日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

雨の日のビル・エヴァンス

2013年10月26日 | 日記
 あさ六時に目が覚める。
 休日の週末土曜日、先週に引き続いて台風が接近している。それも27、28号とダブル台風の影響で昨夜からずうと雨降りだ。窓の外では、雨の粒がマンション敷地のコンクリート面にできた水たまりに落ちて波紋の飛沫をあげているのが見える。窓ガラスについた水滴がいく粒か集まってひとすじの流れ模様となって落ちていく。まるで偶然から定められた出会いのように。まだ、雨は降りしきっていて、お昼頃まで止む様子はなさそう。

 そうだね、何を聴こうか。
 まだ身体が目覚めきっていないから、北欧を思わせるような静ひつな音楽がいい。
 まず、ヨーロピアン・ジャズ・トリオの1989年デビュー作から「ノルウェイの森」と「マイ・ロマンス」を連続して。若手ピアノトリオのシンプルなメロディーと端正なリズムがやさしく響く。「ノルウェイ・・・」は、ビートルズよりもこの演奏で体験したときの印象が強い。

 「マイ・ロマンス」ときたら、やはりビル・エヴァンストリオの「ワルツ・フォー・デビイ」のなかの同曲を聴き比べてみたくなる。テイク1、2と続くニューヨークの老舗ビレッジ・ヴァンガードにおける1961年6月25日ライブ録音。アルバムのカヴァーデザインとブックレットフォトがこのアルバムの前奏曲となっていて、雰囲気をよく伝えている。演奏はリリカルというより禁欲的でいくぶんくぐもったピアノフォルテの音、寄り添うようなスコット・ラファロのベース、52年前の店内のざわめき、グラスの触れ合う音と拍手が入っているのが、当時のライブハウスの雰囲気を伝えている。こちらの演奏はエヴァンストリオならではの親密なインタープレイがいいな。静かな「マイ・フィーリッシュ・ハート」からはじまって、タイトル曲と聴きこむほど味がでてくる演奏。締めくくりは「マイルストーンズ」、マイルスはいまだに正面から向き合っていないのだけれど、この曲は親しみやすくて元気にさせてくれる。

 ようやく、身体のほうも空腹を覚えてきたので、このあたりで朝食としようか。
 

北青山キラー通り ワタリウム美術館 「寺山修司_展」

2013年10月25日 | 日記
 「日々街中遊歩」のタイトルどおり、久しぶりに出かけた青山あたりの散歩記を記そう。

 24日お昼、小田急線経由地下鉄表参道駅からキラー通りのワタリウム美術館を目指す。地上に出ると小雨で、傘を忘れてしまったことに気づく。参道のケヤキ並木は色づくには少し早く、しっとりと緑色の葉を濡らせてひかっている。この通りの並木は、大正時代の明治神宮造成にあわせて植えられたのが始まりだそうだけど、これほど豊かな景観を作り出してくれるとは!緑陰の両側には、有名建築家によるブランド店舗が軒を連ねていて、この光景は「丸の内仲通」と並んで東京で最も美しい都会らしさが演出された空間だ。
 そういえば、村上春樹の最新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の後半、主人公がフィンランド行の前に、ここ青山で絵本などの買い物をした後、参道に面した喫茶店から偶然恋人の紗羅が中年の男性と手を繋いで歩いていく姿を見かけてショックを受けるシーンがあったっけ。このあたりの絵本屋となると「クレヨンハウス」がモデルと想像されるのだけれど、「表参道に面したカフェ」P239 とはいったいどこか?以前は近くにバームクーヘンで有名なユーハイム原宿店があって、神戸発祥のお菓子屋さんだけに村上春樹つながりと思われるのだが、いまはもうないはず。ほかのムラカミ好み店舗をあげるとしたら、中庭に西洋花ミズキが植えられていて、外壁に白と青のタイルが張られた瀟洒な建物のヨックモック本店が候補なのだけれど、こちらは南青山の所在であるから表参道沿いの条件に合わない。ならばもしかして、地元の老舗「オリーブ」だろうか?などと、小説のモチーフ探しを楽しんでみる。

 小雨のなか、善光寺裏の通りを原宿方向に向かってすこし歩き、右手に入るとローソンの看板が目に入ったので、入り口近くに置かれた二種類のうち、880円の傘を選んで購入する。黒のナイロン製で持ち手は合成皮革、なかなかのコストパフォーマンスに満足して、昼食はすぐ近くの「仙波」で蕎麦とかき揚の定食900円也にする。ここは青山あたりでは安くて気軽なんで、その先のキラー通りにぶつかる通りの途中にあるとんかつ「まい泉」と並んで気に入ってるお店。「まい泉」は以前は「井泉」という屋号で営業していて、大学生のころ友人から教えてもらって以来のお店なんだ。本店はここ神宮前の住所なんだけれど、ちょっとユニークなのはなんと隣接した元銭湯場をリノベーションして店舗スペースとしていること。通りから注意してみるとビルの合間から堂々たる破風造りの大屋根が望まれる。一度その天井高のスペースで食べてみたいと思っているのだけれども、未だに果たせていない。こんどの家族ランチの機会にでもとっておこうか。
 もともとは商店と住宅が混在していた「まい泉」の通りも随分と新しいお店が増えてきている。飲食のお店が多いかな、写真スタジオやブライダルサロンもある。時代の空気がここにも押し寄せているけれど246号線から一本裏に入った通りのせいか、まだ適度な移り変わりようであって、大きな資本の流入はないようだ。

 ここをぬけて約300メートルくらいか、外苑通り通称キラー通りにぶつかるとワタリウム美術館はもうすぐ。スイスの建築家マリオ・ポッタの設計、1990年竣工、個人住宅を内包したギャラリー兼店舗。オーナーの名前を冠して「和多利主義」とはスゴイ。この日の目的は、ギャラリースペースでひらかれている『寺山修司_展「ノック」』を見ること。「ノック」とは寺山率いる前衛劇団「天井桟敷」が1975年4月に決行した阿佐ヶ谷地域を舞台にした“伝説”の野外移動劇のこと。当然のこと再演されることはないので、そこが伝説の舞台と言われてイメージだけが肥大していくゆえんだろう。わたしは幸運にも寺山かぶれの友人の影響で、かろうじて別の生舞台とすれ違っている。渋谷ジァンジァン「観客席」の舞台で、そのイメージはいまも強烈だ。寺山修司がなくなって30年になるなんて!


 
 今回の展示の内容と感想は別に機会に譲るとして、街中遊歩の次はその向いにある極小住宅のはしり「塔の家」。東孝光設計で1966年竣工だから東京オリンピックのニ年後で大きく都心の風景が変わったころだ。できた当時はおそらくまだ二階建てが並び、さぞかし目立ったにちがいない。47年がたって、ビルの合間にうもれても変わらぬ強烈な個性を放っており、よく手入れされたやや粗めのコンクリート打ち放し壁面にも歴史がにじんでいる。街路樹の緑が塔の2、3、4階の窓から望める位置にあり、さながら四季の移り変わりを感じさせて貴重な目の保養となっていることだろう。敷地面積はわずか20平方メートルというから、まさに都市の只中に暮らす意志を体現した住宅の金字塔と言われるのもうなずけるなあ。内部空間は、吹き抜けをうまく利用して、家族が暮らす生活空間を作り出してきているという。この搭体に対峙しているだけで自然と想像力が巡りだすのは対照的な造形だが、町田市大蔵町にある「トラス・ウオール・ハウス」(1993年)のかたつむりのような流体的造形と双璧だと思う。


  「トラス・ウオール・ハウス」(キャサリン・フィンドレイ+牛田英作、1993年)※外壁のツタは残念ながらいまはない。

 さて、散歩の締めくくりは、表参道のケヤキ並木を原宿駅方面に歩いてのドトールコーヒー原宿店。何の変哲もない独立した2階建て店舗だが、ここは数あるドトール店舗のなかでも特別なオリジン的存在、つまり第1号店の遺伝子を継ぐ店舗なんだ。わたしは建て替え前の店舗で飲食した体験があり、コーヒー150円の安さとジャーマンドッグのうまさにうなった覚えがある。そのうちにみるみる成長を遂げて、コーヒーショップ最大チェーンとなったのも当然かと感じた。最も驚かされたのが、銀座四丁目の和光本館と並ぶランドマークであるあの円筒形カラス張り「三愛ドリームセンタービル」(日建設計)が、ドトールショップに変わってしまったときで、これはまさしくコーヒーショップの金字塔だと恐れ入ったのだった。
 そんなことを思い出しながら、原宿の雑踏を抜けて夕暮れまでしばしの珈琲タイムが流れる。読みふけったのは、「建築家と小説家 近代文学の住まい」(若山繁/彰国社)、明治・大正から昭和までの建築史を文学作品に重ねて読み解いた異色の本だ。





「東京家族」の肖像 都会と瀬戸内の風景

2013年10月25日 | 日記
 少し前になるが、10月4日に町田市民ホールで「東京家族」(山田洋次監督作品)の上映会があり、いい機会だと思って見に出かけた。山田洋次監督が小津安二郎へのオマージュとして「東京物語」(1953年)をモチーフにした<いまの家族>の物語、とのふれこみに期待してのことだけど、もうひとつ注目していたことがある。この新作の長男の東京家族の舞台が、田園都市線町田市「つくし野三丁目」となっていて、実際のロケもそこで行われたのだそう。中央林間から四つ目、町田からだとJR横浜線長津田から乗り換えて一つ目の駅、典型的な東京郊外の新興高級住宅地である。著名なオペラ歌手や作家で翻訳家の常盤新平、美術家の飯田善国が住んでいたことでイメージされる文化的香りが漂う街。ここで医院を構えているのであれば、かなり恵まれて成功した人といっていい。終戦から10年も経っていない小津「東京物語」から60年を経て、現代「東京家族」のそんな設定をどのように考えたらよいか、とにかく見てみたいという思いがした。

 新幹線で上京してきた平山周吉夫妻(橋爪功と吉行和子)は品川駅で三男昌次(妻夫木聡)を迎えを待っている。冒頭からいきなり、現代を印象づけるシーンだ。両者はすれ違ってしまい、結局夫妻はタクシーでつくし野の長男宅につく。長男幸一(西村雅彦)は開業医で忙しそうだが、まあ同世代サラリーマンからすれば、地位もあり収入も多く時間の融通も利くだろうと思ってしまう。週末、東京案内の予定が急患が入ってしまい、夫妻は次女の発案で横浜の高級ホテルに宿泊することになる。そこがみなとみらいの「ヨコハマ・インターコンチネンタルホテル」で、窓から大観覧車のネオンが臨める部屋が映される。夫妻は時間を持て余し、臨海公園べりを散歩しながら、子供たちとの生活ペースの違い、微妙な距離を感じ始める。いったん小田急線沿いの次女宅に身を寄せるが、その次女(中嶋朋子)に困惑されてしまい、仕方なく周吉は板橋の友人、妻は三男のアパートを尋ねることにして別れる。そのふたりのつぶやきの場所が、池袋西武百貨店屋上であって、かつてわたし自身がよく仕事で関係していたところだけにへえ、東武じゃないのかと思ってしまう。それまでなんでもなかった場所が、瀬戸内海の島から上京してきた両親がわびしさをかこつ象徴的な場として脳裏に刻印された瞬間だ。ただこの二人は「東京物語」の笠智衆、東山千栄子の枯れた味わいのお二人に比べると、いかにも現代的といった印象がする。
 妻とみこ(吉行)が、三男のアパートを訪れていると突然恋人がやってきて鉢合わせしてしまう。恋人役の蒼井優がういういしく純でありながらしっかり者でいい。周吉と折り合いが悪く自由気ままな三男坊を心配していたとみこも、この二人ならうまくやっていけそうと喜んで帰宅するのだが・・・。
 とみこは帰宅後に倒れて病院でそのままあっけなく亡くなってしまう。三兄弟は相談の結果、故郷の瀬戸内の島へ久方ぶりにそろって帰省し、母親の葬儀をあげる。ひと息つく暇もなく、上の二人は東京の生活に追われるように島を後にしてしまい、三男と恋人紀子だけが残るはめになってしまい、紀子はなにかと気をつかうのだが、無口で武骨な周吉との関係に悩む二人。明日帰るというその時にはじめて周吉が紀子を呼び止めて向かい合う。「ずっとここにきてから見ていたが、あなたは本当にいいひとじゃ、昌次をよろしく」と頭を下げることで、ようやくふたりの間に流れる空気がおだやかなものとなっていく。この映画のハイライトシーンかもしれない。ひとりとなった周吉の生活を気遣う隣人とその中学生らしき娘、慌ただしい都会と対比されるように瀬戸内のおだやかで美しい風景シーンに静かな安堵感が流れ、慈しむような未来を暗示して映画は終わる。

 映画途中のシーン、上京して亡くなった友人の自宅を訪ね、そのあと同級生と居酒屋で互いの境遇を語り合いながら、周吉が「どこかで(すすむ)道をまちがえたんじゃ」「あきらめにゃいけん」とつぶやくその意味は、単に家族や自分の人生に向けてだけではなく、戦後の日本社会に向けた感慨でもあろうか。そこには地方から都会へ、懸命に生きながらも時代の流れに翻弄される家族の姿がくっきりと映されているのではなかろうか? ただ、それにしては1950代の「東京物語」と比べると周吉の子供たちの境遇はそこそこ恵まれていて、ぜいたくな悩みのような気もする。いっそのこと、将来幸一が瀬戸内の故郷の島に戻って地域医療に貢献するとしたら、あまりにも理想的で予定調和的だろうか?まあ、息子が小学生でもあり、嫁さんは大反対だろうし、あざみ野の地を離れるのはしばらくは考えられないのが現実だろうと、同様に故郷を離れてしまったひとりとして実感する。

 さて、幸せってなんだろう、とあらためて思う。月並みだけど、離れていても家族心通わせて地域にとけこみながら暮らすことだろうか。そうすれば、そこが第二の故郷になるだろう。欲望に惑わされない、かといって内向きすぎない身の丈の暮らしがいい。3.11以降、エネルギー問題がクローズアップされて以来、そのような当たり前の価値観がこれからの社会にもとめられている。適度に“不便がいい社会”のイメージははたしてどのような生き方なのだろうか?




鎌倉西御門サローネ タンゴトリオを聴き、江の島花火を見た週末

2013年10月23日 | 日記
 週末19日午後曇り空、アルゼンチン人ギタリスト、レオポルド・ブラーヴォ タンゴトリオのサロン演奏会を聴きに行く。
 
 小田急線で藤沢から江ノ電に乗って鎌倉へ。休日なので人出は多く、若宮大路を鶴岡八幡宮方向に歩いてゆく。境内入り口手前を右に曲がり横浜国大付属小中学校の脇を通りぬけて、谷戸地形の奥まったところにある西御門サローネへ。「にしみかど」とよむ、鎌倉政庁ゆかりの地名が冠された建物、大正15年関東大震災の直後に立てられた旧里見邸宅が本日マチネ演奏会の会場である。基本設計も本人のプランで、F.L.ライト風のモチーフが取り入れられたという本邸に茅葺の日本民家が付属している。門柱と玄関の大谷石、それに二階の白い木組みベランダが象徴的の素敵なたたずまいで、周りは谷戸の緑が迫ってきていてなかなか閑静な環境。ここを訪れるのは骨董市を含めて5回目くらいかな。

 入り口で受付をまっていると主催者のHさんご夫妻が声をかけてくれる。まだリハーサル中ですこし待ってください、とのこと。やがて午後2時半に庭先で受付が始まり、暖炉のある広間へ、椅子が並べられていてここが40から50名くらいの客席になり、ステージは隣の玄関ホールにあたるスぺースになる。すでに譜面台とコントラバスが置かれていて、サロンコンサートらしい親密な雰囲気が醸し出されている。
 
 ステージは、まずギタートリオのタンゴ曲「ダンサリン=踊り子」からスタート。古いリズムのミロンガ、ワルツと続いて、バンドネオン・コントラバスで「地底の底から」、前半のラストをA.ピアソラの組曲「タンゴの歴史」で一気に聴かせる。なによりも構成曲「カフェ1930」「ナイトクラブ1960」と続くタイトルがカッコいい。ボヘミアン、放浪の人、ひとところにとどまることをしなかったピアソラならではの魔法のタイトルだ。
 休憩時間、主催H氏からのワインサービでひと息つく。型式ばらないサロンコンサートらしく気軽で親密な雰囲気がいい。この邸宅の雰囲気もそれに一役かっているのは確かだ。久しぶりに会う友人のA氏と近況など言葉を交わす。
 後半は、ギターとバンドネオンが主役になる曲のいくつか。途中にプログラム外の一曲が「エスキーナ」、たしか街角という意味だと思う。バンドネオンの北村聡、リズムのキレとタメにすご味が増していた。とくにピアソラの代表曲を並べた「リベルタンゴ」「オブリヴィオン=忘却」「アディオス・ノニーノ」において。ともするとクサさに陥りそうなギリギリの一歩手前で踏みとどまっているようなタンゴのエロチックさを感じさせてなかなかのものだった。そのすぐ真ん前で聴いていたので、バンドネオンの蛇腹のしなりが生身の息づかいを見ているようでいっそうの臨場感を感じさせ、鼓動の早鳴りがやまなかった。アンコールが一曲、午後4時過ぎの終了。

 H氏に挨拶した後、すぐにサローネをでて駅までの道のりをA氏と歩く。途中の住宅街にある知り合いO君の自宅前で偶然散歩帰りの家人をみかけ、声をかける。よく手入れされた三匹の愛犬のふさふさして丸まった尻尾が印象的。キリッとした立ち姿で無駄吠えすることもまったくなく、よくしつけられているので律儀なご本人を思い浮かべて感心する。
 鎌倉駅でJRと江ノ電に別れて帰路へ着く。車中は江の島花火に向かうカップルで込んでいる。みんな防寒支度の装いなのが“見る気”を感じさせる。午後6時過ぎに江ノ島駅で下車して引地川沿いにでるとちょうど花火の開始直後のようで、弁天橋のむこう海辺の二か所から上がっている。すこし、風もでてきていたがなんとか雨のほうは大丈夫、夜空を見上げると大輪の光が次々と打ち上げられていく。
 タンゴ演奏会のあと、冷え込んだ秋の夜空の打ち上げ花火模様、江の島燈台の灯りと季節はずれのような海辺の光景、逆に忘れられないものとなった。


 

サイモン&ガーファンクル「Bridge over troubled water」(1970年)を巡る断章・序

2013年10月19日 | 日記
 サイモン&ガーファンクルは、2009年7月に16年ぶりの来日公演を行っている。来日記録によると、初日8日ナゴヤドームでスタートし、東京では10、11日の東京ドームと唯一のドーム公演以外の追加公演が日本武道館の15日、最終公演が18日の札幌ドーム公演となっている。いま手元には、S&G二人が前後に並んでいるアルバムジャケットと同じ写真を拡大した、そのときの来日公演告知広告が掲載された朝日新聞4月21日夕刊と東京ドーム公演のチラシがあって眺めている。この来日公演、さんざん迷った末に聴きにいくことを諦めてしまったのだが、当初から武道館公演は日程的に追加ありと予想していただけに、やはり聴きにいくべきだったと今でも後悔している。実際に足を運んだ知り合いの方によれば、郷愁を超えた実に素晴らしいパフォーマンスだったという。

 新聞広告のコピーにはこうある。「あれから40年。あなたは、何処で何をしていましたか?」

 サイモン&ガーファンクルは、私にとってすこし遅れて知ったアーティストだ。彼らが活躍した60年代後半から70年にかけてはまだ小学生から中学生、ましてや地方の片田舎だったので、ほとんど洋楽に触れる機会もなかった。TV芸能アイドル全盛時代で雑誌「平凡」や「明星」に代表されるメディアを通しての情報と知識がほぼすべてで、ラジオの深夜放送に耳を傾けることがあったくらい。洋楽体験はじまりのお気に入りは、カーペンターズ「シング」「イエスタディ・ワンス・モア」を筆頭に、ミッシェル・ポルナレフ「忘れじのグローリア」「ホリデー」、ビージーズ「マサチューセッツ」「メロディー・フェア」、そしてポール・モーリア「水色の恋」やレーモン・ルフェーブル「シバの女王」などイージーリスニング音楽。そして最初に生で聴いた外国人アーティストは、「ブラザース・フォア」(文京公会堂)で、休みに予備校夏期講習で上京した際の合間だったと記憶する。いまから考えるとこれは、1960年前後のカレッジフォークブームが70年代後半にリバイバル人気で復活していた時期で、ブラザースフォアもその流れに乗っての来日だったらしい。

 さてS&G、新潟の田舎の少年は高校時代までに大ヒットした「明日に架ける橋」「ボクサー」くらいは耳にしていたと思う。本格的に意識したのは1980年ころの大学生となってからで、すでに古典となっていた映画「卒業」のサウンドトラックや1981年の「NYセントラルパークコンサート」で再結成が話題になってからだ。大学生協で気になった彼らの何枚かのレコードを取り寄せて購入し、“後追いで”聴いた。ポール・サイモンのソロアルバム「時の流れに」が唯一リアルタイムで親しんだアルバム、たしか「卒業」はどこかの名画座で見ることができた。「ミセス・ロビンソン」のリズムとメロディーはとてもイカしたなあ、けれどもそれ以上の深まりはなかった。
 むしろ、アルバムのバックで洗練された演奏をしていた、リチャード・ティーやスティーブ・ガッドなどがメンバーだった「スタッフ」や「クルセイダーズ」などに80年前後に大流行したフュージョン音楽や、カラッと一見明るい装いのウエストコースト音楽などに興味があったし、同じフォーク系ではカナダからでてきた才女、ジョニ・ミッチェルがお気に入りとなった。すでにイーグルスは「ホテル・カルフォルニア」(1976年)において「ホテルのバーには1969年以降、そのような酒スピリッツ=精神はおいてはいない」と70年代以降の退廃していく社会と時代の流れを予言していたのだから。
 ほかにも同時代の新しい音楽は次々と動き出していたようだし、当時の自分にとって少なくとも彼ら=S&Gは少し前の時代の音楽であり、ほかに聴くべき音楽は次々とリリースされていた。なにかと背伸びしてみたい年代だったこともあり、80年後半の毎年7月末には熱にうなされたように、よみうりランドの野外音楽堂オープンシアター・イーストで開催されたJAZZフェスティバル「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」に通い続け、マイルス・ディビスやデイビット・サンボーン、マーカス・ミラー、ハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、パット・メセニー、そしてロバータ・フラック、ミルトン・ナシメントなど名だたる豪華な出演者のステージを聴き、芝生席から缶ビールのプルリングを開け続けた。せっかくのS&G数枚のアルバムは棚の奥にしまい込まれたまま、30年余りが過ぎ去ってしまう。

 そして2009年のS&Gの16年ぶりの来日公演、その前後、ひょんなことを契機に改めて彼らの音楽と向き合うこととなった。久方ぶりに向き合ってみて、彼らの音楽が次代に流されることなく“真に向き合うに値する音楽”であることにようやく気づいたのである。
 「あれから40年。あなたは、何処で何をしていましたか?」とコピーにはあるが、私にとってはちょうど十年おくれての1980年以降の出会いとなるから、来日公演から4年後のいま、次にように自問自答したい。

 「あれから34年。あなたは、まほろの地で何を考え、何をしてきて誰と出会い、何処にいこうとしているのですか?」

村上春樹とポール・サイモンについて

2013年10月16日 | 日記
 台風26号が関東に接近している夜中に、ポール・サイモン=Paul Simon「ハーツ・アンド・ボーンズ」(1983年リリース)を聴いている。言わずと知れたアメリカを代表するシンガー・ソングライター、1941年10月生まれ。
 いっぽうの村上春樹、ここ数年年のノーベル文学賞の発表時期になると受賞するかどうかが話題になる、海外でも知られた現代日本を代表する人気作家。あまりこのイメージではないのかもしれないが、1949年1月生まれのいわゆる団塊世代で、わたしが学生だった30年くらい前は、サブカルチャー雑誌に写真付きでインタビュー記事も掲載されていたくらいだったのに!

 このいまや巨頭のお二人の名前を並列したのは、まず第一にその風貌というか表情、外見の印象。ふたりとも、小柄ですこし猫背(おそらく)、ずんぐりした体型だが実は身体を鍛えていて逞しく禁欲的、ハンサムではないが?女性にモテる(たぶん)。また、分野がちがっても作品から受ける印象がとても似ている気がするし、一昔前の“ヤッピー”とよばれた都会的センスがあり?裕福で流行に敏感な世代とされる若者たちの熱狂的な支持を受けているであろう点もある。さらに、たとえば以下のタイトル。

・4月のある晴れた日に100パーセントの女の子に出会うことについて
・タクシーに乗った吸血鬼
・彼女の街と、彼女の緬羊
・鏡
・5月の海岸線
・32歳のデイトリッパー
・チーズ・ケーキのような形をした僕の貧乏
・かいつぶり
・サウスベイ・ストラット
・図書館奇譚


・時の流れに
・マイ・リトル・タウン
・きみの愛のために
・恋人と別れる50の方法
・ナイト・ゲーム
・哀しみにさようなら/ゴーン・アット・ラスト
・ある人の人生
・楽しくやろう
・優しいあなた
・もの言わぬ目/サイレント・アイズ

 前者がポール・サイモンのタイトル曲であったとしても、後者が村上春樹の短編集の目次であったとしても違和感がないのでは?
 正解は前者が短編集「カンガルー日和」村上春樹、後者がアルバム「時の流れに」ポール。サイモン。いくぶん、村上がカラッとしていて、ポールのほうは抒情的な印象だが、両方とも都会的でウイットに富んでいる点は共通していると思うのだがどうでしょう?

 と、ここまで書いてきてどうでもいいような気がしてきたが(でもふたりとも好きだ)、お二人はお互いをどのようにリスペクトしているのだろうか?有名人同志、たぶん互いに少なくとも名前くらい知っているものと思うのだが、叶うならちょっと聞いてみたいなあ。

建築家・長野宇平治が夢の果てに辿り着いた“神殿”

2013年10月09日 | 日記
 9月末の「建築トークイン上越2013」で新潟県上越市高田を訪れた際に、当地出身で明治大正昭和初期の建築家、長野宇平治(1867-1937)の墓参がかなったことを記した。はじめて宇平治の建築に出会ったのは、そこでも書いたように横浜市港北区にある大倉山記念館である。
 昨日の朝日新聞夕刊の連載「幻風景」に「大倉山の名建築」と題して、この記念館の正面写真=小さく女性が白亜の神殿風建物と対面し、両側の常緑の大木とぬけるようなが空が配置されている写真と短いエッセイが掲載されていた。それをうけて、改めて宇平治と現存しながらも「“幻”風景」として取りあげられたこの建物の数奇な運命と変遷、それにまつわる二人に人物についてすこし記してみよう。

 ここは1981年(昭和56)までは建物自体の名称を「大倉精神文化研究所」といって、実業家で戦前に東洋大学学長も歴任した大倉邦彦(188-1971)により1932年に建てられた東西の精神文化・歴史に関する研究と修養活動をおこなう研究所本館だった。いまもその研究所組織は建物内に存続している。この名称から想像されるとおり、かなり特異で壮大なの構想のもとに設立された研究所なのだろうが、当時の日清日露戦争以後の日本社会の世相風潮を鑑みれば、やはりひとつの時代精神を象徴するものに違いない。大倉は、来日したインドのタゴールとも親交を結んでおり、もしかしたら岡倉天心や原三渓ともつながりがあったのかもしれない。

 その大倉が建築主の精神文化研究所本館を設計したのが、ヨーロッパ古典主義建築の専門家で辰野金吾の愛弟子長野宇平治だったというわけである。残された肖像写真をみると、西洋風の彫りのある顔立ちでハンサムそのもの、自身の経歴にふさわしい古代ギリシャ彫刻のような風貌の印象なのがなんともおもしろい。この建築物はほぼ宇平治の生涯最晩年に作にあたり、彼の作品経歴からするととんでもなく“異色”の建築である。朝日新聞掲載エッセイには、かつて(大倉死後の昭和50年前後頃だろう)ここを地元の知人が「眠れる森の美女」と読んだと書いているが、長野自身はこの建物を「プレ・ヘニック様式」と命名していたそうで、建築史上名称では、古代ギリシャ古典建築様式以前の「クレタ・ミケーネ様式」と呼ばれる。
 大倉の死後に研究所が経営難に陥り、土地を横浜市に売却、建物が寄贈されて、1984年に「横浜市大倉山記念館」と命名、市民利用施設として公開されている。ちょうど昨年度、外観を含め再補修が完了して“白亜の宮殿”という表現がふさわしくなったのは確かだ。

 さて、かつては人知れずといえばそんな環境だったと想像されるいまは住宅地の小高い丘のうえにむかう坂をのぼり詰めていくと、忽然という感じで静かにただずんでいる姿は「眠れる森の美女」なのだろうか、あるいはオリュンポスの神々のひとりのアポロンか。もし前者であれば、宇平治の愛した古代ギリシャも突き抜けてさかのぼった時代の“女神ミューズ”であるに違いない。そのミューズは、正面二段六本の列柱の搭屋上にたたずみ、大倉邦彦と長野宇平治の想いをうけて、高邁な真理追求の使命のもとに遠く宇宙へまさしく飛び立たんがようだ。
 はたして宇平治は、実際にギリシャアクアポリスの地からエーゲ海の青い海に臨んだことがあるのだろうか?すくなくとも夢の中に幾度となく立ち上ってきたことだろう。ちょうど62回目の式年遷宮にあたるこの年、東西文明の源流をもとめていきついた晩年の老建築家の壮大な境地が伝わってくる。

    アテネより伊勢にといたる道にして神々に出会い我名なのりぬ  長野宇平治

ジャニス・イアン「17才の頃」を聴きながら

2013年10月04日 | 日記
 最近気になる、というより思わず“耳に止まった”コマーシャルがある。ソフトバンクのコマーシャルで、吉永小百合が王貞治から届いたメールを見て何やらつぶやいているスマートフォンCMなのだけれども、その映像のバックに流れているのがジャニス・イアンJANIS IANの「AT SEVENTEEN 17才の頃」。グラミー賞アルバム「BETWEEN THE LINES 愛の回想録」の中の代表曲で、このスマートフォンCMとの意外な組み合わせに、おーっと思ってしまった。
 この曲は、まさしくわたしの高校生時代(17歳の頃)の1975年にリリースされて以来、今日まで大事に聴き続けてきた曲のひとつで、それが突然テレビCMの中に流れていたのが驚きだった。ジャニスは、この次の次のアルバム「奇跡の街」(1977年)のなかの「WILL YOU DANCE?」が1977年TBSドラマ「岸辺のアルバム」(山田太一脚本、八千草薫、杉浦直樹主演)の主題歌に使われて大ヒットし、わたしがちょうど大学生だったときに来日して公演をおこなっている。クラスメートと初めての日本武道館ライブ体験をしたのは、このとき1978年ではなかったか!

 「17才の頃」は、ボサノバ調のさりげない導入ではじまる、17才のモテない女の子の孤独・独白をうたった淡々とした内容のなんとも味わい深いメロディーである。間奏のフリューゲルホーンとナイロンギターの掛け合いがとても素敵で、全体の控えめな室内楽調のストリングスアレンジが秀逸だと思う(プロデューサーはブルックス・アーサー)。当時のわたしは、自分がむかえる「17才」という年齢に期待を不安をもって臨んでいた気がする。
 17才といったら、中学生のころにそのものズバリ、当時の人気アイドル南沙織=シンシアのうたった「17才」(作詞:有馬美恵子、作曲:筒美京平)が流れていた。こちらは、南国出身のさわやかなイメージでなんともまぶしくて、田舎の少年の胸中をめぐって不思議な息苦しさを残した。もちろん、いまでもその映像と歌声を思い出すたび甘酸っぱい青春前期のなつかしさに包まれる。
 実はジャニスと南沙織は音楽上の接点もあって、ジャニスの提供した楽曲「哀しい妖精(I LOVE YOU BEST」(1976年リリース、意訳しすぎか?)を歌っている。この曲をふくめてジャニスが数曲提供したアルバム「ジャニスへの手紙」を当時すぐ購入して、それはいまもある。記憶違いでなければたしか、練馬区向山にある遊園地豊島園の夏の野外ステージで、南沙織の歌う「哀しい妖精」を初めて生で聴いたはずだ。それ以来遊園地といったら、イメージするのはあの真夏の夢のような豊島園なのである。

 ジャニスイアンの自作自演した「17才の頃」は、南沙織歌う「17才」の素直な明るさ、まぶしさとはすこし違った人生の側面を感じさせた。青春の光と影とでもいうのだろうか、これによって田舎の少年はすこし大人になったような気がする。

建築トークイン上越2013 その(2)

2013年10月02日 | 日記
 建築トークイン上越2013の二日目9月29日は、会場を高田市街中心地にある町屋交流館「高田小町」を舞台にして行われた。ここは、明治時代に建てられた町屋を再生した蔵ギャラリーや和室・集会室施設で、雪国である高田旧市街地の「雁木町屋」とよばれる建物のうちの代表的なもの。「高田小町」というネーミングといい、今回の会場のひとつとしてふさわしい。

 ここで参加学生たちとグループファシリテーターの高橋真氏を交えて、街中をめぐっての様子や商店街での買い物について披露することから始まった。ちょうど一本裏手の大町通りで朝市がひらかれており、わたしはそこをぶらつきながら近隣の農村地帯から野菜やら果物、それを加工した食品、海産物などが雁木通りにテント掛けで並ぶ風景を散策した際に購入した「ちまき」について紹介した。これは農村の保存食のひとつで、もち米を熊笹二枚で三角錐状につつみ、イ草のようなもので結んで蒸したもの。笹のほんのりした香りと殺菌力が作用して保存力も備わり、先人の知恵と手わざがつまった食べ物で学生たちも興味深かそうだった。
 
 ひととおり各人の話が巡った後、高田の町並みを形成する特徴である「雁木通り」についての話題が中心となる。「雁木通り」とは町屋から道路側にはりだした庇(アーケードのような軒)のことで、興味深いのはここの空間が「私有地」でありながら公共的空間としての機能を提供していること。ここの高田旧市街地の生活の特色と風土がにじみでている。「雁木通り」とは、高さの異なる町屋が連なるさまが横からみると「雁」が列をなして飛んでいるさま。雁行(がんこう)配列からきているものだという。この雁行が町屋風景としての伝統的な美しさをつくりだしている。それは、近代的な経済効率とは別の、雪国生活に根ざしたミクロコスモス=小宇宙の働きがつくりだした“美”意識ともいえる。

 今回、まちあるきの中で建物や町なみのほかに、高田ゆかりの同時代を生きた建築関係人物の記念碑と念願の対面ができた。まずは、建築史学の泰斗 関野貞(1868-1935 ただし、と読む。高田中学から旧制第一高校を経て、旧東京帝国大学教授)の生誕地。旧町人地をわずかに外れた高田藩士屋敷だったところで偶然の対面、うれしかった! 関野は伊東忠太の弟子で、奈良古建築調査にあたり文化財保護や平城宮祉の発見(1889年)で知られる。



 
 こちらは、やはり明治大正から昭和初期の建築家のはしり、長野宇平治(1867-1937)の墓碑。市内寺町の長遠寺にあり実に立派なつくり。初代日本建築家協会会長にふさわしくもあり、長野家自体が地元の名士であったのだろうと想像される。大きな碑は、宇平治遺徳碑で歌人でもあった長野の仲間なのか、佐々木信綱の撰文。長野は辰野金吾の弟子で日本銀行ほか各地日銀支店の設計にあたったり、横浜市内では晩年の大作、プレ・ヘレニック様式の大倉精神文化研究所設計(1932竣工)でも知られる。私はかつてこの建物と仕事上のかかわりがあって、想いれがある。小高い丘を登りきると突然現れる国会議事堂をすこし縦長にしたようなプロポーションの威風堂々とした外観、内面には和風やら大陸様式やらの意匠で埋め尽くされた不思議な建物を訪れるたびに、いつか高田にある宇平治の墓参をしたいものと願っていた。寺の山門をくぐり参道から本堂脇をぬけて墓地に回り、その地は意外にあっさりと見つけることができた。

 
 むかって右側の灯籠柱。「長野宇平治」の文字が読み取れる。