日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

建築・美術館周遊~表参道を明治神宮へ(番外編)

2014年06月30日 | 建築
 夏本番近し! 次々とあざやかな朱色のノウゼンカズラが咲き誇っているのがあちこちで目に入ってくる。水無月最後の今日は、夏越しの祓(なごしのはらえ)にあたり、今年もちょうど半分が過ぎて、これまでの穢れや不浄を払い清めるの茅の輪くぐり行事が行われる。夏越しとは、神慮をやわらげる「和し」(なごし)の意味であるともいわれているそうだ。

 表参道青山から外苑めぐりを記述するにあたって、すこし時間が経ってしまったこともあり、思い立って前回見落としたところや訪れることがかなわなかった明治神宮内苑の花菖蒲を久しぶりに眺めてみようと、再度週末雨模様の表参道へ足を延ばしてみた。
 午前11時に地下鉄表参道駅のA4口から青山通りを挟んで、山陽堂書店の壁画、「傘の穴は一番星」(谷内六郎)が目に入ってくる。ここから8日の建築・美術館めぐりははじまったのだった。小雨の中に一瞬、Mの姿が見えたような気がしたけれども、ちろん現実にはそんなことはない。


 山陽堂書店の壁画(谷内六郎)、その前の女性の姿は偶然の他人です、念のため。 

 青山通りを渡って壁画の前に立つと、銘板があって昨年亡くなられたコラムニスト天野祐吉さんの谷内ROKUさんに寄せる文章が書かれているのに気が付く。天野さんの主宰された雑誌「広告批評」編集事務所は、このちかく南青山四丁目にあった。書店のショーウインド展示は、「女のいない男たち」から、“小澤×村上春樹”「小澤征爾さんと、音楽について話をする」(新潮文庫)に代わっていた、やれやれ。そうしてもうひとつ、今年亡くなられてしまった安西水丸さんの最後の著作「ちいさな城下町」も。イラスト集ではなくて紀行集だろうか、意外な気もするが水丸さんの知られざる側面が書かれているのかもしれないね。この二冊はこの書店で購入するのがふさわしい。


 山陽堂書店ショーケースの小澤×村上対談本と安西水丸エッセイ集。

 ポスター左側丸囲み部分に「厚木からの長い道のり」とあるが、これはお二人が厚木のライブハウスにジャズピアニスト大西順子を聴きにいったエピソード゛から来ている。この邂逅は、サイトウ・キネン・オーケストラと大西順子との松本での共演につながるきっかけとつながる。この文庫本が表参道で展示されているのは、厚木から小田急線に乗って代々木上原で地下鉄千代田線に乗り換えて、長いいばらの道=ロング&ワイディング・ロードということなのか!?
 せっかくだから、書店内に入ってみる。正面は雑誌ラック、唯一ムラカミ短編集が平置されているのがご当地らしい。左手にレジがあって、狭い店内の壁面には実用書や単行本の棚が並ぶ、置かれた本のセレクトが地域柄を反映しているかのようだ。右手に階段があってその壁面にも書棚が二階へとつづく。二階はギャラリーで、これまでのおもな企画展のイラストや版画作品が展示されている。和田誠&安西水丸の合作イラスト、谷内六郎さん壁画の原版画(「488/600」と記された)もありました。それとならんで正面のガラスを通して眺める青山通り風景が何よりもここらしい?展示作品かもしれない。向かいの「落ち着いた雰囲気だった「大坊喫茶店」は、ビルの建て替えもあって数年前に閉じてしまったのですね。
 ここから、青山通りを渋谷方向へ、にわかに雨が激しくなってきた。前回行けなかった「Found MUJI」へ駆け込む。1983年にオープンした「無印良品」路面1号店(神宮前5-50 中島ビル)は世界各地からのセレクトショップへとコンセプトを変えて健在だった。だたし、おおまかな店構えと2階建ての構成は変わっていない。商品陳列棚の白い壁には、黒字でシンプルに次のメッセージが。

 「何か新しいものを見つけることではなく 古いもの、古くから知られていたもの、あるいは誰の目にもふれていたが見逃されていたものを 新しいもののように見出すことが 真に創造的なことである。」
                                 フリードリッヒ・ニーチェ

 いってみれば『温故知新』、この店内はモノを売るだけではなく、街なかで「スマートなライフスタイル」を哲学しているのである。おかげで少し賢くなれたような気がしたのは錯覚かな。そのせいか、柄にもなくすこし微熱を帯びてきたようで、店をでて横町を歩きまわる。「シナリオ・センター」の看板をチラリと目にする。住宅街の中におしゃれなショップ・飲食店が進出してきて街の空気がいやおうなく伝わってくる。ここらで空腹を覚えてどうしようか迷ったけれど、やっぱり「ねぎし」青山通り店で牛タンとろろ・麦めしの定食をいただくことした。ここは、前回コース周りによっては立ち寄ったかもしれないところで、味・雰囲気・値段ともに相応の大好きなところ。少し早めに入ったおかげですぐにカウンタ―席に座れたけれど、たちまちビジネスマンや若い女性でいっぱいとなってしまった。

 昼食を終えると外はすこし小降りとなっていた。246号青山通りのマロニエ並木は、どうやら若いケヤキに植え替えられたようだ。通りの反対側に、スパイラル(1985、設計:槇総合計画)の複雑ではあるけれど、端正で上品なファサードをちらりと望む。ちょうど前回のときみたいな天候のもと、雨に濡れたケヤキ並木の表参道をこの日は明治神宮方面に抜けていこう。TODS(2004、設計:伊東豊雄)、ルイ・ヴィトン(2002、設計:青木淳)、ディオール(2003、設計:妹島和代+西沢立衛/SANAA)、ポール・スチュアート=神宮前太田ビル(1981、設計:竹内武弘)をはじめとする欧米ブランド店舗のオンパレード、いすれも有名建築家の設計による現代建築のショーケース通りだ。その反対側の通り沿いには、店舗フロア上に住居を載せた表参道ヒルズがケヤキ並木と高さを揃えた姿を現している。先の周遊時は、青山通りからクレヨンハウスに立ち寄った後、その前の道をTODSビルのわきからでてきて、横断歩道からこのあたりのまっずぐに伸びる並木と建築を眺めたのだった。ここからの眺めは、東京を代表するヴューポイントとしてまさにハイライトといえる景観のひとつ。この地点から参道は少しゆるく下がり気味に傾斜して伸びて行き、やがてキャットストリートを過ぎると上昇に転じる。その絶妙な勾配にそってケヤキ並木の緑ときらびやかな現代建築が連なり遠近を意識させる眺めは、都市東京ならではのドラマ性を強く感じさせる。
 さらに先に進むと、戦後の米軍相手のお土産店からはじまったという「オリエンタルバザー」や「富士鳥居」などのエキゾチック!な伝統工芸品を販売する店舗は、予備校時代に興味深々で覗いたことがあり、懐かしいところだ。田中康夫「なんとなく、クリスタル」(1981年)の主人公由利が学生時代を過ごした舞台の設定はこのあたりで、小説ラストには表参道を青山通り方面にむかって走り抜けるシーンが描かれていた。30年くらい前の都会の華やかさ、それは今から考えると実に表層的にすぎなかった風俗のようなもの(その分確実にその時代の一面を現していた)にあこがれていた記憶が、雨の中を歩きながらフラッシュバックする。
 
 明治通りとの交差点までくる。雨が再び激しくなってきた。雨宿り先を探して原宿駅前のドトールコーヒーへ入る。ここも改築されてしまったが、旧店舗には入ったことがあって、記念すべき第一号店の遺伝子を継ぐ店だ。その反対側には東京オリンピックの翌年1965年に竣工した、コープオリンピア(設計施工:清水建設)の姿。ケヤキ並木にそって雁行式に並んだファサードが並木に調和して、そこに住んでいる都市生活者の豊かな風景を感じさせる建物だ。一階にはいまも変わらず老舗の広東料理店「南国酒家」があって、この支店がまほろ市にもできたときは、真っ先にここの風景を連想した。ドトール店内で村上短編集の中の一篇「木野」を再読しているとラストシーン、脳裏にはボブ・ディランの「天国の扉」の陰鬱な重たいメロディーが聴こえてくる。

 雨が少し止んでいた。山手線にかかる原宿橋から来し方の参道を振り返ると、駅前歩道橋が撤去されていて見通しがすっかりよくなっていることに気づく。ケヤキ並木が続く視線の先に雨に煙って六本木ヒルズも望め、その反対方向左手前方には、国立代々木体育館の反った吊構造の大屋根が見える。いよいよ、明治神宮だ。内苑の花菖蒲はまだ、残っているだろうか?

建築・美術館周遊(2)~ 南青山 旧山田守自邸

2014年06月21日 | 建築

 南青山五丁目の交差点から、こどもの城青山劇場を右手前方に望んで通称骨董通りを渡り、さらにワンブロック進んだ青学記念館手前を左に入る。そのすぐ先の貸しギャラリー「蔦サロン」と「蔦珈琲店」がある三階建てのやや古びた白い鉄筋コンクリート建物が、建築家山田守(1894-1966)の知られざる?旧自邸だ。各階の薄い庇と建物の角がやや丸みを帯びているところが特徴的、グレーと水色の中間くらいのペンキに塗られたベランダの手すりと調和している。竣工した当時(昭和30年代と思われる)はさぞかしそのモダンぶりが目立っていただろうと想像されるが、レンガ塀の向こうの庭の桜も大きく育った枝ぶりを拡げている。
 山田守自邸が青山学院のすぐ隣、南青山に存在していることが意外な感じがする。この旧自邸を訪れた機会に、建築家山田守とその代表的な建築をめぐっての事柄をいくつか記すことにしよう。

 山田守は、岐阜県出身で1920年代の大正時代に近代建築運動の先駆けである“分離派建築学会”の有力メンバーだった人物。元逓信省官僚となり省庁建築に関係したあと、東海大学に転身して建築学科の礎を築いた。ともに東京オリンピックの1964年に竣工した「京都タワー」や「日本武道館」など、誰でも知っている建物の設計者なんだけれども、名前をあげられる一般人は少なくて、その評価も建築以外の観点から話題にされることが多い建築史上微妙な位置にいる存在だ。だいいち名前からして、マンガの主人公みたいで拍子抜けするくらい平凡?、その実績の割にはちょっと不運な印象をもつ。なんだか建築家としては、主義主張を述べるより状況にあわせて柔軟で器用な人だった気がして、法隆寺夢殿を模したといわれる武道館などは、本人の指向というよりも東京オリンピックを控えた政治的な思惑に従った産物だったのだろう。その正統派とは少し異なる建築家人生をたどるとなかなか興味をひかれる存在だ。ちなみに同じ分離派メンバーで、その後明治大学建築学科教授になった堀口捨巳は茶室や日本庭園の研究で有名だけれど、山田と同年代で同郷岐阜の出身。こちらのうほうが、伝統に回帰したといわれる分敬意を払われているかな。

 個人的に山田による代表的な建築についての随想をあるがままに。まず、京都タワーは商業施設とホテルとローソク型の展望塔が合わさった構成といい、構造的にも実にユニークなものでけっこう好きな建物だ。竣工当時は賛否両論、景観論争の走りのようなものだったらしいが、時代の経過とともに「和ローソク」を思わせる展望台が夕闇に浮かぶ姿は、それなりに古都となじんできたようで、東寺五重の塔とともに京都駅周辺のシンボルとなっているのだろう。その時代の受け取られ方の変遷がおもしろく、興味を覚える。
 地下にある浴場施設はたしか午前7時から営業していて、早朝深夜バスで京都駅に到着した際には目覚めのリフレッシュに利用させてもらったり、夕方帰りの新幹線の時間があるときには、展望台から盆地に広がる碁盤の目の街並みを俯瞰して感慨にふけり、そのあと地階に降りてひと風呂浴びせさせてもらってから帰路に就くなど、おおいに利用させてもらって実はとても愛着のある存在だ。
 日本武道館はオリンピック柔道大会の後、ビートルズ来日演奏会場をきっけかに日本を代表するロックコンサート会場としてその名前は内外に轟いているのだから、そのような用途は想像していなかったであろう本人も草場の陰でさぞかし驚いているだろう。まったく、建築も人生もそんな意図しない要素のなかで新しい局面が展開されていくのは、まあ一緒なのかもしれない。
 東海大学湘南校舎の基本配置計画と主な初期校舎群は、やはり山田守の設計で特徴あるアール角と螺旋状スロープ、細い水平ラインの手すりは、一目で山田の意匠と印象づけられる。やや日本離れしたかの広々した湘南キャンパスはじつに気持ち良いだけれど、総じて大味な印象は否めない。まるで、東海大学そのものの日本の大学における微妙なポジションを象徴しているようでもある。ここのあたりが、建築家山田守としての脇の甘さ?ともとられない、建築史におけるやや評価の定まりにくい位置加減なんだろうと思うのだ。

 さて、南青山の白き自邸に入ってみる。古びた螺旋階段を上がると二階がサロンだ。その大ぶりの鉄扉はグレーに塗られた観音開きで、やはり弧を描いているのが山田らしい。扉の上の壁には、牛乳ビンの底のような丸くて厚いガラスが埋め込まれている。鉄・コンクリート・ガラスと素材からして完全にモダニズム建築の要素がそろっている。室内は意外にも、和風数寄屋の造りで奥の間には囲炉裏を切った茶室の間もあることに驚かされる。お庭に面した方向は、大きなアクリル面(ガラスではなく)がはめこまれ、外の緑陰が飛び込んできて実に和風モダン。適度に自然のままにまかせたお庭風景が都会の真ん中を一瞬わすれさせるかのようだ。このような情景も“市中の山居”のたたずまいというのだろうか。こうしてみると山田守も西洋モダニスト一辺倒ではなくて、和風にも接近して自分なりのアレンジを加えた意匠を試みている。外観がモダニズム、室内のある部分は和風を取り入れて融合を図っているところが、やはり日本的なのだ。早すぎた巨匠にして遅れてきた変革者という山田守への独特な評価は、ある意味肯定できる名誉ある称号なのかもしれない。

 訪れたときは、素焼き主体の焼締陶器(作陶:山本安朗)と古流式お花の室内によくあったしつらえ、ひと休みに抹茶を出していただいた。流れているBGMは環境音楽風であり、室内空間のなりたち・展示品・音の組み合わせによく気が配られている感じがよかった。もう少し、内装の保持に手が回らないのかと惜しまれるが、うーんこれも時代の流れをあるがままに受け止めてやがて朽ちていくかもしれない予感が漂う山田守自邸らしくて、味わい深くこのままでいいのかもしれないと思った。
 帰り際、Mが愛おしい感じで建物の裏手を眺めていたのも何か感じるとことがあったのかもしれない。退屈させちゃうかもと心配したけど、ホント好奇心旺盛なんだね、とてもうれしいよ。

 さて、ここを出ると次は青山通りを渡って、それぞれにとって思い出があるなつかしの(20数年ぶり?)落合恵子さんが主宰する、絵本のクレヨンハウスへと向かう。そして、表参道の歩道橋から見事なケヤキ並木越しに世界のファッションブランドビルの数々を眺め、神宮前の横町を抜けてワタリウム美術館、「塔の家」と進み、本日の締めくくりは、外苑銀杏並木の先の聖徳記念絵画館へと、まだまだ建築・美術館周遊の旅は続く。
 (6/18書始め、6/21初校、6/26校正)


建築・美術館周遊(1)~表参道青山あたり

2014年06月14日 | 建築
 八日午前、地下鉄出口を駆け上がると表参道は小雨に濡れていた。交差点脇からすぐ、山陽堂書店の谷内六郎の壁画を傘を差しながら見上げている黒のコートを着た細身なMのうしろ姿が目に入った。はるばる来てもらったのに、先に待っていてもらっていて申し訳ない気持ちで声をかけると、振り向きざまのすこし不安げな表情が和らいで、たちまちいつもの彼女のたたずまいに戻ったような気がした。いよいよ、建築・美術館めぐり表参道青山周遊のはじまりだ。

 今回の連絡をもらって、建築めぐりで歩く場所を考えていたときに真っ先に浮かんだのが、南青山六丁目旧高樹町にある根津美術館あたりだった。五月雨に濡れた表参道の欅並木や周辺の緑が落ち着いた街並みにふさわしいだろうと思ったのだけれど、もうひとつ頭の片隅にあったのは(ちょっと背伸びだけれど)村上春樹の最新短編集の中の一篇「木野」(主人公の名前、初出は文芸春秋2014年2月号)の舞台が、根津美術館裏の路地の奥にある“小さな一軒家”一階を改造したバーだったからということもある。そうしたら驚いたことに、「これね」といってMの指差す書店の壁画の下のショーケースには、なんとその単行本「女のいない男たち」が、お勧め?の一冊として展示されているではないか!ちなみに単行本の表紙カバー画には、バー入り口のしだれ柳の木と灰色の猫が描かれていて、おそらく連載中「木野」篇に添えられたものだろう。まあ、地元老舗書店のすこし気の利いた経営者であれば、青山あたりが登場する短編集なのだから当然のことなのかもしれないけれど、この心遣い?はうれしいな(書店のショーケース画像を後日アップ予定)。

 二人して小雨の中、傘をさしながら美術館の方向へ歩き出す。銕仙会能楽研修所はモダンなコンクリート打ち放し(1983年竣工、設計:日本共同企画建築設計事務所)の壁面と古典芸能との組み合わせが実に斬新な建物で、能楽界の前衛と目される流派に相応しい。ここの舞台で上演される青山能や沖縄舞踊公演には何度か訪れたことがある。その向かい、アカシヤ並木の合間からにヌメッとした全面厚いガラス張りの表情を見せるプラダブティック青山店(2003年)は、ビル自体がブランドを象徴するショーケースとなっている。その隣は、鮮やかな北欧ブルータイルの壁面を見せる洋菓子ヨックモック本社で、シンボルの西洋花水木が中庭に植えられた瀟洒な喫茶ルームに立ち寄ってみたい気はするけれど、まずは目的地へと進もう。
 根津美術館は10時の開館前なのに、もう数人の入場待ちの姿が見える。ひっそりとした状況を予想していたからすこし驚かされた。やはり隈研吾設計で建て替えられた建築自体の話題もあるのだろうな。この場所にふたりして来れるなんて想像もできなくて、それが実現してとてもうれしい反面、なんだかそわそわして照れ臭い。だって学生時代ならともかくこの年代になってみて、お互いの知らなかった側面がここで交差するなんで不思議でしょう。まさしく“僥倖”という言葉がふさわしいように思えるし、くわえて偶然にしてもこの日六月八日は、忘れることができない。何故ならば、このブログ“日々礼讃日々是好日”の開設一周年にあたるささやかな記念日なのだから!

 今回の展示は、館所蔵中国明清時代の工芸品で、コレクションで企画展ができてしまうこの美術館のたいした底力を思う。一階の展示を見た後は、茶室の点在する庭園をひと巡りして、ミューズカフェでひと休み。天上の和紙を通した照明が優しく、四方のガラス面からは周囲の庭園のあるれる緑がまぶしい。お互いのいまの暮らし、実家と家族のこと、豊田市美術館ミュージアムガイドのこと、中村好文氏と建築のこと、小田原本家と名古屋“ういろう”談義?など、いろんな話が次々とでてきてあっという間に正午を回ってしまっていた。
 本館に戻って二階の中国古代青銅器、明清の絵画、日本茶器コレクション(さりげなく千利休の茶杓、山田宗偏の黒楽茶碗も)を見たあとは、青山ブルーノート前を通って次の訪問地、同じ町内の岡本太郎記念館(1954、設計:坂倉準三)へ。
 ここが楽しかったのは、岡本、坂倉と70年大阪万博の関係についてで、なんと!同行してくれたMは、小学生のときに近所の数家族がそろって初めての新幹線でこの万博に出かけていったのだそうだ。太陽の搭の模型をはじめ、当時を振り返る記録集も最近出版されたようで、そのページをめくると見覚えのある各国や企業パビリオンが「あー、これもこれも覚えている、確かにテレビニュースでみかけた」といった感じで目に入ってくる。懐かしさを通り抜けたニッポン高度成長期の時代と「進歩と調和」を掲げた博覧会テーマがダブって走馬灯のように脳内を駆け巡ってクラクラしてきた。実際にアメリカ館で「月の石」を見てきた記憶があるよ、というなんともうらやましい万博体験の持ち主といっしょに、いまも唯一当時の記憶をとどめてそびえ立つ「太陽の塔」作者である美術家岡本太郎のアトリエを訪れているなんてね!

 いったん青山通りに向かって進み、小原会館横を通った横丁の和食店で昼食をとったあと、この先表参道を下り神宮前方面に抜けて外苑西キラー通りのワタリウム美術館を訪れるか、それとも青山墓地を通り抜けて乃木坂方面の新国立美術館に行くかを話し合った(Mからキラー通りの「塔の家」の名前が出てきたことに感謝。だってワタリウムへ行くなら、自分もその塔の家を久しぶりに眺めてみたかったからという思いとシンクロしたからね)。まあ、せっかくだから以前東京在住だった子育て時代に通ったという思い出の国立「こどもの城」(いま見ないと来年には閉館が決まったそうだ)と落合恵子さん主宰のクレヨンハウスを経由していくと、前者のコース取りがいいだろうということなり、青山学院方向に歩き出すことにした。
 ここの交差点で立ち止まっていたときに話を交わしたことで、この建築周遊コーズにさらに加えて岡本太郎(1911-1996)や坂倉準三(1901-1969)と同時代に生きたもうひとりのモダニズム建築家、山田守(1894-1966)の自邸を尋ねることにしたのだった。




五月雨のウイークエンド

2014年06月07日 | 日記
 
 今月五日に梅雨入りして以来ずうと雨降り。そんなしとしと降りの続く日のウイークエンド、午前中に高校の保護者懇談会へ参加する家人を送っていったあとに相模湖方面まで出かける予定だったけれど、どしゃ降りとならないか心配だったし、思い直して家に戻ってくることにした。今日は、娘も高校野球県予選大会の抽選会にいってしまって、日中の家にはほかに誰も不在だし、おとなしく明日の青山周辺散歩の道のりでもあれこれ考えてみようか。
 

 明日午前9時45分に、都内表参道の地下鉄駅口をでた交差点すぐの山陽堂書店で、今回の散歩を誘ってくれた友人と待ち合わせの予定。ここの老舗書店は数年前に新築になり、二階に小さなギャラリーを併設している。今年の三月に亡くなられたイラストレーターの安西水丸さんが、仕事場近くなのでよく通われていらしたそうだけれども、あいにく日曜日は休業なので時間調整の雨宿りはできない!まあ、緑が雨に濡れて鮮やかなこの季節、傘をさして参道のケヤキ並木を眺めながらの待ち合わせもいいだろうな、ちょっとワクワクする。
 小雨か、曇り空かいずれにしても、交差点を渡って表参道の反対方向へすこし歩いて青(北欧ブルー)のタイル張りが印象的かつ洗練された外観のヨックモック本社(1978竣工、設計:現代計画研究所)のさらに先、フロムファーストビル(1975、設計:山下和正)、コレッツオーネ(1989、設計:安藤忠雄)を通り越して、根津美術館へ。隈研吾の設計で2009年に立て直されたばかり、今井兼次が設計した先代の白壁蔵造隠れ家風のひっそりした美術館の雰囲気は消えてしまったが、和風モダンな黒を基調とするシャープなつくり。「中国・明清工芸の清華」展覧会期中なんだけれども、一番の目的はここの和紙と木面内装のCAFEから眺める庭園の風景をふたりして散策して愉しむこと、いまの季節は新緑が鮮やかだろう。
 
 ここの風景を堪能したあとはもし時間が許せば、美術館庭園裏に隣接する(ここから西麻布!)A.レーモンド設計の旧カニングハム邸を見ていきたい。このあたりではすっかりめずらしくなった戦前の二階建て清楚な木造住宅のたたずまいを眺めてからのあとは、気の向くままに歩き回るだろう。近くの岡本太郎記念館(1954、設計:坂倉準三)は、この日の散歩同行者の希望もあり必ず行くことにして、その次は青山通りに戻って、表参道の脇から横町へぬけ、外苑西通り通称キラー通りをワタリウム美術館(1990、設計:マリオ・ポッタ)とすっかり町の風景になじんで風格の出てきた「塔の家」(1966、設計:東孝光)へいくか、青山霊園を横切って新国立美術館(2006、設計:黒川紀章)へ向かうか、思案のしどころ。たぶん、昼食をどこにするかで決まるかな。
 いずれにしても、散歩の締めくくりは青山通りから外苑前のイチョウ並木を通って、ランドマークでありながら実際に訪れる機会の少ない、聖徳記念絵画館前(1926=大正15年竣工)に行こうと思っている。ここの並木入口正面からのランドスケープは、ちょっと日本離れしていてスケールが大きい。視点の収束先に花崗岩で覆われた絵画館ドーム(最近重要文化財に指定された)が望める。いま2020年オリンピックに向けて建替案が議論を呼んでいる国立競技場は、その左手先になる。まもなく隣接した日本青年館も含めて取り壊しが始まってしまうそうだから、今回が見納めになるだろう。
 この機会に、あらためて予定される建築プランとスケールがこの地の景観面と歴史的文脈のなかで、周辺の未来にどのような影響をあたえるのか、一日現地をゆっくりと歩きながらの対話=ダイアローグのなかで、あれこれとりとめなく考えを巡らしてみよう。

≪今回の一枚≫
 
 自宅近くの公園の緑地斜面にひっそりと咲くホタルブクロ。いまの季節に相応しく、この花弁の中にホタルを入れてその光を楽しむのだそう。そのぼんやりとした灯りは雪洞みたいではかなくて美しいだろう。
 

ラリー・ネクテルというピアニスト

2014年06月03日 | 音楽
 水無月に入ったばかりというのに、いきなり連日の気温三十度越えの真夏日で暑さが厳しい。横浜三渓園やまほろ近郊の薬師池公園のハナショブがぽつぽつと咲き始めた。もうすぐ、梅雨入りも近いのだろうか。アジサイも色づき始めて雨を恋しがっているかのようだ。

 さて、ラリー・ネクテル Larry Knechtel(1940.8.4-2009.8.20)について書こうとするとき、その名前を意識したのは、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」(1970)における印象的なイントロを弾いていたピアニストとしてだろう。このとき、彼は30歳になる直前だったんだ。ポール・サイモンのゴスペルの伝統を踏まえた楽曲の素晴らしさ、アーティー・ガーファンクルの一世一代の歌唱がこの曲を後世に残るであろう名曲たらしめているのだけれども、ラリー・ネクテルのピアノ演奏なくしては、少なくともその輝きは幾分かの価値を減じていただろうと思う。
 ラリー・ネクテルの風貌にこの機会に初めて接したが、がっしりした野性味のある印象のカントリーボーイらしく、晩年は牧場を経営していたらしい。ピアニストではあるがベースもいけたそうで、その華麗なセッション歴からは度量の広い人間性や器用さとともに、自己をわきまえて主役を立てることで、結果的にいぶし銀の輝きを放つセッションミュージシャンとしての存在感がある。

 五年前の夏に、69歳でこの世を去ってしまったラリー・ネクテルの名前を最近、思わぬところで発見して驚いた。ここのところ聴き直している、竹内まりやのサードアルバム「LOVE SONGS」(1980年3月リリース)において。このアルバム中、「さよならの夜明け」「ロンリー・ウインド゛」「リトル・ララバイ」の三曲でネクテルの演奏が聴ける、ということを初めて“意識して”聴いた。とくにラストの「リトル・ララバイ」に於いては、冒頭からアコースティックピアノが前面にフューチャーされていて、「明日に架ける橋」から10年後のネクテルのピアノ演奏が存分に聴ける。
 このアルバムの演奏クレジットを改めて見直すと、林哲司、山下達郎、加藤和彦といった日本人スタッフと編曲ジーン・ペイジ、ジム・ゴードン(ドラムス)そしてラリー・ネクテルといった西海岸の売れっ子ミュージシャンの競作から成り立っている作品であり、実に豪華な制作だったことがわかってきて、またまた驚かされた。個人的にも愛聴盤として、のびやかで心地よいサウンドと歌唱をよく夏の北軽井沢のアルバイト先で早朝に浅間山の噴煙を眺めながら聴いていたことを思い出す。竹内まりや侮れず、サードアルバムにして力まず臆することなくこの堂々たる歌唱、MGMビクターのRCAレーベル時代からさりげなくインターナショナルだった!
 冒頭曲の「FLY AWAY」は、ピーター・アレン(1944-1992.6.18)のオリジナルで竹内まりやの歌唱で知った後、輸入盤を買いもとめて本人の歌声を聴いた。このアルバム「I COULD HAVE BEEN A SAILOR](1979)においても、ラリー・ネクテルは計四曲参加しているから、ほぼ「LOVE SONGS」と同時期の演奏、これも今回の“発見”である。

 好きな曲やアルバム、アーティストをたどっていくと、それらがラリー・ネクテルでつながっていることが発見できて、なんだか不思議な気分になっている。確か竹内まりやも、当時の好きなミュージシャンとしてピーター・アレンの名前を挙げていて、この当時のサウンドは時代の潮流としてもアメリカ西海岸指向だった。いまのほぼ全面、山下達郎“夫”プロデュースの国内向けアルバムもよいけれど、この当時の竹内まりやはもうすこし背伸びして?アメリカを意識していたように思われる。若かったんだなあ、じつに。その分、いまは地に足がついて人生の深みを増してそれがアルバム制作姿勢にでている?昨年発表された市制周年記念で依頼をうけたという「わが愛しの出雲」なんて、タイトルからして大御所的のようだし・・・。

 つけ加えると、竹内まりやの声質と歌唱はじつはジャズアレンジによく対応していると思うから、そちらの方面に幅を広げていったら面白いだろう。四枚目の「Miss M」中の「雨のドライブ」は本人の自作だけれども、清水信之のアレンジとピアノ+ドラム、ベース編成のジャズテイスト曲でその可能性を示していた。また2007年の「Denim」の冒頭、「君住む街角」は、まりや自身のプロデュースで服部克久の編曲によるビックバンドをバックにして、リンダ・ロンシュタットばりの歌唱を聴かせる。
 このようなチャレンジを34年後のいま、軽やかにやってもらいたいものだとふと思うし、ぜひもっと聴かせてほしいな。

Houseから、Hut(休暇小屋) へ

2014年06月01日 | 建築
 水無月にはいる直前でしたが、中村好文さんの「食う寝る遊ぶ 小屋暮らし」を手に取り読ませていただきました。例によって著者自身のカラーイラストスケッチと手書き説明文がついた表紙の総ページ数112頁の書籍で、思わず手に取りたくなるような素敵な装幀です。表紙カバーをとると本体にもイラストが描かれていて、そこにはちょっとした著者の遊び心が表現されています。イラストの煙突から煙を上らせた山小屋にいたる曲がりくねった小経には、「The long and winding road that lead to yuor Hut」とあり、ビートルズの一曲に重ねられたメッセージが書きこまれていることに思わずニヤリとさせられるでしょう。

 この本の中で、著者は2005年から信州浅間山のふもとの御代田(新潟への帰省の際に上信越自動車道で通りすぎる場所!)で、既存の小さな建物を改装増築してはじめた休暇時の田舎暮らしについてのあれこれを11章仕立てで書き綴っています。そこにあった建物は、もともとはこの辺りを開拓に入った老夫婦の住まいだったもので、床面積14坪の住宅というよりは小屋という呼び名に相応しいものでした。その建物を借りて改装した際に、著者の干支にもちなんで「レミング・ハット=旅鼠の小屋」と命名したんだそうです。ここにおいてようやくこの文章タイトルのハット=HUT(山小屋)につながってきます。それは日常の住まいである「HOUSE」と、週末や休暇をを過ごす山小屋「HUT」を対比してみることで、暮らしとか生活の質について、大きくは宇宙船地球号の環境とエネルギー問題について、思いつくままあれこれを書き綴ってみたいと思ったのでした。

 序章の「憧れの休暇小屋」とは、南仏にある建築家コルビジュの“夏の休暇小屋”やアメリカのボストン郊外コンコードのH.D.ソローが暮らしたウオールデン湖畔の小屋を意識したものでしょうけれども(わたしはここに、岡倉天心が太平洋を眺めながら思索にふけったという五浦六角堂をくわえてみたいのですが)、若き日の著者は以下のように記しているんです。ちなみにこの当時の著者は、海を望む場所に小屋を建てて、日がな一日、海を眺めて過ごしたいという願望を長年にわたって持ち続けていたそうです(ほらね、やっぱり五浦六角堂に籠って瞑想する岡倉天心の心持ちと一緒でしょう)。
 「私はこの小屋を電線や電話線、水道管やガス管などの便利な『文明をの命綱』で繋ぐのはやめようと考えている。・・・自然の恵みで真正面と向き合って暮らす質素で贅沢な休暇生活を送りたいのである。」
 つまり、これは「不便も愉しい」ことに価値をおいた暮らすことの原点と向き合う日々を試行してみようという表明にほかなりません。ここでいう文明とつながれた“さまざまな菅”とは、例えれば病院のICUで重体に陥った病人につながれたチューブのようであり、いたずらに延命を図る現代医療行為の写し絵のようにも思えてくるのです。その命綱を繋ぐことをやめてみた時にみえてくる本当の姿とはいったいどのようなものでしょうか。

 中村氏は、ここで“食う寝る遊ぶ”暮らしを実践する日々を嬉々と記しています。ときに敷地の畑での農作業、ベランダでの大工仕事や、ハム造りの愉しみ、晴耕雨読と音楽三昧の日々・・・。その姿を映した数編のショットから受ける印象は、どことなく“無印良品”の提唱するような、都会の豊かで裕福なエコロジーにも関心のある“ソトコト”世代のライフスタイルにどことなく似ている印象を与えますが、そのこと自体は決して悪いことではないだろうな、という気がします(これは批判ではありません。実際のところ、わたしも都会近郊の生活を享受し、無印良品の恩恵に預かっていますし、その製品のファンでもあります)。中村氏の述べるところの“食う寝る遊ぶ”暮らしは、ハウスとハットを往復しながらけっして無理がなく地に足がついた自然なものと見受けられます。

 もうひとつ、この本の中で紹介されている小屋があり、それは「書斎兼風呂小屋」というもので、山小屋のある敷地内の対角線上、畑を隔てた位置にちょこんと存在しているかわいい建物なのです。建築面積はわずかに三畳半で、「起きて半畳、寝て一畳」の書斎と風呂を共存させた発想がたいそうおもしろく、設計者快心の居心地の良い建築空間に違いありません。山小屋の台所兼居間からすこしの距離を歩いてその「書斎兼風呂小屋」にたどりつくと、小机の前の突き上げ窓からは佐久平を挟んで八ヶ岳が望めるのだそうで、なんとうらやましい!ロケーションでしょうか。
 この小屋にはまだ愛称はつけられていないようなので、その生まれた巣穴に戻ってきたような心持ちからして、著者への憧憬の想いを込めて(僭越ではありますが)次のように名付けたいと思います。
 いわく、レミングネット=鼠の巣!小屋。これで「レミングハウス」(世田谷奥沢の著者が主宰する建築設計事務所)、「レミングハット」「レミングネット」と三つ揃いとなりました。どうですか、コウブンさん、気に入っていただけましたか?
(5/31書下ろし、6/1追補、6/3改定、著者の文体を模して習作を試みました)