久しぶりの快晴、真夏日となる。蒸し暑さは戻ってきたけれど、もう中庭のセミたちの大合唱は聴かれない。わずかにすこし遠くで遠慮がちに“ミ~ンミンミン、ミー“という鳴き声が聴こえてくるのは、もう、夏の終わりの気配が確実にやってきているからだろう。先立つ先週の土曜日、お茶の水にある小さな老舗ホテルで開かれているゆかりの作家、建築家の展示会とトークショーに出かけてきた。
地下鉄の新お茶の水駅の改札から長いエスカレーターを上ると、ビル地下街を経由してちょうどJRお茶の水駅につながる広場にでる。アーチ型の聖橋脇の小さな駅舎は変わらずに健在だった。ここの駅舎は、新宿側お茶の水橋寄りの出入口とのふたつに分かれていて、ともに昭和の香りを遺す存在のままであることがうれしい。その駅舎間に狭い土地に張り付くようにひしめいてたつ建物には、バラック風情のものなど、遠くなってしまった学生時代からの店もいくつか残っている。鉄板焼きのキッチン・カロリー、画材屋の「画翠LEMONM」、山小屋のような内装の「山の喫茶穂高」など変わらない姿が懐かしい。
そんなこんなのお茶の水駅界隈をすこし歩き回ってみることにした。振りだし聖橋の下を深く流れるのは神田川。橋を渡った向こうには、こんもりとした緑の繁みの湯島聖堂の変わらぬ佇まいがあって、ここには孔子が祀られている。その右手方向の繁華街は秋葉原の街並みだ。すぐ駅前を下ったところ、石垣がこされたビルの敷地は、岩崎財閥二代当主屋敷だったという案内板があり、この土地の由来を知る。このさきのホテル聚楽のとなり位に、たしか中学三年の夏休み講習に通った千代田予備校があったはずだ。もうどこにあったのか、正確には分からないのがとても残念である。知らないうちに新しい高層ビル街もできているし、日本大学駿河台校地などは、まさに再開発の真っ最中でクレーンが林立し槌音高い様子。
そのビル街の中で立派な石垣の上に板塀瓦屋根のすばらしく立派な日本家屋を見つけた。ひとむかしまえの医者か弁護士か、自営業社長の邸宅といった情でそのまま有形文化財として残したいような一角でる。その先の坂を上ると十字架をのっけた青銅のドーム型屋根が見えてくる。これはハリスト正教会復活大聖堂、通称ニコライ堂の威風堂々とした姿。背景に巨大ビルが取り囲んでも、ほとんど外政時代と変わらない独特の景観で、たたずんでくれている。設計はロシア人であって、明治政府のお抱え建築家だったイギ人J.コンドルが工事監理にかかわったという。ロシア人司祭が行きかう境内に入れてもらって、しげしげとその威容を眺める。たしかにこの限られた空間には、周囲と異なる時代の空気が流れているなあ。
すぐ筋向い角にあった四階建ての小さな古いビルにあるつつましい佇まいの居酒屋が目に留まる、これはいいだろう。お昼はそのニコライ堂が眺められる店舗二階に上がって、広めのどんぶりにとろとろの卵がのっかった特製の奥飛騨鶏の親子丼をいただく。おそらく一階調理場で動き回っていた店主は奥飛騨出身なのであろうか、店内には観光ポスターやパンフレットが置かれていた。
さて、明治大学ビルの合間のマロニエ通りをぬけて、ようやくの今日の目的地、山の上ホテルに到着。まずは穏やかなクリーム色のタイル張り、モダンゴシックあるいはアールデコ調のデザインの六階建て本館と対面、ヴォ―リーズ建築事務所の設計で昭和初期1937年の竣工である。手をかけて大事に使われてきた様子が伺える。その前を偶然、赤いボルボが走り抜けるシーンが撮れた。
本館はす向かいの別館の様子がおかしいと思ったらすでに閉館していて、なんと明治大学所有になっていた。まだ利用計画は動き出していないようだがはたしてどうなるのか、本館ホテル営業のほうが心配になる。
この六階建て塔屋のつくり、大丸心斎橋店と同類のアールデコデザイン。
ホテル正面玄関から館内ロビーへ、一歩踏みいれただけでなんともいえない独特のオーセンテックな雰囲気に足が停まってしまって周囲を眺めまわす。こじんまりとした空間にまとまったフロント、落ち着いたロビー、喫茶コーナー、なんだろうこの既視感、ああもしかかしてここはあのユーミンの「時のないホテル」の世界そのものだ。とするとここは旧き佳きロンドン中心の一角か?
階段の黒い螺旋のつながりと黄金の手すりが素晴らしくその眺めは陶酔の世界だ。地下階から見あげてみた時にそれはため息とともに実感されることだろう。その階段を伝わって展示会場の二階のバンケットルームへとすすむ。縁の作家展には川端康成、三島由紀夫、池上正太郎、トーベ・ヤンソンなどの直筆パネル。でも今回のお目当は、ヴォーリズ建築関係資料の数々だ。
いくつかの建物パネルを参照すると、竣工当時は正面入口の車寄せ雨除けの大屋根はなく、あとからホテルとして転用された以降のものだ。ということは、この建物はもともとホテルとして建てられたものではなく、北九州出身の炭鉱王が社会貢献の一環として設立した生活改善運動を目的とした財団法人佐藤新興生活館の本拠地であったルーツをもつ。佐藤なる人物は、このホテル隣接の明治大学卒業の実業家で、これらの経緯はこのホテルに興味を抱いた当時に知ることとなり、おもしろいと思っていた程度だったが、今回の展示において当時の時代背景とヴォーリズのかかわりの中でさらに物語の裾野が広がってびっくりした。
ヴォ―リーズ建築は住宅に始まり、当然ながらキリスト教関係のつながりがメインで、各地の教会やYMCA会館が多いが、ミッション系の学校建築も多数ある。明治学院大学チャペルから始まって、関西学院大学、神戸女学院大学は美しい統一感のあるキャンパス配置計画そのものから関わってるし、戦後の国際基督教大学もそうである。ヴォールーズ没後では、最近の桜美林大学の建物も、ヴォーリズ建築事務所の設計と知り、なるほどと思った。桜美林学園創立者の清水安三は近江出身で、直接ヴォーリズの薫陶を受けた“不肖の愛弟子”と称している(晩年のヴォーリズとの関係は、ヴォーリズ側からは微妙だったらしい)。
おもしろいのは、商業建築のいくつかで、その双璧は京都四条大橋たもとの東華菜館と大丸心斎橋店だろう。どちらも実際に足を運んでその外観と内装デザインの多様なアラベスク的世界に目を見張ったものだ。大丸店の取り壊しは、本当にくれぐれも残念無念の限りだ。
このお茶の水界隈でのヴォーリズ建築というと、明治大学向かいの旧主婦の友本社(現在は日本大学理工学部)、隠れたところでは駅近くの近江兄弟社ビルがある(ここには四階に一粒社ヴォーリズ建築事務所東京支社が入る)。一見なんの変哲もない五階建てオフイスビルで、それと知らなければ通り過ぎてしまうが、駅前通りに面した側の建物角の一方がアールになってるモダン建築のはしり。大きな窓のとり方も大きめでうまく自然採光と通りの眺めを確保しているように見える。
もう存在しない建物では、神田川対岸にあった「お茶の水文化アパートメント」、これも当時は鉄筋集合住宅のはしりなのだそう。その後の変遷があって1980年代には、旺文社の関連団体が経営する「日本学生会館」として残っていて、学生時代にアルバト面接で中を訪れた記憶があるのだ。やや古びていたがレトロモダン、なんだかいわくありげな印象で、もちろんヴォーリス建築とは知る由もなかった。いまは、高層ビルとなり順天堂大学が丸ごと大学院棟としている。
山の上ホテルは、その小高い丘の昇りきった端の立地からヒルトップホテルとも呼ばれている。入口脇のヒマラヤ杉と隣接した明治大学校舎裏のポケットパークのような敷地の緑がちょうどいい。このような小さなホテルの存在自体が今の時代の流れのなかでは奇跡のようなもの。次は、ここでオリジナルのお菓子でお茶をしよう。
ヴォーリズ建築がつなぐ、郷愁まじりのお茶の水界隈めぐりの夏の一日だった。この日は、帰ってから大雨となる。
地下鉄の新お茶の水駅の改札から長いエスカレーターを上ると、ビル地下街を経由してちょうどJRお茶の水駅につながる広場にでる。アーチ型の聖橋脇の小さな駅舎は変わらずに健在だった。ここの駅舎は、新宿側お茶の水橋寄りの出入口とのふたつに分かれていて、ともに昭和の香りを遺す存在のままであることがうれしい。その駅舎間に狭い土地に張り付くようにひしめいてたつ建物には、バラック風情のものなど、遠くなってしまった学生時代からの店もいくつか残っている。鉄板焼きのキッチン・カロリー、画材屋の「画翠LEMONM」、山小屋のような内装の「山の喫茶穂高」など変わらない姿が懐かしい。
そんなこんなのお茶の水駅界隈をすこし歩き回ってみることにした。振りだし聖橋の下を深く流れるのは神田川。橋を渡った向こうには、こんもりとした緑の繁みの湯島聖堂の変わらぬ佇まいがあって、ここには孔子が祀られている。その右手方向の繁華街は秋葉原の街並みだ。すぐ駅前を下ったところ、石垣がこされたビルの敷地は、岩崎財閥二代当主屋敷だったという案内板があり、この土地の由来を知る。このさきのホテル聚楽のとなり位に、たしか中学三年の夏休み講習に通った千代田予備校があったはずだ。もうどこにあったのか、正確には分からないのがとても残念である。知らないうちに新しい高層ビル街もできているし、日本大学駿河台校地などは、まさに再開発の真っ最中でクレーンが林立し槌音高い様子。
そのビル街の中で立派な石垣の上に板塀瓦屋根のすばらしく立派な日本家屋を見つけた。ひとむかしまえの医者か弁護士か、自営業社長の邸宅といった情でそのまま有形文化財として残したいような一角でる。その先の坂を上ると十字架をのっけた青銅のドーム型屋根が見えてくる。これはハリスト正教会復活大聖堂、通称ニコライ堂の威風堂々とした姿。背景に巨大ビルが取り囲んでも、ほとんど外政時代と変わらない独特の景観で、たたずんでくれている。設計はロシア人であって、明治政府のお抱え建築家だったイギ人J.コンドルが工事監理にかかわったという。ロシア人司祭が行きかう境内に入れてもらって、しげしげとその威容を眺める。たしかにこの限られた空間には、周囲と異なる時代の空気が流れているなあ。
すぐ筋向い角にあった四階建ての小さな古いビルにあるつつましい佇まいの居酒屋が目に留まる、これはいいだろう。お昼はそのニコライ堂が眺められる店舗二階に上がって、広めのどんぶりにとろとろの卵がのっかった特製の奥飛騨鶏の親子丼をいただく。おそらく一階調理場で動き回っていた店主は奥飛騨出身なのであろうか、店内には観光ポスターやパンフレットが置かれていた。
さて、明治大学ビルの合間のマロニエ通りをぬけて、ようやくの今日の目的地、山の上ホテルに到着。まずは穏やかなクリーム色のタイル張り、モダンゴシックあるいはアールデコ調のデザインの六階建て本館と対面、ヴォ―リーズ建築事務所の設計で昭和初期1937年の竣工である。手をかけて大事に使われてきた様子が伺える。その前を偶然、赤いボルボが走り抜けるシーンが撮れた。
本館はす向かいの別館の様子がおかしいと思ったらすでに閉館していて、なんと明治大学所有になっていた。まだ利用計画は動き出していないようだがはたしてどうなるのか、本館ホテル営業のほうが心配になる。
この六階建て塔屋のつくり、大丸心斎橋店と同類のアールデコデザイン。
ホテル正面玄関から館内ロビーへ、一歩踏みいれただけでなんともいえない独特のオーセンテックな雰囲気に足が停まってしまって周囲を眺めまわす。こじんまりとした空間にまとまったフロント、落ち着いたロビー、喫茶コーナー、なんだろうこの既視感、ああもしかかしてここはあのユーミンの「時のないホテル」の世界そのものだ。とするとここは旧き佳きロンドン中心の一角か?
階段の黒い螺旋のつながりと黄金の手すりが素晴らしくその眺めは陶酔の世界だ。地下階から見あげてみた時にそれはため息とともに実感されることだろう。その階段を伝わって展示会場の二階のバンケットルームへとすすむ。縁の作家展には川端康成、三島由紀夫、池上正太郎、トーベ・ヤンソンなどの直筆パネル。でも今回のお目当は、ヴォーリズ建築関係資料の数々だ。
いくつかの建物パネルを参照すると、竣工当時は正面入口の車寄せ雨除けの大屋根はなく、あとからホテルとして転用された以降のものだ。ということは、この建物はもともとホテルとして建てられたものではなく、北九州出身の炭鉱王が社会貢献の一環として設立した生活改善運動を目的とした財団法人佐藤新興生活館の本拠地であったルーツをもつ。佐藤なる人物は、このホテル隣接の明治大学卒業の実業家で、これらの経緯はこのホテルに興味を抱いた当時に知ることとなり、おもしろいと思っていた程度だったが、今回の展示において当時の時代背景とヴォーリズのかかわりの中でさらに物語の裾野が広がってびっくりした。
ヴォ―リーズ建築は住宅に始まり、当然ながらキリスト教関係のつながりがメインで、各地の教会やYMCA会館が多いが、ミッション系の学校建築も多数ある。明治学院大学チャペルから始まって、関西学院大学、神戸女学院大学は美しい統一感のあるキャンパス配置計画そのものから関わってるし、戦後の国際基督教大学もそうである。ヴォールーズ没後では、最近の桜美林大学の建物も、ヴォーリズ建築事務所の設計と知り、なるほどと思った。桜美林学園創立者の清水安三は近江出身で、直接ヴォーリズの薫陶を受けた“不肖の愛弟子”と称している(晩年のヴォーリズとの関係は、ヴォーリズ側からは微妙だったらしい)。
おもしろいのは、商業建築のいくつかで、その双璧は京都四条大橋たもとの東華菜館と大丸心斎橋店だろう。どちらも実際に足を運んでその外観と内装デザインの多様なアラベスク的世界に目を見張ったものだ。大丸店の取り壊しは、本当にくれぐれも残念無念の限りだ。
このお茶の水界隈でのヴォーリズ建築というと、明治大学向かいの旧主婦の友本社(現在は日本大学理工学部)、隠れたところでは駅近くの近江兄弟社ビルがある(ここには四階に一粒社ヴォーリズ建築事務所東京支社が入る)。一見なんの変哲もない五階建てオフイスビルで、それと知らなければ通り過ぎてしまうが、駅前通りに面した側の建物角の一方がアールになってるモダン建築のはしり。大きな窓のとり方も大きめでうまく自然採光と通りの眺めを確保しているように見える。
もう存在しない建物では、神田川対岸にあった「お茶の水文化アパートメント」、これも当時は鉄筋集合住宅のはしりなのだそう。その後の変遷があって1980年代には、旺文社の関連団体が経営する「日本学生会館」として残っていて、学生時代にアルバト面接で中を訪れた記憶があるのだ。やや古びていたがレトロモダン、なんだかいわくありげな印象で、もちろんヴォーリス建築とは知る由もなかった。いまは、高層ビルとなり順天堂大学が丸ごと大学院棟としている。
山の上ホテルは、その小高い丘の昇りきった端の立地からヒルトップホテルとも呼ばれている。入口脇のヒマラヤ杉と隣接した明治大学校舎裏のポケットパークのような敷地の緑がちょうどいい。このような小さなホテルの存在自体が今の時代の流れのなかでは奇跡のようなもの。次は、ここでオリジナルのお菓子でお茶をしよう。
ヴォーリズ建築がつなぐ、郷愁まじりのお茶の水界隈めぐりの夏の一日だった。この日は、帰ってから大雨となる。