楼をもった建物が見えてくる。その目白ケ丘教会(新宿区下落合)は、遠藤新最後期の建築作品で1950年竣工。F.L.ライトの愛弟子にして、晩年ライトからの書簡において、日本における「我が息子」とまで呼ばれた。
 
 軒先に使われた大谷石と寺院の五重塔の先にある“水煙”をほうふつとさせる“鐘楼”が特徴。建物はよく手入れされて大事に使用されていることがわかる。

 その先の突き当りには、旧学習院学生寮で現在は日立倶楽部となっているしゃれたスパニッシュ様式の白亜洋館が見えてくる。白い漆喰壁に高さが平行移動して並んだ縦長窓と白い煙突がアクセントとしてリズミカルな雰囲気を醸している。その先を右折して、もういちど反対方向から目白が丘教会へと回り込み、目白駅に戻ってバスに乗車して、椿山荘方面へと向かう。

 学習院キャンパスをすぎ、目白三丁目で下車してすこし歩くと、左手に日本におけるカソリックの総本山、東京カテドラル聖マリア大聖堂の大伽藍が見えてくる。目白通りをまたぐ歩道用からMがスナップ撮影した、アルミキャストをまとった宇宙船のようなメタリックな姿。夕方五時の夕陽を反射して輝く姿が実に神々しい(さすが来日時ローマ教皇も説教したカソリック総本山の大聖堂!)
 
 設計:丹下健三(1913-2005)。ここが竣工した1964年は、東京オリンピックにむけて代表作の国立代々木体育館が竣工した年でもあり、聖堂の左手に直立するコンクリート塔のデザインは、代々木体育館屋根を吊構造で支える中心軸のデザインとよく似ている。Mと大聖堂の中に入ってみる。コンクリ―ト打ちっぱなしの硬質で荘厳な空間に息を吞む。ここの空間で、新調されたパイプオルガンの響きを聴いてみたいものだと願った。同じ教会建築でも先の遠藤新の設計とは対照的で、丹下のほうは天上へ権力や神への上昇志向がうかがえ、いっぽうの遠藤新の教会はまさしくヒューマンそのものであり、建物は水平に低く拡がり、地に足がついている印象がある。どちらが美しいかは、価値観によるものだろうけれども、すくなくとも付随した塔の造形デザインに関しては、日本の伝統美を生かした目白ケ丘教会とシャープな直線を生かしたコンクリートによるモダニズム建築が必然的に指向する世界標準仕様との対比であると思われる。

 ふたりの建築家の志向を単純に図式化してみれば、国家権力により沿うかたちのモダニズム建築家丹下健三と、自然・地所との調和を重視し、市井に生きた生活派の遠藤新。この対照的な建築家による二つの教会は、奇しくもふたりの建築家がこの世を去った1951年と2005年、それぞれの人生の最後の場、斎場として選ばれている。
 さらに丹下にすこし先行する世代の吉村は、モダニズム派でありながら和風建築にも通じ、住宅建築に設計活動の重点をおき、印象に残る作品を多数のこしている。何よりも皇居新宮殿設計をめぐる気骨ある決断は、約ニ十歳年上の遠藤の生き方につながる建築家のように思える。目白において吉村が関与した建築は、自ら主宰した建築事務所の現吉村ギャラリーしか知らないが、晩年の吉村が事務所をそれまでの赤坂からこの地に移してきた理由を想像してみるにひとつ思い当たることがある。それは、大正期から昭和初期に活躍した建築家、山本拙郎(1890-1944)と所属した「あめりか屋」が関係した目白文化村住宅の存在だ。
 吉村は対談集のなかで、初期に影響をうけた建築家として、山本の名をあげていると同時に、山本が関係していた建築雑誌の住宅設計競技に応募して入選したことが建築家を目指すことになった原点=オリジンであることを語っていた。吉村のモダニストでありながら、ときに見せるヒューマンでロマンチスト的側面は、山本の影響があるんではないだろうか。付け加えれば、遠藤新は山本拙郎との住宅論争でも知られるから、吉村はそのあたりで遠藤を意識していたかもしれない。

 それでは最後に、もっとも年長のF.L.ライトの日本における存在と影響力がどのようなな系譜に位置づけられるのか。これはもう今のわたしの容量範囲を遥にこえてしまうことになる。勇気を出して大胆な仮説を述べると、日本においてライトの建築上の遺伝子は、A.レーモンドを介して吉村順三に無意識下に伝えられたはずで、ライト直系の遠藤新とライトの影響を脱したレーモンドの直系弟子吉村順三は、期せずしてこの目白の地において、原点であるライトの建築遺伝子でつながれたといえるだろう。その意味でモダニスト建築家吉村順三は、ほぼ同世代で同じ括りとして見られるであろう丹下健三よりも、じつは一世代前の遠藤新と親和性のある存在であると思う。ライトの自然との調和を指向した“有機的建築”思想は、日本ではここ目白の地において、遠藤新と吉村順三に受け継がれている。
 
 目白の地は、四人の建築家(くわえてあとふたり、A.レーモンドと山本拙郎も)を巡る物語の聖地であって、その地を巡礼することで近代建築のおおきな流れと建築家の生き様をたどることができるところ、といえようか。建築も建築家も大きな歴史の潮流のなかでの相関関係の中、育まれていくものだと実感した一日だった。

 そしてそれができたのはM、あなたのおかげです。ありがとう!

                                                   (4.3書初め、4.6校了、4.8追記、4.12再修正)