日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

春お彼岸のバースデー

2017年03月20日 | 音楽
 春のお彼岸中日、昼の長さと夜の長さが半分半分となる日、太陽が真東から昇って真西に沈む「春分の日」である。ということは、きょうからは昼間の時間のほうがすこしづつ長くなっていくわけで、ソメイヨシノのサクラ前線も気がつけば、あと一週間ほどで中部から関東地方へとやってくる季節となった。

 この記憶すべき春分の日に重なった今日は、1955年生まれのエムズ62thバースデー! ファンとしてはやはりうれしく、その記念にささやかながら祝意を表して、ちょうど十年前の2007年にリリースされたアルバム「デニム」を聴く。プロデュースは山下達郎&竹内まりやご両人名義、アレンジと演奏には名古屋発の長いバンド歴を持つ、センチメンタル・シティ・ロマンスが参加していて、このアルバムのいつもと違った多彩な色合い、方向性を決めていると思う。その「シンクロニシティ(素敵な偶然)」「人生の扉」の2曲は、いずれも聴くほどに履きなれたジーンズのようになじんできて、忘れることのできない懐かしさを呼び起こすような魅力を感じさせる大好きな曲。
 演奏メンバーのクレジットを見るとピアノは細井豊、ペダル・スティールギターと間奏マンドリンソロは告井延隆と記されており、NHK「ソングス」での映像が記憶によみがえる。その映像は八ヶ岳高原音楽堂で収録されたもので、終わりにタイトル曲「人生の扉」が歌われていたのを鮮やかに思い出す。
 アルバムでは、一曲に松たか子がバックコーラスに参加して華を添えている。
 
 このアルバムは、冒頭の「君住む街角」以外は、すべてご本人の作詞作曲で、とくにラスト曲「人生の扉」は、五十代となった彼女からの同世代に向けたアンサーソング、応援歌、人生讃歌と呼べる珠玉の一曲だろう。最初の頃はそれほど感じなかったのだけれど、聴くほどにしみじみと胸に沁み込んでくるのは、そのストレートなメッセージがまさしくいまの自分がその世代と重なって同感することが多々あり、とっても勇気づけられるからだろうと思う。
 ジャケット写真が写された建物は、おそらくは故郷出雲の門前にたたずむ老舗日本旅館と思われ、瓦屋根、畳部屋、その縁側、ふすまに障子戸、庭園の緑と、ここにも不思議な懐かしさが満ちている。スリムなデニム姿に白シャツ、またはノースリーブ、夏を感じさせる素足がいい。いつか、出雲大社を訪れたときに泊まることができたらと思う、きっとね。

 歌詞の一節、「気がつけば五十路を超えた私がいる」とは、まさしくただそのとおり、「信じられない早さで時は過ぎ去ると知ってしまったから」日々を後悔のないように生きていきたい、現実はなかなかそうは簡単にいかないけれど。そして「五十代はナイス=素敵だ」といえるような過ごし方を自問自答しながら、そう思い至れる僥倖の日々は確かにあったし、これからもそうあってほしいと願っている自分が在る。
 二十代のときのあの出逢いがなければ、その僥倖の日々は訪れてくれなかっただろうし、三十代、四十代はあっという間に過ぎして待ったような気がするのに、良くも悪くも確実にいまにつながっているのだと、お彼岸の中日、運命の不思議さに感じ入る。
 
 

弥生月ミモザ 三寒四温

2017年03月09日 | 日記
 早朝、快晴のまだひんやりとした冷え込みの残る大気の中、中庭にある二本の欅の大きく天空に広がった枝枝を眺める。まだ芽吹きはには早いけれど、着々とその準備は進んでいるに違いないだろう。雲の無い碧空のぬける様な高さを感じる日々だ。

 昨日の国際女性デー八日、あちこちの花屋店頭では、その象徴とされるミモザの黄色の綿菓子のような花をしばしば見かけた。この澄んだ早春の空の碧さには、ミモザのたわわに咲いた豊かな花花が映えてよく似合う。街角でよく見かけるのミモザは、正式にはマメ科のギンヨウアカシアで、その風に吹かれて(ボブ・ディランの歌みたいだ)揺れる鮮やかな黄色の花束と、反転してひるがえったときに光る銀色の細かい葉の取り合わせが、乾いた地中海地方か、原産地南半球オーストラリア大陸などの未知の遠い外国を思わせる。


 ギンヨウアカシアの咲はじめ、座間神社の境内にて。
 すぐむこうのフェンスの先にひろがるのは、米軍キャンプZAMA。ここには、A.レーモンド建築の指令本部棟、教会が残る。


 住まい近くの中学校グランドの片隅には、松鶴園と名付けられた緑地が整備されている。このあたりでは珍しく見事な松が十数本残されていて、そのむこうに大山丹沢の山並みがくっきりと望め、かつての相模野原野だったころを彷彿とさせる風景を遺す。松の木の根元には、西洋スイセンが群生していくつものクリーム色のやさしい花を咲かせている。先行して咲くニホンスイセンは色香しい空気を漂わすが、こちらは大ぶりの花がつく。その情景を駅へ向かう道中に眺めては愉しんでいる。

 駅近く、その手前にあるその名も東芝林間病院前は「東林さくら通り」といい、両側がソメイヨシノの並木となっている。かつては、桜のトンネル状態で本当に見事だったのに、誰が望んだのか無残に枝が落とされてしまっているのが哀しい。
 病院運営母体である健康保険組合の企業経営環境が厳しいことの余波なのか、この冬は正面ロータリーの松の植栽の雪つりも行われず、さびしい気がしていた。それに輪をかけるようにその駅寄りの敷地がマンション用地として売却され、戦後に結核療養棟が健在だったころ、昭和30年代の面影を残す豊かだった自然林が伐採されて整地が始まっている。来年には十数階建ての建物がそびえて、駅前の風景も一変するだろう。

 ようやく駅ビルの耐震改修工事の覆いがとれて、テナントの看板が掲出されたのを見たら、そこに長く親しんだドトールコーヒーの名前があって、あっと思った。リニューアルして半年ぶりに復活するのを確認できて、ささやかながら嬉しくなる。これで前のように本屋も入居してくれると、この町もなかなかの暮らしぶりを謳歌することができるのにと思う。カフェと本屋の相性の良さは、昨今のツタヤの盛況をみれば納得だ。くわえて日用雑貨や文房具の揃ったミニ無印良品ショップなんていうのもあるといいね。

 竣工の三月末、広場に一本だけ残されたソメイヨシノの古木が咲くころには、駅前の様子はどのようになっているだろうか。

藍色浪漫あいいろろうまん

2017年03月05日 | 日記
 啓蟄の日のとおり、日中はポカポカと春らしい陽気となった。

 住まいのマンション集会室脇に植わっている山茱萸サンシュユが、薄黄色の球形に拡げた可憐な花々をいくつか咲かせ始めている。それを遠目で見かけると全体がポワッと軽やかに霞んで見えて、ああ春が来たなって思わせる。この花が終わってから楕円形の若葉がひろがってくるのは、五月の頃だろうか。
 住宅正面入口には、マンサクの花が咲きだしている。咲く時期が同じころなのでサンシュユと混同していたが、比較してみればまったくその容姿は異なり、こちらは少し濃い目の黄色の異形の花で、根元部分が赤褐色の紐状の花弁を四方八方に拡げている。あちらは、大陸からの外来種、こちらのマンサクは日本原産で、本州太平洋側から九州の山林に自生する植物だ。

 まほろ博物館へ「伊万里染付図変わり大皿の世界」の副題が添えられた磁器コレクション展を見にゆく。出品大皿に描かれた図柄はすべて藍一色、題して「藍色浪漫」、あいいろ“ろうまん”、と読ませることがミソのようで、大陸の異国情緒も漂い、見ごたえのある意匠がずらりと並ぶ。案内チラシも藍に敬意を表してか、地が白、柄は実際の本物以上に濃い藍一色のなかなか目をひくデザインとなっている。
 現物の大皿をみていくと、すべて江戸時代以降に制作されたもので深みよりも柔らかみを感じさせる。意匠図柄は花鳥風月が基本であり、当時の職人たちが自然や風景を描くことでこの世の中に生かされているものと同化し、よりおおきな一体感や充足感を得ようとしているように思える。また描かれた龍や鯉、象、虎、鹿といった動物たちは何らかの吉祥のアイコンであり、どこかユーモラスが格好である。そのほかに干支図と八卦の組み合わせ、蕭湘八景、近江八景の絵柄がおもしろい。

 お昼を過ぎる前に、鎌倉街道を戻って16号線に入り、相模原中央地区へと移動する。市役所前桜並木大通り沿いのロイヤルホストで昼食をとる。久しぶりに入る店内、ここはファミリーレストランが輝やいていたころの栄華をいまだに保つ、王道レストランの雰囲気をもっている。
 一目でわかる大きなガラス窓と暖色系瓦の屋根をもつ平屋建ての店舗、広めの駐車場、店内のゆったりしたレイアウト、しっかり調理された料理と盛り付け、白衣を着てきれいに頭髪を揃えた店長、品よく教育された従業員の接客態度、清潔なトイレ、スイートポテトに代表される吟味された持ち帰り用お土産品など、ホスピタリティと顧客満足を意識した店舗オペレーションが徹底されていることに少々感動してしまう。その分、値段はそこそこ高めだが、月に数回くらいの贅沢としては納得できるだろう。
 ただしここでは、ファミリーがメインに珈琲やスープ、サラダつきのセットメニューを注文するようにのぞまれていて、一人客が安くあげようとして単品の注文をすることは憚られるようだ。ちょっと今日の自分にはそぐわない感を抱きながらの昼食、いまの自分にいろんな意味での余裕がないからなのだろうか?



 まほろ駅ビルデパート。その真中を小田急線が貫通し、ホームからエスカレーターで店舗まで直結。1976年に開業してもう四十年が過ぎたが、郊外都市型百貨店の典型としていまもにぎわっている思い出のデパート。
 このなんともストレートな外観のフォルム、とくに屋上部ウルトラマン的アイコンは、いまはほかに見ることの叶わない貴重な?小田急電鉄のCI更新前のマークだ。ビルの反対側の同じ位置にもあと二つが残されている。ビル本体に型取りして作られたから遺されたのだろうか、このマークを眺めるとこの町に住みだした学生時代を思い出す、記憶のシンボルのようなものだ。

 そして隣のビルは、小田急に先行して1971年に開業したかつての大丸百貨店町田店で、東京駅店舗につぐ関東進出第二号店だった。もし、これらのデパートが存在しなかったら、この郊外において都心に行かずして得ることのできた東京体験は、相当異なっていたことは確かだろう。そのくらいに当時のデパートは、ひとびとの憧れの存在だったと思う。
 大学生時代、地下食品売り場や配送センターでアルバイトをして、サンプラ時代は人事部付で研修をさせてもらったりとすっかりお世話になった場所。当時の職場の方々の顔がいまでも懐かしく浮かぶ。