日々礼讃日日是好日!

まほろ界隈逍遥生々流転日乗記

酒匂川沿いを下曽我、栢山あたり

2015年06月26日 | 日記
 あと半月ほどで夏の高校野球選手権神奈川大会が始まる。夏の全国大会がはじまって、戦中をはさみ今年で百年目を迎える記念の年であり、神奈川県内からは186チームが参加するそうだ。娘の在学する高校野球部も、来月12日の初戦を小田原で迎えることになっていて、その球場の下見に出かけてきた。

 週末、その日は朝から梅雨の合間の晴れ、すでに日差しは初夏の感じだった。大和から国道246号線をひたすら下り、途中の厚木から伊勢原あたりはずうと渋滞でノロノロ走行がつづく。やがて鶴巻温泉の先の善波峠に差しかかるころになっても車の列は続き、どうやら事故が発生していたようだ。このあたりからは、冬の時期だと真正面に富士山の秀麗な姿がくっきりと望める。秦野まで降りてくると大山丹沢の山並みが少し霞んで見えてきた。
 山間をぬけて松田にでたところで左折して県道255号線に入り、酒匂川と並行に海へ向かって下っていく。両岸には田園風景がひろがり、その先に足柄の山々が連なるひらけた視界が心地よい。
 途中から住宅地のなかをぬけていくと用水路が流れる先の田んぼのなかに広々とした上府中公園が見えてきた。会場の小田原球場はこの公園のなかである。どうやら今日は何もやっていない様子、グランド整備にあてているようだ。周りをぐるりと一周してみることにして歩き出す。駐車場の反対側が外野スタンドで電光式のスコアボードが望めた。いまはまだ静かなグランド、外野フィールドは天然芝である。グリーンを見つめながら半月先の熱戦を想像して、娘たちのチームの健闘をひたすら祈る。
 公園の正面入口側の噴水池にイルカのオブジェ、その横の花菖蒲の植わった池のほとりには、覚えのある少年の銅像、ご当地の偉人の金次郎少年像である。やはりここは、二宮尊徳が生まれ育った土地だけのことはあるなあ、と実感。
 それではと車に戻り、ここから報徳橋を渡って酒匂川対岸、尊徳さんの生誕地である栢山で昼食をとることにして、お目当ての蕎麦屋を探す。東栢山の交差点を左折すると、しばらくして道路沿いに「蕎麦月読」の看板が目に入ってきた。店構えはまだ新しく、清潔感のあるこじんまりした店内、御座敷に上がってしばし寛ぐ。ほてった身体に十割そばののど越しと香りがなじんで、ゆったりした気持ちになる。
 
 ここから尊徳記念館はすぐ近く、左手方向に生家の茅葺屋根が見えてくる。まずは、江戸時代中期の典型的中流農家であったという生家を見学することにした。二百五十年ほど前の住居が変遷を経てもとの地に保存されていることに驚かされる。正面右手にはこれまでみた中で最も立派な等身大尊徳像がたっている。なんと身長180センチの大柄な体躯で、眉間のシワの深さに、うんーん意志の強さが伝わる。さすがにご当地にある記念館だけあるなあ、と感心しきり。生家は一度他人の手にわたって移ったが大切に使われて、ふたたびこの地に戻ってきたとある。家の前にある説明版には、そのいきさつに真珠王の御木本幸吉が関わっていると書いてあって、その意外な関係にまたびっくり!なんでも明治の中期にわざわざ当地を訪れ、生家跡が荒れ放題なのを見て土地を買戻し、周辺に石造の塀囲いを創って寄附したとのこと。たしかに生家横の石碑には「伊勢志摩 御木本翁」の文字が彫ってあるし、苔むした石塀は当時のまま今も残っている。
 つづいて隣の記念館を見学して、なんとなく知ってはいた尊徳さんの生き様と足跡をあらためて学ぶことに。ジオラマや人形、アニメなどを使ったわかりやすい展示で、日本人の美徳といったこと以上に人間ドラマとしても興味深く素直に感じ入ったのは、それだけ自分も人生の齢を重ねたからだろうか。
 記念館から民家のある田園風景をぬけて酒匂川の土手堤まで歩く。田植えがすんだばかりの田んぼが広がり、遠く周囲の山々まで視界に、ふうと力が抜けて気持ちが開けていく。もともとは球場 見学にきたついでの散歩だったのに、なんだか随分とトクをしたひととき、こんなまわり道もあっていい。
 帰りは国府津まで下って国道一号へ出て、あとは海沿いを東に向かって二宮、大磯、平塚とひたすら走って、茅ヶ崎から寒川方面へと北上して海老名を通り、家まで戻る。



 茅葺屋根の生家。壁面は竹材を縦方向に並べて囲む。正面右手にあるのが実物等身大の尊徳像。


 二宮尊徳(1787-1856)この地栢山で、天明7年7月23日(おそらく旧暦)生れ育ち、安政3年栃木今市没。

 

スローライフと二宮尊徳

2015年06月11日 | 日記
 皐月最後の日曜日、午後の遅い時間、掛川城天守閣に上りながらこう考えた。静岡には芹沢介記念館がある。浜松には藤森設計、赤瀬川さん推奨の秋野不矩美術館があるが天竜浜松線でいくには日帰りは少し遠い、それなら何の導きで東海道宿の掛川まで足を延ばしたんだろう? 

 近頃はエコロジーへの関心の高まりから“里山暮らし”がもてはやされているけれど、いまから十二年前の2003年5月31日、新潟県旧安塚町(現上越市安塚区)で、スローライフ月間「音楽とスローフードの集い」という催しが開かれた。その情報を新聞掲載の小さな欄で目にしてすぐ、この機会に合わせて故郷へ帰省しようと思いたった。キューピットバレイ(冬はスキー場)レストハウスを会場にしてシンポジウムが開かれた様子の一部を記録した冊子「風土が料理人」(2004年2月発行、梨の木舎)を見返すと、まるでほんの数年前のことのような気がして時の流れの速さに改めて驚かされる。

 当日の基調講演は女優の浜美枝さん、シンポジウム登壇者は司会が北沢正和、ゲストに檀太郎、coba、武満真樹(武満徹の愛娘)と異色のメンバーだった。そのあとの地元の食材を用いた創作料理が並べられた交流会には、谷川俊太郎氏も駆けつけていた。当初、筑紫哲也氏も参加する予定だったのだけれど、冒頭ビデオでご本人のメッセージ映像が流され、TV番組「ニュース23」のフランスサミット取材を優先し、そのため急遽講演者が変わったと知らされ、がっかりした記憶がある。ついでに述べると前日の三十日だったか、ほくほく線まつだい駅ホームで待ち合わせ中、谷川俊太郎氏に遭遇した。どうしてこんなところでと驚いたけれど思い切って近づき、どちらに行かれるのかお伺いしたところ、「筑紫さんから誘われて、安塚町での講演会と交流会に参加する予定」と話されたのでさらにびっくり!その筑紫さん、会場で姿をお見かけできることなく、残念なことに2008年に亡くなられてしまっている。

 さて、ここで話題はいきなり静岡県掛川市のことに飛ぶ。掛川というと新幹線ひかりの通過駅、木造で再建された掛川城の天守閣とヤマハリゾートつま恋のあるところといったくらいの認識しかなかった。そこが最近ずうと気になっていたのは、現代美術と建築めぐりに関心がある友人から資生堂アートハウスの存在を聴かされてからのこと。この美術館の曲面ミラーガラスに新幹線の姿が映り込み、S字型の平面構成が特徴的な建物の設計は、高宮真介と谷口吉生両氏によるもので、1978年に竣工している。谷口氏は、ここを手始めに国内外の美術館・博物館の設計を次々と手掛けてゆき、次第に名声を博していく。その出発点となった最初の建築にあたるので、機会があればいつか訪れたいと思っていた。

 そんなわけで、藤沢からJR東海道線に乗り込み、三時間をかけて列車が掛川駅ホームにすべりこうもとする直前のこと、駅前広場の一角に特徴ある銅像が建っているのを発見、薪を背負って読書するあの二宮金次郎少年である。掛川市は二宮尊徳思想の総本山大日本報徳社の所在地で、敷地内に珍しい大人の尊徳像と、すぐ近くの市立図書館の前には金次郎少年像が建っていて思わず笑ってしまった。小田原に生まれた二宮尊徳の思想がひろく北関東から東海地方まで広がり、この掛川の地にも根付いていたことはなんとなく知ってはいた。でも「やらまいか」精神と報徳思想の関係は、最近の朝日新聞夕刊の連載記事を読むまではわからなかった。そこには、大日本報徳社の石柱正門(明治時代建立)と重要文化財の講堂を映した写真もあって、次のように書かれている。
 「大日本報徳社の正門には、右に道徳門、左に経済門の石柱がたつ。モラルなき経済では持続的に成長しないという教えである。今ならベンチャー企業といえた創業時のトヨタが大きく育ったのも、尊徳の教え(道徳と経済の両面性)と無関係ではあるまい。」 ほう、そうだったのか!

 ここでふと気になって、筑紫哲也さんの晩年の著作「スローライフ 緩急自在のすすめ」(2006年、岩波新書)を開いてみる。すると冒頭に報徳社と尊徳思想のことに言及して、掛川市が全国で最初に「スローライフ・シティ」を宣言した街として紹介されているのだ。スローライフとは、都市生活者による都会と田舎のよいとこどりの臭いもするが、緩急自在の複眼的往復あるいは共存ライフスタイルのこと。
 そういえば冒頭の安塚のシンポジウムでも、「掛川に続いて・・・」の言葉があったことをようやく思い出す。ここにおいてスローライフと尊徳思想が、楕円形の軌跡を描くふたつの焦点のようにそれぞれ両義性の概念を内在させながら意外にも近いものであり、同時に地理的に結びつくことのなかった相州小田原と駿河掛川、越後上越(安塚)の地が、個人的記憶や思い出体験としてグルグル回って相互関連してきたことに不思議な気持ちがしてくる。そして、さらには経済界の代表企業トヨタ(名古屋)に、芸術空間としての資生堂アートハウスときて、これって昨年からのさまざまな出来事の延長線上にある運命的な結びつきのはてのごく自然な掛川行だったのかな、とようやく思い至ったのだ。
 ちょっと心残りだったことは、お昼に御蕎麦とウナギのセットを食べたけれども、もしランチタイムに間に合ったらならやっぱり、地元の鰻屋さんの蒲焼を是非とも食してみたかったな、甚八とか、大和田、うな専あたり。

(2015.06.11初校、06.12改定、追記)

東海大学湘南キャンパス訪問記

2015年06月08日 | 日記
 水無月に入ってすぐの初夏のきざしが感じられるよく晴れ渡った日、東海大学湘南校舎を訪問した。絶好の外出日和、高校の創立記念日でオフの娘と連れ立ってのキャンパス見学というわけ。
朝早めに家を出て、小田急小田原線で約三十分ほど乗車して東海大学前で下車すると、ホームから改札周辺にかけて登校する若者たちでごった返していた。そのまま長い列がゆるやかな登り坂の先の小高い丘の上の大学までアリの行列よろしくつながっていくなんとも壮観な眺め。さずがに在校学生数で2万人を超えるマンモス大学だけあるな、とのっけからびっくり。まあ、この流れに乗っていけば大学門には到着するだろうけれど日差しは思いのほか強く、ちょっと息が切れかけてくる。正面に赤い電波塔?をいただいたY字型四階建て本館が迫ってくるとそこがキャンパスの入り口である。なにしろ、広大な敷地は秦野市と平塚市にまたがり、東京デズニーランドと同じくらいの面積だそうで、大きく育ったケヤキやクヌギなどの木々に囲まれているっていった感じである。建物レイアウトと幅広な通りは、とにかく壮大だがどこか大味なのは何故だろうか? 当初の大学構想が壮大すぎたのか、すべてがヒューマンサイズを越えてしまって全体主義的な罠に陥っているのがその要因と思われる。初期のキャンパス計画は、建築史上微妙な位置にいる建築家が行っている。日本武道館や京都タワーの設計者として知られる山田守である。

 入口で守衛さんに見学にきたことを告げると、親切に受付窓口の所在を教えてくれた。大きく白鳥の翼を広げたような本館の前を通って、8号館教務課を訪れる。学科案内のパンフレット類とキャンパスマップを手にして富士見通りと名付けられた高台を横断し、まずは図書館を見学。ガラス張り正面にコンクリート製の列柱が並んでなんとも壮大、かつての社会主義国の人民会堂のような感じだ。一階は大学事務スペースで階段で上った二階が図書館入口、やや開放感にかけてちょっと入りにくい感じがする。もしかした開館当初は一階を含めた全体が図書館として機能していたのが、大学規模の拡大にともなってほかの位置にも分館ができたことでコンバージョンされたのかもしれない。そえにしても利用導線や旧態としたレイアウトに工夫が欲しい。入口から書架をぬけると窓際には雑誌閲覧コーナーや広い自由閲覧スペースが拡がるが、早朝のせいか利用者は少ないのがもったいない気がした。

 図書館を出てその下に広がるグランドと野球場の桜の木立の間をぬけると、陸上競技場に沿って長く続くメタセコイア並木にぶつかる。このあたりの体育施設の充実ぶりはこの大学らしい。キャンパスのメインストリートである中央通は、ゆうに四車線幅くらいはあって、両側の歩道には二列の大きく枝を広げたケヤキ並木が正門から本館下の噴水広場まで五百メートルほどまっすぐ伸びている。そのしたの緑陰の途中に、真新しいログハウスがあり、オープンデッキもある開放的な造りだ。テナントとしてドトールコーヒーが入っていてここでひと休み。メニューは通常と変わらないようで少しがっかりするけれど、気持ちの良い空間にほっとする。

 ケヤキ並木を噴水広場に向かって歩くと高台上の横長の四階建て一号館屋上の赤い電波塔が迫ってくる。その真下には、創立者松前重義氏の巨大な銅像とその前には噴水のある池と芝生の庭園が広がる。どうやらここがキャンパスのヘソのようだ。ふと足元を眺めると池のほとりには、見逃しそうなくらい遠慮気味に乙女の人魚像がたたずんでいる。コペンハーゲンの観光写真でよく見かける姿に似てはいるが、友好で贈られたレプリカとも違うようだ。やや場違いの感じもするこの人魚像がここにあるのは、大学創立者のルーツと関係があるからだ。創立者の松前重義氏は、熊本出身で上京して内村鑑三に学んだキリスト者であって、通信技術者、教育家の側面をあわせ持つスケールの大きな人物だ。昭和初期にヨーロッパとアメリカ東部を訪問していて、その機会にデンマークへも足を延ばして教育制度の視察を行い、大学創立理念の参考としている。その象徴がアンデルセン文学にもでてくる清楚な姿の人魚像で、現にこの大学に日本唯一の北欧文学科が設置されているのは、そのルーツがあるからだろう。


 最後に本館の屋上にあがってみることにした。建物内部の中心には、スロープ状のらせん通路(階段ではない)が屋上の電波塔下まで続く。通路の壁には牛乳瓶の底のような円形のガラス板が埋め込まれていて、グルグル回転しながら昇っていくと不思議な感覚に陥っていく。まさしく建築家山田守(1894-1966)の世界そのもので、あの都内港区南青山自邸のモチーフを彷彿とさせる意匠の連続だ。創立者松前重義と山田守は逓信省の同僚として出逢い、この大学創立期にはともに理想に燃えて運営にあたっていたのだろう。キャンパス内にはその壮大なロマンの残り香がいまもたしかに感じられて、自然と調和した技術を通して人間の生活に役立つことを目指した文明観は時代を先取りしていた。この大学には、文学部に文明学科や教養学科、芸術学科そして海洋学部などのユニークな学科などは、ふたりの自然や環境と技術の調和を意識した文明観があったことが影響しているのかもしれない。
 屋上に上ったさいの圧巻は、巨大な電波塔屋のY字曲線と赤いタワーに周囲の丹沢や湘南方面の雄大な風景!晴れた日には、雄大な富士山の姿も望めるそうだ。

 
 この塔屋の描く曲線と螺旋状のスロープの伸びを見上げる、山田守の好んだ意匠と色そのもの。
 
(2015.6.5 書出し、6.8 初校)